『TAKAYUKI YAMADA DOCUMENTARY 「No Pain, No Gain」』

 新元号下の「記念すべき」と思われる記事第一号は、偶然ですが鑑賞作品第400本目にもなりました。(記事エントリー数では402本目ですが、二回見ている作品が二本含まれています。)完全10連休となったGWの始まりの土曜日に公開された本作をGW最終日の月曜日の夜に観て来ました。この作品は、多分封切以来、全国でもたった一館、JR新宿駅に実質的に隣接しているミニシアターでしか上映されていません。それも一日たった一回の上映です。

「記念すべき」作品が何になるかを考えていて、当初、ただ観たい映画を挙げたら『アベンジャーズ』シリーズの最終作になる所でしたが、わざとらしく大作然とした『アベンジャーズ…』を「記念すべき」作品にすることに気が乗らず、おまけに調べてみると、3時間もの尺があることにやや辟易したので、数ヶ月に一度ぐらい思い出したように行なう「ミニシアターウェブサイト巡り」を行なって、発見したのがこの作品です。

 上映回数が極端に限られていること、全世界規模でみても有数の乗降客を誇る駅の周辺にGWの喧騒が溢れ返っていること。そして、封切からまだまだ日が浅いこと。さらに、人気俳優であろう人物のドキュメンタリーであること。そんな要因が重なってか、夜8時55分からの回のシアターに入ると、(ネットに拠れば)96席の7割以上は埋まっていました。特に私の好きな通路側の端の席は殆ど埋まっていて、前から二列目の端の席を取ることになりました。

 過半数を超えるように見えるぐらいの観客は女性で、男女共に単独客が多いように見えました。年齢構成はまあまあ若いようで、30代後半に中心値があるように思えます。女性の方がやや若いように感じましたが、人数がかなり多いので、見渡しただけの印象の数字はかなり怪しいです。

 俳優の山田孝之が人生の節目を迎えたと感じている30歳からの5年を描いたドキュメンタリーです。映画サイトの紹介文章には「(彼が)固い信念の下、苦悩しながらも挑戦を続ける実直な姿」を描いているのだと書かれています。

 私にとっての山田孝之は、『ミロクローゼ』で一人で三者三様に変わった三役をこなした辺りで、初めて名前と顔がセットで認識されました。それまでは、なぜかそれなりに観る時間と機会があったテレビドラマの『ちゅらさん』の主人公の弟役の印象が強く、ずっと「ちゅらさんの弟」という認識しかありませんでした。その後の『ドラゴンヘッド』で「ああ、またいる」ぐらいの印象が残り、『イキガミ』で随分マッチョ体型へ変貌してもなお、「雰囲気変わったけど、よく出てるなぁ」ぐらいの印象しかありませんでした。

 劇場に観に行った『悪の教典』で女子学生の万引きを知り、それをネタに肉体関係を強要する体育教師役で登場していますが、ドラム演奏で学生達に「スゲェ!」と言わせる見せ場もあるものの、基本はエロ教師役で、その女子学生のパンティに気を取られている隙にショットガンで撃ち殺される変な役回りです。『のぼうの城』、『ミロクローゼ』と『その夜の侍』と同期間に劇場で観た映画、四作に登場し、『ミロクローゼ』では一人三役なので、同時並行であちこちの映画館に合計六役で登場するという物凄い状況に、漸く顔と名前が一致した感じです。

 その後、この作品の劇中でも彼が代表作と認識している様子の『闇金ウシジマくん』シリーズと『クローズZERO』シリーズと並ぶ、『勇者ヨシヒコ』の第一シリーズを偶然見てハマりましたが、どちらかと言うと主人公の彼よりも、同パーティーのムラサキとメレブ、そして、ホトケを楽しんでいて、私にとっての山田孝之は相対的には薄い印象でした。その後、『MONSTERZ…』や『ジョジョの奇妙な冒険…』、『何者』など、彼が主役や主要脇役で登場する映画を観ましたが、特段、彼が印象に残ったというほどの何かを感じてはいません。役に溶け込むほどになり切るので、印象が薄いということのなのかもしれませんし、ありとあらゆるキャラクター(この作品を観て、AV監督の村西とおるまで演じたことを知りましたが)を演じられる「カメレオン俳優」の評価は正しいのかと思いますが、私は特にそれを印象深く追ってはいません。彼よりも出演本数は圧倒的に少ないですが、役のふり幅で言うと、二階堂ふみの方が私にとっては多少の注目に値しています。

