5月16日の封切から既に1ヶ月半が経過した7月最初の木曜日の夜、午後9時20分の回を新宿ピカデリーで観て来ました。かなりの話題作でしたが、既に1日1回の上映になっています。それどころか、23区内で見ると上映館は新宿・池袋・渋谷・大森の4ヶ所でしたが、翌日金曜日からは池袋1館(それも例の西口の老舗ゲテモノ系作品上映構成比が高い老舗館)だけになってしまうようでした。翌日以降に池袋で見ることも考えましたが、上映時間が早かったので気が向かず、日中に『かくかくしかじか』を観た当日、夜にはその日2本目の映画鑑賞に臨んだのでした。
劇場では久々の洋画です。私にとってはかなり長尺の142分の作品です(ですので、余計のこと池袋の午前中上映では、夜型人間の私は体から水分が抜けきっていそうにないので、ピカデリーの最終上映日に滑り込むしかなくなってしまいました)。
トレーラーが始まるぐらいになって、どんどん観客が増える状況で、上映開始20分前に私が券売機のモニタを見た際には15人ほどしか観客がいませんでしたが、暗がりでざっと数えた所、映画開始時には25~30人ぐらい観客がいたように思います。
男性構成比が結構高く7割弱ぐらいだったかと思います。特に明るいうちに着席していた10人余りは、私と同じぐらいかやや下の50代ぐらいの男性の単独客が多かったようです。暗くなってから入ってきたのは若い観客がメインで20代から30代ぐらいの複数連れ客が多く、男女の組み合わせもあれば、男性同士、女性同士も居たように思います。暗くなってから入場した中で単独客は4、5人といった感じだったと思います。
この作品は封切前にかなり話題になっていました。話題になっていたというよりも話題にしようとされていたという方が正解かもしれません。メディアでの取り上げが非常に多く、それもモロの広告ではなく、ペイドパブやらインフォマーシャルやらという昔の表現には収まらない、PESOモデルでいうとE(Earned Media)とS(Shared Media)がバンバン重ねられているような状態で、そうした接点が少ない私にも目に入る頻度が高かったように感じています。
その論点は大別すると二つで、一つはルッキズム全開のビジネスに対する強烈な批判です。高齢になってきた女優などの使い道がなく、「若さ」・「美しさ」・「エロさ」が消費され終ると、次の若い商品の消費へと移行する芸能ビジネスのありかたを醜く描き、勧善懲悪の展開に当て嵌めた点と言えるでしょう。しかし、これは芸能ビジネスだけの話ではなく、社会全般に根付いている価値観だと見做すことは十分可能で、この映画も芸能ビジネスの頂点ともいうべきハリウッド・ビジネスを舞台にはしているものの、スタジオの外での社会一般での老女の残酷な扱われ方も描いたりしている中で、社会にも浸透しているルッキズム全般をを抉り出そうとしているように思われます。
私はルッキズム的な価値をポリコレ的に抑圧したり、なきものと考えたりするのには、どう考えても無理があるように思っています。生殖により種の維持を図ることは生物の本能ですが、母から託された遺伝子をより多くの女性(メス)にばらまくことを目的に“創られた”男性(オス)の遺伝子は、どうせばら撒くなら生殖能力が高い若い女性(メス)を選択するようにプログラムされるのが合理的だからです。また美しさも文化慣習的な美感にかなり左右されるものの、左右対称の美観とか皮膚の色艶とか基本的に生殖力のバロメーターになっている要素が強ければ魅力的に感じるような構造になっているのは人種・文明を問わないことでしょう。
世の中には「エロティック・キャピタル(性資本)」という言葉もあれば、『人は見た目が9割』というベストセラー本もあったりします。(私は「性資本」の考え方はよりダイナミックに変動し、且つ人によって千差万別と言う観点から、「セクシャルマーケットバリュー(性的市場価値)」の方が表現的に使いやすく思っています。)こうしたルッキズムを意識した結果、(確か原作コミックではそんな場面がなかったと思いますが)ドラマの『ドラゴン桜』では「バカとブスこそ東大へ行け」と主人公が叫んだりしています。
