『逆火』

 7月11日の封切から1ヶ月以上経った水曜日の午後8時40分の回を靖国通り沿いの地下に入る映画館で観て来ました。1日1回の上映でこの時間枠です。スタッフに尋ねるとこの日が(私も行く直前になって知りましたが)最終上映日だったということで、大分人気が無くなってきたかと想像されますが、(所謂盆休み中とはいえ)平日の仕事終わりの人々をも狙えるこの時間枠の設定が少々気になりました。(本当に人気が離れた「消化試合」状態なら、早朝枠でも良さ気なものです。)

 東京都ではここ1館のみ。全国に拡大しても(東京を含め)全部で7館しか上映しておらず、全部を確認した訳ではありませんが、幾つかの映画館の上映スケジュールを見る限り、1日1回の上映になっている所ばかりのようです。関東圏では神奈川の厚木と栃木の小山、北海道では苫小牧と、主要映画館で上映されているイメージではありません。他の場所も細かく確認していませんが、名古屋・大阪エリアにはなく、長野県・広島県・熊本県ですので推して知るべしという感じです。

 それでも、シアターに入って上映開始を待っていると、最終的に30人程度の観客が集まりました。やはり、無名と言っていいような作品で1ヶ月余りの段階でこの集客は、一定の人気があるというか関心を集めている状態の作品なのだろうと思われます。観客の男女構成比は非常に偏っていて、女性は4人ぐらいだったように思えます。年齢層は60代以上に見える1人を除いて30代から40代ぐらいのように見えました。男性客の方は比較的高齢側に偏っているように見えましたが、30代から40代も数人は居たように思います。

 私がこの作品を観てみようかと思ったのは、この物語のテーマにあります。映画.comの紹介文章を抜粋すると…

[以下抜粋↓]

家族のことを顧みず、いつか映画監督になることを夢見ながら助監督として撮影現場で働く野島。次の仕事は、貧しい家庭で育ちヤングケアラーとなりながらも成功したARISAの自伝小説の映画化だった。しかしARISAの周辺で話を聞くうちに、小説に書かれた美談とは程遠い、ある疑惑が浮かび上がる。真実を追求しようとする野島だったが、名声を気にする監督や大ごとにしたくないプロデューサーら、それぞれの思惑で撮影続行を望む人々が圧力をかけてくる。やがて疑惑の火は野島の家族まで巻き込み、彼の日常は崩れはじめる。

[以上抜粋↑]

とあります。こうしたメディア系の虚実、敢えて言うなら今時の「ポスト・トゥルース」的な事象に関わる話がどのように描かれているのか関心が湧いたのが(多分唯一の)鑑賞の動機です。何とか付け加えると、映画制作の現場が細かく描かれるであろうということも多少の期待要因かもしれません。例えば『ハケンアニメ!』のようなクリエイティブ系の制作現場の緊張感やビッグ・プロジェクト感は他の舞台ではなかなか見ることができません。

 トレーラー段階でもかなりこの虚実の構造が理解できるようになっています。ヤングケアラーのJKが献身的に要介護の父の面倒を看ていて、母の僅かな稼ぎで生活を続けているのですが、雨の日、JKが外から傘もなく帰って来ようとしていたら、体が不自由な父がJKを傘を持って迎えに行こうと何とか部屋を出て、典型的安アパートの2階から階段を転げ落ちて死亡してしまいます。JKは帰宅してアパートの脇に雨の中倒れて息を引き取ったままの父を発見して号泣するのでした。そして、父の死を悲しんでいると、母が父が残しておいてくれたという生命保険が1000万円ほど入ることを告げます。JKはそのお金で大学に行きつつヤングケアラーのための社会的ビジネスを起業し、超有名になるという美談が、高校時代に彼女が書いた入賞作文を基に書籍化され大ヒットしたのです。

 ところが、実際には話は全く違いました。先ず母は自分が稼いだ金を生活に最低限当てる以外は、放蕩していたようですし、父が亡くなりそうなのを見越して保険をガッツリかけていたのも母でした。JKの娘には「死んだら保険で大金が転がり込む。あんたにも半分やるから、介護を頑張りな」と持ちかけ、自分は介護に一切関わらないでいました。

 父は父で要介護なのは間違いありませんが、DVがかなり激しく、気に食わないことがあるとその場にいた娘のJKを殴る蹴るして憂さ晴らしするというような状態です。JKもJKでパパ活でカネを稼ぎ最低限の必要な支払いもしていた傍ら、散々遊び呆けて憂さ晴らしをしつつ、早く父が死なないかと毎日願っていたようです。おまけに問題の雨の日には彼女は既に帰宅していて、雨の中を出掛けようとする父を階段から突き落とした疑惑まで生まれます。

