12月19日の封切から年を跨いで1ヶ月以上経った水曜日の午後3時10分の回を観て来ました。靖国通りの地下に入るシアターが一つしかない老舗映画館です。この日はサービスデーで1300円でシニア料金と同じでした。1日1回しか上映していません。上映館も東京都内ではここ1館になっていました。その1館での上映もこの週を最後に終了しています。それに続く週末の段階で調べてみると、全国で17館でしか上映されておらず、関東では茨城のつくばと群馬の高崎という状態ですから、メジャーな映画館での上映が無いまま、マイナーな地域の上映館でもどんどん上映が為されないようになっていった経緯が窺えます。あまり人気のない作品だったのだろうと思われます。
私がこの作品を観ることにした理由はあまり明確ではありません。世間でも言われていますが、ここ1、2ヶ月は映画の興業がパッとせず、大作もありませんし話題作もない…といった評価が為されていて、かなりマイナーな映画作品の鑑賞さえ厭わない私でさえ、鑑賞作品の抽出に事欠く程の状態になっています。現状で他に観たいと思える作品は今月23日に封切られている『恋愛裁判』ぐらいしかありません。かなりの枯渇状態です。
そんな中で、実生活でも多くの女性との肉体関係を持っていると噂され、元国会議員の動画で告発を散々されていた綾野剛は大した好きでもなく(かと言って嫌いというほどの執着もなく)、サムネイルで見ても(この作品が全編(ほんの一部の例外を除いて)モノクロであるので当然ですが)モノクロの何かパッとしない画像になっているこの作品には、正直言ってあまり魅力がありません。それでも、夏枯れ状態で何か一本見る必要があったという中での選択に残った微かな要素は以下の三つかと思います。
一つはこの原作が吉行淳之介の原作であることです。私は主に小学校高学年から中学校にかけての時期に一部の日本近代小説を読み漁りました。特にお気に入りは芥川龍之介、太宰治、森鴎外で特に短編ばかりを集中的に読んでいました。さらにそこから、どハマリになったのが安部公房で、余力を駆って読み始めたつもりがどんどん嵌る筒井康隆になり…とぐちゃぐちゃに読み進めて行きました。同時期に書かれた他の作家の代表作も一部読みましたが、そこから新たな嵌る作家を見出すことはありませんでした。
私が小学校高学年から中学校、高校に至るまでどうしても読み終えることができなかった小説があります。それは谷崎潤一郎の『痴人の愛』です。若く妖艶になったナオミに翻弄されても追い縋る主人公の男の姿に全く共感できないどころか、激しい嫌悪感さえ湧く程で、なぜこれが名作なのか全く理解ができませんでした。それを克服しようと、都合、5、6度は年に1度のペースで読んでは投げ出しを繰り返していたように記憶します。
平たく言えば、そんな私にも恋愛の形、というよりも男女の性愛のありようが段々と分かるようになってきて、『痴人の愛』を克服し、その他の作品、例えば『卍』や『鍵』、『春琴抄』なども読めるようになりました。なぜ私がここまで谷崎潤一郎の作品群を克服しようと執着したかと言えば、先に彼の『文章読本』と『陰翳礼讃』を読んで感激していたからです。そこに書き述べられた文章表現の美観とモノクロ世界の美観は、私にとって全く未知の世界の扉を開いたぐらいの衝撃でした。その衝撃の世界を作品で味わおうと思い立ったのですが、最初に手にしたのが『痴人の愛』であったことと、私が全く男女の情愛・情欲の深淵を理解できていなかったことが災いして、前述のような状況に陥ってしまったのでした。
その後、私のこうした情欲系小説群のグループに三島由紀夫が加わります。しかし、短編ではなんとか耐えられましたが、耽美的テーマ設定にも、男性同性愛にも、政治志向にも全く関心が持てず(今でもそれら多くには関心が薄いままですが)、早々に挫折します。(その後、長い時を経て、娘の紹介で読んだ『美神』は感激しました。それはそのテーマが美意識と老成・老醜で、還暦を過ぎた私にはかなり理解できる内容だったからかもしれません。)そして、高校時代の終わり、私の短編小説への傾倒がほぼ終わりを告げる寸前に微かに関心を抱いてほんの少し齧ったのが『砂の上の植物群』でした。吉行淳之介の代表作です。
その主人公は推理小説家ですが、バーであった真っ赤な口紅を付けた少女と肉体関係になる所から、その少女の姉を酷い目に合わせるよう依頼されます。そしてその姉とも倒錯した肉体関係に嵌って行き、捻りの効いた結末に至る物語です。谷崎潤一郎や三島由紀夫の作品群の登場人物に比べて、吉行淳之介の『砂の上の植物群』の主人公は、少なくとも当初はかなりまともな人間に当時の私には思え、漸く普通の人の恋愛小説が見つかったと、当時の私は何となく安堵したはずですが、就職と共に、私は小説を読む習慣を失って現在に至ります。
