実質的にJR新宿駅に隣接している地下のミニシアターで観て来ました。この館で7月25日の封切から3週間の上映が行なわれた中の最終日の木曜日です。1日1回の上映で時間枠は午後8時55分からです。東京都ではこの館1館しか上映館がありません。関東に拡大してみると栃木、群馬の二館が加わり、全国ではさらに愛知、大阪、兵庫、京都が加わって、合計で7館の上映です。
シアターに入ると、最終的に35人ぐらいの観客がいました。パッと目につく2人連れの観客は3組で、1組は母と大学生ぐらいに見える息子らしき珍しい組み合わせで、残りは30代の男女1組と20代の男女1組でした。これらの2人連れ客に含まれる女性も含めて、女性客は5人ぐらいしかいなかったはずで、圧倒的な少数派でした。残る30人程度は男性客で多くが単独客で年齢層は20代ぐらいの若手と私ぐらいの年齢層(概ね50代以上から70代ぐらい)の2極への偏りが大きかったように感じます。
この作品で描かれるとされるLGBTQ的な関心だとすると、20代男性はそのような関心を反映してのことかもしれません。高齢側の方はよく分かりませんが、この日が最終日で最終上映であることが影響して業界関係者的な人々がそれなりに含まれていた可能性もあります。現に終わった後のトークショーはそれなりに長丁場でしたが、事前、または最中に立ち去ったのは1桁でした。
そのトークショーの時間的余裕を作るためか、予告が全くなく始まりました。モタモタ後から現れた高齢男性客のせいで、冒頭の葵がヒナに手を借りてそれが「刺さる」場面の肝心の手を借りているシーンを観逃してしまいました。DVDが出る可能性が結構低い作品に感じますが、出れば、この場面の確認をしたいと思います。
この作品は映画.comの紹介文に…
[以下抜粋↓]
水泳部に所属する高校1年生の葵は、上級生からの理不尽な嫌がらせに耐えながら、黙々と練習に打ち込む日々を送っていた。そんな彼女には、誰にも言えない悩みがあった。同級生の水泳部員・日菜にひかれる気持ちを持て余していたのだ。ある日、日菜への嫌がらせに我慢ならなくなった葵がついに上級生に抵抗したことをきっかけに、1年生は上級生と水泳でリレー勝負をすることになる。実力不足の1年生は圧倒的に不利な状況で、葵は同級生から批判され、日菜のことも困らせてしまう。葵は幼なじみで同じ水泳部の昌樹に励まされ、その存在に救われる一方で、昌樹に対しても友情以上の感情が芽生えていることに気づく。恋とは何か、友情とは何か、そして自分は何者なのかと葛藤する葵だったが……。
[以上抜粋↑]
とある通りの物語です。逆に言うと、これ以外何もない作品でもあります。私がこの作品を観たいと思った動機の一つは、いつもの若者の実態を知るという商売上の観点があります。上の紹介文を読んで分かる通り、あまりに普通で、そうした物語を淡々と見るのも悪くないだろうと思えたことです。特に(水が入っていませんでしたが)プールを舞台とする女子高生ばかり登場する『水深ゼロメートルから』が私には大ハズレ作品だったので、似ている設定の良質な作品を観てみたいと思ったということもあります。
またその「良質な」に関係して主演の葵を演じるのが石川瑠華であることもポイントだと思っています。こうした煮え切らないというかはっきりしない性格で思い悩み、外からはどう接して良いか分かり難い女子高生などを演じさせて彼女の右に出る人物はあまり見当たりません。女子高生と言っても、彼女は撮影時でも26歳で15歳を演じていて、パンフの中でも出演する他の女子高生役の女優達に比して最年長と言っています。
世の中ではNHKの朝ドラや大河ドラマで俳優が1人の役の20代から80代ぐらいまで演じることもあるので、敢えて言うならおかしくもないのですが、そういう物語の場合は、それなりに大きなイベントの連続であったり、最低でもその中でそれなりに激しい喜怒哀楽の敢えて言うなら極端な表現があるから、成り立ちやすいものと私は思っています。それに対して、彼女の場合、特段の目立つイベントも殆どない中、10歳以上年下の(再び)敢えて言うなら子供を、その表情や言動、特に細かな仕草などを通して自然に演じられるところが驚嘆する所だと思っています。
石川瑠華をこの作品の前に劇場で見たのは『クオリア』です。脱がない佐々木心音の怪演見たさに鑑賞した作品なので、石川瑠華についての記述は殆どありません。その前に劇場で観た『イソップの思うツボ』に言及しています。