もしルッキズムの原点たる美醜の概念がなければ、化粧品市場は壊滅するでしょうし、ありとあらゆるファッションや美容整形にかかわる分野も消滅します。港区女子のギャラ飲みもなくなれば、アイドル産業の多くも消滅することでしょう。さらに、バカはさておき、ブスは東大を目指す必要がなくなることでしょう。そう言った経済消費が無くなっては困るからルッキズムを維持せよという話をしたいのではありません。それほどまでに遺伝子的な働きにより当たり前に社会に浸透している構造を簡単にダメだダメだと騒いでも何の意味も持たないと思うだけです。
例えば、外見的要素がほぼ全く関係ない職業に就く上で、面接でルッキズム全開の選抜が為されたら、当然差別と判断されるべきだと思います。しかし、それでさえ、判断が微妙なケースが幾らでも見つかります。中小零細企業の社長の多くはオーナーでもあり、自分の会社を自分の持ち物として合法の範囲で好きにすることができます。合法な手続きを取れば気に食わない社員をクビにすることも可能です。同様に採用も好きにできますから、好みの顔やスタイルの女子社員を採用に当たって選んで揃えるということも可能です。現実に私がビジネス誌の編集者として取材に赴いた会社のコールセンターの女性社員は全員同じ顔立ちで同じ髪型、身長も皆似たりよったりと言う感じで驚かされた記憶があります。そのような好みで採用しているからでしょう。
そのように普通に存在する社会潜在的なルッキズムが反映された上でのコンテンツの魅力度合いが視聴率として測定され、その多寡がカネに直結しているのが、先述のハリウッド・ビジネスだと考えられます。その醜さを抉り出したというのがこの作品のウリであるのなら、どれほど幼稚な思想なのだろうと是非見て観たくなったのです。
もう一つの前評判の論点はデミ・ムーアの怪演です。この作品ではなく、デミ・ムーア本人の方のウィキには以下のような文章でこの論点が書き述べられています。
[以下抜粋↓]
2024年、コラリー・ファルジャ監督のボディ・ホラー映画『サブスタンス』に主演、ムーアは非合法の麻薬を使って若返りを図る老いた女優を演じた。2024年のカンヌ国際映画祭でプレミア上映されると、ムーアの演技に多くの批評家から絶賛の声が寄せられた。BBCのニコラス・バーバーは「この数十年の間で彼女が演じた中で最も素晴らしい役」と評し、「彼女自身のパブリック・イメージをパロディ化することへの恐れのなさ」に称賛を送った。この映画の好評によってムーアはゴールデングローブ賞の最優秀女優賞(ミュージカル・コメディ映画部門)、クリティクス・チョイス・ムービー・アワード 主演女優賞、全米映画俳優組合賞主演女優賞を受賞し、更にはアカデミー主演女優賞と英国アカデミー賞 主演女優賞へのノミネートを果たすなど女優として新たな復活を果たした。
[以上抜粋↑(注釈番号など省略)]
全くその通りです。劇中ではハリウッド大通りにある「ウォーク・オブ・フェイム」に星形のプレートが埋め込まれた往年の売れっ子女優エリザベス・スパークルが高齢を理由にどんどんビジネスから排除されて行く様子が冒頭で示されます。その通称リジーを似ている立場の女優のデミ・ムーアが演じていることで、実質的に彼女が自分自身をパロディ化している作品なのです。この功績(彼女の初のオスカー・ノミネートもされています)により、デミ・ムーアは60歳を過ぎて初めて自身の名前をウォーク・オブ・フェイムに刻むことができています。劇中ではリジーの星型プレートにはひびが入り汚されたままに放置され、人々から忘れ去られる様子が延々と描かれるので、かなりの皮肉です。
上のウィキの表現で一つ分からなかったのは「ボディ・ホラー」です。何だろうと検索すると、「ボディ・ホラーとは、身体の変形や破壊をテーマにしたホラー・ジャンルのことです。身体が異常な状態になることへの恐怖、つまり「自分の体が自分でなくなる」という不安を描き、視覚的なショックやグロテスクな描写を伴うことが多いです。」との説明をAIさんがしてくれました。(身体を持たないAIさんに「自分の体が自分でなくなる」という不安を説明してもらうのも滑稽です。)初めて聞く言葉ですが、そういうジャンルとして括れるであろう先行他作と酷似しているように感じる部分は多々あります。