 それでことが済んでから美談を作文に書き入賞し、起業し、書籍も出版し…と有名になって現在に至るのです。この映画の主人公の助監督野島は、原作の本に色々と足りない情報があると、映画化に当たって取材を進めてディテールを埋めようとしますが、その結果、どんどんと現実が判明して行き、片や一方で大金が動き、空前のヒットの予想がされている映画の制作は撮影開始が、劇中でも残り日数カウントで迫ってくるのでした。

 この辺までの概要はトレーラーでも分かるのですが、見てみるともう一つの問題構造の側面が登場します。

 野島の更なる取材で、現実から乖離した父の死にまつわる作文を美談で埋めたのはJK本人の意志でしたが、ヒットした著作が「創作」の泣ける話になっているのは、編集者の指示であって、出版社側はこの内容が事実とかけ離れていることを完全に理解していたことが判明します。(その判明の仕方も、出版社側が「細かいことを言うなら、別に他の映画制作会社にこの話を回しても構わない」と(捏造を指示した編集者ではなく)著作権管理部が圧力をかけて、事実関係から話を逸らすので、野島がゴーストライターを探し出して話を聞いた結果最終的な確認が取れる状態です。)

 監督は何か坊ちゃん的な存在で奇麗事ばかり並べますし、最初の「組」の立ち上げの挨拶で、「ヤングケアラーの現状を社会に訴求する素晴らしい作品にし、またヤングケアラーの人々にも見てもらって人生に希望を持ってもらいたい」的なことを述べています。そして、野島から事実を聞いても、「この話がヤングケアラーの問題を提示することに社会的意義があることには変わりない」とか「既に大金が動き、多くの人々が関わっている中で、中止にすることなど監督としてできない」などと言います。多分後者が本音でしょう。私も共感できます。

 野島と監督はどうも慶應らしき大学出の坊ちゃんと言う設定のようで、貧困状態の生活の何たるかをよくも分からず、原作に飛びついて「売れるネタ」の映画化に取り組んだだけのようでしたが、野島は貧困の現実と、そこに生きる人々の自分とは異なる倫理観や道徳観に打ちのめされたようです。監督の方は野島とは異なり、「僕はこの作品に監督生命をかける」ぐらいのノリです。

 笑ってしまうのは、何とか監督に考え直させようと迫る野島が「しかし、こんな映画を作っても、監督が期待するようにヤングケアラーとなって生活に余裕がない子供達がこの映画を見るはずがないでしょ。この映画制作は結局はあなたの自己満足に過ぎないんだ」と言い募るのです。その通りです。そんなことはJKの実体が何であろうと関係がなく、クリエイティブな活動というのは究極自己満足以外の何物でもありません。どうせなら、組の発足の会合で挨拶をした監督にそれをぶつけるべきだったのではないかと思えてなりません。

 プロデューサーのやり手女性も監督と助監督を長らく知っている間柄のようですが、今更ご破算にはできないとして、助監督の野島に「次はあなたが練っている脚本で監督作だから、今回は監督を支えることに専念して欲しい」を端的に言うと買収してくるのでした。

 地下にあるこの映画館の地上入口脇のポスターには…

[以下引用↓]

「実話」と銘打たれた「新作映画」の感動ストーリーが、嘘だとしたら?
現場を任された助監督が、主人公の疑惑の「真相」に迫る。
「ミッドナイトスワン」」の内田英治監督が描く衝撃のヒューマンサスペンス

[以上引用↑]

と書かれています。真相に迫っているのは本当ですが、野島の言うことがとても映画人として長年やってきた人間の言うことには思えないほどに稚拙で青臭いので、観ていて呆れるばかりで、到底「ヒューマンサスペンス」の要素も感じられませんでした。野島よりどう見ても大分年下の女性ゴーストライターにも「薄っぺらい正義感を振り回すな」と吐き捨てるように言われて相手にされていません。

 現実にそんなことは実際の映画を比較的よく見る私でも普通に気付くことです。甚だしい話で言うと、あまりに創作が酷い『夜明けまでバス停で』があります。これなど、「幡ヶ谷バス停殺人事件」をモチーフにしたと、各種の告知ツールで言い募っていましたが、現実と同じ部分はほぼ見当たりません。バス停での事件と言うことでさえ、現実には殺人が起きていますが、劇中では殺人未遂で終わっています。主人公の性別が辛うじて一緒なだけで、年齢も違えば職歴なども全く異なります。おまけに監督の嗜好らしいですが、「革命思想」に主人公はかぶれて行き、国会議事堂爆破にまで及びます。