[以下抜粋↓]
佐々木心音演じる優子の夫を妊娠したと嘯いて脅す石川瑠華はパンフを見て『イソップの思うツボ』の主演の女優であることを知りました。その記事に私は彼女のことを以下のように書いています。
「この映画には三人の女子大生ぐらいの年齢の其々に魅力的なヒロイン3人が登場しますが、誰一人として私は見た記憶がない人々です。中でも一番露出の多い当初地味な女子大生の美羽役を演じる石川瑠華は、実質、一人二役と言っても良いぐらいの役割で快演しています。」
快演であったのは間違いありませんが、画像記憶ができない私が各種の特徴を重層的に概念記憶することで認識できる俳優像には到底至っておらず、鑑賞中にも特段の想いは湧きませんでした。
[以上抜粋↑]
しかしその後、劇場で『零落』を観てかなり気に入り、原作者の浅野いにおに関心が湧きました。そしてコミックで『うみべの女の子』を読み、その世界観が気に入って、実写映画化作品を観たのです。その主演が石川瑠華でした。今回の主人公葵にも少々重なる部分がある端的に言うと内向的な女子高生です。彼女はこの作品の発表時点で24歳ですが、またしても高校生の役を演じています。(卒業が近くなってくる段階ですので、こちらの方が、本作よりまだ年齢差が開いていないと言えるかと思います。)
この前年に発表されている『猿楽町で会いましょう』も名作と有名な作品で、観たいと思っていますが、DVD化もされていず、トレーラー映像や色々な人々のレビューで物語の構成の秀逸さや彼女の劇中の存在感の大きさを一応知っていますが、鑑賞ができないままでいます。
いずれにせよ、彼女は一体何歳までこのタイプの役を演じ続けられるのか心配になるほど、『猿楽町で…』、『うみべの女の子』、そして本作の彼女に共通する彼女の(年齢差を超えた)独自の演技パターンが炸裂している秀作であろうと、本作を鑑賞する前に思えたのが鑑賞動機としてそれなりに大きいように思えます。
ちなみにTVerで観た『瓜を破る~一線を越えた、その先には』でも、職場ではイマイチパッとしない腐女子系OLでマッチング・アプリで交際相手を探しているのに、いつもセックス対象を求める男しか出会わず心が折れ、最終的に元々知り合いのオタク仲間の冴えない、しかし、彼女のことを趣味異常に理解してくれている男性と交際するに至る役です。系統的には彼女の王道パターンですが、とうとう女子高生は無理になって来て、社会人バージョンに移行したとみることができるかもしれません。
私はこの番組を、昔幼稚園時代の娘とよく観た『バラライカ』のPVで歌い踊っていた久住小春のその後を観てみたくて、観ることにしたのですが、唐突に視界に現れた石川瑠華に結構驚きました。髪型はいつものショートですが、OL的なカットソーがイマイチ似合わず、おまけに耳にはピアスが輝いていたからだと思われます。自分の中の石川瑠華が女子高生で固定されていることがよく分かる現象でした。『瓜を破る…』でも、脇役として登場している尺は限られているものの、非常に繊細な心の動きを表現することに成功しているように見えました。(ちなみに、久住小春はドラマで観るのがレアなのだろうと思って、この番組を観ていましたが、その後すぐ『ジョフウ ~女性に××××って必要ですか?~』でほぼ毎回観ることになりました。)
石川瑠華の方はその後DVDで軽く見流した感じの『市子』でも存在に気づきましたが、こちらの方は登場尺が短く、見流したせいもあってあまり印象に残っていません。本作を観てみて、石川瑠華は(いまだに観ることができない作品を込みで言うなら)『猿楽町で…』、『うみべの…』、本作が私の中で優れた代表作として記憶されることになりました。
この作品はパンフでも監督らがLGBTQを意識的に描いたというように記述されています。映画館のサイトの宣伝文にも…
[以下抜粋↓]
ずっと一緒に笑っていたい。
ただ、それだけ。
水泳部に所属する、高校1年生の葵。
理不尽な上級生からの嫌がらせに耐えながら、黙々と練習に打ち込む日々を送っている。
そんな葵には、誰にも言えない、もうひとつの悩みがあった。
同級生の水泳部員・日菜に惹かれる気持ちを持て余していたのだ。
この胸の高鳴りは、友情なのか、それとも──?
