『運命屋』

 11月8日の封切から10日程経過した月曜日。以前『モリのいる場所』を観た、銀座のど真ん中の路地沿いにある映画館で15時からの回を観て来ました。1日2回の上映で15時と18時の回があります。この作品は端的に言って非常にマイナーです。(後にロビーで話すことができたこの作品のプロデューサー兼出演女優が開口一番に「どうやってこの作品を見つけましたか」と尋ねるほどにマイナーです。)

 上映館も全国でたった6館しかありません。東日本では札幌と東京で各1館ずつで、あとは名古屋、大阪、兵庫県三宮、そして京都です。どの館でも1日1回程度の上映回数のようですから、全国単位で見ても、1日に10回も上映されていない作品であるようです。そしてこの作品は、たった25分の尺しかありません。(料金も一律1000円です。パンフが1200円で映画鑑賞そのものよりも高額です。)きちんと確認していませんが、過去私が劇場で観た作品の中でもトップ5ぐらいに入りそうな短さであろうと思います。

 私がこの作品を観ようと思い立った動機はそれほど確たるものではありません。今月は既に劇場鑑賞月二本のノルマを月の初旬に達成していて、もう一本ぐらい見ても良いかと思い立ったのがスタートで、気軽に観られる短い尺の作品が良いと思っていました。そして、そんな気分で映画.comの上映中の作品のサムネイル群を見ていて、座った髭の老人のバストアップの画像を見つけました。それはよく見るとミッキー・カーチスだったのです。クリックして紹介を読むと、この作品がたった25分しかない作品だと知りました。映画.comの紹介文には以下のようにあります。

「ロカビリー歌手、俳優、タレント、音楽プロデューサー、レーサーなど多彩な活躍を続けるミッキー・カーチスが主演を務め、彼が80代の住処として選んだ地・北海道名寄市を舞台に描いた短編映画。

人の記憶と命を管理し、大切な人の思い出を消去する代わりに寿命を延ばす取引を行う「運命屋」の女性イオリ。これまでさまざまな人間との取引を重ねてきた彼女は、7日後に寿命が迫った元ミュージシャンの男性・時雨奏と出会う。大切な人の思い出と大切な歌で満たされた人生を送る彼は、そのまま寿命を全うするか、それとも思い出を消去して延命するかという最期の決断を迫られるが……。

「trurh 姦しき弔いの果て」の広山詞葉が運命屋の女性を演じるほかプロデュースも手がけ、名バイプレイヤーの甲本雅裕、カーチスとは実際に親友でもある橋爪功が共演。数多くの実写作品・アニメ作品を手がけてきた映像作家の森田と純平が監督・脚本を手がけ、カーチスが歌う主題歌の作曲を細野晴臣、劇伴をSUGIZOが担当。」

 俄然関心が湧きました。それは主にミッキー・カーチスに関わる以下の4つのポイントからの関心です。

■役者としてのミッキー・カーチスが比較的好感が持てること。

 役者としてのミッキー・カーチスと書いていますが、私は上の文章にもあるようなミッキー・カーチスの役者以外の側面を殆ど知りません。ギリギリ知っているのは、昔のロカビリー系の歌手であったという点ぐらいです。しかし、そのリアルタイム世代でもない私は、バンド名だのヒット曲名だのも全く知りません。例えば、堺正章や井上順などが往年のミュージシャンだったことを知りつつも、私にとってはテレビでよく見るコメディアン系のタレントのようなカテゴライズでしか認識されていないのとあまり変わりません。

 そのミッキー・カーチスが役者として唐突に私の認識野に現出したのは劇場で『ロボジー』を観た際のことです。ロボジーの感想では以下のように書いています。

「元電話交換機保全技術者としては、今更になって「技術屋をなめてる映画だよなぁ」という感想が湧き起こります。「そうか、この映画に科学的裏打ちを求めてはいけないのか」と思いこむことに努力を要しました。

