11月28日の封切から3週間近くの12月中旬の水曜日の午後1時からの回を、JR新宿駅に実質的に隣接しているビルのミニシアターで観て来ました。この館では先月11月に『爽子の衝動』を観て来ました。この館は来月1月12日に閉館予定で、多分、今回がこの館に来る最後だと思われます。非常にマイナーな作品だと言わざるを得ません。上映しているのは来月閉館予定のこの館と、都内では下北沢の2館だけです。(下北沢は嘗て『ナニカ…』と『6人ぼっち』を観たローカル感・手作り感満載な館です。)この2つの館の各々で、1日1回しか上映していません。
私がこの作品を観に行くことにしたきっかけは概ね3点あると思っています。1つは男女関係や夫婦関係、家族関係などの変化を占う一つの材料になるかという期待です。少子化などの議論でも、私は巷間でよく言われるような、貧困化だの経済的不安だのが結婚につながらず、結婚が起きにくくなっている以上、子供は生まれないという理屈には、全く賛同していません。社会全体が将来に強い不安を抱くような時代は過去にも山ほどありますが、人口が激減した事例は殆ど見当たりません。貧困をあげるなら、食うにも困る人々が山ほどいても人口が増えている国や地域は世界でみると幾らでも見つかります。そんな中で、少子化などの問題も含めて幾つかの社会問題は成人男女(それも特に生殖可能な年齢枠の中の成人男女)の関係性の時代的遷移によって発生していると思っています。そうした考えの一助にこの作品の内容がなればという期待がありました。
2つ目は、『王様のブランチ』でチラ見したことがある有名著者について、その作品を知ってみたいということです。小説を読むことがかなり苦手な私は、小説の内容を2時間程度の映画で一気に理解できるというのは非常に助かるインプットの選択肢です。
3つ目は、主演女優の蒔田彩珠です。特段よく知っている訳でもファンである訳でもありませんが、以前、TVerで観ていたドラマ『御上先生』はまあまあ刺激的な物語でしたが、その中で彼女の役割・存在感はかなり大きく、印象に残っていましたが、同作に登場した高石あかりなどに比べて、彼女の登場作品は非常に限られているように思えていたのでした。そんな中で彼女がこの作品に主演していることを『御上先生』完結から少々経った時点で知ったのでした。私は『御上先生』を吉岡里帆狙いで観ていましたが、蒔田彩珠の発見はそれなりに記憶に残る事実でした。
本作の概要は、映画.comにはこのように書かれています。
[以下引用]
「性」の消えゆく世界で激動する「恋愛」「結婚」「家族」のあり方に翻弄される若者たちを描いた、芥川賞受賞作家・村田沙耶香による同名ベストセラー小説を実写映画化。
人工授精で子どもを産むことが定着した世界。夫婦間の性行為はタブーとされ、恋や性愛の対象は、家庭外の恋人か2次元キャラであることが常識となっていた。そんな世界で、両親が愛し合った末に生まれた雨音は、母親に嫌悪感を抱いていた。自身の結婚生活では家庭に性愛を持ち込まず、夫以外の人やキャラクターを相手に恋愛をする雨音だったが、実験都市・楽園(エデン)に夫とともに移住したことで、彼女にとっての正常な日々は一変する。
「朝が来る」の蒔田彩珠が雨音役で主演を務め、雨音の夫・朔役で栁俊太郎、雨音の親友・樹里役で恒松祐里、雨音の高校の同級生・水内役で結木滉星、樹里の夫・水人役で富田健太郎、雨音の元夫・正信役で清水尚弥が共演。国内外のさまざまなアーティストのMVやライブ映像、CM、ショートフィルムなどを手がけてきた気鋭の映像ディレクター・川村誠が長編映画初監督を務め、繊細かつ耽美な世界観で描き出す。
2025年製作/115分/日本
配給:ナカチカピクチャーズ
劇場公開日:2025年11月28日
[以上引用]
シアターに入ると、30人超の観客が居ました。テーマ性からかと思いますし、原作人気からということかと思いますが、女性が6割以上を占めていたと思います。年齢はかなり広範で、20代から70代まで大きな偏りがない状態に見えました。たった2組の2人連れを除き、他は全員単独客だったと記憶します。2人連れ2組は両方とも20代の男女の組み合わせでした。両者相応の新密度の高さに見受けられました。