 この映画を観て、山田孝之が綾野剛とバンドを組んでいたことも、本を出していたことも、『デイアンドナイト』という映画のプロデュースに時間を割いていたことも、初めて知りました。芝居に出てほぼ全裸を曝していたことや何かの会社の役員になったことぐらいは何となくネットニュースの端っこで見たような記憶がありましたが、各種の俳優以外の商売に挑戦していることが分かります。そのほとんどが、彼が30から35歳の間に起きた出来事なのです。

 このような俳優の枠を超えた活動を始めた理由を本人は、60までの人生と仮定すると人生の半分が終わってしまったが、残った人生を楽しむために色々なことに挑戦していきたいからであると語っています。役者をやっていて自分自身の経験のインプットが全然追いついていず、その乏しさを補っていくためにも色々なことに挑戦しなくてはならないとも言っています。その結果、多忙により精神的にも肉体的にも追い詰められていきますが、この映画のサブタイトルにもあるように、「(同じ字を使っているのに)楽しむためには楽をしてはいけない」と自分を駆り立てて行く姿がほぼ全編にわたって描かれているのです。その背景には、30歳の時に生まれた子供を見て、育てる責任を自覚し、稼ぐことに頑張らねばならないなら、それを楽しむようにしなくてはならない考えたということも、本人の口から語られています。

 全編を通じて、まるでベンチャー企業の創業者のような態度が押し出されています。所謂GAFA系のベンチャー企業の経営者のような新しいことを手掛けて行くことへの渇望と意欲が感じられます。しかし、そこには、自分がそのような機会に恵まれていることへの感謝が殆ど感じられません。敢えて言うなら、カメラのフレームの外にいる人間への配慮もあまり感じられないのです。ベンチャー企業の経営者と彼は大きく異なっている一点があります。それは、彼は芸能プロダクションに所属している「一商品」でしかないことです。ベンチャー企業経営者のように私財を擲ったり人生を賭したりして新たなことを選び、掴み、モノにしていこうとしている訳ではありません。すべてが、事務所の采配の範疇の中にあるはずです。しかし、劇中ではまるで自分の能力によってすべてが進んでいるかのような言動が散見されます。

「なぜこんなに頑張るのか」とカメラ(≒映りこまないインタビュアー)に尋ねられると、判で押したように「子供が初めてできて…」と言うようなクダリを答えていますが、この映画を観ている或る程度の割合の人は、それが彼の最初の子どもではないことを知っています。当時の仕事などのモロモロのある生活と両立できないという理由から、彼は人生の一部にその子とその母を組み入れることを拒絶しています。そして、作品中で、20代の頃は次々と演じるばかりで自分が分からなくなってしまい、鬱になりかけたし、早く死ねたらいいとずっと思っていた…などと数度語っています。

 つまり、最初の子が生まれたら早く死にたいと思ったが、次の子は育てるために生きなければならないと思って活力となったということになります。これらは、一つの文脈として語られてはいませんが、片方ずつ作品中で語られるのです。もちろん、最初の子とその母とはきちんと合意に至って養育費を払うことなどになったとウィキにさえ書かれています。人生には色々なことがあり、その時々の判断がすべて清廉潔白どころか妥当な範囲にさえ収まっていないことはよくあることだと思います。(非合法的な問題がなければ一応)それが悪いのでもなければ、(まるで、昨今の不倫叩きの被害者芸能人のように)ずっと叩かれ続けて日陰を歩けという風にも思っていません。ただ、20代のそういう経験も彼を作った一部であることは踏まえて発言をするべきではないかと思えます。

 自分が死にたくなった時の家族、若しくは表現として明確ではありませんが、自分を死にたくさせた家族がこの態度を見てどのように思うのかについては、なんらの配慮も為されていない気がします。その彼の30歳から35歳の疾駆とも言えるような生活は何を生んだのかも、なかなか見物です。本人が言うように全然インプットが足りず、空転を繰り返し、作品の中に描かれていない何かの力によって辛うじて回っているとしか思えない状態を重ねています。