いずれにせよ、デミ・ムーアの「新たな復活」と言われる作品を観てみる価値があると思えたのです。私はこれを機にデミ・ムーアが復活するとは思えず、またすぐに消え行ってしまいそうに思っていますが、少なくとも彼女の初のオスカー・ノミネートに繋がった事態ですので、彼女のバイオリズム波形の中で最大級のスパイク状隆起であることは間違いないことでしょう。
私にとってのデミ・ムーアは特にその若い頃まあまあファンであったのに、残念なキャリアをどんどん選んでは突き進んでいく、総合的に残念な人です。私が彼女のまあまあのファンになったのは『セント・エルモス・ファイアー』です。当時流行ったブラット・パックの人々による一連の作品群の一つですが、その中でも一番のヒット作だったろうと思います。私はこの作品がかなり気に入りました。同時期の私にとっての衝撃的大ヒット作『恋しくて』の存在故に私の洋画50選からはギリギリ漏れているぐらいの位置付けの作品です。その『セント・エルモス・ファイアー』の中でも一番の推しがジュールズという(少なくとも今でも同じ名前の米国人女性を見たことも聞いたこともない)変わった名前の女性でした。それを若き日のデミ・ムーアが演じています。
今、ネットでこの作品のウィキを見ると「ジュールズ」は渾名で本名は「ジュリアンナ・ヴァン・パッテン」となっています。「ジュリアン」が「ジューン」などの渾名になるパターンは留学時代にも何人か知っていますが、「ジュールズ」は後にも先にも映画の中のこの人物だけしか知りません。印象的な役柄で、銀行員で稼ぎも良く結構豪華な生活をしているのに、愛情に飢えていて、精神的に病んでいてコカイン常習者でもある、端的に言うと高学歴メンヘラ女子です。ウィキには「奔放な」・「パーティーガール」と書かれていますが、日本では一般に「ヤリマン」と呼ばれる類であろうと思われます。
そのジュールズを演じたデミ・ムーアは今よりもかなり丸顔で垂れ目気味なので、私の好きなタヌキ顔に(少なくとも当時のハリウッド映画女優の中では)見えやすく、当時のVHSでも何度もこの映画を見てジュールズの言動を目で追っていた記憶があります。ジュールズと言う単語の響きが耳に残っているぐらいです。(丁度、物理系や電機系の知識を散々教え込まれていた時期なのでエネルギー量の単位のジュールを耳にするたびに彼女を連想するほどでした。)
そんなデミ・ムーアですが、その後がパッとしませんでした。日本ではよく有名な「子役」が俳優としてその後売れるのはかなり難しいというような話が言われますが、それ以前に、量産されるアイドル達のその後も生き残りは物凄い高倍率であることが知られています。それに近い状態で、デミ・ムーアも『セント・エルモス・ファイアー』の翌年『きのうの夜は…』という主演映画を得ますが、鳴かず飛ばず状態になります。
偏見を持つのもよくありませんが、彼女の育った家庭環境はかなり荒れていたようですし、彼女自身『セント・エルモス・ファイアー』出演時以降数年ヤク中でしたし、ハリウッドでさえ学歴社会で、アイビー・リーグを卒業した女優が多々いる中、高校も満足に出ていず、モデルになった所から漸く役を手に入れた彼女に演技に関する洞察も研鑽もなかったことでしょう。そのスタートの躓きというか(最初から立ってさえいなかったぐらいかもしれませんが…)失速というかの状態から、最初に生まれたヒットが多分『ゴースト/ニューヨークの幻』だと思います。エロい轆轤回しのシーンで有名でしたが、やはり、売れる路線に彼女が載ることはありませんでした。
『絶叫屋敷へいらっしゃい』のようなドタバタ映画や『愛を殺さないで』のようなB級マイナスといったぐらいのスリラーに出演していますが、ヒットは出ません。その後は作品のテーマ設定が問題で議論を呼ぶような作品を中心に出演するようになります。軍隊内部の腐敗を取り上げた『ア・フュー・グッドメン』や妻を賭けネタにして負けた男が金持ち男に妻を差し出す『幸福の条件』、IT企業でのセクハラと謀略を描いた『ディスクロージャー』、裁判結果を操作しようとする勢力から付け狙われる陪審員を描いた『陪審員』などなどです。
