10月10日の封切から3週間以上経った日曜日の夕方6時10分の回を、実質的にJR新宿駅に隣接しているミニシアターで観て来ました。この劇場は比較的最近『水の中で深呼吸』と『サタンがおまえを待っている』を観た映画館で、その時点で来年1月の閉館が発表されています。その2作がこの映画館での映画の見納めかと思っていましたが、本作を観るのにまた赴いてしまいました。実際にはぜひ観たいと思っている『消滅世界』もこの館で上映されるようなんで、少なくとももう1回はここに来る可能性があります。
この作品はたった45分しかないマイナーな映画です。タイトルは「そよこのしょうどう」と読みます。特に何かのプロモーションがなされている訳でもありませんし、鑑賞日時点で全国でもたった3館でしか上映されていません。公開当初はもう少々多かった可能性はありますが、大きな違いではないのではないかと思えます。都内ではこの館と下北沢の以前赴いて『ナニカ…』と『6人ぼっち』の2作を連続で観た超ミニシアターで上映されていますが、下北沢の方はどちらかというと不定期上映というような位置付けで、毎日上映されている訳でもなく、館の上映予定を見る限りその上映体制ももうすぐ終わりを告げるように見えます。東京都以外の残る1館は栃木の館です。
この館でもそのウェブサイトを見ると、「ご好評につき延長決定!」となっているものの、次の木曜日が最終上映日で、1日1回しか上映されていませんから、鑑賞日も含めて5回しか上映の機会が残されていないことになります。それでさえ、「延長」の結果ですから、当初の予定は封切3週間(若しくは2週間)で終わりという感じだったのでしょう。
私がこの作品を観ることにした理由はあまり明確ではありません。一つは名作の『市子』と監督が同じであるということかと思います。そして、メジャー作品がどうしても選択肢に上がりがちな中で、上述のようなマイナーさも関心が湧いた一つの理由です。あとは、先日観た『逆火』がヤングケアラーを扱っていて、余りに不発な作品で、全く現実感がなく、(実際に劇中でもヤングケアラーとは名ばかりで介護放棄の実態が暴かれる構成でしたが、)見るべきものがほぼないぐらいの作品でしたので、この分野に関わる作品で何かを(或る意味、口直し的に)観ておきたいと思ったことも一理由です。
映画.comの紹介文章は以下のようになっていますが、私はこの文章さえよく読まず、何となくヤングケアラーの問題を扱った短い尺の映画という認識のまま上映館に赴いています。
[以下引用↓]
「市子」の戸田彬弘監督が手がけたオリジナルの中編作品。生活保護の水際作戦やヤングケアラーなどの社会問題をテーマに、絶望的な環境での生活を強いられる若者に焦点を当てて描いた。
四肢麻痺と失明を抱える父・保と暮らす19歳の爽子は、絵を学びたいという夢を内に秘めたまま、介護と生活費のために日々を費やしている。生活保護の申請も水際作戦で通らず、社会から孤立していく中、唯一頼りにしていた訪問介護士が交代となり、不安を募らせる。ある日、ケースワーカーの訪問をきっかけに、爽子の生活はさらに不安定になり、心のバランスを崩していく。そんな中、新しい介護士・さとが現れるが、抑えきれない衝動によって、爽子は取り返しのつかない行動へと駆り立てられていく。
「市子」も手がけた制作会社「チーズfilm」と、脚本家・野島伸司が総合監修を務める俳優養成所「ポーラスター東京アカデミー」がタッグを組み、これからが期待される俳優を主演に映画を制作するプロジェクト「B.A.P(Boost Actor Project)」の第1弾作品。主人公・園田爽子役には新人の古澤メイを抜てきし、キーパーソンとなる介護士の桐谷さと役を小川黎がオーディションで射止めた。
[以上引用↑]
