『マダム・ウェブ』

 2月23日の封切から3週間ほど経った日曜日に観てきました。116分の作品です。

 新宿の大型映画館4館(歌舞伎町の高額映画館含む)では、どこも1日1回の上映になっている減少状態。ロードショー系の大作が不発だった場合に時々見られることだと思いますが、上映回数だけは激減しつつ、多数あった上映館の数だけは減らないといった不発作品の典型的な状況のように思えます。しかし、新宿の外に目を向けると、池袋では2館が1日1回の上映を維持していますが、渋谷では上映館が存在しなくなっています。

 前回観た『風よ あらしよ 劇場版』の感想の中で私は…

「この映画をやはり劇場で観てみたいと思った理由は、他の映画鑑賞候補が1月から2月にかけての枯渇状態から漸く抜け出て『マダム・ウェブ』、『ウルトラマンブレーザー THE MOVIE 大怪獣首都激突』、『フィリピンパブ嬢の社会学』、『コットンテール』、『映画 マイホームヒーロー』などと増えてきた中で、映画そのものの私にとっての魅力では、やはりこの作品が一番だったことにあります。」

と書いていて、この『マダム・ウェブ』の上映が相応に長く維持されるという想定をしていますが、どうもそれほどのヒットではなかったようです。

 新宿でピカデリーかバルト9のいずれかの選択肢を考える時、2月末にも行ったばかりのピカデリーを避けてバルト9にしたいと感じていました。両館の上映開始時刻は10分違いでしかなく、時刻としては特にどちらでも構わないのですが、バルト9は吹替版だったので、致し方なく字幕上映のピカデリーに再び足を運ぶこととなりました。

 バルト9より10分遅い夜9時40分の回です。

 上映開始時間3分ほど前に私がシアターに入った際にはまだ観客がシアターのほぼ中央にぽつんと一人しかおらず、キャップを目深に被りマスクをしていて、細身の人物だったので、性別が全く判断できず、ただ20代から30代の感じの人物としか分かりませんでした。

 その後、30代の男性一人が加わり、さらに40代ぐらいに見える男女二人連れが加わって、私を含めて合計4人の観客に対してトレーラーなどが始まりました。暗い中でさらに、20代ぐらいの男性一人、そして30代ぐらいの男性一人が加わって、映画が始まった直後には20代前半に見える男女カップルが加わって、総勢8人の観客となりました。上映終了が辛うじて12時前の状態で終電時間がかなり問題になるであろう時間枠ですが、日曜日の夜という条件と歌舞伎町至近という立地条件を考え合わせると、封切後3週間にしては、やはり少ない観客とみるべきだろうと思われます。

 映画.comでこの作品のページを開くと下欄の関連記事の中に、『「マダム・ウェブ」主演が宣言 アメコミ映画は「二度とやることはない」』という記事が見つかり、主演女優のダコタ・ジョンソンが「製作中に関係各所が口出しをしたために作品が変えられてしまった」ことを理由に、次回作があっても出演しないことを表明しているようです。記事の中では、「公開3週間で北米興収4000万ドル、世界総興収1億ドル以下という結果に。米批評家サイト「Rotten Tomatoes」での12%という低評価が主な原因とみられている」などの興行収入状況も書かれており、世界的に大不評の作品とされているようです。記事はこの不評と主演女優が指摘する「船頭多くして船山に上る」的な制作状況を結びつけるように構成されています。

 主演女優は「映画は映画監督と、その監督を取り巻くアーティストたちによって作られるべきです。数字やアルゴリズムでアートを作れるわけがありません。私は、観客はとてもスマートだと信じてきました。でも、映画会社の重役たちはそうではないと信じている。そして、観客はそうした姿勢を嗅ぎつけてしまうんです」とも言っているようですが、私は必ずしも同意しません。