ちなみに内田樹はその多くの著作でカバーされる広い扱い領域に埋没して、あまり知られていない映画評論の活動の中で、「マイケル・ダグラスはいい加減に「下半身トラブルで本業に支障をきたす男」の役を止めなさい。」と述べていますが、この一連のマイケル・ダグラス下半身トラブル作品群の中の一本が『ディスクロージャー』です。
同年代の(同じ苗字でも親戚ではないはずですが)ジュリアン・ムーアや、ジョディ・フォスターなどの正統派女優と比べると如何に彼女のフィルモグラフィが質量ともに貧弱かが分かります。キワモノ的な映画に出演し続ける、私が最も好きなハリウッド系女優ジェニファー・ジェイソン・リーもデミ・ムーアと同世代ですが、彼女の場合、両親ともに映画界で大物ですから、スタートは七光り的な後押しが間違いなくあったであろうと思われます。そのように考えると、典型的な米国キャリア観による学歴重視正統派女優でもなければ、親の七光りもないデミ・ムーアのキャリアを理解するのは、少なくともそうした型というかステレオタイプに嵌めればまあまあ容易であると思えます。
その後、結婚・離婚を重ねたり、妊娠中のヌード写真を公開したり、いろいろ話題を取ろうと必死の活動を重ねていますが、今に至って、ゴア映画でようやく日の目をまたちょっとだけ見たというような状況なのだろうと私は思っています。それでも私は日本で公開されたりビデオ化・DVD化されているデミ・ムーアの作品の9割がたを観ており、(良い作品とはとても思えないケースでも)それなりに好感を持っており、デミの発音はミの方が強いという事実まで知っているなど、一応ファンであろうと思っています。
そう言うデミ・ムーアの刹那の好評ネタがどのようなものか見届けるべきと思えたのです。
映画を観てみると、第一印象のデミ・ムーアの不細工さがやたらに際立っていて、映画の前半(まだデミ・ムーア演じるリジーが若返りというかクローン生成というか微妙な「変態」が目的のサブスタンスに手を出していない段階)でも、かなり観るに堪えない状態でした。浴室でのフルヌードシーンがあり、その中でも身体パーツのアップがあるのですが、垂乳根は勿論、腹は何やらボテ腹で肌も薄黒くしみだらけなどかなり薄汚く見えます。日本人の女優で50代後半でも(例えば武田久美子のように)写真集を出していたりするのを考えると、ちょっと酷過ぎるレベルで、往年とは言え売れていた女優リジーのありようとして無理があり過ぎるようには感じました。物語の進行上、リジーは老醜に悩み打ちのめされていなくてはならないので、敢えて特撮的にそうした可能性もありますが、かなり酷いです。
映画の物語はこの作品のウィキに詳細に書かれています。
[以下抜粋↓]
今や見る影もないハリウッド映画スターのエリザベス・スパークルは50歳の誕生日に、長年のレギュラーであったエアロビクス番組から、テレビプロデューサーのハーヴェイによって突然降板させられた。錯乱状態のエリザベスは自分の看板が撤去されるのに気を取られ、交通事故を引き起こす。幸い軽傷であったものの意気消沈するエリザベスに、男性看護師が密かに「サブスタンス」という名の違法薬品を宣伝するUSBメモリを渡す。それは若さと美しさ、より完璧な自分を得られると謳うものであった。一度はUSBをゴミ箱に捨てるが、好奇心に駆られたエリザベスはUSBに記された番号に電話するのだった。
電話で指定された廃ビルにて「サブスタンス」を持ち帰り、説明書通りに薬品を注射するとエリザベスの背が裂けて、スーという若い女性が現れた。若さと美貌、エリザベスとしての知識を備えたスーはエリザベスの上位互換的な存在となる。スーはやがて名声を得て、ハーヴェイから大晦日番組の司会に抜擢される。スーは名声によって、快楽的な生活を過ごす中でエリザベスは自信を持ち始めたが、引きこもるようになる。
エリザベスとスーは1週間毎に身体を交換しなければならず、老化を防ぐためにエリザベスの脊椎から抽出された安定液を注射し続けなればならなかった。
エリザベスとスーは互いに別々の人間として見るようになり、軽蔑し始める。スーはエリザベスの自己嫌悪と過食生活を毛嫌いするようになり、1週間毎の身体の交換を拒むようになる。