 たとえば、全編のほぼ半分以上の場面を占める映画『デイアンドナイト』のプロデューサーとしての仕事の一環で、京都のパトロン企業の経営者と打ち合わせをする場面があります。山田孝之にカネを出すと思って、カネを出すには出すが、シナリオは全然ダメで、登場人物の設定がなっていないとダメ出しされる体たらくです。どんなシナリオなんだろうと思って観ていましたが、山田孝之とその周辺の人びとは、「一ヵ月集中してきっちり巻き返そう」のように決意して、何と登場人物のモデリングを始めるのです。

 現在「ペルソナ・マーケティング」などとも呼ばれるようになっている、古くからあるマーケティング手法のモデリングは、自社の事業の対象となっている仮想の顧客を物語のキャラ設定のように細かく決め込んで行く手法です。普通、物語のキャラ設定は当然行われるので、そのようにモデルを決めるからモデリングとマーケティングの分野では命名されています。つまり、マーケティング分野でその手法を使うことはまだまだ常識化していないものの、物語設定の作業では基本と言うことと考えられます。現実に私もたった一本だけ企画と脚本を担当することに偶然なってしまった(総予算100万円余の)映像作品がありますが、モデル設定はかなり真剣にやり込みました。ところが、総予算1億円(らしい)金額の1割を負担させるパトロン企業に出したシナリオには、登場人物の設定さえきちんとなされていないらしかったのです。バカげています。

 さらに、綾野剛らと始めたバンド活動では彼がメインボーカルらしき立ち位置の曲のレコーディングで、自ら作った英語の歌詞を謳う場面があります。何度もダメが出ます。皆で「だんだん良くなっている」、「あきらめないでやり抜こう」などと言い合っていますが、無駄な時間がどんどん過ぎています。うまく行かない理由として、彼は「英語の発音がうまく行っていないのが足かせになって、思いを込められない」のようなことを言っています。まさにその通りで、英語の発音はカタカナ読みレベルです。しかし、そんなことは最初から分かっていたはずです。本当にそれを克服したかったのなら、さっさと発音矯正のレッスンを集中して受ければよいだけの話です。現実に彼は本番3週間前に渡された台本から突如全セリフが津軽弁だと指定されて困惑しつつもそれに対応する努力をしている場面が存在します。ならば、英語の発音だって同じでしょう。つまり、俳優業と同じレベルの当然の努力を彼は怠ったまま当然の如く質の悪いパフォーマンスで皆を振り回しているのです。このような様子を見ると「楽しくなるためには、楽はできない」のは当然です。なぜなら、楽ができないような、準備や心構えやインプットがない状態で臨むからです。おまけに、周囲の人間まで巻き込んで楽をさせないようにしています。

 このような場面は他にも散見されます。そしてそれに周囲の人は巻き込まれても、大スター山田孝之(秋田の『デイアンドナイト』の撮影現場では握手しただけで泣き出す女性ファンまで登場します。)との仕事故か、裏で貰えるカネ故か、ニコニコしながら働いています。先述の散々後付けで苦労した『デイアンドナイト』のシナリオが最終的に京都のパトロンおじさんからOKを貰えたのか否かは作品中で描かれていません。「何とすばらしい台本だ!」と感激させることができたのなら、その場面が映画に採用されているはずでしょう。それもなく、しかし『デイアンドナイト』は制作されているのですから、裏で何かの妥協が為されたと解釈するほうが自然です。

 この映画のキャスティングに関してもイミフな展開が待っています。奈々という主要脇役の少女はオーディションで選ぶということで、山田孝之や監督、脚本家などが審査を重ね、全員が落涙するほどに感動させられた女優が選ばれます。そして、主人公級の役者も安藤政信に候補が絞られ、その出演の承諾をさせるのがプロデューサーたる山田孝之の使命になったと作品中では語られています。何か先方を納得させるのが非常に困難な配役をしたので、非常に困難なタスクを背負わされた…という印象が演出されています。二人で隠れ居酒屋のような場所で密談をして、山田孝之が想いを語っています。ですが、映画の中では全く語られていませんが、この二人はその直前ぐらいの段階で、『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』で共演しているのです。撮影の関係でどれほどダブっている時間があったのかは分かりませんが、その関係性があったことは一切映画では語られなかったように記憶します。何か演出の胡散臭さを感じざるを得ません。