シアターに入ると、私以外に17人の観客がいました。三々五々現れた感じですが、シアターが暗くなってから入ってくる観客はいませんでした。単独客が多く、2人連れは2組だけです。どちらも20代男女の組み合わせに見えましたが、片方は日本人ですが、もう1組の方は東南アジア系の2人に見えました。外見で識別がつきにくい中国人・韓国人は別にして、邦画を見ていることが多いことも相俟って、明らかに外国人と分かる観客を目にすることは、東京であってもあまり多くありません。本作は全編に英語字幕が入っているので、それが外国人動員につながっているのかもしれません。
この2組4人以外は全員単独客でした。全体で見ると女性は4人か5人ぐらいだったかと思います。3分の2は男性ということになります。年齢層は若い方は先述の通り20代から始まっていますが、高齢の方は私が最高齢かと思えるぐらいに、あまり多くありませんでした。
観てみると、大分当初想定していた物語と異なりました。訪問介護の問題になるかと思って、私には結構不発作品だった『ロストケア』の世界観の延長で、介護をする家族の視点が描かれているのかと思いましたが、どうもそうではありません。役所の社会福祉課の担当者が爽子にセックスを迫り強姦に至るプロセスが山場になっていて、寧ろ『悪い夏』と対比した方が良さそうな展開に思えました。
勿論『悪い夏』は生活保護の受給者の方が不正受給を画策し、さらに、所謂生活保護ビジネスの運営のために、どんどんホームレスに対する生活保護支給を認めさせるという構図だったので、役所の担当者の方がハニートラップに引っ掛かった被害者になっています。(ただし、そうした被害者になったのは『悪い夏』の主人公の担当者で、彼の前任者は本作の社会福祉課担当者のように河合優実演じる若いシンママにセックスを強要しています。これが背後のチンピラにばれて、前任者は揺すられ退職に至り、主人公が引き継いで改めてハニトラに陥れられる物語展開です。)
このように見ると、役所の社会福祉課の人々はどうも業務上の精神的ストレスの割に報酬が少ないとか、割に合わない仕事をしているという認識があるのか、あわよくば自分の立場を利用してセックスで憂さ晴らしをしたくなるというように見えます。
物語が始まると比較的すぐ、社会福祉課の窓口で数度目の申請に現れた爽子が後に自分をレイプする担当者から邪険にあしらわれている場面が展開します。水際作戦で厳正に審査しなくてはならない担当者の役割は分かるものの、横柄な態度は目に余るレベルで、散々やり取りをさせた後に障害福祉課に盥回しにしようとさえします。
爽子はここで地団太を踏むような動作をカウンターに向かいしています。パンフレットでは軽度のADHDを患っていると書かれていますが、劇中ではそのようなことが明確に示されている場面がなかったように記憶します。あれだけ横柄な態度を取られたら、ADHDを患っていなくても、怒鳴ったりするなど、所謂カスハラ的態度に打って出る人間がいても不思議ないように感じられます。
爽子の居る街は坂の多い小さな港町で、爽子の学歴はよく分かりません(多分高卒で止まっている感じです。)が、干物工場でバイトのようですが、働いています。ここでもADHDを表現しているのかもしれませんが、物語の中の様子では、爽子は過去にも何度か無断欠勤しているようで、かなりいずらい職場になっています。ただこの無断欠勤も、せめて連絡をすべきというのは正論で、私もそのように思いますが、単にADHDのせいと見るのはかなり無理がありそうな気がします。それぐらい、父親の様子は目が離せず、手がかかる状態だからです。
映画.comの説明にある「頼りにしていた訪問介護士が交代」したことは、タイトルの「爽子の衝動」が爆発する結果になる上での、比較的マイナーな要因、寧ろ、背景要因の一つという感じに見えます。爽子に処女であったかどうかは分かりませんが、爽子は定期的に父の性欲処理まで行っていて、勃起した男性器を扱き、射精させて、掌に受けた精液をそのまま流し台に持って行き、手を洗って流しています。爽子はその一連の作業を無表情にこなしています。訪問介護士が介護作業を行なっている場面はかなり登場するのに、爽子が介護的な作業を行なっている場面は、食事をスプーンで口に運んでいるのと、この射精補助だけです。