3ヶ月後、大晦日番組前日にスーは安定液が供給できなくなった。一時の快楽のためにエリザベスから安定液を過剰に抽出した為である。スーはサブスタンスの業者に連絡したが、安定液を補充するためにエリザベスの身体が必要であると伝えた。エリザベスに戻ったものの、その姿は猫背の老婆と化していた。スーの暴走を抑えようと分身であるスーを死滅するための血清を注射しようとしたが、若さを保つために再びエリザベスはスーを目覚めさせた。自身を殺害しようとしたことを知り激昂したスーはエリザベスを撲殺してしまう。
エリザベスを失ったスーの身体は衰弱していく。錯乱状態に陥ったスーは更に優れた肉体を得ようと残っていたサブスタンスを注入した結果、スーの肉体に無数の臓器やエリザベスの顔が貼り付いた怪物「モンストロ・エリサスー」に変貌する。エリザベスのポスターから切り取ったマスクを被ったエリサスーは大晦日番組のスタジオにやって来たが、彼女の姿を見た観客達はその醜さに絶句し、混乱し始める。スタジオの関係者がエリサスーの頭部を切断したが、さらに頭部は変異を続け、片腕が取れて、スタジオ一帯を血飛沫で染めた。
エリサスーはスタジオから飛び出すが、止まらない細胞変化に肉体が耐えきれずに破裂していき、路肩で倒れ肉体が完全に崩壊。崩れ落ちた肉片から浮き出たエリザベスの顔がハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの自分の名前が埋め込まれた星の上に這い上がった。エリザベスの顔は周囲の観衆から称賛を受ける幻覚に微笑みながら血痕と化し完全に事切れた。翌日、エリザベスの血痕は床洗浄機で払拭された。
[以上抜粋↑]
この映画に関心を持った大きなきっかけは、この映画の中のもう一人の自分が出てくる構造でした。自分がジキルとハイド的な感じで一週間ごとに変わるのかと思いましたが、公開前のトレーラーや紹介記事の段階では、どうも若い理想形の自分の方が別人格で存在しているという話のように見えました。別人格で記憶も共有している訳でもないどころか、どうもカラダそのものがもう一体できるということのようだと結構後になってから理解しました。細胞レベルで同じであるということからすると、一応クローンと称するのが一番妥当な存在であるようです。
すると、次の疑問が湧きました。一週間単位で入れ替わっている間、残った方の肉体は何をしているのかということです。どちらも別々の個体として生きているのなら、元々理想の自分を作っても自分は老いたまま存在し続けるのですから意味がありません。それに一週間ごとに入れ変わらなければならない意義もよく分からないことになります。極端に言うと、片方が死んだら相手はどうなるのかとか、死ぬまで行かないまでも負傷などをしたら、『ブラック・ジャック』に出てくる一卵性の双子のように他方にも傷が浮かび出るようになるのかとか、そうした疑問が湧いたのでした。
そして映画を観て、上のウィキにあるような仕組みを知り、一応、なるほどと頷けました。それと同時に、この物語の無理筋な設定を余計に感じるようになりました。
最も無理筋なのは、なぜリジーはサブスタンスを選択したかということです。勿論、老醜に耐えられず美への欲求が強かったからという答えが劇中では執拗に提示され続けます。自分の老醜が許せず老人となった友人男性との食事にさえ、鏡の自分をメイクで思うように変えられず出掛けることを投げ出してしまう状態なのです。しかし、そうであっても、副作用だの新しいもう一人の自分との関わり方だの、当然ながら、別の自分がオリジナルの自分から「奪う」ことをすればするほど自分は異様な勢いで老いて行くこととなり、その変化は不可逆であることの甚大なリスクなどを全く知らないままにいきなり自分に試すのです。そんなものに手を出さなくても、仕事を失ったとは言え、相応に裕福に暮らすカネはあるのですから、アンチエイジング的な施術を色々と重ねれば、世の中の年齢平均以上の美を手に入れることは十分できたのではないかと思えます。
またこの技術を提示されて怪しまない方が不思議です。それこそマーケティングで言われるAISASモデルにあるように、なぜこの技術を調べてみるということをしなかったのでしょうか。口コミを見つけようなどの努力は全く劇中に登場しません。よく言われる例に、なぜレーシック手術を奨める眼科医にメガネをかけている人物がいるのかという話があります。端的に言って、技術が安定していず、短期的には効果が出ても長期的にはどのようなリスクがあるのか分からないので、自分には行わないと考えるのが一番常識的な答えです。