自分は、女なのか、男なのか。
この気持ちは、恋なのか、友情なのか。
[以上抜粋↑]
のように書かれており、殊更にLGBTQ寄りの位置付けにされているように思われます。現実に、石川瑠華演じる葵は親友の日菜に友情以上のものを感じていて、日菜が上級生から嫌がらせや虐めを受けるのを見かねて、上級生との勝負に打って出ることになり、それに巻き込まれる同級生からさえも距離を置かれることになります。日菜本人さえ葵のそうした行動に感謝はしているものの、上級生とあからさまな決着をつけるような揉め事にすることを喜んではいません。
葵は日菜が受ける虐めに耐えられませんでしたし、プールサイドで日菜が水中の葵を引き上げようと伸ばした手を握ると葵は電気が走ったように感じ、日菜をより強く意識し始めます。プールの部活中も葵は日菜を目で追うことが多い様子が描かれています。
一方でそんな日菜を目で追いつつ、おまけに幼馴染の親公認の中であることから葵の家にまで頻繁に上がり込んでいるイケメン上級生の昌樹がいます。彼は以前から葵に恋愛感情を募らせていますが、葵が友人以上にならない(ならないと明言していませんが、落ち込んだ彼女を抱きしめても、彼女はありがとうと言ってしばらくその状態を続けた後何事もなく離れるだけです。)ことから、言い寄ってくる女子とどんどんセックスを重ねることをして行きます。極論すると、葵の周囲には昌樹とセックスした女子だらけになって行きます。
昌樹は「向こうから来るから、来るものは受ける」と言っているだけで、どの女子にも「付き合う」と明言している訳でもなさそうです。(そういう意味では葵に対して一途であるとみることが一応できます。)ただ多くの女子はそれを「付き合っている」と勘違いして暴走して葵の周囲では女子たちが相互に昌樹との恋愛関係を維持する異常事態が進展して行きます。そしてとうとう日菜も昌樹と「付き合っている」と認識し、他の女子以上にセックスを重ねる状態となります。
練習を早く抜けて昌樹と仲良さ気に歩く日菜を観て、葵は逆上して昌樹を道路脇の田んぼに突き落とし、降り出した土砂降りの雨の中、昌樹に泥塗れになって馬乗りになり、執拗に昌樹を殴るのでした。上級生の中でも水泳の実力によって部長になっている女子も昌樹とセックスした仲ですが、女子全員の人間関係が壊れることを嫌って、或る日、昌樹と付き合っていると認識している女子全員を引き連れ、皆で一発ずつ昌樹にビンタを喰らわせることとなります。葵は訳も分からずその場に居合わせ、「おまえも(ビンタをするのか)?」と尋ねる昌樹に「しないよ」と言って、彼と共に学校を出ます。
自分を案じてくれていて、子供の頃から付き合いがある昌樹に対して、ジワリと愛情も感じる、しかし親友日菜に対しては友情以上のものをびりびりと感じる。そんな葵は「心が男の時と女の時がある。こんなの異常かな」と悩みを日菜に吐露すると日菜は「変だとしてもそれが葵だし、葵は葵のままでいいじゃん」と受け止めてくれます。その際に日菜は「葵は好きな人がいるの?」と尋ねますが、葵は「日菜だよ」と本人に告げられないままに終わるのでした。
米国の「左」系の人々が叫びまくるLGBTQ問題は結局本当のLGBTQの人々を救うことが殆どなく、LGBTQの人々の存在を声高にそうではない人々と区別して「生き辛さ」を論うことにしかなっていないとの批判があります。取り分けセム的一神教の人々は何でも二元論で考えたがる傾向があるので、「差別をなくせ」と叫ぶことで結果的に潜在的に存在している違いをあからさまな異なる二つ(以上)のものに分けて話を進めようとします。