そんな吉行淳之介の小説が原作であり、またも小説家が主役と知って、この作品に多少の関心が湧いたのでした。
二つ目の理由は、濡れ場を演じるらしい田中麗奈の存在です。私は田中麗奈がまあまあ好きです。私が彼女に着目した最初の作品群は実写映画『ゲゲゲの鬼太郎』の猫娘役です。鬼太郎に対する報われない恋心が、大分デレが多いツンデレ状態でとんでもなく愛らしい猫娘でした。それから彼女をちょっと意識するようになりましたが、私が観たいと思う映画にあまり出演していず、仕方なくDVDで『ドラッグストア・ガール』などを観ていました。(他にもDVDで観た『姑獲鳥の夏』・『魍魎の匣』や『麒麟の翼 ~劇場版・新参者~』にも出演しているのには気づいていましたが、あくまで脇役であまり目立っていません。)そして、そうした映画の中の彼女とは一線を画す凄い役回りで彼女が登場したのが劇場で観た『葛城事件』でした。その感想にはこのように書いています。
[以下引用↓]
さらに、そこにダメ押しで善意の人がもう一人現れます。田中麗奈演じる獄中の次男と結婚する死刑廃止アクティビストです。私の印象に残っている彼女は、ウィキによると本人も気に入っている役だったようですが、『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズの猫娘です。劇中で最もキャラが立っていて、しかも外見上も不自然感が少ない妖怪は他に居なかったものと思います。その彼女の自然な演技力が冴えるので、このアクティビストは非常に苛立ちを覚えさせるキャラに仕上がっています。映画全体のストーリーテラーの役割も果たしている要なのですが、執拗に父母と獄中の夫(次男)の前に現れては、勝手に家族の絆を求め、意味の分からない法的正義に関る自己主張を相手の顔も見ず只管語り、どこにも共感できる要素がないままに、父に犯されそうになって憤然として去っていきます。
(中略)
して、田中麗奈です。先述の通りのウザい女のキャラを丁寧に演じきってくれます。
多分童貞のままでセックスなど想像しかしたことがない次男が刑務所の暑さに対して不満を言うと、昔の男とクーラーのない部屋で汗まみれになってセックスし続けた思い出を、「蒸し暑くて不快な日であっても人生の大切な思い出になりえる」と言う意味での人生訓として嬉しそうに面会のアクリル板越しに語る表情など、どこまでも嫌悪感が湧きます。
そんな田中麗奈でさえ、孤独に家で暮らすことになった父にとっては、付き纏って来ては(次男の話を聞き出そうとする上で)自分の話を聞いてくれる女性として、存在感を増して行きます。最後に、戸籍上の妻である田中麗奈にだけ死刑の執行の報がもたらされたので、それを伝えに彼女は最後の御挨拶をしに父のもとに現れます。「もうちょっと私が努力すれば事態は変わったはずだ」などと根拠もなさ気な自己陶酔の台詞を吐き、「それでは」と去ろうとします。
すると、父は「これで稔(=次男)とのことは終わったんだな」と言っていきなり彼女に抱きつき、キスを迫ります(見た目、キスには一応成功したかに見えます)。「あなたはおかしい!」と半狂乱で激怒する彼女に、「じゃあ、俺がそこらで三人ぐらい人を殺してきたら、俺と結婚してくれるのか」と父は真剣な目つきで言うのでした。田中麗奈は、死刑になることが見えている人間の尊厳を主張するためだけで、死刑囚の人格を無視して結婚をすることを選んだのですから、それが今度はその父であっても、そしてそれが田中麗奈とセックスするための犯罪であっても、死刑になる選択をする者と結婚することがおかしいことではないように私は思えます。
彼女の自分の存在証明や承認の欲求をすり替えただけであることが見え透いた、偽善的で誰のためにもなっていない活動が、本当にいやらしく描かれていたので、この最後の場面には少々胸がすく思いでした。寧ろ、どうせ暴力的でもある父なので、彼女を無理にでも組み敷いて、犯しつつ彼女のくだらない正義感をへし折って見せるぐらいの展開になったらすっきりしたことと思います。実際にはそんな『渇き。』のようなカタルシスは用意されていず、おまけに父は家の新築の際に植えた記念樹で首つり自殺を図りますが、枝が折れて失敗すると言う平坦な展開です。詰まる所、破綻した家族とその家庭に何らの終焉の形もつけず終わらせたかった映画であるのだろうと思えます。