ただ、この映画は、この無理さ加減を或る程度払拭することに成功しています。最大の理由は、技術の問題から老人の社会的孤立や老後の生活の一般的な在り方に潜む課題などに視点を早々に移し、その主人公の老人をミッキー・カーチスが粋に演じていることです。

映画のオープニングでもエンディングでも、ミッキー・カーチスと言う名前は登場せず、パンフを読んで、五十嵐信次郎と言う名前は、ミッキー・カーチスが子供の頃から憧れていた漢字の名前を70を過ぎて初めて芸名として使ったものと分かりました。

この五十嵐信次郎演じる老人は、如何にもな老人会の演劇にも馴染めず、働こうにも仕事が見つからず、子供夫婦とは反りが合わず、孫二人は勉強やらゲームやらに没頭する今時の子供で別居している老人に特段の親愛を表現してきません。そんな中、木村電器の三人組が苦肉の策でロボットになりきって貰う人を着ぐるみショーの役者と偽って募集し、体のサイズがぴったりであったことから、主人公の老人が着ぐるみロボット『ニュー潮風』を演じることになります。

偶然、見学に来ていた吉高由里子演じるロボットオタク女子大生をブース支柱の倒壊事故から救う所から、ニュー潮風は時代の寵児となります。子供たちから口々に凄いと褒められ、握手を求められ、さらにダメ社員三人からは悲壮な覚悟で協力を求められているうちに、周囲から頑固で偏屈と受け止められていた老人は久しく感じることのなかった「当てにされる喜び」に溺れて行って、結果的にロボット役者を続けることにするのでした。一旦は全部ばらしてやると、記事の載った新聞を手に、「このロボットの中には俺が入ってたんだ」とあちこちに言いふらして回りますが、誰も彼のことを信用せず、ストレートにボケを疑われたりします。このような老人の置かれた立場と心情の機微をミッキー・カーチスは絶妙に表現しています。(中略)

 しかし、エンディングのクレジットのバックにかかる音楽を聞いて突如この映画の評価がぐんと増しました。

 なんと、ミッキー・カーチスが謳うスティクスの往年のヒット曲『ミスター・ロボット』なのです。最高に格好いい曲の仕上がりでした。このセンスの良さを感じつつ、映画を振り返ると、やはり老人の持つ可能性や老人の持つ社会的役割、老人ならではの価値観の洗練など、もっと味わうべきものがあったように思われるのが不思議です。」

 私は『ロボジー』の物語設定が似非科学そのもので、それなりに引っ掛かりを感じていましたが、それでもこの作品を相応に高く評価できるのは、主にこのミッキー・カーチスの活躍に拠るものだと思っています。ですので、総じて見ると、『ロボジー』はミッキー・カーチスが無駄遣いされた映画に思えるのです。

 それ以降、ミッキー・カーチスの好演を劇場で観る機会はありませんでした。DVDで観た『九月の恋と出会うまで』(2019年)や『地獄でなぜ悪い』(2013年)、そして劇場で観た『鳩の撃退法』(2021年)では、『ロボジー』の後であったために彼を認識できましたが、『ロボジー』ほどの主要な役ではなかったため、彼の好演を堪能するというほどのものではありませんでした。

 ウィキで見ると、『スワロウテイル』、『バウンス ko GALS』、『赤い橋の下のぬるい水』、『AIKI』など幾つものDVD鑑賞作品に出演しているのですが、前述の通り、『ロボジー』以前の彼を認識できないままに観ていました。

■多分相応に彼本人の死生観や人生観が反映された物語であると想像されたこと。

 死に向き合うことは映画に頻出するテーマで、死そのものに色々な形があるように、テーマとしての取り上げ方や描き方などに、幅広いバリエーションがあります。洋画でも名作は多々あり、私の好きな作品を選んだ洋画トップ50の中には『愛と追憶の日々』や『マイライフ』などが入っています。邦画はさらに、枚挙に暇が無いというぐらいに、名作があり邦画トップ50の中には伝説の映画といって良いような『エンディングノート』もありますし、これまた伝説の黒澤作品で洋版リメイクも比較的最近された『生きる』などもあります。

