10月17日の封切からまるまる1ヶ月少々経った水曜日の夜。靖国通り沿いの地下に入る映画館の午後8時40分の回を、最近親しくしている人と観に行ってきました。1日1回の上映になってしまっています。長澤まさみ主演で葛飾応為を演じ、永瀬正敏がその父親である葛飾北斎を演じるなど、なかなかなメジャー作のはずでしたが、現状新宿でも1日1回、他には23区内で池袋と木場と言う変わった上映館の分布状況になっており、都下に拡大しても吉祥寺と南町田が加わるだけで全5館にしかなりません。映画.comに拠れば全国でも20館のみです。
観たくなった動機は、やはり長澤まさみ一番です。特にここ最近彼女を劇場で観たのは『スオミの話をしよう』と『四月になれば彼女は』ですが、どちらも不発感が大きい作品でした。前者は長澤まさみそのものの問題ではなく、脚本がクリシェ満載で、ドタバタが面白くなく、そこに謎の女として登場する長澤まさみは根の明るさが漏れ出ていて、全然ミステリアスな雰囲気が出ていなかったように思えます。後者はメンヘラ女医の役でしたが、そのメンヘラ度合いがかなり激しいにもかかわらず、長澤まさみの聡明感半端ない目線や言動がどうも合わないのです。
他にも長澤まさみの出演作品で、劇場で観てどうにも不発感全開の作品が『MOTHER』でした。長澤まさみ渾身の演技などとネットでも書かれていた浮浪者の役でしたが、全然浮浪者に見えない姿にがっくり来ました。やはり長澤まさみは、性格そのものは明るくても物憂げでも良いのですが、聡明で洞察力があり、行動力も伴っているキャラが似合います。若い頃のまだ幼さが残る頃の彼女の『クロスファイア』のパイロキネシス少女や、『黄泉がえり』の片想い女子高生や、『ゴジラ』シリーズのモスラを呼ぶ小人とか、『曲がれ!スプーン』のパッとしないADとか、そうした役なども取り敢えずお試し期間的に大丈夫だったのですが、映画での出世作『海街diary』出演あたりを境に、聡明感のないキャラはミスマッチ感が甚だしくなってきているように思えてなりません。
恋愛モノも最愛の人の過去の謎に挑む『嘘を愛する女』はエロい役でも嵌りましたが、『50回目のファーストキス』のように純粋夢見る少女的な役はかなりきつく感じられます。まして先述の『四月になれば彼女は』のようなメンヘラ女医は鬼門中の鬼門という感じに思えました。そんな中で、葛飾北斎の娘で、作品の完成度においては父(/師匠)をも超えると評される葛飾応為を演じる彼女をトレーラーで観て、私は結構期待できそうに思えたのです。
この長澤まさみ観たさ以外の動機もあります。葛飾北斎の作品を幾つかナマで見たことがあり、その作品群にそれなりには関心が合ったことです。小布施を30年近く前に旅行したことがあり、その際に岩松院も訪れ、その本堂の天井に今も描かれたままになっている北斎の「八方睨み鳳凰図」が息を飲む美しさだったことがとても印象に残っています。娘の応為の作品は現存するものが非常に少ないようですが、トレーラーを観る限り、晩年の北斎に応為はずっと寄り添っていたようですので、晩年の北斎がおとずれた小布施にも映画は触れる可能性があると期待されたからです。
あとは、この作品の監督が、学びが多い上に、樹木希林の晩年の演技が光り、さらにその上に、庭の木々に囲まれた茶室の空間の光に溢れた様子を印象的に描いている『日々是好日』の監督であることもトレーラーで知り、関心を強めたこともあるかと思います。
全部で40人程度の観客が最終的にシアターにいたように見えました。殆どが単独客で、2人連れは私達の他に男女の組み合わせが3組いたように見えます。(ここの映画館の座席は背が高く、後ろから眺めると性別年齢を判別する手がかりが殆どありませんので、かなり怪しい認識ではあります。)2人連れ3組は高齢者同士の組み合わせが1組、残りが40代前後、50台前後と言った感じでした。男女の構成比はやや女性が多いぐらいで6対4ぐらいだったように思えました。全体に観客年齢層が低く、20代から30代が全体の半数程度いて、仮に年齢の平均をとったら、30代後半に落ち着きそうに見えました。
観客の年齢層が若めに偏っている理由がよく分かりませんが、単純に表面的な材料を探せば、頻度高い登場をする脇役の浮世絵師の渓斎英泉(善次郎)を「King & Prince」の髙橋海人なる人物が務めていることが一応思い当ります。私はこの人物の名前を知りませんでしたが、比較的最近までTVerで観ていたドラマ『DOPE 麻薬取締部特捜課』の主役を演じていて、濃い顔が印象的ではあったので、記憶に残っていました。ドラマ自体はハード目なアクションに挑戦する新木優子目的で観ていましたので、彼に特に着目していた訳ではありません。超能力戦のドラマで、まるで『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの如く、最初は「異能力」が日常の片隅で「異常」を起こしますが、最後は社会を巻き込む大がかりな対決となり、彼がまるでラスボス的なスタンド遣いのように空中に余裕綽々で浮いているシーンが、かなり既視感を湧かせました。