 単純に「アーティストたちが作ったら興行収入が上がる映画が作れる」というのも、過去の多くの映画作品で到底成り立っていない構図でしょうし、「アーティストは観客がスマートだと思っている」というのも、成り立たない人々が沢山いることと思います。別に映画会社の重役だけが観客がスマートだと思っていない訳ではありません。話題の書『映画を早送りで観る人たち: ファスト映画・ネタバレ-コンテンツ消費の現在形』を読むと、どう見てもスマートではない大量の観客の存在に気づかされます。世界的に見てかなり平均的読解力の高い日本でさえこうであるなら、世界規模でみたら、スマートではない観客が多数派ぐらいに想定した方が良いかもしれません。

 映画はアートではないなどと私も思っていませんが、少なくともこの映画は所謂娯楽作品以外の何物でもありません。私は数字やアルゴリズムで分析できる消費パターンのような構造も一応存在しているものと思っています。ホームランが出るかどうかは別として、凡打も含めた相応のヒットの出る確率を大きく上げることぐらいは数値分析でできる世界であろうと思われるのです。そうでなければ、大手企業型の商品開発などできる訳がありません。ましてや(製薬業界や油田開発業界ほどではないものの)映画業界はとんでもない投資が必要なハイリスク・ハイリターン型の商売です。「数字やアルゴリズム」の評価を或る程度尊重せざるを得ない場面は当然あるでしょう。

 映画監督の思い入れ全開で作って、全く見向きもされない作品ができた事例など、枚挙に暇がないと思います。主演女優が指摘するような現場の混乱があったのは本当なのでしょうが、大局観がないというか、偏った思考と言うか、そういった浅薄さが漂っている発想であるように感じられます。

 ただこの主演女優の発言がきっちりニュースとして日本でも流布する状態にされた背景には、ネット上のこの作品への逆風が存在しています。前評判の悪さはかなりのもので、検索するとすぐにその手の記事が目に入ります。上映回数の激減はこうした流れを反映したものではないかと思われます。しかし、映画のレビューを見ても、相応に好意的な内容もそれなりに存在します。よくよく見て行くと、先述の記事中の「米批評家サイト「Rotten Tomatoes」での12%という低評価」などの海外発の低評価がそのまま伝わって来ていて、それに引きずられる形で低評価が定着しているように感じられます。純粋にこの映画単体で見た時に、後述するように私にもそれほど低評価になるべき作品には思えません。

 私がこの作品を観たいと思ったのは、マーベルのコミックの中で、未来予知だけが(実際にはそれ以外の能力も多少発現しますが…)特殊能力の女性ということに関心を持てたことです。たとえば物理的に強力な破壊力を持っているとかのスーパーヒーロー・ヒロインに対抗するのに未来予知の能力を駆使するというのはなかなか刺激的な発想ではあります。

 スピリチュアル的なことには殆ど関心がないので、そのような傾倒なく自分でも受け止めていますが、私は予知夢を頻繁に見る人間です。物心ついたころからその能力はあり、毎朝目覚めた時には、数枚のクリアではないモノクロの画像が頭に残っています。ものの10分としないうちに記憶から消えて行きますが、その画像が数日後とか数週間後には現実のものとして目の前に現れることになります。起床時の記憶は放っておくとすぐ消えるので、そのままにしておくと、予知夢が現実化した際に「ああ、夢で見た場面だ」としか思わない訳で、実質的なデジャ・ビュでしかありません。ただ、起床時にきちんとメモやらデッサンやらを残しておいて記憶/記録に留めると、一応予知夢を見たということになります。

「一応」と付けたのは、予知夢は予知夢で間違いないのですが、その画像は闇の中でストロボをたいた場面の様なモノクロで黒塗りの闇に覆われた部分も多い画像で、常に全容がはっきりしていず、実際にいつの時点で何が起きるのかをその限られた画像情報から読み取るのはたいていの場合不可能です。そんなほぼ使い物にならない予知能力を一応持っている私が、同一ジャンルの特殊能力で優れたものだとどんな風に使い物になり、それを用いて(それ以外に一応何も特殊能力を持たないことになっている状態で)パワー型の能力者とどのように戦うということを言っているのか、少々関心が湧いたのです。