 このような中で、実在の人物の死生観が描かれる作品はそれなりに限られています。上述の中ではやはり『エンディングノート』は圧倒的ですが、たとえば比較的最近(2021年)観た不発ドキュメンタリーの『愛について語るときにイケダの語ること』などもありますし、幾つかポツポツ見当たります。本作はドキュメンタリーではないものの、どう考えても、ミッキー・カーチスがわざわざ25分の尺の映画を自分の住む街を舞台に撮るのに、自分が納得しない死生観を打ち出す訳はないように思えたのです。

 私は死に近い位置にいる老人を演じさせたら田中泯を超える役者を知りません。ミッキー・カーチス同様と言うべきか分かりませんが、田中泯も元々のキャリアは役者ではありません。しかし、その主流側のキャリアで形成された透徹した人生観や死生観がそうした事柄を要求する配役の中で暴力的なまで表現されているように思っています。私の知るそうした田中泯を観ることができる作品に劇場で観た『銀河鉄道の父』とDVDで観たテレビシリーズ『リスクの神様』があります。(他にも色々彼の色濃いオーラが感じられる作品は細かくは存在しますが、特に私の印象に残っているのはこの二作です。)この二作において、田中泯は厳格な父親的な時代と認知症的症状がかなり進んでしまった時代の両方を同じ役の中で演じていて、その対比を観るだけでも、人生のありようを否応なく突き付けられてしまうのです。

 私にとって田中泯はそうした位置付けの役者であるのに対して、私にとってのミッキー・カーチスは飄々としていつつ人生を達観し、よく言えば自由、悪く言えば無責任な老人の役がフィットしているように思えます。しかし私の中にあるサンプルは『ロボジー』しかない中で、彼のバストアップ画像のサムネイルを観て、直感的に田中泯に私が観るような切り口をミッキー・カーチスで観られる作品かもとの期待が湧いてきたのでした。

■もう一つの副次的な要素は彼が名寄に住んでいることを知ったこと。

 私はこの作品の映画.comの紹介文を読むまで、ミッキー・カーチスが名寄に住んでいることを知りませんでした。彼の選択が名寄に至る過程は何かあるのでしょうが、それが何であれ、2歳から高校卒業まで私も毎日見ていた北海道の世界の中で彼がどう生きているのか、少々関心が湧いたのは嘘ではありません。勿論、この作品はドキュメンタリーではありませんから、彼のリアルな名寄での生活が描かれるかどうか知りませんでしたが、少なくとも、ミッキー・カーチスが拘りを持つ現地の風景が登場するのではないかと思えたのでした。

 私は北海道で育っていますが、北海道の中で行ったことのある場所は非常に限られていて、道東を中心とする北海道の東半分全体も稚内を含む旭川より北のエリアも、日高などの南のエリアも全く行ったことがありません。名寄も一度も行ったことがありませんが、大きな括りとして現地の以前のスローガンである「試される大地」である北海道の地方都市の風景は道外のそれとは或る程度異なるものとしての特徴を共有しているように私は感じています。(だからこそ、こうした北海道の地方都市への道外からの移住者がそれなりには存在するのでしょう。)

■紹介文の「カーチスが歌う主題歌の作曲を細野晴臣」にも関心が少々湧いたこと。

 ミッキー・カーチスはこれが最後の映画出演になるかもと考えたとパンフに書かれているのを後で読みましたが、同様に細野晴臣の方も今後多くの作品が出るとは少々考えにくい年齢になっているように思えます。私は特にファンでもありませんが、細野晴臣の作品群が優れたものであるとは認識しています。彼がわざわざミッキー・カーチスからの依頼に応じる形で作った曲を聞いてみる価値があるかなと思えました。