母は「いない」とだけ言われていますが、タクシー運転手だった父と爽子の関係性は嘗てかなり良かったようで、壁に貼られた二人のクレヨン画がそれを示しています。その延長線上で、父がほぼほぼ全身麻痺に近い状態の上に失明もした以上、それを介護しなくてはという爽子の判断はそれなりにすんなりされたものではなかったかと思われます。それがすんなりであったが故に、より高度な福祉制度の適用を追求したり、そうした相談に乗る専門職の人間を頼るなどのことが(その知識もなかったということでしょうが)考えられないままに、限界ギリギリの生活が続いていたことになります。
父は障害手当が支給されているということで、爽子のバイト収入も加えると、ギリギリの生活ラインは維持されていたでしょうが、それは先述の「頼りにしていた訪問介護士」の助言や助力、そして爽子の健康で正常な日常維持が前提であったでしょう。それが崩れ始めて少し経ったところから破綻までを描いた物語なのです。
破綻は複合的な背景要因で訪れています。
■頼りにしていた訪問介護士の交代
■何かの理由に拠る爽子の欠勤の累積と職場での居辛さの増大
■生活保護申請の行き詰まり感
■社会福祉課担当者による爽子が絵を学ぶために貯めていた貯金(50万円)の発見
(これを黙認してやるからとセックスを迫られています。)
この最後の項目は、爽子にレイプされる原因を作ってしまった事柄ということになりますし、眼前の父の状況がある限り、自分は自由になれないという残酷な事実を爽子に改めて突き付けたことでもあります。
勿論、本来レイプそのものがあってはならないことですが、少なくともその時点での爽子には、絵を学ぶ貯金を捨てて生活保護を受けるか、その貯金を維持して担当者の意のままにされるかの選択肢しかない状態に思えたはずで、そういう構図に追い込まれてしまったのも、すべては父の存在と言うことがあからさまになったということです。
さらに爽子には許せない事象が発生します。「新しい介護士・さと」は、なぜか口が利けない介護士です。年齢は爽子とあまり変わらなく、爽子よりもさらに細い体型で、いつも俯き加減の外見は、到底介護作業など務まらないように見えます。レイプのショックで何も考えられなくなり、干物工場からの出勤を迫る電話も無視して、港に佇む爽子でした。
彼女がそうしている間に、さとが予定の通り訪問し、爽子のいない家に上がって介護作業を不慣れな手つきで始めます。父が失明しているのとさとがものを言えない設定はこの場面のためだったのかと思わざるを得ないですが、父はさとが爽子だと思って、麻痺した手を何とか動かし、さとの手を自分の性器に持って行き、射精のための作業をせがむのでした。驚いたさとは慌てて手を引込めますが、最後には、それも介護作業の一環と、彼のペニスを扱き始めるのでした。
爽子が帰宅すると、さとが射精させる作業の真っ最中でした。それは爽子が家族だからやっている作業であり、それを父が誰でも良いから頼むことを爽子は許せず、父がただの薄気味悪い障碍者に見えたことでしょう。そんな疎遠の行動をするのに、その人物がまさに爽子を先の見えない地獄のような生活に束縛していることに、とうとう爽子の「衝動」が爆発します。社会福祉課担当者によるレイプと、その担当者が何もなかったかの如く、事務連絡の電話をしてきたり訪問してきたりすることに甘んじなければならないこと。これらが、先程の「■」の項目にさらに強い要因として付け加えられるべきでしょう。
■絵を学ぶ夢を捨てられず、抵抗するも最終的に福祉担当者のレイプの受容
■父のさとへの射精介助の依頼
■福祉担当者からの何食わぬ顔の手続き連絡による絶望
