『「桐島です」』

 7月4日の封切から3週間弱経った木曜日の夜。老舗新宿武蔵野館の午後7時20分の回を観て来ました。ついこの間、『YOUNG&FINE』を観たばかりの場所です。けれども『YOUNG&FINE』を観た際にこの作品を知った訳ではなく、私は結構この作品を前から観たいと思っていました。かなり最近の「半世紀に及ぶ逃亡劇の末に亡くなった人物」を主人公にした映画であることと、その人物に主演の毎熊克哉がかなり似せた風貌を実現していて、それをドアップにした映画ポスターのインパクトは私には強烈であったことが、この映画に対する関心の主要因だと思っています。街でついこの間まであちこちに貼られていたポスターに、これほど似た風貌を創り上げたこと自体が驚きです。(この配役の妙そのものが驚きに値するものと思います。)

 この映画館だけの状況を見ると1日4回もの上映を行なっている好評作ですが、外に目を向けると都内でも上映館はたった2館で、もう1館は吉祥寺ですが、そちらでは1日1回しか上映をしていません。関東圏に拡大しても千葉県2館、栃木県1館、群馬県1館です。この映画の舞台となる神奈川県ではこの時点で1館も上映館がありません。東京都以外の関東圏の映画館全館で1日1回の上映になっていますので、好評であるとは到底思えない状況です。

 シアターには最終的に25人ぐらいの観客がいました。男性が15人以上は居たと思います。男性は概ね高齢者と言う感じで、私でも若い方のように感じられました。10人弱の女性客は20代から30代が3人ぐらいいたように思いますが、残りは男性同様の高齢者と言う感じだったと記憶します。2組の男女カップル客を除いて、残りは全部単独客でした。2組の2人連れは片方がかなり高齢の2人で、もう片方は40代ぐらいの2人に見えました。やはりモチーフに対する共感や郷愁、単なる関心と言う感じの鑑賞動機が大きい作品なのであろうと思われます。

 観てみると、色々なことに考え至らされる作品でした。105分の尺も丁度良い感じに思えました。映画.comの紹介文には以下のように書かれています。

[以下引用↓]

1970年代に起こった連続企業爆破事件の指名手配犯で、約半世紀におよぶ逃亡生活の末に病死した桐島聡の人生を映画化。2024年1月に末期の胃がんのため、神奈川県内の病院に入院していることが判明した桐島聡は、偽名で逃亡生活を送っていたものの「最期は本名で迎えたい」と素性を明かし、大きく報道されたが、その3日後に他界。数奇な道のりを歩んだ桐島聡の軌跡を、「夜明けまでバス停で」の高橋伴明監督のメガホンで描く。

1970年代、高度経済成長の裏で社会不安が渦巻く日本。反日武装戦線「狼」の活動に共鳴した大学生の桐島聡は、組織と行動を共にする。しかし、1974年の三菱重工爆破事件に関わり、多数の犠牲者を出してしまったことで、深い葛藤に苛まれる。組織が壊滅状態となり、指名手配された桐島は偽名を使い逃亡生活をつづけ、ある工務店で住み込みの職を得る。ようやく静かな生活を手にした桐島は、ライブハウスで知り合った歌手キーナが歌う「時代遅れ」に心を動かされ、相思相愛の関係となるが……。

[以上引用↑]

 この文章にある『夜明けまでバス停で』を、私は劇場で観たものの非常にピント外れで、本来のモチーフになった事件が世の中に与えた衝撃から全く離れた物語に加工されており、おまけにそれを政治のせいにして国会議事堂爆破に繋げるという、全く奇天烈にして珍妙な作品でした。その監督と脚本が同じ組み合わせで今回の作品ができていることをパンフを読んで知りました。

 厳密に言うと監督は同じで、脚本は監督の高橋伴明と梶原阿貴と言う人物の共作と言うことになっていて、この梶原阿貴と言う人物が『夜明けまでバス停で』の脚本を担当しています。『夜明けまでバス停で』も事件発生から2年弱しか経たない段階での映画公開でしたが、今回はさらにその記録を短縮することになっています。『夜明けまで…』の方は殺害された女性の細かい情報が色々と分かる状態であったはずですが、それらは殆ど無視されている作品になっていて、どういう理由からそうしたのか分かりませんが、少なくとも私にはそれがこの作品を駄作にしてしまった最大の理由に思えています。