 シアターには私以外に女性客が3人と男性客が2人いました。ネットに拠れば182席の比較的大型のシアターにこの人数ですのでかなり閑散としています。女性は単独客が1人と2人連れが1組で、全員20代から30代前半までに収まっていそうな若い年齢層でした。一方、男性の方は1人は私より若いものの40代ぐらい、もう1人は私より上で70代ぐらいに見えました。

 観てみて映画.comの紹介文では大まかにしか記述されていない物語設定に、少々無理を最初に感じました。

例えば、こうした事柄です。

▲運命屋はオカミの部署であること
 作品タイトルは「運命屋」なのですが、驚くべきことに、どうもこの運命屋は名寄市役所の一部署である「運命課」で働く職員個々人を指すということのようなのです。現実に、準主役級の「運命屋」の女性は名寄市の他の死を迎える人々をも担当しています。つまり、行政の仕事として運命を選ばせるという作業をしているのです。
 設定としては『死神の精度』の死神が人々の死を7日間の調査で見極める形に近いですし、往年のコミックの名作『死神くん』にも同様の設定があります。しかし、オカミが行政の作業として事を為しているという切り口で見ると、(かなりシリアスなエピソードが多く、この作品の名寄の大自然とそこで生きる人々のイメージからは乖離していますが、)『イキガミ』が酷似しているとも言えます。
 ただ、オカミの部署としての作業となると、国民全体にそのサービスを提供する必要が出て、名寄市では何とかほんの数人で回せる仕事であっても、全国単位ではこうした職員がとんでもない数必要になることになり、それが死に向かう個々人に対してこの作品で描かれるような作業を行なっていると考えるのはかなり無理があります。
 この制度を1憶数千万人の日本人全体に行き渡らせるのなら、マイナンバーカードどころではないICT技術による効率化などを図らなければならくなるのではないかとハラハラしてしまいます。

▲延命できるメカニズムが分からないこと。
 元々この作品で死を迎える人々に迫られる選択がなぜそうなっているのかは全く分かりませんが、それはファンタジー的な物語のお約束設定として無視することとしても尚、分からないメカニズムがあります。選択肢の記憶を消去する方法は脳に作用する特別な匂いを嗅がせることで実現するという説明が複数回劇中で為されますが、記憶を消去するとなぜ延命できるのかのメカニズムはよく分からないままに感じました。(何か説明があったのかもしれませんので、私が観逃し聞き逃しをしているだけかもしれませんが…。)

▲延命の効果がよく分からないこと。
 延命の選択をすると、その後、どれほどの期間延命されるのかがよく分かりません。折角延命を選んでも一週間後に死ぬのと三年後に死ぬのでは大分話が違いそうです。また次の死のタイミングにはまた延命屋が現れるのかどうかもよく分からないままです。
 少なくとも私が同じ選択を迫られたら、こうした点もきっちり聞きこまないと判断ができないと思うでしょう。

▲選択の該当者についても疑問が残ること。
 劇中で観る限り、死が迫ってきた人間にその7日前の段階で運命屋が訪れ、その7日目の期限の時に運命屋が最終的に現れて選択を迫り、延命を望む者には特殊な匂いを嗅がせて記憶を消去する作業を行ないます。この死の形が交通事故などの不慮の一瞬で終わるようなものであった場合、運命屋はその死に行く人物からどうやって選択の判断を聞き出し、仮にそれが延命だった場合、どうやってそれをやり遂げるのかが全く分かりません。
 例えば、トラックに轢かれて死ぬことになっている人物が轢かれそうになった刹那、運命屋が現れて、「どうする?」と尋ねるというのは、どう考えても無理があります。かと言って、そういう死の形の人物達には、先に死の形もセットで「7日後にトラックに轢かれて無残に死ぬことになるけど、最愛の人の記憶と引き換えに死なずに済ませることができる」と告げることになるなら、その対象者は常識的に、7日目に地下壕に潜むなどして事故を避けようとしそうに思えます。
 劇中で描かれるのは運命屋が対処しやすい形の穏やかな死を迎える人々ばかりなのですが、そうではない人々の死はどのように扱われることになるのかが、少なくとも私には分からないままでした。