 観てみるとなかなか楽しめる作品でした。元々狙っていた面白さの方は、少々チート感がありましたが、それなりです。主人公が後半で覚醒すると、元々全く制御できなかった予知能力は無意識のうちに行動に現れ、飛んでくる火の粉が襲い来る中、手にした大きな鉄板を盾にして的確にそれらを防ぐなどのことまでやってのけていますし、さらに自身の身体から、念の産物なのか、エクトプラズム的なものなのかよく分かりませんが、分体のようなものを出したりすることもできるようになります。つまり、時々勝手に浮かんでくる予知のビジョンどころではなくなるのです。

 DCやマーベルの他の作品群に比べるとアクションにド派手さが(主人公の能力故に、怪力だのは怪光線だのが使い捲られる訳ではないので)欠けていますが、それでも、普通の人間が主人公の『ダイ・ハード』シリーズなどや、往年の幾つかのアンジェリーナ・ジョリー主演作などのレベルには達しているように見えました。

 色々な不平が出やすい最大の理由は主人公のキャラが、SSUと呼ばれるマイナーな世界観の中でも特にマイナーなものだからかもしれません。SSUは、Sony’s Spider-Man Universe の略であるとパンフには書かれていて、これまでにもアニメの『スパイダーバース』シリーズ2作、『ヴェノム』シリーズ2作、『モービウス』などの作品が作られていて、その特徴は、スパイダーマンの原作の物語の脇役的存在を主人公にして、スパイダーマンを登場させないことだとあります。

 これらの中で、ヴェノムは辛うじて私が大好きなサム・ライミ監督のスパイダーマン・シリーズにも登場しますが、主要な悪役と言う位置付けではありません。このSSUに描かれる主人公達は、日本でよく知られる(、ないしは、一般的なスパイダーマン・ファンによく知られる)初期のスパイダーマンシリーズに登場した、グリーン・ゴブリン、ドクター・オクトパス、サンドマン、リザード、エレクトロ、ヴァルチャー、ミステリオなど(1970年の池上遼一による『スパイダーマン』日本版コミックにも多く登場するような悪役)に比べて知名度が低いと言わざるを得ないように思います。

 モービウスも私は全く知らないキャラでしたが、ネットなどではスパイダーマンの悪役で登場すると説明されていますし、今回のマダム・ウェブと三人のスパイダーウーマンの話も私は全く知りませんでした。ネット記事やパンフなどによると、マダム・ウェブは原作コミックの中では車椅子に乗った盲目の老婆のようで優れた予知能力を持つ…ということになっているようです。スパイダーマンを助ける存在のようですが、そのようなキャラが描かれ、そのスパイダーマンとの共闘が描かれるコミックが日本で広く売られた実績があるようには私には思えません。

 仮にそのマダム・ウェブを知っていても、というよりも、知っていたら尚更、今回のファッション・モデルにして、『フィフティ・シェイズ』シリーズのセックス・アイコンとして有名な30代半ばのダコタ・ジョンソンの物語をマダム・ウェブのものとして受け止めるのは困難であるのかもしれません。おまけにSSU作品群はスパイダーマンが登場しない以上、現在に至ってなお続くMCUとも全く不連続で、そのSSUの中でもアクション少な目、キャラは原作からかなり翻案されている…となれば、少なくとも本場米国産の原作コミックをかなり読み込んでいれば翻案に同意できない可能性は高く、読み込んでいなければスパイダーマン系統の物語と認識できない…という中途半端な作品と見做すことが一応できるでしょう。

 しかし、それを言ったら、『X-MEN』シリーズなども(『ローガン』はいただけませんが)かなり秀作揃いに思えますが、原作との乖離はビジュアル的にも物語的にもかなりあります。その意味で、『X-MEN』シリーズの愉しみ方同様に、原作のキャラを仮に知っていたとしても、それと無関係に鑑賞するべきである作品と考えた方が良いでしょう。