 今回のケースでは、社会に溶け込んでいたとはいえ、約50年に及ぶ隠遁の生活ですから、あまり本人に関わる情報は出て来なかったはずです。特に桐島が死の直前まで働いていた工務店勤務に入るまでは、職を転々としていますし、定住と言える状況でもなく、大体にして公安の桐島に対する50年前の事件の容疑のうち主要な一つは、桐島は関与を明確に否定したようなので、不正確であったのであろうと思われます。桐島の犯行時点から逃亡生活のありようは情報が非常に限られていて、この映画作品はかなりフィクションにならざるを得ない宿命に最初からあったことになります。(情報が多々あるのにも拘らず無視して珍妙な物語に改変された『夜明けまで…』とは物語構築の前提が大きく違うということになります。)

 映画館のロビーには、『爆弾犯の娘』という書籍が置かれて販売されていました。桐島に娘がいるのではないはずなので、何かそう言う立場の人間の娘が書いた本を関連書籍として販売しているのかと思っていたのですが、パンフを読むと、この脚本を担当した梶原阿貴と言う人物が著者で、彼女の父は1971年に起きた「新宿クリスマスツリー爆弾事件」の実行犯の一人で、全国指名手配が為された結果、彼女自身も家族と共に14年間の逃亡生活をしていたという話のようでした。(1985年に彼女の父が警察に自首して逃亡生活は終ったようです。)

 パンフを読むと、常に逃げられるように用意した状態で生活していたことや、靴を玄関に置かないこと、くさやを焼いて異臭騒ぎになり警官が呼ばれて危うく逮捕されそうになったことなどは、劇中のエピソードとして盛り込まれた彼女の逃亡生活の実体験だと書かれています。

(実体験の採用とは異なりますが、桐島が晩年にテレビで安倍首相の集団自衛権に関わる演説の場面を見て、激怒してマグカップをテレビにぶつけて壊す場面がありますが、監督が「このテレビを壊す場面をどうするんだ」と尋ねたので、「自分のを使ってください」と梶原阿貴本人のアクオスを壊されるために差し出したという話もパンフに書かれています。かなり滅茶苦茶な話のように思えます。)

 劇中ではクルド人労働者に対する見方やら、在日韓国人に対する見方、さらに上述のような政治の動きに、桐島が激怒したりする場面もありますし、桐島が20年以上勤めた工務店の女性事務員が公機関の癌検診の案内を「受けなきゃダメかしら」と眺めていたら、「こうしたものは医療業界と国の癒着で儲ける話でしかないから受けなくてよいです」と吐き捨てるように言っていたりします。桐島の政治闘争のスタンスからすると、現実の社会での出来事はこのように映っただろうという想像で盛り込まれた場面で、これらも脚本担当の二人の創作に過ぎなかったようです。

 私がこの映画を観てみたいと思った理由は前述の通り、かなりインパクトのある社会的事件の映画化である点が大きいと思います。特に事件発生当時の記憶がある訳でもありませんし、事件によって何か人生や生活に影響が出た訳でもありませんが、日常の生活の中で現実に交番脇やスーパーの脇、住宅街の告知板などに貼られていた顔の指名手配犯が、50年近く逃げおおせて、捕まったのではなく、死の床で名乗り出た結果、「見つかった」という事実が発生したことが驚きだったのです。

 例えば、有名な3億円事件なども迷宮入りと言う話になって、私が結構好きな映画『初恋』などの作品のネタになっています。私が世田谷区祖師谷に住んでいた頃に近隣で発生した世田谷一家殺害事件も結局迷宮入りのままに終わる可能性が高いものと思います。そうした未解決事件がどんどん発生しているのは十分承知しています。古畑任三郎が言うような「犯人は必ず捕まる」は、警察のそうした捜査に関わる人々の熱意の表現として嘘ではないものと思いますが、現実にはありえないでしょう。

 しかし、そうした犯人が死を迎える直前に名乗り出るというケースは非常に稀で、それも先述のように日本中のありとあらゆるところにオロナミンCやオロナイン軟膏の看板ぐらいに掲げられ続けていて周知の人物が、神奈川県の普通の街で一工務店社員としてずっと働き続け、行きつけのスナックでは人気者だったという中で、いきなり犯罪者として名乗り出るというのは前代未聞であろうと思われます。この報道を、2024年1月当時、私はかなり鮮明な印象と共に記憶したのでした。