▲失われる記憶の領域は具体的にどうなるのかもよく分からないこと。
 上項と関連していますが、例えば、ミッキー・カーチス演じる時雨奏(しぐれ・かなで)は、先に逝った愛妻に捧げる大事な歌があり、それを自分がオーナーであるライブハウス的な建物で開く毎年のライブで歌うことになっていますが、そのライブが2週間ほど先、しかしその前に死の選択肢が迫る7日目が来るという状況に追い込まれてしまいます。死を選べばライブそのものができなくなります。しかし、反対に妻の記憶を失う代償に延命ができたとして、その歌は歌えるのか…という問題が発生するのです。ただ、歌さえも全く思い出せなくなるということを言っているのか、その大切な歌を歌えるけれども全く気持ちが込められなくなって、ただのカラオケで歌う流行の曲のような位置付けになるということなのか、その辺の説明は特になく、単純に決断を迫られるのです。
 記憶されている事柄は無意識の中で様々なつながりを持っていることが知られています。だとすると、愛する人の記憶が欠落すると、例えば昔のPCでウィンドウズからアウトルック・エクスプレスをデリートすると、他のマイクロソフト社のソフトも動かなくなるような、そんな影響を他の記憶にも及ぼすことが疑われて然るべきであるように思えます。私なら、具体的に何が失われるのかをこれまたきっちり聞きこんでから選択したくなると思えます。

 こうした疑問が何となく意識にまとわりついて離れなくなってくる傍らで短い尺の物語はどんどん進み、時雨奏以外の2人の事例が登場します。「大好きな孫の記憶を失ってまで生き永らえたいとは思わない」と決然と言って死を選ぶ老女。娘の記憶を失っても生きてそこに居ることを選ぶ中年男。これら二人は二つの選択肢の結果をこの作品が紹介して見せてくれる内容となっていてコントラストを成していると考えられますが、見た印象はどちらも「人生」にせよ「大切な記憶」にせよ、理不尽に奪われた結果の人々の姿と言う意味で共通して見えます。

 後者の中年男は甲本雅裕が演じています。(或る意味ミッキー・カーチス同様ですが)私は彼を多々いろいろな作品で見ていたはずですが『どうする家康』の中の家康の忠臣を演じた彼が非常に印象に残り、認識ができるようになりました。(家康の甲冑具足をつけて身代わりになって討ち死にするのが最期ですが、それまでの忠臣ぶりや一揆の際に離反したことを乗り越えて忠義を尽くす積み重ねがあってのこの「最期」なので泣かせます。)それを見ている最中に彼がコメディアンに成り切れないような感じの不発感漂う『甲殻不動戦記 ロボサン』をDVDで全話観てしまいかなり残念に思っていました。(不発感の原因は彼の演技にある訳ではないことをわかってはいるのですが、かなり観ていて辛い作品でした。)そこで本作の彼を観て、ほっと胸を撫で下ろすような気分になりました。

 前者の老女は竹江維子という私が全く知らない女優が演じています。ただ先述の甲本雅裕と同様にたった1シーンの登場ですが、孫との関係性と思い出の中に生きる老婆の心境を観る者に突き付けてきます。私は『人魚の眠る家』の松坂慶子を思い出しました。彼女は『人魚の眠る家』で自分の孫である幼女をプールに連れて行き、ちょっと目を離した隙に溺れさせ、植物人間化させてしまった後悔に苛まれる祖母の役です。感想にはこう書いています。

「しかし、その影も霞むほどに、この作品で私に強い印象を焼き付けたのは幼女の祖母を演じる松坂慶子です。彼女は母方の祖母で、幼女を他の自分の孫二人とプールに連れて行き、ほんの一瞬の目を離したすきに実質的に幼女を“溺死”させてしまう役柄です。病院に離婚寸前だった仮面夫婦の両親が駆け付けた時の彼女の慟哭は凄まじく、自分の孫を(事実上)殺してしまった悔恨と、幼女の母である娘に対する謝罪のしようもない呵責は、シアター内を簡単に呑み込んでしまったように思います。
『ごめんなさい。こんなことなら私が死ねばよかった。私の命なんて代わりに幾らでもあげるのに』という叫び悶える松坂慶子の姿は胸を打ちます。」