[以上引用↑]
本当に吐き気がするぐらい偽善的で嫌な女でした。おまけに言及されている冷房もない真夏の部屋の汗が滴り落ちるセックスをヘラヘラ・ニタニタと回想するシーンが醸し出す嫌悪感は半端ありませんでした。そんな田中麗奈の新境地の濡れ場が観られるのならと期待したのでした。
最後の3つ目の理由は監督です。この作品の監督は荒井晴彦と言い、私が好きな映画を監督や脚本の立場で多数創り上げて来ている人物です。私は好きな映画を邦画と洋画に分けて50本選んだ状態にしていますが、邦画50本の中に、彼が携わった作品は『恋人たちの時刻』『母娘監禁 牝』『戦争と一人の女』と3本も含まれています。きちんと確認していませんが、他にこのような存在はいません。さらに50本の次点の中の『海を感じる時』も彼が関与しています。おまけにDVDで観たまあまあ好きな作品も多数あります。『福田村事件』、『花腐し』、『火口のふたり』、『Wの悲劇』、『遠雷』などです。おまけに今回ウィキを見ていて、私が敬愛する漫画家山本直樹原作の問題作『ありがとう』が彼の手によって実写映画化されていることも初めて知りました。
そんな監督ですから、今回もテイスト的には気に入る公算が一応高そうという読みが生まれました。
シアターに入ったのは上映開始時間ギリギリで、既に多くの観客は着席しており、背の高い椅子越しに見渡す観客の後頭部だけでは、かなり好い加減な情報しか得られませんでしたが、終映後の三々五々帰って行く客を見渡した感じの情報も加えて、何とか大雑把な観客状況が分かりました。観客数は概ね40人程度。上映終了が迫っている時期としては、かなり多いように感じられます。そのうち女性が4割程度でした。20代から30代ぐらいが数人いましたが、それ以外は50代以上の中高年、高齢者…といった感じでした。残る6割の男性はやはり50代以上が中心層でした。見渡した限りでは全員が単独客であったように思います。
映画の物語は映画.comに紹介されている通りです。
[以下引用↓]
「ヴァイブレータ」「共喰い」などの脚本や「火口のふたり」などの監督作で知られる荒井晴彦が、「花腐し」でもタッグを組んだ綾野剛を主演に迎え、作家・吉行淳之介による同名小説を映画化。過去の恋愛経験から女を愛することを恐れながらも愛されたい願望をこじらせる40代の小説家の滑稽で切ない愛の行方を、エロティシズムとペーソスを織り交ぜながら描き出す。
1969年。妻に逃げられ独身のまま40代を迎えた小説家の矢添克二は、心に空いた穴を埋めるように娼婦の千枝子と体を交え、妻に捨てられた過去を引きずりながら日々をやり過ごしていた。その一方で、誰にも知られたくない自分の秘密にコンプレックスを抱えていることも、彼が恋愛に尻込みする一因となっていた。そんな矢添は、執筆中の恋愛小説の主人公に自分自身を投影して「精神的な愛の可能性」を自問するように探求することを日課にしている。しかしある日、画廊で出会った大学生・瀬川紀子と彼女の粗相をきっかけに奇妙な情事へと至ったことで、矢添の日常と心は揺れはじめる。
大学生の紀子を咲耶、娼婦の千枝子を田中麗奈が演じ、柄本佑、岬あかり、MINAMO、宮下順子が共演。
2025年製作/122分/R18+/日本
配給:ハピネットファントム・スタジオ
劇場公開日:2025年12月19日
[以上引用↑]
観てみると、まあまあ予想通りの若い妻の裏切りから女性を精神的に受け容れられなくなった小説家の男が、否定できない情欲の形になった空虚を持て余し、若い女に翻弄される姿がよく描かれていて、楽しめる作品でした。或る意味、遥か昔『砂の上の植物群』の一部をかじったことしかないような私の吉行淳之介感を全く裏切る所のない作品だったと思います。
最近親しくしている妙齢の女性にこの作品を観たと伝えたら、彼女も観たかったとやや羨まれましたが、感想を聞かれて、「男のダメ感を非常によく理解できる内容だった」と伝えたら、「男って勝手ね」と指摘されました。確かにそうですが、福岡伸一の『できそこないの男たち』の考え方に従うなら、男は欠陥品生物だから、頭でことを決めなきゃいけないので、アホな理屈に拘泥しがちで、一方、女は完全生物なので、理屈抜きの無意識判断で勝手に意識外の部分で動く…という意味で勝手と言えば勝手…であるのだろうと思われます。この対比は映画のプロットそのものについての私の感想が要約された感じになっていると思います。
