『セフレの品格(プライド) 慟哭』

 11月28日の封切からまだ僅か1週間以内の12月最初の水曜日の晩、バルト9の19時50分の回を観て来ました。比較的急いで観に来た理由は2つあります。1つはこの作品が一連のシリーズの第三弾なのですが、今月12月の中旬には第四弾がリリースされるので、そのタイミングで、この作品は上映が打ち切りになる可能性があるように感じられたことです。2作のリリースタイミングの間隔は2週間しかありません。その間に観る必要があるという仮定で動く必要があるように思えたのです。

 もう1つの理由は、この作品の上映館の状況です。以前、やはり2作が連続して封切られた第一弾と第二弾のケースでも上映館は非常に限られていましたが、今回はさらに減っていて、なんと全国でもたった2館でしか上映されていません。その全国単位で見てたった2館しかない上映館は両方とも23区内に集中していて、1つはこのバルト9でもう1つはたまにマイナーな映画を観に行く池袋西口の老舗ミニシアターです。

 私がこの作品とその続編を観に行こうと決めた理由は、あまり大きなものではありません。主要な理由はやはりコンプリート感を目指したということかと思います。第一弾と第二弾は、再三登場するセックスは何やら貧相でしたし、セフレという関係性は無機的に(カネのやり取りも伴わない)セックスだけの関係として成立するものとしては描かれていない点で、どうも不完全燃焼の部分がある作品でした。それでも、自分たちなりのセフレの関係を妄想的に相互に追求し合いつつ、セックスを重ねる中年未満の男女の物語が示唆するものはそれなりにあり、ぎりぎりDVDを買っても良いかと思えるような出来栄えでした。そんな作品の続きの物語がさらに2作出るとなったら、まあ、やはり観ておいた方が良いかなというぐらいの細やかな動機です。

 他には、第一弾以降、このシリーズの監督を務める城定秀夫が、私の好きな『ビリーバーズ』を作った人物であり、他にも私が秀作と思う『よだかの片想い』や『夜、鳥たちが啼く』も監督している人物であることです。その後は、劇場で観た『悪い夏』は少々不発感がありましたが、DVDで観た『嗤う蟲』も快作だと思っています。(『悪い夏』の最大の不発要因は主役の二人、北村匠海と河合優実がパッとしないことのように私は感じていますが、それでも、人生に疲弊しズタボロになった主婦を木南晴夏が演じている点が高く評価できます。)

 城定秀夫は『ビリーバーズ』の監督時でもパンフに記述があり判明していましたが、かなり深いレベルの山本直樹の世界観の理解者です。私も愛する山本直樹作品群ですが、城定秀夫は『YOUNG & FINE』の脚本製作も手掛けたようです。ただ、作品はどうもイマイチでしたが。

 シアターに入って見ると、暗くなってからも執拗に観客がポツポツと入って来続け、最終的に私以外に16人になったように思います。2人連れは映画本編開始後10分以上が経過してから入ってきた30代後半ぐらいのような感じの男女1組だけで、残りは全員単独客でした。男性が圧倒的多数で、女性は2人連れの女性1人も含めて4人だったように見受けました。年齢層は全体に高く、30代後半ぐらいの観客もいたものの、全体の3分の2は50代後半以上という感じに思えました。

 第一弾・第二弾の際と同様のこの主力層の高齢男性群が原作のレディースコミックの大ファンの人々とは考えにくいので、何が魅力でこの映画に惹かれたのかと考えると、単にセックスがスクリーン上で頻繁に展開されるということではないかと想像せざるを得ません。若しくは、セフレとはどんなものか実態研究のためということかもしれません。

 あくまでも、外見上の偏見全開の評価ですが、少なくとも主力観客層はあまり裕福層には見えませんでしたから、愛人を囲ったりパパになったりする経済的余裕があるようには想定されません。金銭的なやりとりなくセフレを維持するには相応の人間的魅力が必要でしょうし、コミュ力もかなり要されるものと思われます。当然ながら、金銭を介してさえセックス相手を囲うことができない高齢男性群なら、まして、金銭が絡まない純粋なセフレを見出し維持することは結構困難ではないかと思われます。ということは、これらの主力観客群は、仮にセフレの実態研究が目的だった場合、自分の知らないセフレという存在をどのようなものか見極めようとしたということと一応(非常に余計なお世話ですが)推量されます。

