『104歳、哲代さんのひとり暮らし』 番外編@厚木

4月18日の封切から2週間余り経った6月最初の水曜日。梅雨前でも大分日差しが強くなってきた日中に小田急の快速急行に乗って厚木に行きました。『そこのみにて光輝く』、『太秦ライムライト』を観た映画館です。着いてバカ広いロビー内を見渡すと上映スケジュールのポスターが貼ってあり、『ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男』、『アンジーのBARで逢いましょう』などの私が観たいと思いつつも優先順位が低いため観ていないままの作品群やら既に観た『うぉっしゅ』など、今尚、良質な作品選択は健在であることが分かります。シアター3つで合計16本もの映画をすべて1日1回ずつ上映しています。

ここの13時40分の回を観に来ました。全国では17館で上映されていて、東京都下では銀座、船堀、吉祥寺、青梅の4館でしか上映していず、この数日前に吉祥寺に行きましたが満席で観ることができませんでした。

関東に拡大すると、今回訪れた本厚木以外に千葉県の柏があり、この柏は有名映画雑誌社が運営する『風よ あらしよ 劇場版』や『ピクニック at ハンギング・ロック』などを観た映画館で私は結構気に入っています。関東圏で合計6館で上映しており、青梅は遠過ぎ、吉祥寺は満席になるような状況を避けることにしても尚、選択肢は4つ残っています。銀座はここ最近よく行くことになっている路地裏の映画館ですし、船堀は月に1度以上仕事で行っている場所で駅前の公共系のビルの中の映画館の存在は気になっていました。そして柏は先述の通りです。

なので、わざわざ本厚木に足を伸ばす必要はないように見えますが、関東圏のここ本厚木の上映館以外はすべて1日1回の上映が午前中なのです。午後からの上映をしているのは本厚木1館で、夜型人間の私には今回の映画館選択は必然的な選択結果です。

以前来たのは『そこのみにて光輝く』、『太秦ライムライト』を観た2014年後半ですので、10年以上の歳月で色々な変化があります。先ずビルの1階に辿り着いただけで、これら2作の感想記事に書いたセガフレード・ザネッティ・エスプレッソは美容室に置換されていることが分かります。『そこのみにて光輝く』を観た際にホスピタリティのありかたについて好印象に基づく文章を書いていた内容のその後を楽しみにしていたので、非常に残念です。

映画.comで観た際には気づいていませんでしたが、映画館のある9回に着いて映画館にはロゴマークがあることに最初に気づき、そこから映画館名も変わっていることに気づきました。『そこのみにて光輝く』、『太秦ライムライト』の記事を確認してみると、以前は「アミューあつぎ映画.comシネマ」で今は「あつぎのえいがかんkiki」です。名前の変化から以前は映画.comが資本や経営などの面で参画していたのが、撤収したということなのだろうと思われます。先述の柏にある老舗映画雑誌の会社の直営映画館があるのと比較すると、残念に思われます。

映画館の設備はかなりリニューアルされているように感じられました。以前は(朧気な記憶では)座席が壊れていたり、パイプ椅子に掛けるようなシアターであったのが、平均以上の座席感になっており、券売の仕組みなどもかなりきっちり仕組化されているように見受けられました。

一方で価格も上がっており、私はシニアなので1200円でしたが、一般の料金はまさに一般映画館並みに上がっています。(毎週水曜サービスデーのため誰でも1200円だったのかもしれませんが、そうした案内はありませんでした。以前のホスピタリティは失せたのかもしれません。)ネットでこの館のサイトを見ると、比較的最近も改めて小幅値上げをした結果であることが分かります。

私がこの映画を観ることにしたのは、トレーラーで観た内容が気になっていたからです。トレーラーを観たのは多分、最近まあまあよく行く銀座の路地裏映画館だったと思います。この映画は世界でも最も進んだ超高齢社会のありかたやそこでの死に方を考えるという意味で、上映時に以前私が観ている『ハッピー☆エンド』と何となくセット化されています。購入したパンフレットを後日よく見てみると、両者のパンフの表紙の右上にシネスイッチ銀座のロゴとvol番号が振られています。『ハッピー☆エンド』は395番で本作は394番です。おまけに両者の表3が「Now Showing」と題したコーナーになっており、相互に広告をしています。

後述するようにパンフは良質な文章による称賛が列記されていますが、その中の代表的なコメントに酒井順子による「哲代さんは超高齢化社会のロールモデル」というのがありますが、それがトレーラーを見るだけで、圧倒的な迫力や「圧」で理解させられるのです。和田秀樹の数々の書籍にもある通り、老いが進行すると、人のありようは様々で、70代前半には認知症がかなり進んで体力的にも弱まり寝たきりのようになってしまう人々もいますが、100歳になっても介護がかなり限定的で済んでいるような人々もいます。外見でも年齢が言い当てられなくなってくるのはこのバラつきの大きさのせいだと私は思っています。