たった一人の女に裏切られても、別にすべての女がそうではないでしょうし、若い男が魅力を見出すような女と一時付き合うだけにしておいて、結婚などしなければ、単なる「アバンチュール」や恋愛ごっこで済ませられた可能性があります。現実に劇中でこの主人公は特に強い意志を以て結婚に至った訳でもありません。ならば、結婚と違う形を見出すべきだったと言えそうですから、せめて破綻の後はそんなことを模索しつつ、気に入った女性との関係性を見出せばよいだけのように思えます。
それを「精神的な関係が絡むから裏切られるような結果に至る。肉体のつながりで空虚を埋める関係だけに留まれば、そうしたことは起こらない」と言った思考に憑りつかれ、それを実践しようとしつつ、劇中劇として登場する彼の作品の主人公にも同様の思考を物語として検証させようとしています。
劇中の主人公も劇中劇の主人公も、幼い頃から遺伝的に歯が悪く、若くして総入れ歯になっているのですが、それが相手の女性に知られることや、知られた結果、女性が違和感を覚えて去っていくことを過剰に恐れ、意識するようになり、コンプレックス化しています。彼の別作品の主人公の男性は総入れ歯で、その男性がコンプレックスを持たずに済むように交際相手の女性もわざわざ総入れ歯にするというイミフな展開の小説さえも書いているのです。如何にも昭和です。そして、この年になって漸く観て知って楽しむ余裕が生まれた、吉行淳之介テイストが滲み出ている展開に思えました。
お目当ての田中麗奈はやや拍子抜けでした。彼女は娼婦役でしたが、劇中登場する女性の中で濡れ場が登場するのは知名度の低い女優二人のみで、田中麗奈は下着姿でベッドにいたり、部屋を歩き回ったりするだけのことでした。それでも先述の『葛城事件』での彼女とは全く違う切り口の悩める娼婦で、人生の岐路に立ち、主人公の小説家への想いを断ち切れない自分のやり場に困り、持て余している状況とその切なさを豊かに描いていたと思います。少なくとも私には彼女の新境地に思えました。
この映画の舞台は1969年の東京です。男も女も煙草を吸い、シートベルトを気にすることもなく無造作に車に乗り、セックスも(勿論アクロバティックでAVチックなものではなく)淡々と和室に敷かれた布団の上で繰り広げられます。劇中では「ホテルで…」と登場人物達がセックスの場所について言及していますが、登場するのはすべて旅館で、常に和式の旅館の一室でのセックスが繰り広げられます。それも、敷布団の上に掛け布団はない状態で、全裸の女がモザイク掛けもなく陰毛も顕わに横たわっている脇に男が意味深なセリフを吐きながら煙草を吸っていると言ったシチュエーションが再三展開します。昭和チックです。
この映画はほぼ全編モノクロで、レトロ感を表現するのが一つの目的かと思われますが、もう一つの目的は主人公の作家の殺伐として女に期待しないようにしている心象風景の表現と見ることができるようです。実際、ずっとモノクロの中で、女の口紅が紅にテラついている場面が数度登場します。それは主人公が女を前にして自分が封じ込めたはずの「精神的な関係」が呼び起されている場面です。単なる肉体的関係、純粋な快楽だけの肉体関係の中に留まり切れない女の魅力が、彼を揺さぶる場面が表現されているのです。
咲耶という私が全く知らない女優が演じる女子大生紀子は、盲腸の手術の跡があり性的に興奮するとその傷跡が赤く染まるという設定になっています。そして劇中でも、下腹部左側に一本入った筋のような手術跡がモノクロの世界の中で、朱色に浮かび上がっています。その全裸の女体に主人公は引き込まれるように近づいて行く静かなエロチシズム。そんな表現が多々鏤められてこの作品は構成されており、先述の日本近代文学の世界観の中の男女の恋愛観の模索を行なう物語と相俟って、全編を通して湿っぽくエロイ映像が続きます。同じ制作関係者を持つ『火口のふたり』や『恋人たちの時刻』『母娘監禁 牝』『戦争と一人の女』とはまた異なるベクトルのエロスです。
主人公が通う娼家「乗馬倶楽部」も怪しくレトロです。住宅地の中に立つ洋風の住宅に女主人がいて、娼婦を斡旋し上階の簡素な洋室で客と娼婦がセックスをする仕組みです。主人公の家の黒電話がなり、女主人の勧誘がねっとりと主人公の耳に絡みつく様子が独特のエロスを醸し出しています。色々と観るべきものがある作品です。綾野剛はそれでも特に好きになれませんでしたが、嫌いになった訳でもなく、眼鏡を外し悪い視力で眺めたスクリーン上の彼は、時たま松田優作に見えました。DVDは勿論買いです。