 同じ東アジア反日武装戦線「さそり」グループに居て桐島と行動を共にしていた宇賀神は最も戦線の中で有名だった「狼」グループが大量検挙されたのをきっかけに、爆破攻撃を止め、バラバラに逃亡の生活に入り、桐島よりかなり先に逮捕されています。13年余もの服役を経て『救援』という左派メディアを作る中で、桐島の死に対して『追悼 桐島聡さん』という文章を書いています。劇中ではその一部として「桐島は公安に勝ったのだ」と述べています。犯罪者を擁護する意図はありませんが、反日・反政府を謳う以上、桐島らを単なる犯罪者と同列で語るべきではなく、彼らが政府の追及の手から逃れ続けて、逃れきることが「勝利」や「最大の反撃」と見做すことはできるように思えます。

 逃亡劇は映画作品には多数あります。有名どころでは往年の洋画大作『大脱走』があります。ネット配信どころかビデオもなかった子供の頃、テレビの「●●ロードショー」などの番組で流れるたびに観ていたような記憶がありますし、映画音楽も有名で、当時持っていた映画音楽集のLPのジャケットが(他にも多々映画音楽が有名な作品が収録されているのにも拘らず)『大脱走』の1コマで、有刺鉄線に絡まって身動きができなくなったスティーブ・マックイーンでした。

 邦画の方も有名作品が多々あります。名優緒方拳一人をとっても『薄化粧』と『復讐するは我にあり』の有名な二作があります。私は結構好きな二作品です。

 実在の人物を基にしたものでもたくさんありますが、私が比較的最近劇場で観たのは2012年の『愛のゆくえ(仮)』があります。オウム真理教信者の平田信容の20年弱に及ぶ逃亡生活をベースにした物語でしたが、元々演劇として作られた作品の翻案に大失敗した作品に私には見えました。

 この「事件そのものの知名度」で言うなら、やはり松山ホステス殺害事件のマラカス演者、福田和子だと思います。1982年の殺人から1987年の逮捕まで15年に及ぶ逃亡を続け、時効僅か21日前に逮捕されるという劇的な展開でした。テレビドラマなどには何度もなっていますが、映画は2000年『顔』があり、さらにもうすぐ石田えりが監督・脚本・編集・主演の四役を務めた『私の見た世界』が封切を迎えます。『大脱走』には逃げおおせた者が数名存在しますが、これらの物語の多くでは(勧善懲悪の価値観を浸透させるためなどと言う道徳的配慮の結果ではないものと思いますが)古畑任三郎よろしく「犯罪者は必ず捕まる」と言った展開が待っています。そうした意味でも今回の『「桐島です」』は一線を画す作品であることが分かります。

 指名手配犯とは逆に、世の中には、正体を現すまでの『水戸黄門』の水戸光圀のような、偉大さや有名さが隠れている人物がそれなりには存在します。必ずしも有名政治家でもなく(政治家の場合、老境まで政治家をしていることが多いでしょうから知名度が高く水戸黄門状態になりにくいものと思われます。)有名企業の経営者だったとか、有名映画の監督だったとか、そういう人々の普段の姿を知っていて、「え。嘘、あの人が…!」のような展開は多々あり得ます。逃亡劇モノもその類の面白さが存在するものと私は思っています。

 逃走犯の生活はなかなか大変であろうと思われますが、協力者がいれば或る程度不自由が緩和されるもののようです。山本直樹が長編作品『RED』で描いた連合赤軍にも多くの「シンパ」と呼ばれる市井の協力者がいました。(変な言い方ですが、協力者がいてもあの程度の活動しかできない幼稚さに驚かされます。)先述の福田和子は和菓子屋の後継者夫人になって時を長く過ごしており、夫人に収まる前に結婚を渋って2年余りも同棲生活をしています。これまた先述の『愛のゆくえ(仮)』でも、設定段階で既に平田は女性のヒモ状態という理想の隠遁生活を送っています。(劇中では一人の女性しか登場しませんが、現実には、2人の愛人がいたとされています。)