そうした中で、100歳を超えて施設に入ることもなく、田舎の大きな一軒家で一人暮らしをしている女性の、トレーラーの中に描き出される姿が、余にも活動的で前向きで驚愕させられるのでした。私は基本的に老人が好きではありません。自分も老人になってきたので、自分が老人に思うようなことを他人が私に思うことが多くなっているのだろうという想定の下に、あまり人に関わらず、好きなことをしつつ自堕落に暮らそうと心掛けています。そんな中で、老人をモチーフとした映画作品をわざわざ観てみたいとあまり思い立つことがありません。そんな私にとっても、この作品のトレーラーが持つインパクトは非常に大きく、「観てみよう」と思い立たせるのに十分でした。

チケットを購入してすぐ、物販のカウンターの方に回り込むとパンフレットが目に入ったので1部購入しました。ふとその横を見ると『うぉっしゅ』のパンフレットもありました。先日銀座の路地裏映画館で観た際にパンフは売り切れていて入手できなかったので、こちらも合わせて買いました。開場までの限られた時間を本作のパンフを優先して目を通して過ごしました。

シアターに入ると、全部で25人ほどの観客がいました。年齢層別・性別共に極端な偏りがある状況でした。性別で言うと男性は私も入れて4、5人ぐらいでした。(座席の背が高いので、男女の判別が着席後ではなかなかつきません。)残り20名ほど、つまり80%程度が女性と言う偏り方です。さらに年齢で見るとほぼ全員高齢者です。男性は1人、女性は2人ほど30代・40代に見える観客がいましたが、残りはどう見ても(サービスデー以外なら)シニア料金で入場していそうです。私が最も若いぐらいの感じでした。ほぼ全員単独客でしたが、多分1組(もしかすると2組)2人連れの観客がいたと思います。

映画の内容から、まあ想像の範囲であるとは言え、あまりに極端にそれが具現化している観客の状況に驚かされました。数日前の吉祥寺のパルコ地下の映画館はシアターが多く上映作品も入り乱れている館ながら、この作品は満席だった訳ですから、(例えばこの館と同様の状況なら)高齢者の一群が20~30人居ても不思議なかったはずですが、そのようには全く見えませんでした。吉祥寺、そしてそこのパルコの地下という場所柄、一方で厚木と言う場所柄の相違が現れているのかもと思い至りました。

観てみると、トレーラーで想定される以上の圧倒的な内容です。94分、約1時間半の時間があっという間に過ぎて行きます。映画.comの紹介には以下のような文章が含まれています。

[以下抜粋↓]

尾道の自然豊かな山あいの町にある一軒家で、100歳を超えてひとり暮らしをしている石井哲代さん。小学校の教員として働き、退職後は民生委員として地域に尽くしてきた。83歳で夫を見送ってからは、姪や近所の人たちと助けあいながら過ごしている。年齢を重ねて思うようにいかないことが増えても、哲代さんは自分を上手に励まし、自由な心で暮らしをしなやかに変えていく。その前向きでユーモアあふれる言葉の数々を紹介した書籍「102歳、ひとり暮らし。哲代さんの心も体もさびない生き方」「103歳、名言だらけ。なーんちゃって」は累計21万部を超えるベストセラーとなった。そんな哲代さんの101歳から104歳までの日々にカメラを向け、老いて楽しく生きるヒントにあふれた暮らしを映しだしていく。

リリー・フランキーがナレーションを担当。

[以上抜粋↑]

単純にこの映画はどんな作品化を言葉にするなら、この紹介文は申し分がありません。寧ろ、この映画に内包される多くの要素をよくぞここまで取捨選択して纏め上げたものだと(一応、文字制限を常に意識した文章書きを迫られる編集者の立場に数年いたことがある身なのでとても)感心させられます。

やはり核となっているのは先述の「超高齢化社会のロールモデル」としての内容です。一人暮らしをしているとは言っても、数人の姪(と言っても全員60代や70代です)が頻繁に出入りして、哲代さんを見守りつつ、できないことだけ補う形で自律を維持できるように甲斐甲斐しく活動しています。101歳から104歳までの間でも哲代さんはどんどん老いが進行し、ガスコンロで服を燃やし髪まで燃やすような大事故が起きてから、姪たちが早々にIHを導入していたりします。そのような事故が起きたことの収録が後日に行なわれ、姪たちが焦げて大穴の空いたエプロンや短くなった哲代さんのヘアスタイルを見せては説明していますが、哲代さんはその事故を殆ど覚えていないことも明らかにされます。