映画を観ていると、単に私の理解力が怪しいだけなのかもしれませんが、名前をトラックすることにやや困難を感じました。主要登場人物四人が皆絵師なので、画号を名乗ったり画号を読んだりする場面があり、それも片方はいつもの名で呼んでいるのに相手は画号で呼び返すなどの場面もあります。四人の名称は、具体的には…
お栄/葛飾応為
鉄蔵/葛飾北斎
善次郎/渓斎英泉
初五郎/魚谷北渓
となっていて、解説のナレーションが入る訳でもなく、誰かが解説風の台詞をいいタイミングで言ってくれる訳でもないので、やや極端に言うと、初出時に仮説立てをし、物語の進行の中で検証するしかない状態になります。
私は鑑賞に当たって事前に応為の作品を調べておくこともしませんでしたが、劇中に応為の作品は3点登場しています。『吉原格子先之図』『夜桜美人図』『百合図』です。ウィキに拠れば…
[以下引用↓]
現存する作品は十数点と非常に少ない。誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残る。木版画で応為作と認められているのは、弘化4年(1847年)刊行の絵本『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)と嘉永元年(1848年)刊行の『煎茶手引の種』(山本山主人作)所収の図のみである。70歳近くまで生きたとされる彼女の作品数が少なすぎることから、「北斎作」とされる作品の中には実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられている。特に北斎80歳以降の落款をもつ肉筆画には、彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ、こうした作品を応為の代筆とする意見もある。また、北斎筆とされる春画「絵本ついの雛形」を、応為の筆とする説もある。
[以上引用↑]
とのことで、劇中でも応為の作品はたった3点しか登場しませんが北斎の作品はその倍以上登場しています。ウィキに書かれている通り、北斎のものとされている中に応為の作品が混じりこんでいても不思議ないように感じられました。
例えば、比較的最近DVDで観た『八犬伝』には内野聖陽演じる葛飾北斎が再三登場しますが、殆ど一人で現れます。応為は姿を見せますが非常に限られています。88歳という当時としてはかなりの長寿を全うするまで、北斎は数々の画号を新たに採用しつつ多々作品を生み出しています。その北斎は、その時代を描くドラマや映画などの作品に必ずと言っていい程登場する有名キャラですが、その登場時に応為を伴っているのを殆ど見たことがありません。しかし、この作品が描くように、特に晩年の北斎は応為と何度も移転を重ねても同居させていたようですし、足が覚束なくなってからは、外出にも応為を伴っていたようです。
応為にとって、北斎は父というよりも師匠や先達としての存在であるように思えます。二人は表面上怒鳴り合ったり邪険にしあったりしていますが、その言葉の端々や目線の投げように、二人が相互に支え合い慈しみ合っているのが肌理細かく描かれています。その辺は、長澤まさみと永瀬正敏の演技力の冴えが為せる業という風に感じます。
例えば、応為が拾ってきた子犬を、北斎は当初邪険に扱い、「捨てて来い」と言っていますが、口ではそういうものの、自分の手で家の外に追いやることは全くしていません。北斎が描こうと広げた白紙の上を子犬は薄墨のついた足で歩いてしまい、紙に足跡が幾つもついてしまいます。北斎は応為を怒鳴りつけ、応為は犬を抱いて外出してしまいますが、夜彼女達が戻って来てみると、北斎は子犬の足跡を桜の花に見立て、桜の枝が茂る様子を絵に描いていたのでした。それを見て、応為は子犬をサクラと名付けます。その後、北斎は子犬を抱いて寝るほどに溺愛するようになっています。
また、「おーい」と北斎が呼ぶことから、「応為」と半紙に書かれた画号を北斎から見せられた際の、内心の喜びで短くはにかんだ応為の表情と、それを見て一瞬満足げな表情をした北斎のやり取りの場面なども秀逸です。
北斎の画力と審美眼を受け継いだ応為は画家に嫁ぎますが、夫の絵が下手糞に見えて耐えられず、それを批判して離縁されてしまいます。出戻った応為はその後ずっと北斎の元に居て、北斎の生活の世話をしながら自分も絵を描くことを始めるのでした。江戸の大火で焼き出され、富士の麓の掘立小屋で富士山を描くことに没入する二人でしたが、北斎は応為に一度、「こんな老人に付き合っている必要はもうない。江戸に帰れ」と諭しますが、応為は「好きでこの生活を選んでいる。お前と一緒に生きることを選んだんだよ」と涙ながらに応じています。一見、師匠と住み込みの弟子と言った行動をとる二人ですが、そこには父娘の確かな交流が存在しています。