 ふと考えてみて、やはり上述の「単にセックスがスクリーン上で頻繁に展開される」ことと「セフレとはどんなものか実態研究」の二者なら後者がより尤度が高いように推量されるようにも思えます。スクリーン上に限定しなければ、より過激なセックス・シーンは今時幾らでも見られるからです。それなりに高齢な人物も観客に含まれていましたが、それでも、PCでブラウザを見ることもなければ、全くネットにアクセスもないというような人物はかなり少ないでしょうし、前述の観客全体の3分の2の高齢男性群でさえ、そこまでデジタルデバイドの最極端に位置するということは考えにくそうです。とすれば、やはり、単なるセックス鑑賞目的でこの作品鑑賞に至ったとは考えにくそうです。

 ただ、家族との同居の場合、どうしても、エロ系動画へのアクセス機会が限られ、自宅から出るのでさえ、妥当な理由を同居の家族に対して示すのが困難という老人もそれなりにいると聞きますので、その場合は、確かに「映画を観に行く」は、仮にエロ・シーン鑑賞目的であっても嘘ではありませんから、口実が通りやすいという構造もあるかもしれません。

 観てみると、やや意外に思えたことが3点ほどありました。

■最早セフレの映画ではなくなっていること

 第一弾から第二弾において紆余曲折はあったものの主人公のチッパイ抄子と顔デカ一樹は自分たちなりのセフレのルールに則った関係性に一応落ち着いています。一応と書いたのは、当初「セフレ」という概念に抵抗感があった抄子は、会社の上司やごみ収集係の兄ちゃんにセフレの概念を説いて、そうした関係(と言っても、彼女の期待するセフレの関係性には「瞬間恋愛」的な恋愛感情が混じり込んでいるので、純粋にセックスと言う行為そのものを楽しんでいるのではないように見えます。つまり、無償の買春のような無機的な心情で臨んでいないということです。)を拡大し維持しようと努力するまでになっています。

 一方元々セフレの提案を抄子にした一樹は、徐々に自ら抄子に告げていたセフレのルールを徐々に破るようになってきており、抄子への恋愛感情を押し留められなくなってきています。第二弾の終わりでこうした二人がセフレの関係を一応安定した状況にしたということは、セフレと言いつつ、相互にかなり強い恋愛感情を持っていることになります。現実に、相互に相手以外の誰かをセフレとして開拓・維持しているフシがありません。二人は戸籍上独身ですので、これをセフレと呼ぶよりも、単なる交際と捉えた方が良いぐらいに見えます。そして、第三弾の本作はこの状況が加速度的に進展していき、とうとう二人が婚約をし抄子の娘が大学生になるまで結婚を待つという関係になります。

 おまけに一樹は過去の妻と父の密通というトラウマからパイプカットをしていたのを回復手術をし、抄子との間に子供が欲しいと明言し、抄子もそれを受け容れるのでした。これはもうセフレと言えません。つまり、本作はタイトルに偽りがあるということです。

■セフレの社会的認知

 本作では上述のようにどんどんセフレを逸脱し近づく結婚のタイミングに浮かれる色ボケ中年カップルに対して、二人各々の過去の因縁が迫って来て、二人の将来設計をぶち壊そうとする物語になっています。一樹の方は、父と密通して子を成し離縁されて、自堕落で窮乏の生活に落ちた元妻が、精神に異常を来たし一樹の幸福に嫉妬して復縁を迫ってきますし、抄子の方はシリーズ中で初めて描かれる昔の結婚生活から、落ちぶれ職も失った元エリート会社員っぽい男から「今も変わらず愛している」とストーカー行為をされます。

 おまけにこのトチ狂った元妻とストーカー化した元夫は手を結び、一樹と抄子が行為後に微睡む抄子の家にガソリンで放火を企むというなかなかな展開になっています。なかなか細かい設定にまで物語は踏み込んでくれますが、この抄子の元夫は抄子と別れてから勃起障害になっていますが、元妻・元夫の落ちぶれイカレコンビでこれからガソリン放火に及ぼうとする際の車中で、突如欲情し、(この二人はその前の段階でもラブホに入り、勃起障害故に性交に及ばなかったという経緯があります。)娘の年齢から逆算して15年ほど続いた勃起障害がいきなり治り、激しく貪り合うようなセックスを始めます。繰り返しになりますが、なかなかの物語です。たった89分の作品で物語のメインストリームでもないのに、やたらの彫り込みようです。

 さて、そのような落ちぶれ元夫は、ローンその他の支払督促の郵便物が家に堆積している状態なのに、時々会う権利を行使している娘に対しては大盤振る舞いを続けています。その生活態度の表と裏を合わせ見れば、どう見ても持続不可能で破滅的でさえあります。そんな人間なのに、抄子には復縁を迫り、娘にも一緒に暮らしたいと吐露し拒絶されています。どこから金を捻り出したのか分かりませんが、興信所に依頼して抄子と一樹の関係も詳細に把握しています。そして、笑えることに、そんな生活状態のくせに、まともな生活を送っている抄子に向かって、「禍々しいセフレなどという関係に嵌り、セックスに溺れているお前に、私達の娘がきちんと育てられる訳がない」と説教を食らわしてくるのです。なかなか極端なバカモノ設定ですが、気づかされるのは、ここでも「セフレ」についてのネガティブ・イメージです。