さらに出版中止を求める脅迫まで相次ぐ問題の書『トランスジェンダーになりたい少女たち』を読むと、例えば日本でも子供達がクラスの中で自分のキャラ決めをしなくてはならない中で、大したオタクでもないのにオタクと名乗るぐらいの構図で、自分はLGBTQのいずれかだと言いだすことがあり、それを「左」系の大人たちが個人の意思を尊重しようと性器切除の手術まで薦めはじめるような展開があり得ることに気づかされます。
私は知り合いに同性愛者の男性も女性も各々数人ずついますが、誰一人としてLGBTQ的な社会活動で自分達がより生活しやすくなったとは認識していません。寧ろ、区別なく普通に「人」として暮らしている方が余程楽と表明しています。歴史的につい最近まで同性愛を犯罪行為扱いしていた人々の考える反動的なあるべき社会観はかなり歪んでいると言わざるを得ません。それに対して日本では多くの男性も衆道にハマっている一方で女性とも性交をしますし、縁あれば妻帯もしていたりします。どの程度事実かは別として、『どうする家康』でも北香那演じる側室お葉が同性愛者として描かれています。(それでも側室の「お勤め」として家康との間に子供を設けています。)
区別することなく全部が包含される社会の方が理想であるのは自明であるように思います。そこにおいて、男女の性別は当然あるべきと思いますが、二つの極(社会的モデル)として存在しているのであって、その間や周辺には極のありようにバッチリ当てはまらない人々も存在するというだけのことでしょう。例えば、服のサイズでも通常はSMLなどに分類されており、色々な人がいるのにそのような枠に当て嵌めようとするのは差別だと騒ぐのはナンセンスです。それを追求したい人がコストをかけてでもオーダーメイドをすればよいだけのことです。マーケティングのターゲット・モデルと全く同じ考え方で私は違和感を感じません。
そう言った側面から考えると、この映画で描かれている葵の悩みは日菜(且つ抱きしめて来て呟いた昌樹の発言もそうですが)の言う通り、そのまま肯定されるだけで雲散霧消するものに思えます。敢えて言うなら、この作品で描かれていることをLGBTQの枠や構図で語ることそのもののが私には如何わしく感じられるのです。葵の日菜への想いは特別な感情を伴っていますが、だからと言って二人で全裸で肌を重ねたいと発想することもないようです。いつか葵が性的快感や欲情に目覚めた時、それを日菜か昌樹に向けることになるのかもしれませんが、そうならないままに葵は大人になるのかもしれません。また、母も「昌樹君なら葵を喜んで任せられるのに…」と言っているぐらいですから、葵が何かのきっかけで昌樹への好意を嵩増しさせ、恋愛感情ガッツリ盛りではない状態で、田舎の狭い社会の中で昌樹と結婚するようなこともあるかもしれません。そうしたことが幾らでも自由で良いだけの話です。
葵の母は葵に女の子らしい格好をさせようとガーリッシュな服を買ってきて、葵がしぶしぶ受け取る場面があります。葵も「こんなものは要らない」と全否定している訳ではなく、自室の姿見に向かって服を合わせてみたりしています。それがどの程度葵に違和感を湧かせることが分かりませんが、少なくともそうした役割を演じられる選択肢を作るのは人生において無駄ではないでしょう。嫌ならしなければ良いだけのことです。ジェンダー的「左」思想で観るなら、母の態度は女性的ジェンダーの押しつけであるでしょうが、前述のような社会的なモデルを親として娘に教えておくことはおかしくありません。娘の方が徐々に自分に合った形をモデルとの距離を測りながら考えれば良いだけのことです。