劇中の応為の為人は、ウィキに書かれている限られた情報を丸ごと取り込んで、そこにあるエピソードも細かく拾って再現したように描かれています。ウィキの該当部分は以下のようになっています。
[以下引用↓]
応為の性格は、父の北斎に似る面が多く、やや慎みを欠いており、男のような気質で任侠風を好んだという。衣食の貧しさを苦にすることはなかった。絵の他にも、占いに凝ってみたり、茯苓を飲んで女仙人になることに憧れてみたり、小さな豆人形を作り売りだして小金を儲けるなどしたという。北斎の弟子、露木為一の証言では、応為は北斎に似ていたが、北斎と違って煙草と酒を嗜んだという。ある日、北斎の描いていた絵の上に吸っていた煙管から煙草の火種を落としたことがあり、これを大変後悔して一旦禁煙したもの、しばらくしてまた元に戻ってしまったという
[以上引用↑]
座して祈るような姿勢で(『白拍子』という作品を)描く北斎の横に立ちキセルをふかしながら絵に見入っていると、応為が火種を落とすエピソードも含まれていますし、薬草を煎じた茶を飲み仙人になると言っている話も登場します。それ以前に性格なども男勝りというか寧ろ、任侠的でさえあるのも、ウィキの通りです。劇中では着物そのものが丈も短くズンズンと大股で歩く応為に相応しいものになっています。パンフレットではインタビュー記事で長澤まさみが「男性用の着物の生地を使って作ってもらっていて、帯も下の方で結んで襟ぐりも深めに開けています。着物の着こなしで、お映の性格や人となりが表現できているのは素敵ですよね」と語っています。
永瀬正敏は『THE オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ MOVIE』と『箱男』で観たばかりです。どちらも佐藤浩市との共演で、芸達者ぶりをいかんなく発揮していますが、今回はこれら二作ほどの奇天烈な役ではありませんが、先述の通り、娘応為との父であり師匠でもある特異な関係性の表現をするりとやってのけています。
私は応為の作品を劇中で初めて見て、これが浮世絵であることに驚かされました。それぐらいに北斎の一般的な作品(と言っても北斎は多作でタッチや描くモチーフも多種多様なので一概に言えませんが)と全く作風が異なるように素人には見えました。
ウィキにも「特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれている。また、北斎の春画においても、彩色を担当したとされる。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられている」と書かれていますし、劇中でも、北斎が描く春画の中の女性の絶頂時の足の指の曲がり方について北斎に「指導」をしている場面があります。それぐらいに女性を繊細に且つ活き活きと、そして艶めかしく描くことに長けていたのだと思われます。
また画風も非常に特異で陰翳の際立ったコントラストが印象的な作品が二点、劇中に登場しています。劇中には応為が光の描き方を考える上で、蝋燭の火に掌を近づけ指の隙間から漏れ出る光の淡い滲みに見入っている場面があります。こんな場面に吸い込まれるような長澤まさみの大きな瞳が映えます。また、応為が夜中の火事の半鐘の音を聞きつけ、火事と火消し組の消火活動に見入る場面もあります。闇の中に燃え上がる紅蓮の炎と、そこに命がけで挑む男達の躍動が彼女を惹き込んでいるように描かれています。
その応為の陰翳の描き方に大きな特徴があることが、パンフレットの中の応為の一生を解説する記事のタイトルが『光と影を操る女性浮世絵師・葛飾応為とは』となっていることからも窺えます。特に劇中で制作途上で応為が正確に細密な塗りを行なっている『吉原格子先之図』は、幾つかある提灯が夜の闇の中に生み出す幻想的な淡い明るさの空間が、非常に印象的です。描き方も違えば、時代も異なりますが、私にはフェルメールの幾つかの絵が思い出されました。
元々のお目当ての長澤まさみは、先般の彼女が活きる役柄の範疇に応為が含まれていて、上手く機能していて、愉しめたと思えます。男勝りで不器用で、まるで現在のLGBTQ的な、女性らしさを求める社会と対峙する姿が描かれる一方で、師匠であるものの父でもある北斎との慈しみ合い、そして別居する母への信頼や表出化が憚られる依存心、さらに、魚谷北渓への淡い恋心など、それらを内に秘めた、才能溢れる女性の生きざまを上手く描くことに成功しているように思えました。
元々葛飾応為の一生には謎の部分が多く、残されたエピソードも少ないと言われていますが、そのせいか、映画は北斎や当時の江戸の風俗などにかなり尺が当てられているように感じられます。122分も続く応為の物語というには、応為自身の人生譚が冒頭の離縁以降、少々淡々としすぎているようにも感じられるのがやや難点ではあります。しかし、それも昨今の劇中イベント目白押しの低読解力者向け作品群に私が慣らされてしまっているからかもしれません。応為の一番の推しとでも言うべき北斎の知られざる一面を描いた映画として観ても価値があります。DVDは買いです。