 本作において竹江維子の老女はただ病院のベッドで運命屋と会話してそのまま死を選ぶだけの場面しかないにもかかわらず、『人魚の眠る家』の松坂慶子が自らの命と引き換えにさえしたいと望んだ孫の存在をまるまる想起させるほど、訴求力あるシーンを創り上げているのです。

 これら二人の事例が、先述のような細かな疑問を吹き飛ばすぐらいの静かな迫力を以て展開されますが、先述のような疑問が無ければその力はもっと増して観客の心を鷲掴みにできたのではないかとも思えます。

 そんな中で究極の選択をミッキー・カーチスの時雨奏が迫られる番が訪れます。それまでの間に運命屋は毎日彼を訪れ、亡き妻への想いを紐解いたり、彼を囲む自然の中の美しい情景などを共有して行き、彼が心の整理をするプロセスに立ち会います。そして、時雨奏は観客の(少なくとも私の)予想に反して、愛妻の記憶を失っても生き続けることを選択します。愛妻への想いが失われたとしても、愛妻に捧げる歌を歌う人間として、存在し続けたいという考えによる選択でした。敢えて言うと、その歌を再生する機械になるのと同じと言えるかもしれません。

 なるほどなぁと予想に反する選択の物語展開を観客の私が納得する間もなく、時雨奏は愛妻の記憶を失います。ライブの日、ライブ会場に現れなかった彼を運命屋が訪ねると、彼は運命屋に「1曲聞いてほしい」と例の歌をフルコーラス歌います。すると、本来失ったはずの愛妻の記憶が蘇ってくるのでした。驚く運命屋に「歌って言うものはこういうもんだ」的なことをあっさりと笑顔で時雨奏は答えるのでした。

 この映画はミッキー・カーチスを描くために創られたような位置付けの作品です。確かに飄々としつつも温かいと、パンフレットで皆が一様に評しているミッキー・カーチスの人柄を考えると自然なオチです。しかし、そんなに簡単に記憶が戻ってしまうのなら、今までの2人の人間の尊厳を掛けた重い選択の描写は何だったのかという風にも思えますし、今までのミッキー・カーチスの心の整理のプロセスとそこで蓄積された想いは何だったのかという風にも思え、肩透かし感が漂うのも否めません。

 考えてみると、冒頭の広い野に向かうベンチに佇む時雨奏に現れた運命屋が初めて話しかけるシーンがありますが、市役所職員の運命屋は名乗りもせず、耳の遠い時雨奏に近づいて、「あなたは七日後に死ぬことになっています」などと言いだすのです。名寄市の人口は2万人余りの筈ですから、市のあちこちを訪ねて回る外勤職員の運命屋は小さなコミュニティで顔が知られていても不思議ないという田舎のリアルな設定なのかと思ったらそうではありませんでした。彼女の言葉に時雨奏は「宗教の勧誘ならお断り」のような非常に現実的で都会的な反応をしています。しかし、この反応から考えると、まるで彼の周囲には運命屋が訪れるような老人が全くいないかの如くです。何かこうしたところにも少々設定のチグハグさを感じてしまいます。折角の奥深い物語の興を削ぐ面に私には思えます。

 映画のラスト寸前、歌われる歌は細野晴臣が作った曲で、あの味わいあるミッキー・カーチスのアカペラで聞くことができます。それがミッキー・カーチスが本当に所有している納屋を改造した(監督が撮影後に原状回復するのが惜しいと感じたとパンフに書かれている)セットで、ミッキー・カーチスお気に入りの髑髏のあしらわれたロッキング・チェア(のように見える)椅子にかけたミッキー・カーチスが歌い上げるのです。暗がりの部屋にまるでフェルメールの絵画のように光が差し込む様は、サムネイルの切り取りからは窺うことができない味わいがあります。