映画そのものを観ている限り、私はあまりに自然であまりに有触れている女子高生の日常風景として興味深く鑑賞していましたが、パンフや劇場のロビーに掲示されているこの映画の紹介記事はやたらとLGBTQと騒ぎ立てる狭量なもののように感じられました。
自然な会話、アルアルな日常と関係性、恋愛感情が表出しては消える人間関係、友人なのか親友なのか仲間なのか付き合っている交際相手なのか、線引きが難しい中の幼い時々の感情の振り回される人々。それをかなりリアルに描くことに成功している秀作であると思います。私はどの程度の重みのモノなのかさっぱり分かりませんが、デンマーク日本映画祭で5冠受賞、モントリオール日本映画祭で2冠受賞というのはダテではないと思わせられます。
私にとっては水のないプールの女子高生たちの話は大ハズレでしたが、水の入ったプールの女子高生の話は本作と私が大好きな『大人はわかってあげない』が超優れものなのは、何かプールで泳ぐことによって演出可能な要素があるのかと考え至らせられます。
上映後に、トークショーがあり、この映画について色々なことが判明しました。この映画は3年前に企画が始まり、2年前に撮影され1年前に完成しているとのことでした。時間経過が非常に長く、監督と配給担当者の田村魁成氏によるトークショーの中で、配給がなかなか決まらず上映に漕ぎつけるのが非常に困難だったと語られています。配給の関係者がトークショーで語ることは珍しく、非常に興味深い内容でした。また、トークショーに拠れば、配給の目途が立たず困っている監督にこの田村氏を紹介したのが石川瑠華であったと明かされています。「監督が頼りなくて主演女優以下出演者から心配されている状態」と監督が苦笑していたのが笑えました。
石川瑠華以外の若き女優達は配役時点では映画やドラマの出演経験が殆どなかった状態のようでしたが、今に至って多くの出演をしているようで、特に日菜役を演じた中島瑠菜は現在放映されている大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』にも出演しているとパンフなどに書かれています。(彼女は『九十歳。何がめでたい』で唐沢寿明演じる編集者の娘の役を演じていますが、かなりの登場尺長です。)昌樹の友人役の男優一名以外は石川瑠華も含め全員オーディションで決めたという監督はトークショーで「自分の役者を見る目に自信が持てた」と言っていたのが、(再び)笑えました。
エンドロールの頃に私の斜め前の席に外からシアターに入ってきた女性が掛けていて、「?」と思っていたのですが、それはなんとトークショーを客席で見ようと入ってきた石川瑠華その人でした。トークショーの終わりにステージの上に呼ばれ初めて皆の前に現れました。ナマ石川瑠華を観たのは私は初めてで、シアターから出た後監督と彼女の両方にパンフにサインをしてもらいました。
たった74分の尺ですが、制作者のLGBTQ絡みの意図は置いておき、劇場のサイトの告知分のラストにある「揺れ動く10代の心を、瑞々しい映像とともに描いた、ひと夏の物語が誕生した。」がぴったりくる名作で、出るなら、DVDは間違いなく買いです。
追記:
この上映館は武蔵野館の別館として営業していますが、今回の鑑賞の際にウェブサイトを見た所、来年(2026年)1月に閉館が決まったとのことでした。今回赴いた際に『サタンがおまえを待っている』という米国の悪魔信仰についてのドキュメンタリーの存在を知ったので、その鑑賞がこの館での鑑賞の最後になるかと思われました。