観てみると何かおかしな設定が妙に気になる内容でした。人々が性欲を失っていく、ないしは、セックスによる自然妊娠・自然出産にまつわる、不妊や流産、障碍児の問題など各種のリスクを回避しようとすることと相俟って、コミュニケーション不全のために、セックスを人々がしなくなっていく。そんなことかと思っていましたが、どうもそうでもありませんでした。
劇中の社会では、「夫婦間のセックスは近親相姦だ」という(実社会で私もたまに聞くことはあるものの)全く同意もできなければ共感もできない概念が世の中に広がった状態になっています。それで、セックスを人々がしたがらなくなったのかと思えばそうではなく、セックスそのものは婚外で行なうという常識になっているのです。その子作りのためのセックスをしない結婚をなぜか人々は当たり前と思って、それなりに自然に結婚をするという習慣が根付いたままになっています。
劇中のこの設定にどうも共感できず、違和感が最初から最後まで残ります。セックスは外部に頼り、子作りは体外受精で行ない、家族の単位の中で育てる。それが劇中の家族の姿です。それならなぜ結婚しなくてはならないのかと考えざるを得ません。現実の社会の流れでみると、そんな程度の結婚の目的なら、事実婚や通い婚、さらに子供ができたら、表面上はシングル・ペアレント体制で育てつつも、実際にはパートナーが当事者間の調整結果に基づいて育児を行なっていくということで、余程柔軟で多様な答えが出るように思えますし、現実の社会はその方向に進んでいるように私には思えるのです。
ところが劇中の社会は、一気に劇的に異なる社会システムの実験を始めます。エデンと呼ばれる実験都市(劇中では当初千葉に作られ、その後、九州にも拡大されています。)が創られ、そこに入る人々はすべての婚姻関係を解消し、ランダムに組み合わされた男女の精子と卵子で人工授精を行ない、実験都市全体の大人が(男女関係なく)「お母さん」、実験都市全体の子供が「子どもちゃん」と呼ばれ、大人全員と子供全員が親子関係という、古代ギリシャ社会のような、集団が全体で疑似的繁殖生物1体を構成しているとでもいうような形になっています。
エデンの中ではセックスは有り得ないことになっているようで、性欲処理コーナーには人々が行列を作っています。性欲処理を行なって人々の自由意思によるセックスを行なう関係を回避し、無機的な「大人全員親、児童全員子供」という関係を徹底して維持しようとしています。
蒔田彩珠演じる主人公の雨音(あまね)は、最初の結婚の夫にセックスを迫られ、激しく拒絶し、現実の現代社会でも成立する夫婦間の不同意性交が事件化寸前まで問題となります。再婚相手は、世の中的に当たり前のセックスを家に持ち込まない夫でした。夫にはセックス三昧の彼女が当り前に存在していますが、精神的に無理が来て自殺を試み、彼女は去ってしまいます。そんな中で、行為としてのセックスはしないという呪縛の中で、主人公の夫婦はエデンに入りつつも、自分達の子供を作ろうというよく分からない企みを抱き、エデンに入所し、規則に従って婚姻関係を解消します。
並行して男性も人口の子宮を体内に装着することで体外受精した卵を育てることができるようになっていて、主人公達のうちの夫の方が、男性の出産経験者第一号となります。この子供は裏で手を回した結果、エデンとしてはルール違反の元々夫婦二人の受精卵です。同じく二人の受精卵を妻にも着床させていますが、そちらは流産してしまっています。そこから(元々入所時に離婚はしていますから)二人の間に蟠りが生じ、結果的に二人は本来のエデンの中の大人のように、夫婦でもなければ性的結びつきもなく、個々バラバラの受精卵の苗床として生きていくようになるはずでした。