爽子は射精介助をするさとを押しのけ、父の上に馬乗りになり首を強く絞めます。さとが何度か爽子を引き摺り離そうとしますが、爽子は何度も馬乗りになり直しては、首を絞めようとします。そんな中、電話を掛けても「お前、死ねよ!」とヒステリックに叫んで電話を切る爽子に直接書類を手渡すべく福祉担当者が玄関に現れます。爽子は父への暴行を中断し、台所から包丁を取りだし、玄関に向かい福祉担当者に襲いかかります。映画はそこで暗転し、その後は描かれずに終わります。
射精介助の作業が家族や関わる者の絶望の象徴として描かれているように思えます。私がこの作業を明確に認識したのは、一時期凝って読み漁っていた坂爪真吾の著作のうちの『セックスと障害者』や『セックスと超高齢社会 「老後の性」と向き合う』だったと思います。坂爪真吾自身がこの介助行為を目的としたNPO法人の代表者を務めています。しかし、この作業を以前にも映画で観たことがあると思い、考えてみたら『そこのみにて光輝く』でした。以下のように書いています。
[以下抜粋↓]
千夏の父は、脳溢血(だったと思いますが)で寝たきりになり、呂律もまわらない状態ながら、性欲だけは激しく残り、セックスのために妻を呼び続けています。映画の前半でこれに応じる母の姿は『キャタピラー』の寺島しのぶのものに酷似しています。
母は日がなセックスを求められる関係から精神的に追い詰められていき、それを見かねた千夏は手で実の父の射精を促すことにします。これで千夏の日々は、客のみならず、自分の実の父の分まで、性欲処理の作業で埋められていきます。千夏も思いつめ、母を家の外に行かせておいて、性欲処理に当たっている途中から、父の首を絞め、飛び込んできた達夫によって未遂に終わります。
[以上抜粋↑]
この売春婦の千夏を池脇千鶴が演じている名画ですが、千鶴も街を出て好きな男と暮らすというだけのちっぽけな夢を現実の澱の中で叶えることができないでいます。
この映画は確かにヤングケアラーの話ではありますが、福祉行政の歪みとそこに蠢く行政担当者たちの無機的な異常さを描く部分が大きいように思えてなりません。『ケーキの切れない非行少年たち』の著者、宮口幸治は延々とシリーズを続けていますが、第二弾の『どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―』の中で、支援を必要とする人ほど、自分が支援が必要だという認識もなく、仮にそう言う認識を持ったところで、何をどうして良いか分からないため、支援の窓口に現れることがない…といったことを書いています。
映画冒頭の窓口の応対でさえ、左翼系の弁護士のみならず、それ系のプロに依頼すれば、爽子の状況なら明らかに申請は通るだけではなく、担当者を処分せざるを得ないぐらいの結果に至る炎上ネタになるものと思われます。まして、レイプされたなどとなれば、福祉担当者と爽子の立場の構造から、大した証拠もなく、警察は即時に動くと考えられます。
(話題の書『セックスコンプライアンス』を読むと、不同意性交を男性への嫌がらせやハラスメントとして言い募る女性も増えている状況に言及されています。)
しかし、爽子はレイプされても警察に即連絡することもしませんし、鄙びた港町にそうたくさんいるとは思えない弁護士を検索していきなり助言を求めることもしません。そして、歯止めが利かなくなった衝動のままに犯罪者になる道を選んでしまっています。
その意味では、『悪い夏』が極端な行き着く所に行き着いた事例で、そういう状況が起きる前段階に、ハインリッヒの法則よろしく、爽子のような状況が多々発生しているように解釈することもできます。1:29:300で言うなら、『悪い夏』1件の裏に、表面化した爽子のような事例が29件で、父の絞殺にも失敗し、社会福祉課担当者に加害する道を諦め、夢のために社会福祉課担当者に貪られ続ける選択をし諦念の中に生きる爽子のバージョンが300件とか言う感じかもしれません。
45分の尺の中に、複雑なジグソーパズルを押し込んだような作品です。DVDが出るなら買いです。