 これが売れるためにやったことで、実際にそれがネタとなって売れたのなら話は分かりますが、少なくともマイナーな作品のままで終わっているように見えます。「幡ヶ谷バス停殺人事件」をモチーフにした映画ということで辛うじてそうした話題の際に言及されるだけなのではないかとさえ思えます。

 この監督は脚本家が書いた初稿を「面白くないから脚色しろ」と却下していることがパンフレットに事実関係として描かれています。それが悪いということではなく、商業的クリエイティブ作品など、所詮売れてナンボであり、それを企図してやっても売れない不発作品も死屍累々の状態であるということであろうと思われます。無名からでも当たる映画作品の事例は『カメ止め』や最近なら『侍タイムスリッパ―』などがよく知られていますが私は特にいずれも観たいと思わず今に至っています。異例のロングランを重ねて、今尚DVD化もされず、あちこちの映画館で再映され続けている山本直樹原作の超傑作映画『眠り姫』や、全国ミニシアターで半年以上に亘り上映され続けたというドキュメンタリー『ダーウィンの悪夢』などの方が、私には余程そうしたマイナー映画のヒット作に思えます。いずれにせよ、そうした成功事例は多々存在しますが、その数十倍・数百倍の失敗作がその傍らにあるのが多分現実でしょう。

 その意味で、助監督である野島がこの問題を騒ぎ立てて事を荒立てようとするのか全く分かりません。問題の構造があるというのは私も認めますが、幸いにして今回は創作/捏造の大本は出版社の側にあると著者の元JK(劇中時点では女子大生)もゴーストライターも認めています。おまけに、元JKはかなり殊勝で、「事実がバレてしまったら、私は責任を取るつもりです。ですから野島さんは自分が正しいと思うことを私を気にせず行なってください」と言っています。私が野島の立場なら…

■監督・プロデューサーには事実関係を報告する
■自分の調査の記録(面談日時と面談内容)を記録として残す
(可能なら、録音もガッツリ行なう)
■映画の宣伝においては「原作小説の完全映画化」などと原作に忠実にしたことを謳う
■既に野島に事実関係を暴こうと接触して来ている記者に映画クランクアップ直前に現実を暴露する。
■暴露結果が社会的な話題になり炎上したタイミングで、監督とプロデューサー名義で、「調査の結果こちらもそれを知って驚いている。原作の出版社側が行なったことでこちらはそれを知ることができなかった。出版社側に然るべき対応を取りたい」と表明する

のような手筈を進めるのではないかと思えます。監督が言うように関わった多くの人々を守るためであるのなら、捏造の非難からも関わった映画陣を守らねばなりません。しかし、事実は事実ですから、捏造の大本に責任を転嫁するのが一番でしょう。

 とんでもない腰砕けの映画です。映画の終盤、クランクインの当日に助監督は撮影現場に行かず、問題の記者とアポを取って落ち合っている姿が映ります。しかし、その後、いきなり1年後に時は跳びます。そして監督は海外の映画祭でこの作品の表彰を受け、野島は自身の初の監督作の衣装合わせをプロデューサーとともに進めています。そして野島の娘がビルの屋上から飛び降り自殺をします。

 結局、この創作/捏造問題がどのようになったのか、誰がどのように動き、どのような結果になったのか、全く描かれていないのです。辛うじて、表彰の場面があったことから、相応の評価が為されていることが分かりますし、プロデューサーも創作/捏造作品を作ることができた見返りに野島に次のチャンスを与えたと解釈できますから、何事もなく話が進んだということのように思えます。

 しかしながら、野島の(特に記者でもなく興信所でもないような)普通のインタビューの反復でも判明するような事実関係が、その手の記者によって暴かれないはずがないでしょう。野島はクランクインの当日に記者に会って何を話したか分かりませんが、仮に彼がおためごかしの何事もなかったような嘘の証言をしても、早晩それはどこかで破綻し、事実が社会に露見したことと思われます。その辺の関係を描いてこそ、この薄っぺらく鬱陶しい甘ちゃん正義感の押し売りの話に落ちが着くという風に私には思えます。