 現実の話である梶原阿貴の父は家族全部で逃亡生活を10年以上続けていますし、例の緒方拳の2作でも愛人だらけです。単純な性欲処理の観点よりも、絶対的な孤立感や明日をも知れぬ不安感を埋める関係性を求めてしまうという点が大きいでしょうし、現実問題として協力者の存在は色々と生活を成立させるうえで便利であろうと思われます。ただし、それらの人々との関係性が悪化すると通報されて終わりという大きなリスクも孕んでいる訳ですが。

 その点で、桐島は頑なにそうした人間の存在を拒んでいたようで、劇中では行きつけのスナック(というよりライブバーかもしれませんが)で知り合ったギター弾きの女性と恋愛関係になりかけ、相互に好意があることは明白であるにも拘らず、女性側から告白されると、「僕はそういうことに向いていない人間だから」と拒絶し(一応劇中で見る限り)絶縁してしまっています。それは、自分の「業」に他人を特に将来ある若い女性を巻き込みたくないという思いの結果であるように劇中では描かれています。

 この相思相愛の女性キーナを北香那が演じています。キーナは既に桐島がどこか後ろ暗いところのある人物であると認識しているようですし、その上で桐島が好きである自分に気が付いて、自分の想いに正直にあろうとして告白します。最終的に協力者になればなったで好と考え、まずは普通に抱くだけで良かったのではないかと、その場面からは思えます。そしてキーナがより深く長い関係性を求めてきた際に、自分の抱えることを一緒に受止められるような思いであるのか否かを確かめても遅くはなかったでしょう。

 時代の価値観からすると女性の処女性が重く受け止められていた時代であったかもしれませんし、それ以上に、桐島の責任感や潔さの結果であるのかもしれませんが、情報不足により創作部分が多いこの作品で、実際の桐島の女性関係などはどうだったのであろうと考えさせられてしまいます。現実にこのような人物であったにもかかわらず、キーナも含め長い逃亡生活の中でどんどん行きずりの女性と寝るような人物として桐島を描けばかなり問題があるでしょうから、逆のリスクゼロの構図、つまり、桐島の実体はどうあれ、桐島を潔く自制の効いた人物として描いたのではないかなと思えてしまいます。

 この「潔く自制の効いた態度」やその根幹にある「反体制の思想に生きる」と言った哲学に殉ずる姿勢が、劇中に描かれた創作の桐島を見ると、徹底しすぎていて僅かに違和感が湧きます。無論、その徹底度合いがあったからこそ半世紀に及ぶ逃亡生活を成功させられたと考えることもできます。この作品は、そうした桐島の哲学に殉ずる姿勢を、既に「時代遅れ」として表現しています。

 大学卒業の頃に桐島が付き合っていた女性は当時のヒット映画であり名画である『追憶』を劇場鑑賞した後の喫茶店で、桐島に「学生運動は続けているの?」と尋ねます。桐島は「革命を志向する学生運動はもう終わったけど、社会の弱い人々、労働をしている普通の人々を助けるような運動をしている」というような主旨を応えます。すると、「私は成長して行く大手企業に入るのよ。桐島君。そういうの、時代遅れよ」と言い捨てて席を立ち去っていくのでした。この時代遅れの価値観をずっと抱き続けて暮らすことを桐島はこの瞬間に自覚し覚悟したように見えます。

 そして(パンフによると、このコンセプトから意識的に選んだ訳ではないとのことですが)先述のバーでステージに上がったキーナが歌う自分の好きな歌『時代遅れ』に心動かされ、歌にもハマるようになり、ギターも練習し始め、そしてキーナともどんどん距離を縮めて行くことになります。その後、この『時代遅れ』は何度も何度も劇中に登場します。キーナを拒絶して浜辺に行った桐島は一人ギターで泣き語りでこの曲を弾いていますし、死の床に就いた桐島の幻想の中でも若い桐島が当時そのままのキーナとこの歌を合唱しています。

 実際の桐島は逃亡生活中の桐島をよく知る人間によると『喝采』を歌うのが好きだったようですが、敢えてよりこの映画が描く桐島の哲学に沿った選曲が為されたということなのだろうと思います。