現実にコンタクト・レンズでさえ、長年の使用者が歴史上初めて高齢になり、特にハードレンズを使い続けた来た人々を中心に眼瞼下垂をが発症することが明らかになりつつあるようです。或る程度高齢化してからインプラントの手術を受けた人々は、歯が割れ続けたり土台がぐらついたりでどうしようもなくなり、抜歯して歯がない状態に甘んじることしかできなくなったと私の周囲でも数人の高齢者が言っています。
歯だの目だのでもこのような状況ですし、もっと大雑把な話ならジョブズやゲイツがなぜ自分の子供にはスマホやタブレットを与えないかという話など、評価が決まっていず、長期の使用・利用の悪影響が見えない技術はいくらでもあり、分かっている人物はそれを相応に回避しています。そんな技術発達の側面があからさまになっている世の中で、満足な説明書も説明もなく、細胞レベルで身体全体に働きかけるサブスタンスを自分の身体にいきなり適用するバカはいるのか、あまりにも無理に思えました。
その無理筋を何とか飲み込んで脇に置いて物語を観ていると、リジーがどんどん自分の身が崩壊するような急激な老化をしていて、それがスーのルール無視が原因だと理解します。この老化の進み具合は甚だしく、シャマランの『オールド』の壮絶な老化を軽く超越しています。それでも、リジーは何らかのコミュニケーションをスーと取ろうとしている節がありません。「ルールを破るのなら、あなたを抹消する」ぐらいの脅しをしても良いでしょうし、誰かに秘密を明かし、スーを監視させたり、場合によっては監禁するとか殺害するとかしても良かったはずです。ところがリジーがやったことは基本的に不貞腐れて家に籠って暴飲暴食を重ねるだけのことでした。意味がよく分かりません。早々に自分がアクティブになっている期間に、浴室の奥の部屋に全裸で横たわるスーを殺すなり鎖で縛るなりしてしまえば良かったでしょう。
例えば、名作の『デスノート』は名前を書いた人間に死をもたらすという、凄いですが、非常に単純な機能しかないノートを手に入れた人間の物語です。名前が分からなくては殺せないので、殺人を継続的に行なうためにやたらに頭を使うことになります。つまり、デスノートの運用に知恵を絞り数々の工夫をしなくてはならないということです。勿論、見れば名前が分かる「死神の目」を寿命の半分と交換して手に入れることもできますが、顔を見て分かるようになるだけで、それ以上の何か絶大なルール変更が起きる訳ではありません。デスノートでさえそうであるのなら、なぜこのサブスタンス利用者はもう少々頭を使ってこれを使いこなすことをしなかったのでしょうか。
やること為すこと大雑把な米国人にこういう新技術を与えるとロクなことにならないという、有り触れた証左であるように思えてなりません。流石にこんなバカなことをしないだろうということばかり、リジーとスーは繰り返してくれます。流石、「このオリジナルあって、このクローン」です。スーは端的に言って、ただのホルモン全開セックス大好きのノータリン系小悪魔です。それに自分のすべてを野放図に預けてしまう判断が、「そういうことをする人もいるよね」と理解できる範疇を遥かに逸脱しています。
他にも細かに見るとおかしな部分が色々と見つかります。細かな中でも特におかしいのは、作品のウィキにも登場する怪物「モンストロ・エリサスー」は、明らかに風貌もおかしく、リジーの顔を切り抜いたペラペラの紙を顔に貼っているだけです。それなのに、一旦出てしまったスタジオにスルリと入り、警備員や多くの通行人の前を通ってステージにまで登場してしまっています。こんなバカな話はないでしょう。