持病で足の甲に激痛が走るようになるなどで収録期間にも数度入院していますし、退院してもすぐに独り暮らしに戻るのではなく、介護施設に短期で入所したり、姪の家に居候を短期間したりするなど、柔軟な生活パターンのくみ上げをしています。

そう言う出来事を重ねながら、スクリーン上でもあからさまに、部屋の片づけが段々と疎かになって行ったり、自宅の風呂に薪をくべて沸かして入ることができなくなって、デイサービスで週数回風呂に入ることを楽しみにするようになったり、料理も映画前半は殆ど自分でしていたのを宅配弁当のサービスを採用したりするなどにどんどん変わって行っています。家中の主要な場所に歩行補助の手摺が設置されたりもします。

パンフレットでも後述するように浄土真宗僧侶で歌手の二階堂和美が「途中からひやひやしてきた。この映画は終れるのだろうか、と。だが最後にまた、まさかの一人暮らしを始める知らせが私たちに届けられた。思わず拍手」と書いています。

何か固定的な老人の生活実態を描いて終わりなのではなく、この作品はまる3年以上に亘る100歳越えの“元気な老人”の衰えとそれに合わせた生活の柔軟な設計のありようを淡々と描いている点で多くのドキュメンタリーと異なり、観客の関心を掴んで離さない「ひやひや」感を実現することに成功しています。

二階堂和美は「拍手」と称賛していますが、全編終了後の何処かの時点に一人暮らしの完全破綻のタイミングが先延ばしされたように感じられ、同じく「ひやひや」を感じた私ですが、どちらかというと漂う不穏さを感じてしまったように思います。

こうした高齢者の生活の「ロールモデル」絵巻が展開するの主軸ですが、それをより多面的に描写するための切り口が次々と観客に提示されて行きます。例えば、以下のような事柄です。

■地域コミュニティの中の生活
 最近田舎暮らしの失敗事例がネットでもよく登場するようになりました。移住先の田舎で想定外であったのは、田舎の人々の都会生活者には「過干渉」・「侵害」ともとれるような相互の生活の混じり合い状況でしょう。地域の核都市ぐらいへの移住が程よいと今は亡き森永卓郎も「トカイナカ」生活を推奨しています。それは田舎のデメリットを稀釈する観点でも受け容れられつつある考え方とされています。
 哲代さんの姪はざっと見で(自分の兄弟姉妹の娘と亡き夫の兄弟姉妹の娘など)合計4、5人登場しているようですが、誰一人として哲代さんと同居するようなことを言い出しませんし、家事なども頻繁に代行していると言ったようなことがありません。村の人々と関係性も、哲代さんが自身も立上に加わった高齢者が集まる「仲よしクラブ」での週一の活動に参加していますが、哲代さん以外の高齢参加者にどの程度の参加圧力が存在しているのかは分かりません。見ている限りでは哲代さんと会えば日常会話をする男性高齢者などは参加していませんし、逆に参加者は哲代さん作曲の「中野ソング」などを普通に合唱していますから、それなりに固定的であろうと思われます。
 高齢者を地域の寄合などの卒業生として扱っていて、この作品の中には片鱗も描かれていないという風に考えることもできますが、少なくとも劇中で地域コミュニティのデメリットは見当たりません。
 パンフには和田秀樹が、哲代さんの住む地域が嘗て充実した訪問看護体制で「つくられた寝たきり」を防ぎ、日本一の高齢者福祉・高齢者介護の町として知られた広島県御調町(現在は尾道市に編入)であると書いています。そうした地域コミュニティと高齢者の距離感が既に根付いている土地柄であるという考え方も成立するでしょう。

■認知症的症状の状況
 哲代さんは黒く錆びた古い包丁で味噌汁を作ったりしていますし、家の坂を下りた先の道路の反対側には野菜畑があり、少なくとも入院生活や介護施設での生活が少なめだった劇中前半では農作業に毎日勤しんでいます。
 また片道4時間の姪の運転による自動車移動で神戸に脳梗塞で麻痺が進んだ唯一生存している哲代さんの妹を訪ねたりしています。電動シニアカーで砂利道を移動して「仲よしクラブ」にも行っています。動くことや話すこと、出掛ける意志を持ってきちんと身繕いすることなどが認知症の進行を食い止めるのに非常に役立っていることが見て取れます。
 特に哲代さんが80年ぶりという同窓会に担任教師として招かれる件では、当初、話し掛けても反応が鈍い哲代さんが、参加者一人ひとりの出席を取り、思い出話を色々と語るうちにどんどん会話が滑らかになり、最後には皆の歌う『仰げば尊し』を立ち上がって一緒に歌いながら指揮をしたりしています。一つのイベントの中で哲代さんの脳が活性化して行くプロセスが分かる物凄い場面です。