 私の新宿の行きつけのバーのママは30代の頃水商売の経験もないのに店を前オーナーから引き継ぎ、「そろそろ店仕舞いかね」と言いつつ、少なくとも現時点では店を維持していて、既に40年越えの歴史を持つ店になっています。彼女の世代はまさに大学の学生運動の真っ盛りに大学生時代を過ごした人々で、店の常連にもママが「昔ヘルメット被って棒を振って、警察のお世話になった奴ら」と呼ぶ人々が何人も存在していて、ジワジワと近年鬼籍に入り始めています。先日も東京ユニオン設立者の方から『反骨の争議屋』という著書をその店で貰いました。

 その店には芸能業界やメディア業界のそれなりの立ち位置になっている常連客が出入りしていますが、その人々の過去にも日本を変えようと沸き立っていた時期があるのであろうと思えます。私は時代が10年余りずれているのでこの時代の狂熱を知らないままですが、パンフには(年齢は私と大きく異なりはしませんが)それを知る人物達がこの作品の感想を書いています。

[以下抜粋↓]

山本直樹
昭和時代、高度経済成長の「日本」を否定し
「日本」から降りて「日本」で暮らした男の50年間の日常
そんな彼にもやがて「日本」が襲いかかってくる。
これは「日本」の物語。
全編に流れる内田勘太郎のスライドギターがしみる。

水道橋博士
高橋伴名監督76歳が、逃亡犯・桐島聡(79歳没)を撮った。それは撮るだろう。
ボクは10代の頃、芸人になるか、あるいは高橋監督も所属する
ディレクターズカンパニーに飛び込むか、迷っていた時期がある。
あの頃の映画人は活動屋で活動家だ。映画は世の中に向けたテロだった。
今もボクの体内に彫られた「腹腹時計」は何時か爆発を求めて動き続けている。
映画の中でも何度も歌われる『時代おくれ』に感涙。そして乾杯!!

[以上抜粋↑]

 どちらにも、当時の革命思想に浮かされた若者達と時代への郷愁が感じられます。先日参議院選で参政党が大躍進し、「左」と分類される、この作品で描かれた思想を抱く人々の末裔達が危機感を抱き、ヒステリックに新興「右」勢力を叩く状態が発生しました。私も18歳で就職した組織が35万人を抱え日本最大級であり、その組合に自動的に組み入れられましたが、組合教育は中小零細企業の社員研修以上の密度で行なわれましたし、当時の社会党を支持して、消費税導入反対や自衛隊基地前デモや原発周辺のビラ撒きなどにも「動員」された経験があります。

 しかし、その経験を経たからこそ、私はこうした「左」寄りの考え方に全く与しなくなりました。共産主義そのものも、労働者が団結して不当な労働を強いられているのを解決して行くのは十分理解できますが、「労働者を搾取している」のがデフォルトの経営者の姿とは到底思えませんし、付加価値の本当の意義を理解していないド勘違いの理論だと私には思えます。

 また、よく発展途上国などで軍部がクーデターで政権を掌握した…などのニュースを見ることがありますが、軍人であれ労働者であれ、現行の政治をぶち壊すことは簡単でも、それより良い仕組みをきっちり実現することは非常に困難で、政治の仕組みを満足に知りもしない軍人や団結労働者がすべてを上手くやっていけるとは到底思えません。どう良くすることが具体的にできるのかも決められないうちから革命やらクーデターやらを起こそうとする発想に私は全く同意できません。

 リバタリアニズムの人々の極論で言われる国の最低限の役割は、国防と司法(警察業務含む)だけだという話がありますが、まさにこうした部分で「左」の人々の「だったらどうする」というのが殆ど見えないことが、私にはこうした「左」の人々の主張が如何わしく感じられる最大のポイントだと思っています。全世界で唯一の被爆国であり非核三原則がある日本だというのは簡単ですが、周辺国の核保有が進む中、具体的な核抑止のために何をするかの議論さえ避け続ける態度は政治家としては無責任極まりないものに見えますし、竹島を始めさまざまな周辺エリアを周辺国に犯され、拉致された国民さえ引き戻すことができないことに対して、全く有効な手筈を案出することさえできない「左」の人々の態度は、私には不信の対象以外の何物でもありません。