 この作品で第一弾から第二弾にかけて、社会人の主要脇役は基本的にセフレを反倫理的でケダモノ的と思い込んでいます。第一弾・第二弾が公開されたのは2023年で原作コミックは2011年に始まった連載が今なお継続しているようです。その間に大分セフレに関する社会的認識が変容したのではないかと思えます。それはセフレに対する寛容というよりも、無関心ではないかと私には思えています。(誰もがセフレに対して無関心になったというよりも、第三者が無関心を保てるようなセフレの関係が比較的増えたという意味です。)そんな中でアラフォーのはずの抄子よりかなり年上に見える元夫だから旧態依然の価値観でも仕方ないのかもしれませんが、(若しくは勃起障害だから余計嫉妬心からそういう発言をするということも考えられますが…)「セフレ=あってはならない関係性」の発想がかなり強調されています。

 世の中で、恋愛強者3割論はかなり有力で、恋愛関係の人間関係を持てるのは男女共にその程度の割合というのは私も同意できます。しかし、性的関係をもてる相手が存在するのもその3割ということは全くないように思えます。まず男性が(時には女性が)金銭でセックス相手を買うことはかなり容易にできます。そして、直接相手に払うのではない、ハプニングバーや大人のパーティーのようなシチュエーションもそれなりには社会に用意されています。さらにSNS系のコミュニケーション手段で、見ず知らずの2人のマッチング手段も社会に定着しています。そして、恋愛関係を意識しない、ないしは成り行きで偶発的なセックスをしてしまうようなケースも社会にはそれなりに存在しています。それが妙なコンプライアンス系の倫理観などで顕在化しにくくなっただけのことで、寧ろ以前より「性交関係」そのものは恋愛とは別の所で多々発生しているように私は感じています。

 そんな中で、「セフレ」を邪な感情の産物として糾弾する人物が今尚この作品に登場するのは、少々驚きでした。さらに何かのアイロニーとして受け止められそうなのは、邪セフレの糾弾を受ける二人の関係は先述の通り既に全く「セフレ」の域に収まっていないということです。おまけに抄子の娘は母抄子の「交際」を非常に前向きに受け止めており、母への想いを諦めるよう父に向かって諫言しているぐらいです。

■セックス描写は増え、セックス自体はより激しくなっている

 第二弾の感想記事の中で私はこう書いています。

[以下引用↓]

 この映画を前編・後編と観てみて一つ想うことがあります。それは、セックスの本来の効用が得られるような深い悦楽を齎すセックスの方法論が如何に世の中に知られていず、表層的なセックスに皆が明け暮れているかということです。特にこの作品の主人公達は、結局彼らなりのルール定義によるセフレの関係で居続けることを選びます。つまり、二人がともに分かち合うものはセックスの悦びだけです。ならばなぜその悦びをより掘り下げようとしないのかが、私には疑問であるのです。(中略)

 抄子を演じた行平あい佳という女優はウィキに拠れば早稲田大学を卒業後、フリーの助監督として働いた後に、女優にもなったようです。助監督ではどのような作品を手掛けたのか知りませんが、せめて恍惚に浸ることができるセックスがどのようなものか理解してから、自分でそれを再現して欲しかったように思えてなりません。

[以上引用↑]

 という風に、セフレの関係を受容し、周囲の人間をも感化しようとするぐらいの抄子のセックスは、第三弾に至ってかなり唐突に官能的になっています。これは物語の設定的に、安定した婚約関係に踏み出した二人だからそういう心情をセックスの場でも表現した(その割には、幸せ感故に「何か不安で」的なことを抄子は何度も口にしていますが…)ということなのか、抄子役の行平あい佳がセックス演技に何か開眼するような事象が2023年から2025年の間に起きたのか、パンフもない作品なので全く判断の手がかりがありません。(パンフがあっても、主演女優がセックス演技に開眼したなどという記述は見られないのが普通かと思いますが…。)恋愛スキャンダル系の話をいつか乗り越えた後の蒼井優が突如妖艶な演技を披露するようになったのと類似した現象かもしれません。