ところが、エデンの中に住みつつ妻だった方の女性は、(私の理解が正しいかどうか、少々怪しい感じを覚えていますが)夫が生んだと思われる子供が青年へと育った14年後の世界で、エデンの中に居てエデンの監視から逃れつつ、青年と近親相姦に向かっていくという結末で終わります。つまり、この物語の言いたいことは、結局、人間の性(さが)から人間は逃れられず、個人対個人の一定のつながり、それも相手を自分のものとして独占するような繋がりということですが、それを掻き消すことはできないという事実であるようです。そうでなければ、主人公の妻が自分の血の繋がった息子を(この時代では忌避されつつある)リアル・セックスの相手に選ぶことや、夫の方の愛人がセックスは重ねても自分のものにならない主人公「夫」との関係の空しさに耐えられず、自殺を試みることなどの説明がつきません。
先述の通りですが、どうも、世の中の流れに比べて不自然な設定の物語に見えて仕方がありません。劇中では、夫婦は「家族」という人間的なつながりだけということになり、セックスで子作りをするということが技術的に避けられる状況になって、なぜか人間は性的欲求を家族生活を完全に分離するという形だけがあるべき形として社会に普及しています。そこに結婚の形の多様性が見出せません。
坂爪真吾は2019年の『未来のセックス年表』で、以下のように書いています。
[以下引用]
こうした中で、現行の法律婚を「チェックリスト方式」に分解した方がいい、という提案も出ている。結婚した場合、法律で定められている様々な義務(夫婦同姓、同居・扶助義務、婚姻費用分担義務、日常家事債務の連帯責任、貞操義務、未成年の子の監護義務)と権利(財産分与請求権、相続権)をすべて自動的に負うことになる。そこに選択の余地はない。
しかし、これらの義務を全て選択可能なチェックリスト方式にして、婚姻届を提出する際、パートナーとの話し合いの元に、自分たちが望む義務と権利だけを選べるようにする。
[以上引用]
ここで想定されているのは、結婚の形がオプション設定で多様に変更できる世界観です。著者はこのような形が2050年には実現するだろうと述べています。今の結婚の形に問題があるから、別の固定した結婚の形に以降するとは思えないのです。(勿論、劇中では、婚外恋愛的な人間関係については、同性関係も含まれていれば、男女でもセックスをしない関係性も含まれていますから、そこに多様性の余地を押し込めた社会構造ということなのかもしれませんが、夫婦として作る過程としての単位はかなり固定的です。)
その上で、本作はナマの性欲をどうしても対人間の関係性の中で昇華したい、劇中ではレアであるであろう人々の本能的衝動を、隠しきれず、抑え込めないものとして滲み出させるのです。劇中のそうした人々以外の人々の性欲はどのようなものなのか、非常に疑問に思えてなりません。その上で、物語はそうした劇中の全体的社会観を描くことなく、主人公「妻」の血の繋がりやナマのセックスへの執着を結末に据えて終っているのです。よく分かりません。世の中で言われる「多様性」の尊重というのは、全くの絵空事であるかのようです。
私は人間が遺伝子に書き込まれた百万年前ぐらいの人類の洞窟生活に最適化された行動パターンや生殖パターンによって今尚強固に支配されていると思っています。自分の遺伝子を残して維持して行こうとするのは生物として当たり前ですから、それなりに大きなグループ全体で全員が親で全部の子供を分け隔てなく共有するというのは、ほぼ無理であろうと思っています。グループが小さく、そこにいる子供たちが、特定の選民的な階層であったり、逆に親がいない保護されるべき状況であるのなら、成立するような特殊な形態であると思っています。エデンは劇中で見る限り、サイズが大きすぎるように見えます。
このように考える時、劇中で示される2パターンの男女関係性(セックスを内包しない男女の家族(=夫婦)と呼ばれる関係性と集団で親と子供を識別しない関係性)の両方に不自然さが強く感じられるのです。画像はスタイリッシュで近未来表現として変な特撮もない中で、それなりに優れモノでしたし、蒔田彩珠はそれなりに奮戦していましたが、どうも全体構成・物語設定などなどで違和感しか湧かない作品だったので、DVDは不要です。