 その意味で、私は本作の桐島の活動に与することができません。共感さえも湧きません。他のグループに比して、「さそり」は実際の労働者への不当な扱いへの怒りを原動力としていますし、さらに爆破に当たって人命を奪わないことを方針として掲げているので、まだ好感は持てますが、それでも先述のように「左」の考え方そのものに私は共感できないので、「さそり」グループらがやったことの意義を私は感じません。

 それでも尚、若い頃に信奉した考えに人生を擲って殉じる桐島の真摯さをスクリーンから感じずにはいられませんし、また宇賀神が言うように公安に対する戦いを具現化した人生を最期の瞬間までやり続ける姿勢にも息を飲むものがあります。それが劇中で昭和の時代から再現される街や事務所の様子の変遷によって、時間経過が否応なく理解でき、余計に桐島の強靭さを明確に理解できるようになっています。

 桐島を演じた毎熊克哉は、パンフに特に書かれていませんが、指名手配写真に酷似した表情を本当によく作り出しており驚かされます。私にとってはここ最近では原作者の自死により実質的にお蔵入りと思われる『セクシー田中さん』の準主役の印象がとくに強く、たった1話の登場ながら『どうする家康』の裏切者役もかなり印象に残っています。

 その後、劇場で鑑賞した中でも『ビリーバーズ』の第三本部長や『悪い夏』の腐った市役所職員など、あちこちに登場していますが、今回のような主役級がなく、物語に馴染みこんでいて、むしろ存在感があまりないぐらいです。主役をやってもこれほど物語全体で大きな主張が成立する作品を成立させられる名優なのであろうと思われます。

 その他にも劇場で観た(私には全然魅力が感じられなかった)『AI崩壊』など多々私が観ている作品にも出演しているようですが気付くことがありませんでしたし、ウィキに拠れば『私の奴隷になりなさい』シリーズの第二作・第三作の主演が出世作であるように書かれていますが、私は第一作しか観ていないので分かりません。今後彼を発見しても当分は、本作と『セクシー田中さん』が連想されることと思います。

 本作で私が注目した俳優が他にも二人います。一人は北香那です。私が彼女の存在に気づいたのは、2023年の『春画先生』です。恋愛が絡んでいない濡れ場がこれでもかというほどに発生する役柄でした。映画そのものは物語的に破綻しかかっている奇妙な作品でしたが、この奇妙な作品である中で春画を鑑賞しながら夜な夜なセックスを重ねる、場合によってはAV女優でも配役してもおかしくないぐらいの凄い役でした。

 それで認識して以降、結構彼女を簡単に発見できるようになりました。代表的な所では『どうする家康』の家康の側室お葉役です。家康との間に子供を一人は生しますが、実際には同性愛者と言う設定で、後の大権現様との夜伽を辞するという凄い人物です。ちなみに夜伽役はなく大権現様の側室の立場ではあるものの、侍女との関係を持つということになっていますが、その同性愛の相手は『まなみ100%』の主演女優が演じています。その後、比較的最近DVDで観た『あの人が消えた』でも準主役級でしたが、濡れ場がないからという訳でもないでしょうが、どうも精彩を欠く演技だったように思えます。

 今回はトレーラーやらにも登場するぐらいの、桐島の人生の中で大きな存在となるキーナの役でしたが、意外に登場時間が少なく、桐島が彼女を拒絶した後には桐島の死の瞬間の妄想に登場するだけでした。当時で言うややヒッピー的なライフスタイルの奔放さの中でじわじわと桐島に好意を募らせ、ボウリング場でストライクを取ると桐島に抱きついて喜び離れないなど、言動から恋愛感情のゲージが上がっていく様子が分かる状況でした。

 ウィキに拠れば「『貴族探偵』のプロデューサーである羽鳥健一は、「役作りに対する探究心の高さ、そして監督のオーダーに対する理解力と実現力の高さには圧倒的なものを感じます。醸し出す透明感も圧倒的ですね。(中略)オンとオフの切り替えの凄さも感じずにはいられませんでした。まさに憑依型の女優さん」と述べている」と書かれていますし、濡れ場でさえ躊躇なくこなせる俳優のようなので、今後よく見ることになるのかもしれません。