 マダム・ウェブは今回の作品で見ず知らずの三人の少女を自身の母の仇でもあるエゼキエル・シムズというスパイダーマン的な能力を(糸を発射すること以外)持っているように見える男の襲撃から救い、彼を死に至らせますが、その過程で視力を失います。なぜか車椅子にも乗るようになって、年齢は全然若いままですが、一応コミックのマダム・ウェブのキャラの誕生譚としては完結しています。

 映画はマダム・ウェブと三人の若きスパイダーウーマン達が各々(顔は硬質なアイマスクだけですが)スパイダーマン風のコスチュームを身に着け、活躍する場面を観客に想像させ終わります。確かに(仮にダコタ・ジョンソンが降板しても)続きは一応観てみたいと思える物語でした。

 マダム・ウェブもエゼキエル・シムズもペルーの奥地の蜘蛛の毒により能力が発現しており、その現地にはそういった能力者が束で暮らしているらしい様子が描かれています。そのあたりを描いた原作を全く知りませんが、どうも、三人のスパイダーウーマンも別々の経緯からスパイダーウーマンとしての能力を身に着けるようです。とすると、世の中には、かなり多種多様なスパイダーマン的能力の身に着け方が存在することになり、おまけに、ペルーの奥地には集団でそのような人間が存在することになります。

 今回のこの作品では、マダム・ウェブになる主人公はキャシー(正式にはカサンドラ)・ウェブという如何にも蜘蛛女になりそうな苗字の女性ですが、その能力の獲得方法は、彼女を妊娠中の彼女の母が蜘蛛の毒を注入されたからでした。つまり本人が直接蜘蛛の毒を注入されなくても能力が発現するのです。(ただし、マダム・ウェブの場合は、壁を這ったり、強靭なパワーの面は発現しませんでした。逆にエゼキエル・シムズは予知能力が弱く予知夢を何度も見る程度です。)

 キャシー・ウェブの同僚はベン・パーカーで甥の誕生シーンがあります。このベン・パーカーはメイと言う女性と付き合い始めるので、このベンは、スパイダーマンが活躍する以前に暴漢に殺されるベン叔父さんでスパイダーマンに最初の良心の呵責を与える原因になる人物です。そしてメイはスパイダーマンに長く登場し続けるメイ叔母さんであると分かります。こうして、スパイダーマンとの関わりは描かれていますが、この映画に登場する能力者達はペルーの奥地の人々も含めて、本家スパイダーマンの放射能を浴びた蜘蛛とは関係なく能力を獲得したことになります。三人のスパイダーウーマンはその後、どうやって能力を獲得するのか分かりませんが、先述の通り、随分、簡単にスパイダーマン的能力が獲得できる安易な世界観に思えます。これではスズメバチに刺されるなどの被害者数よりスパイダーマン的能力を持つ人間の方が多くなるかもしれません。

 当面、(劇中で見る限り米国の典型的低能JKで、『13日の金曜日』的なホラー映画では真っ先に殺害されそうな)三人の少女達が今後各々どのように能力を身に着け、どのように活躍するのかが注目されるということでしょうが、その前振りをするだけでも、(おまけに色々と今後の作品に伏線回収を負わせているのにも拘らず)主人公の母の死に至るエピソードやら主人公のペルー行きの冒険譚など、話が盛りだくさんで、物語が点描のようになって、点と点の間が駆け足過ぎるきらいも否定できません。本質的な面白さが辛うじて損なわれない所で踏みとどまったように感じられました。

 ネット上の評価は総じて芳しいとは到底言えませんが、私にはウォークイズムだのポリコレだの過剰に配慮して面白さが欠損したMCUの『キャプテン・マーベル』だのに比べたら、アクションが少ない点を差し引いても、多少はマシであるようにも思えます。DVDはギリギリ買いです。