他にもぽっと出のスーをいきなり看板番組のエアロ・エクササイズの主役に仕立てるのも異常ですが、同様のリアルな例では辛うじて過去の薬師丸ひろこのケースもありますから何とか分からんではありません。しかし、スーの氏素性を調べた形跡もありませんし、当初「2週に1週は病気の家族の面倒を看なくてはならない」などと言っているのを怪しむのが普通ですが、その調査もされていません。契約する前に興信所の調査を入れるとか日本企業ならオヤカクに行くとか、何かの方法を取るのが当たり前だと思われます。このような管理状態なら、当然スキャンダルにも無防備なはずです。到底看板番組を預ける姿勢には見えません。おまけに年末のビッグ看板番組まで司会の実績なども全く分からない状態で大抜擢します。非現実的すぎます。
こうしたことがやたらに気になります。無理筋な物語の杜撰な展開で、全然集中ができませんでした。先述の「ボディ・ホラー」とか言う面では、確かに先行する秀作が色々想起される場面が多々ありました。変化の過程で指の爪が簡単に剥げたり、歯が抜けるのは定番なのだと思いますが、秀作の『フライ』で観た感じそのままです。エレベータのボタンを押そうとして爪がいきなりずれるという演出は見所であったかもしれません。
怪物「モンストロ・エリサスー」の造形はこの映画の中で華々しいショー・ビジネスの世界ばかりだったのが、一気に怪物映画の世界に転換するスイッチになっていると感じましたが、『悪魔の毒毒モンスター』ぐらいから各種のホラーで登場するような肉の塊的な造形になっています。寧ろ最近なら実写になっていませんからイメージが繋がりにくいですが、『鬼滅の刃』の低ランクの鬼にこうした外観のものが居たようにも思います。デミ・ムーアの目の中で瞳が細胞分裂のように二つに分かれるのは、米国でも大人気(私の知る限り最大級と言っていいほどです)アニメ『BLEACH』のユーハバッハそのものという感じがしますし、吹き出す血に多くの人々が血塗れの阿鼻叫喚図になっていくシーンもオリジナル作の『キャリー』本人やら、最近の各種のパニック・ホラー系で(私は殆ど観ていないので具体的な事例をパッと上げられませんが)典型的場面と言う気がします。
最期に体が崩壊した後の「モンストロ・エリサスー」はこれまたどこかで見たような造形で、『遊星からの物体X』とか『バスケットケース』辺りを想起させられました。そういう意味では既視感が多々あるぐらいに基本を押さえたホラー作品であるのかもしれませんが、ハリウッドを舞台にした人間ドラマ風だったのが、結構唐突にドロドロ・グログロのホラーに転換する展開にもまた無理があったような気がしないではありません。
なぜかこの女性監督はこの作品中でやたらにアップを多用し、デミ・ムーアの顔もサブスタンス利用上の注射器やら各種の用具も、何でもかんでも寄って映して見せてくれます。演出上の効果を狙っているのは分かるのですが、何か高齢者を対象とした老眼対応映像のようにも見えて、2時間超付き合うと飽きが来ます。シンボリズム的にたくさんいろいろなものが登場もします。その中の一番はやはり執拗に登場するエアロビシーンでしょう。日本のテレビでやったらかなり問題になりそうな、股間や太腿、胸のアップ映像が何度も繰り返してスクリーン上に踊ります。おまけにエアロビの動き自体がやたらにセックスを想起させるようなものになっています。
考えてみると、清純なイメージが海外でも通っていたオリビア・ニュートン・ジョンのイメチェンに大貢献したヒット作が『フィジカル』でしたが、そのPVは当時流行しつつあったエアロビであったことは有名です。彼女のウィキを見ると、それについての言及が以下のようになっています。
[以下抜粋↓]
最終的にこの曲はビルボードにおいて、1980年代の全米チャートで最もヒットした曲となった。当時のフィットネスブームを意識し、ミュージックビデオではレオタード姿でエアロビクスを踊るという強烈なイメージ戦略があたり、オリビアのセールスはこの頃にピークを迎えた。しかし、その意味深な歌詞のせいもあって、保守色の強い州南部などの一部の放送局では、この曲の放送を自粛する動きも見られた。
[以上抜粋↑]
歌詞が「意味深」と書かれていますがかなり控えめな表現で、セックスに誘っているのに男性が全然その気にならないという女性側の苛立ちをモロに描写した曲です。英語の歌詞だと日本人には分かり難いですが、これを直訳ロックの雄、王様が日本語に訳しています。タイトルはズバリ「肉体」です。オリジナルの英語歌詞を見ると意味深などと言うレベルでは全くありません。1番の歌詞の中でも既に…