 もう一人の女優は高橋惠子です。1955年生まれの70歳の女優で、本作には映画のエンディングにほんの僅かに登場するだけであったと思います。桐島が名乗り出てさらに亡くなった知らせをスマホの画面で見て、「桐島君、お疲れ様」と呟く南アジアの何処かのエリアに潜伏している日本人女性の役です。私にとって彼女はメディア上で散々話題になってお騒がせをしたエロイ女優さんである関根恵子のイメージが非常に強く、多分、この作品の多くの私より年上の観客にとってもそうであろうと思われます。

 私は彼女の全盛期の出演作を(当時は配信どころかDVDどころかビデオも存在しない時代に)私は観ていた訳ではないので、話題になっていたのを女性週刊誌などで知っていたのだけです。(私の実家は狭い家で婦人服仕立てを行なっていたので、当時の中年ぐらいの女性のお客が読む週刊誌などに、彼女の話題が頻繁に載っていたのだと思います。)当時の騒動がウィキに結構深く描写されています。

[以下抜粋↓]

「デビューから約1年半の間に7本の映画に出演し、そのほとんどの役でセクシーなシーンを演じたことから、マスコミによる記事で奔放な不良少女のイメージが作られた。また、世間では「脱ぐ女優」、「性に奔放な女」などのレッテルも貼られた。自分とは違うイメージが一人歩きしたことから女優引退を決意するが、引退作のつもりで臨んだ増村保造監督の『遊び』で増村の情熱に感動し、辞意を撤回した。

1970年代前半は当時まだ17歳ぐらいだったが大人びた役が多く、本来の自分とのギャップに悩むことが多くなったという。また当時は、「様々な役を演じても素の自分は変わらないでいたい」と思っていたが、多忙により知らぬ間に周囲に流されていることに気づいたり、時には芸能界で人の裏側を見てしまうこともあって次第に心に影響が出始めたという」。

「ストレスを抱えた1977年の年明け直後からは、自己否定するようになったり、同年春には、睡眠薬を大量に服薬し、自殺未遂を起こした。そんなある日、雑誌のインタビューによる作家の河村季里との会話がきっかけで、しばらくの間彼と過ごすことを決意。ほどなくして女優業を休業して河村とインドに1か月間滞在し、帰国後は岐阜県の飛騨の山村で約2年間晴耕雨読の日々を送った。

1979年の初夏に事務所に女優復帰を申し出て、7月21日初日の渋谷PARCO西武劇場公演『ドラキュラ』の舞台公演でのルーシー役が決まった。しかし、演技に対して恐怖を感じたため公演直前の7月20日に河村と二人で海外失踪騒動を起こし、タイのバンコクに逃亡した後、トルコ、マレーシアなどを転々とした。同年11月初旬に日本に帰国して謝罪会見及び、翌1980年の芸能界復帰会見を経て、民放のサスペンスドラマの愛人役で復帰した」

[以上抜粋↑(注釈等省略)]

 単純にほぼメンヘラ的な話とサラッと読むと分かりますが、当時の私の印象に残っているのは、エロイ役もこなす妖艶な女優が逃亡したり降板したり色々騒ぎを起こしているような事実関係でした。その後も最近ではDVDで観てみて結構良かった『アナログ』(2023年)で主人公の母親の役をこなしていて、私は「おお、関根恵子だ」と認識したのでした。

 今回の役名はAYAと書かれていますが、劇中の描かれ方から考えると、国外逃亡のまま捕まっていない大道寺あや子のことであろうと思われます。桐島の生き方と対比される人物のエンディングでの挿入は意義が大きかったと思います。パンフを観て気づいたのは、彼女がこの作品のプロデューサーの一人であり、ウィキを読んで監督の妻であることも発見しました。その想いを抱き続け、全く関係ないバス停におけるホームレス殺人事件にもイミフの国会議事堂爆破計画を盛り込まねば気が済まない監督の妻として、やはり狂熱の時代を振り返る作品に関わらずにはいられなかったのかと、ふと思いました。

 先述の通り、左の思想そのものに私は全く与しませんが、自分が若い頃に(敢えて言うなら)巻き込まれて飲み込まれた社会変革の熱狂に、その後の(女性との交際なども含めた)人生すべての可能性を犠牲にして殉じた人間の人生は胸に刺さるものがあります。105分の短い尺の中で、桐島が終盤急に老け込んでいくことにほんの僅かな違和感が湧きましたが、無駄がなく無理のない創作された物語と思えます。DVDは買いです。