 この映画はそこに全く踏み込まないだけではなく、仕事に没頭したい野島が家族を蔑にした結果、女子高生らしき娘が最初はトー横に入り浸るようになり、ついには同人AVにまで出演するようになり、野島と妻が二人の間でも没コミュニケーションの中で散々振り回されつつ、往年の『積木くずし』的な展開を見せるのです。

 野島は収入が大きかった会社員の立場を捨てて映画の道に進み、収入が不安定化していて、妻と娘もそれによって生活パターンを大きく変えることを強いられた経緯があるようです。前述の通り良い大学を出ているようですから、それなりの高給の仕事を振って現在の道に進んだということでしょう。その際にどれぐらい妻娘にはその選択について納得感があったか分かりませんが、娘には「娘をお前の夢の犠牲にするな」と面と向かって言われて、ショックを受けつつ激昂しています。彼の夢の追及の結果、妻はパートで働くようになったようです。コンカフェバイト(同系列ではキャバクラなども運営している会社グループのバイト)の面接現場から娘を野島は無理矢理に家に連れ戻すと、娘は部屋に引き籠りますが、野島は妻にパートを休んで娘を見張り外出させないようにしろと一方的に言い放っています。

 どれだけ家族の生活に負担をかけているのか分かりませんが、妻に対しても「自分が稼いできている…」と言った上から目線的な発言を何度も重ねていますし、娘が居場所を見いだせなくなるのも或る意味必然かもしれません。トー横に逃げた後に、娘はホストに狂い、そのホストも劇中ラストの空白の一年の間に死んだようで、娘は後を追うことを決意したようでした。

 先述の映画.comの紹介文には「やがて疑惑の火は野島の家族まで巻き込み、彼の日常は崩れはじめる。」とありますが、映画の創作/捏造問題と野島の家族の間には特に何も関係がありません。単に野島が家に帰ると勘違いオヤジになっている状況が続いているというだけのことで、劇中でもそれが今回の映画制作プロジェクト以前からの問題であることが監督の台詞の中で示されています。その意味で「疑惑の火が野島の家族を巻き込」んだ事実関係は確認されません。

 また彼は被雇用者ではないので、仕事を抜けようと思えば(それによるデメリットを享受するという前提の中で)幾らでも仕事を抜けられます。娘を家に引き摺り戻しにトー横に行くこともできます。おまけに1年後には念願の監督作まで進行し始めます。それと同時に娘が自死しますが、少なくとも劇中で描かれている物語では、野島自身がくだらない正義感で空騒ぎをしているだけで、特に彼の日常は崩れていません。寧ろ、(劇中で野島が見聞きしているコンカフェ面接やホスト狂いの話も告げられることなく)イミフな命令で仕事を一週間も休まされた妻の方が余程日常を崩されています。

 この無関係の野島の家族の物語を描くぐらいなら、この映画のメインテーマである創作/捏造の問題のその後まできっちり描く方に労力と尺を費やすべきであったろうと思えてなりません。何を描きたいのか全くわからない、勘違い甚だしい作品構成と言わざるを得ません。

 野島を演じた北村有起哉はウィキで見ると色々私が観た作品に出ていますが、記憶がありません。辛うじて思い当たるのは『探偵マリコのの生涯で一番悲惨な日』で失踪した娘の捜索を依頼する落ちぶれた元ヤクザのオッサンで、娘は歌舞伎町でAV出演したりしていました。無理解な娘に振り回されるのが余程に合っている俳優なのかもしれません。

 創作作文が上手いJK⇒元JKを演じたのは円井わんです。『うみべの女の子』のチンピラの女役とは言え、15歳の設定(公開時点で円井わんは23歳)の女子が辛うじて記憶に残っています。DVDで観た映画では『ラストマイル』に登場する離婚したばかりの二児のシングルマザーがかなり目立っています。ドラマでの記憶はかなり鮮明なものがあります。一番は『セクシー田中さん』、次に『不適切にもほどがある!』で、いずれもTVerで観ました。ウィキで見ると『探偵マリコの生涯で一番悲惨な日』にも役名が書かれていませんが出演していた様子です。(『獣道』・『タイトル、拒絶』にも出ているようなので、伊藤沙莉との接点が多いようにも思えます。)

 二人とも場面で場面で結構違う顔を見せる人物の役だったので、それをそつなくこなしていたことは認めますし、辛うじて映画の制作現場のリアルっぽい様子が見られたことは良かったですが、先述のように、如何せん、腰砕けの物語構成で、到底DVDが欲しいとは思えません。