I took you to an intimate restaurant,
then to a suggestive movie
There’s nothing left to talk about
unless it’s horizontally
と言っています。intimate だけで既にセックスをする関係性が想起されますから、「そう言う狙いのカップルが集まるレストランにも行って、その手のエロイ映画まで見たから、もう話すことが無くなって、後は2人で横になるだけよね」と言っているのです。長くなるので紹介するのは断念しますが、王様のこの部分の翻訳は秀逸です。また、繰り返しの部分は、
Let’s get physical
です。「get physical」には「健康診断を受ける」という意味もあるようですが、文脈からして最も一般的なセックスするという意味です。ズバリ、女性側からセックスしようといっている曲なのです。実は性に異様に保守的な米国の一般人文化ではドン引きの歌詞内容です。国内ではあちこちのジムやフィットネスクラブなどで定番で掛けられている時代がありましたし、それは例のPVの影響であると思われますが、この歌詞の中身が理解されていたら有り得ないことだったかと思われます。ことほど左様に、エアロビに纏わり付くイメージは総じて性的です。
まして、劇中の若い女性の美しい肉体をドアップで映す番組であれば、そういうメッセージを誰しもが受け取ることでしょう。それをこの作品は執拗に劇中に流し込んでくるのです。ルッキズムどころか、このブログで取りあげた『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』のメイル・ゲイズ(男性の視線)糾弾の姿勢がアリアリと感じられます。
米国は若さの価値を強調し、若さが老人になってもあるべきことと執拗に求めてくる価値観を有していると私は感じています。老人にも若々しくあるべきとか、それがモノであっても古いものは陳腐なものであり、新しいものは新たな価値を持っていて素晴らしく優れているものという観念とかが、常にいろいろな場面で感じられます。歴史が短い国柄と言うこともあるでしょうし、歴史あるヨーロッパ文化を否定しなくては成り立たなかった国の成り立ちも背景にあるかと思います。(その延長線上に、米国人が大好きなプラグマティズムもありますし、最近話題の反知性主義も成り立っているように見えます。)
翻って人間に対しても老人が敬われず顧みられない分化の傾向があるように私は思います。白人男性がアジア系の女性を妻にしたがるのは、一般に従順で自己主張が少ない文化背景もさることながら、肌が若々しく、年をとっても全然(少なくとも彼らには)老けて見えないことがあります。現実にそうしたアジア系の妻を持つ男性数人に尋ねたら「俺の妻は最高だ。いつまでも年を取らない」と断言していました。確かに今回のデミ・ムーアの弛んだ腹やらシミだらけの薄汚れたような肌を見るまでもなく、白人の肌の劣化の進行は甚だしく、見た目がどんどん老け込むのは否定できません。(私は留学先のオレゴンの片田舎の町で私の外見しか観たことがない現地の人々から中学生が飛び級で大学に行っていると思われていたことがあります。その時私は25歳でした。)そうした特に女性に向けられた性資産や性的市場価値による評価の目を抉って見せたかった作品なのだと思います。
それに賞を出さねばならないような大騒ぎになる文化観をみる時、先日札幌で観た中島みゆき展でも掲示されていた名曲『傾斜』のリフレイン「年を取るのは素敵なことです。そうじゃないですか。」はあまりに明快で、『サブスタンス』に観られる喧騒を簡単に超越しているように感じられてなりません。サブスタンス未使用時点でもイタいバーサンの老醜を見せつけられましたが、60過ぎのデミ・ムーアが裸身を曝して50になったばかりの売れっ子女優を演じることに既に無理があったのかもしれません。(デミ・ムーアの人生の中で劇中のリジーのような持て囃された時期はなかったでしょうし。)今はこちらもジーサンになって往年のファンの義理でDVDは一応買いかなと思っています。
☆映画『サブスタンス』