 最終的に件の元妻と元夫は激しいカー・セックスの後、息子らしき人物からの電話で元妻が車を降りたのをタイミングで、元夫が一人で抄子と一樹が同衾する家に一人で赴き、怒号を上げて二人を外に来させた眼前で、(家には放火せず)焼身自殺を果たすのです。偏執的に愛しても尚自分を拒絶する抄子の一生の記憶の中に残るための行為でした。なかなかの覚悟です。(特撮的に大変だったということかもしれませんが)通常焼身自殺はベトナムの僧の抗議活動ぐらいに心を鎮めて臨むことができなければ、業火に焼かれる激痛と勢いに自殺者は身悶えのたうち回るはずですが、この落ちぶれ元夫は直立したまま炭化していく顔がアップでじっと抄子を見つめ続けて崩れ落ちるのです。この覚悟があれば、生きていて何かに取り組んでも大成功を修めそうに思えますが、経緯や生活態度や言動は兎も角、最後の命を賭した行動に至る覚悟の大きさには畏敬を少々覚えます。

 そして、彼の死を受けて、彼の想いが叶ったかの如く(少なくとも第三弾本作の)エンディングで抄子と一樹は結婚を諦める様子が短く描かれています。落ちぶれ元夫の最後の悲願は叶ったのでした。一方、車に追いつくことができず、後から現場に駆け付けた弩級メンヘラ元妻は、さっきまで渾身のカー・セックスを繰り広げ、「どこかに逃げて暮らそうか」などと語り合った運命共同体の相手が炭柱と化していく様子を目の当たりにして、完全に精神に異常を来たし、施設に送り込まれることとなります。

 総じてみると、タイトルのセフレはもうどうでもよくなって、抄子と一樹という中年浮かれカップルに過去の因縁が断罪を下す物語になっており、尺的に見ても、劇中で見る限り、どう見ても、自業自得ではあるものの、救いようのない落ちた人々のルサンチマン炸裂劇がメインストリームの物語になっています。

 取り分け、この弩級メンヘラ元妻を演じたのはクレジット上では「こころ」となっていますが、加藤こころと言う女優のようです。第一弾では一樹の父と不倫を重ね、その後一樹と偽装結婚する狡猾な看護師ですが、見た目は若く可愛らしい系の女性として描かれています。それが本作では同じ女性とは思えないぐらいの落ちぶれようで、本作の劇中の最初の登場シーンが、薄汚いだぶついた服をまとって、イラついてパチンコ台を叩き叫び、店員に無理やり店外に引きずり出されるような状態です。その後も、勃起障害の元夫と飲み屋に行って意気投合し、飲み過ぎて吐き回り、悪態をつき暴れ回りますし、その後元夫とラブホに行き、自分の服を元夫に脱がすように求めて、「いいよ」とセックスを促していますが、その気怠さと醸し出されるメンヘラ感は、その貧相な裸体と相俟って息を飲む現実感です。

 第一弾と並べ比較するとき、この女優の演技力の高さがよく分かります。どうやっても聡明さが滲み出て浮浪者になり切れない『MOTHER』の長澤まさみや、どうやっても目の輝きと所作の品が濁しきれない『あんのこと』の河井青葉に、加藤こころの爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいです。

 狂ってしまった人生の自分にある原因に自覚的であっても、どうしても自分を置いて幸せをつかんだ元妻と元夫を羨み妬むのを止められない人間の業を描いた作品としてみると、価値が大きいように思えました。ダメ人間の横暴を見ると、どうしても自己責任論をそこに被せてみたくなってしまうことが多い私でも、この突き抜けた、軋みや悲鳴が聞こえてくるような暴走を自ら止められなくなって行く二人の姿には見入ってしまいました。

 それも城定秀夫監督の腕によるものなのかもしれません。考えてみれば山本直樹作品ではこうした、まさに業に焼き尽くされたような人物は、結構頻度高く登場します。そういった作品に強く惹かれてきた私だから、この作品も「セフレ」云々とは全く別の角度から輝くモノを感じてしまうのであろうと思います。タイトルに違和感はかなり残りますが、ここまでのシリーズ3作の中では、(あくまでも相対的に見たらということですが)ダントツの評価の作品でした。DVDは買いです。

追記:
 タイトルの「セフレ」の間違い感は前述の通りですが、「慟哭」はどの場面の誰のものであろうと考え直してみました。それは多分、落ちぶれ元夫の焼身自殺直前の最後の叫びであったろうと思われます。(焼身自殺を目の当たりにした抄子も悲鳴を上げていますが、「慟哭」というならやはり元夫の方であろうと思われます。)その意味でも、本作は「セフレ」もなくなった二人の主人公は物語の中心に存在せず、(かなり自業自得感が存在するのは否めないものの)社会や生活に置き忘れられた二人の人間の最後の命の煌めきを描いた作品と感じられてならないのです。