 キャスティングは奈々役のオーディションと安藤政信の参加が山場であったかのように、まるで『プロジェクトX』のような焦点を絞りに絞った演出が重ねられていますが、実際の『デイアンドナイト』のキャストを見ると、小西真奈美、佐津川愛美、渡辺裕之、室井滋などの名俳優の大盤振る舞い状態です。正直、オーディションで決まった、私も『ユリゴコロ』などで見ているはずの子や安藤政信は、これらの役者に比べれば無名と言えますし、当然ですが相対的に見て役者としても不安定です。どちらがキャスティングの山場だったかと言えば、論を待たないでしょう。これらの名優達は撮影現場のシーンで少々垣間見ることができますが、ドキュメンタリーそのものの流れとしては、ほぼ完全に無視されています。ここにも、フレーム外の何かの大きな力の存在がそこはかとなく感じられます。

 これだけ手堅い俳優陣を据えても、今年1月からの映画館ウケはマイナーな域に収まっていたのか、その存在さえも私の記憶に残っていませんでした。善悪の葛藤を描きたいという山田孝之をはじめとする制作側の意図を高く評価する向きもありますが、私が見た中では…

「制作意図はよくわかるが、登場人物の設定が不自然。最後まで感情移入できない」
「邦画日本ドラマの焼き回しシーン、ストーリーばかりで見飽きた」
「色々なことに挑んで全部中途半端に終わった映画」
「色々な要素を盛り込みすぎで中途半端」
「この手の善悪論は陳腐に感じる。それを台詞で説明するのも残念」

のような趣旨のものもそれなりに目立ちます。

 観ていない私には判断できないものの、明らかにシナリオに由来するマイナス評価が多いように見えます。プロデューサーたる山田孝之は撮影現場であまり口を出さず、監督と俳優の中にある世界観づくりに作品を委ねると言ったことを語っています。その方が、俳優も自分で解釈する余地ができて、より自由に持てる力を発揮できるというのは、彼の俳優体験から分かっていることなのだそうです。それはそれで卓見であり、私もその通りなのだろうと思えます。しかし、上述のような評価がボロボロに出てくるということは、素晴らしい演技力を持つ俳優陣でさえ補いきれないような不“出来栄え”のシナリオだったということに読み取れなくはありません。それが、3年の時をかけ、30回も改稿を重ね、モデリングをすることもなく迷走したシナリオ作りの結末であるように推察できなくもありません。

 善悪の葛藤なら、確かに、遠藤周作の『海と毒薬』や『沈黙』など、ポンポンと幾らでも例が挙げられますし、色恋沙汰をベースにした作品群でも『女殺油地獄』とか『悪人』など、幾らでも事例を思い出せます。山田孝之が出演していた『その夜の侍』だって善と悪を考えた超名作ですし、同じく『凶悪』だって私は一応楽しめます。彼にとって『デイアンドナイト』の善悪の描写が、彼も台本を読み込んでいたはずのこれら二作を超えているものであるのか否か尋ねてみたいように思えます。

 ホテルに缶詰めになって(/缶詰にされて)著書『実録山田』の原稿書きに追われ、締め切りに間に合わない状態になって、売れている作家でもないのに、イッチョ前に編集さんを待たせまくっている状態の時に、山田孝之はインタビュアー(≒カメラ)に向かって、祖父が彼に言い聞かせていた訓えについて語っています。

「まず、頑張れ。努力に努力を重ねろ。その上でできたことを批判する奴がいたら、それは嫉妬しているだけだから無視していい」です。それを受けて、「今書いている本は稚拙かもしれないが、その経験もいつか必ず自分の糧になる。この経験が将来の自分を作っている。だからがむしゃらに頑張る」と言ったことを自分の信条として語ると同時に、辛い自分に対して半分自己暗示として言い聞かせているようでした。その祖父の訓えを私も素晴らしいと思いますが、祖父が言っている努力は、「妥当な努力」であって、普通はあって当たり前の準備や知識も不足している中で払わねばいけなくなった、睡眠不足に耐えるだけの無駄な努力ではなかったことでしょう。また、その努力の目的も自分のためではなくて人様のためではなかったのかと思います。