 名寄の自然と人間社会の汽水域のような場面群とカーチス演じる時雨奏の逡巡と決心。2例登場する人々の重大な決断。特に大切な孫を忘れていきていたいと思わないという老女は泣かせます。そのような描くべき要素をきっちり短い尺に入れ込んだ佳作だと思います。少々掟破りで肩透かしのエンディングと疑問が色々湧いて止まらない物語設定には難があるように感じますが、DVDが出るのなら間違いなく買いです。

追記:
 運命屋を演じた女優は広山詞葉といい、この作品のプロデューサーでもあります。パンフに拠れば、彼女の「ミッキーさんで映画を撮りたいんです」という一言からこの作品制作は始まったとされています。その彼女が上映終了後のロビーで他の観客(若しくは業界的関係者)と写真を撮っていたりしていたので、その後、パンフの彼女のページにサインを貰って来ました。曰く、彼女とミッキー・カーチスの関係は深く、落語の師匠と弟子とのことで、彼女の本作についての思い入れもじかに聞くことができたように思います。
 ただ女優としての彼女を私は全く知らなかったので、帰宅後ウィキで調べたところ、私がかなりハマっているSPECシリーズに何度も登場している看護師を演じていた女優であることが分かりました。言われてみると、「ああ。本当にそうだ」という感じですが、鑑賞中でも、本人と話している際でも、全く連想さえできませんでした。
 ネットには『SICK’S 覇乃抄』の彼女について、
「看護師の那須茄子はもともと腕っぷしが強かったですが、今回それが炸裂!御厨を無理やり退院させようとする高座に、『何しとんじゃい、われ! こっち来い、こら!!』と喚いて足蹴りに肘パンチをくらわします。」
 などと書かれていて、確かにDVDを観直すまでもなく、私も記憶しているシーンでした。(ちなみに私はこの看護師に役名があることを初めて知りました。苗字も「なす」ですし、下の名前も「なす」の筈ですが、人名としては「なす・なこ」となっているようです。看護師でナースなので付けられた名だと思われます。かなり好い加減で笑えます。)
 ウィキを読んでもう一つ驚いたのは、彼女の年齢です。ウィキに拠れば実年齢39歳とあります。劇中の彼女はそれより若々しく見え、ロビーの彼女は年金老人の私には20代後半ぐらいに見えました。この『脱兎見!東京キネマ』には観客の年齢層をざっくり記録するのが常になっていますが、今回の彼女のウィキを見て「げっ!ダメだ。年齢の見た目判断能力が全然ダメだ」と気づかされました。

追記2:
 彼女と一緒に居た関係者の男性が、私が「ブログに感想をアップする」という話をしたら、ブログの名前は何と言うのかと尋ねてくれました。過去色々な作品の関係者に劇場でサインをしてもらったことがありますが、こちらに関心を以て尋ねてきた人物はいなかったように記憶します。
 先日観た『怪人の偽証 冨樫興信所事件簿』の際にもその場にいた関係者一同皆腰が低い態度だったのに驚かされましたが、今回はそれを上回る「傾聴」的な姿勢にこの作品制作に対する真摯な姿勢が感じ取れました。通常よりも鑑賞から記事アップに時間がかかってしまいましたが、いつかこの記事を読んで下さるのかもしれません。

追記3:
 ふと開かれたタブで広山詞葉の数ある画像を観たら、私が結構好きな作品の『アストラル・アブノーマル鈴木さん』があったので、何だろうと調べてみたら、なんと彼女は主人公松本穂香を訪ねてくるテレビ局のディレクターだったのでした。彼女のウィキにも現時点で載っていない出演作でした。先述のSPECシリーズの看護師同様、かなり鮮明に私の記憶に残っている存在の中に彼女が紛れ込んでいたことに驚愕せざるを得ません。