 もちろん、劇中の山田孝之の努力も、関係する人々の雇用を作り、山田孝之ブランドを消費したい人々から金を掬い上げる経済効果はもたらしていることは間違いありません。それを否定はしませんが、そんなレベルの低次元の努力を重ねている人間が、「今まで、自分は出演作品がとても好きになって打ち込んできたのに、完成した後のプロモーション活動をやればやるほど、急激に作品が嫌いになっていった。それは、多分、従来のやり方に悪い部分があったから、自分はそう感じてしまうのだと思った。もうそういう嫌な思いはしたくないので、自分がプロデューサーをやってそういうことを変えて行けばよいのだと思う」などと語っています。まるで英検3級も受からない人間が、英語教育を語っているのとか、簿記三級も分からないような人間が会社運営を語ったりするのとかと同じような気がします。今時、就活の大学生でも恥ずかしくて面接で言えないような事柄の構造と同次元に思えます。所謂「意識高い系」の言動そのものに見えるのです。

 さらに面白い発言を重ねてくれます。秋田で撮影を続けていた『デイアンドナイト』のクランク・アップの当日にプロデューサーとしてその場に居ようと思っていたのに、東京でCMの撮影の予定が動かせなくなり、クランク・アップの場に居られないこととなった際の発言です。

「これだけ打ち込んできたものがあって、そっちにいるべきであることは明らかなのに、そんな思いも受け止めてもらえず、2時間とか予定をずらしてくれればよいだけなのに、自分の都合は聞き入れられない。これほど、自分がただの商品だったということを実感させられたことはない」

と言ったことを口にして滅茶苦茶に落ち込み、かなり我慢と逡巡を重ねた後にツイッターにその気持ちを吐露しているのです。「誰にも言えないから、せめてSNSに出すことにした」とのことのようです。ギャグとしか思えないことを大真面目でのたまいます。

 たとえば、生活費にも事欠きながら都内の私立大学に通う一定割合の地方出身の女子学生がパパ活をしていると、坂爪真吾の『パパ活の社会学』に書かれています。「お金持ちのおじさんがたとハイ・スペックなデートをするだけで数万円のお小遣いが貰える彼女たちは、このセリフの「商品」のコンセプトにどの程度共感できるかな」などと、ふと頭を過りました。

 他にもたくさん笑わせてくれる場面がありますが、一つ、私の知識の範囲で、「それは違うでしょう」と突っ込みたくなるネタがありました。「30歳の決意」の結果、本人が「やれるところまでやった」、「完成とは言えないまでも、もう変える所や工夫する所がほとんど残っていない」のような趣旨を述べて、二つのシリーズの終了を“彼が”決断したと字幕が断言している場面があります。そのヒット・シリーズとは『闇金ウシジマくん』と『勇者ヨシヒコ』です。

 前者は私はコミックで読むのみで映像作品をほとんど観ていません。後者は第三シリーズまでかなりガッツリ観ています。第二シリーズまでは娘などとも一緒に観ましたし、他にもこのシリーズのファンを数人知っています。断言できますが、シリーズは後になるほど、マンネリ感が出て、ヒネリもなくなり、どんどん面白くなくなっていきます。どう考えても、第三シリーズ前後で“彼が”決断して、シリーズを終えることになったとは思えません。本当に人気シリーズなら、『闇金ウシジマくん』のように、彼抜きでも、スピン・オフでも何でも、色々な作品がその後も執拗に作られていることでしょう。それが、自分の判断でやめることになったと思っているということのようです。甚だしい「意識高い系」です。自分の判断によって世界の命運が決まると思い込める「セカイ系」にさえ肉薄しそうです。「サード・インパクト」でも起こせそうです。

 普通30代半ばを過ぎて、ここまで「意識高い系」をこじらせていると、世の中から相手にされなくなるか、笑いものにされるだけになるかではないかと思えます。どちらでもなく、ギリギリ「消費発生装置」として“努力による活躍”が続けられるのは、彼が“商品”だからだと考えるのが妥当でしょう。

 その意味では、裏で秋元氏がバリバリに支配しているAKBの子たちの泣けるドキュメンタリーの類似商品を、本気に勘違いしている30男のバージョンで作ってみたのがこの作品と見ることが一応できます。それはそれで、5年も撮影に費やした壮大な実験映像作品で、シニカルな笑いを提供する力をもっています。しかし、どうも、裏の構造が何やら透かし見えるような気にさせる場面が多く、イマイチ乗れないのです。DVDは不要です。