■進む老いを受け容れる姿勢
 映画では哲代さんの生きる(/老いる)哲学が強調されています。日々感謝して生きることや、人々を笑顔にすることを優先事項と捉えることや、できなくなった事柄を悔やむのではなく、今できることに目を向けることなど、
 哲代さんの家の前の道路に至る坂道も、まるで哲代さんの老いがどんどんと募っていく人生のありようを示すように、かなり急でそれなりに長い距離があります。哲代さんはその坂を下り昇り(家から出かけて戻るという流れで言うと、坂道を降りて出掛け、坂道を昇って帰宅するという順番です。)がどの程度可能かが、その日の隊長や老いの進行状況のバロメーターであると語られています。
 坂道は老人が転倒を警戒するのが降りる方であることが映画では強調されます。確かに、昇りで転倒しても地面まで頭部が落ちる距離は短いですが、下りで前につんのめると長い弧の距離を頭部が動き、一度転んでぶつけた後そのまま転落の可能性があります。その危険を避けるため、哲代さんは出掛ける際に坂を降りるときは、後ろ向きに後ずさりしながら坂を下りるのです。あちこちの雑草などを千切りながら、そして途中で休憩しながら、じりじりと坂道を降りて行きます。
 こうした物理的な動き方をしなければならないことを哲代さんが悔いたり恥じたりすることはありません。そんな風な動き方をするということを普通に受け容れていますし、姪たちも淡々と接しています。
 一つ興味深いシーンを先述の二階堂和美がパンフレットで取りあげています。哲代さんが102歳の誕生日に尾道の商店街に久しぶりの買い物に連れて行ってもらいます。そこに当然ですが撮影スタッフも同行し、古い衣料店を訪れた際にスタッフが水玉のブラウスを誕生日プレゼントとして哲代さんにプレゼントし、とても喜ばれています。ところが、その後の取材時に哲代さんのお出かけの場面だったので、スタッフが「あのブラウスを着てください」とリクエストするのですが、哲代さんはブラウスを買ってもらっていたことも失念していましたし、当然、そのブラウスもどこに行ったか分からなくなっていました。そして、それは人々に感謝して生きる哲代さんにとってはかなり恥ずべき事態です。
 二階堂和美は以下のように書いています。
[以下抜粋↓]
 せっかく体裁を気にして草を抜いているというのに、プレゼントされた服のこともうっかり忘れ、忘れていたことにヒヤリとした姿まで撮られ…そんな体裁の悪いことを公開されながらも、やっぱり明るくかわし受け入れてくださるのだ。そうした生の姿が収められているところが、名言集や講演会とは違う、この映画の見どころかもしれない。
[以上抜粋↑]
 このシーンは私も注目しましたが、統括プロデューサーの岡本幸も注目していてパンフで言及しています。
[以下抜粋↓]
 映画の中で、哲代さんがスタッフからプレゼントされたブラウスを紛失する、という場面があります。哲代さんは「大好きじゃったのに」とシュンとした表情で真偽不明ながら感謝の気持ちを伝え、見つかってからは飄々と「『誕生祝い』と(胸に)書いておかないといけない」と笑い話にしてみせます。やるなぁ!と思わされます。
[以上抜粋↑]
 先述の坂道のような物理的な老いの現象の受け容れと相俟って、こうした哲代さんの記憶や判断に関する能力の衰えとの付き合い方も、確かにこの作品の見どころです。

■人生の責任や後悔、悲しみの背負い方
 哲代さんは広島県府中市で生まれて19歳で小学校教師になり、26歳で同僚の良英氏と結婚し尾道での暮らしを始めます。良英氏は長男のようで家督を継ぐ立場でしたが、結果的に哲代さんと彼の間に子供ができず、姑からもそれを責められる立場となりました。姑にも良英氏にも感謝を抱く哲代さんから、劇中でその責めがどのようなものかが語られることはほぼありませんでしたが、哲代さんが日記などと合わせて多々書き綴っているものの中に、「申し訳ありません」と何度も良英氏に向けて書いている文章が劇中に登場します。
 家も相応に大きいですから石井家はそれなりに地域で有力な家であったと想像されますし、学校の先生になれるのもそうした「格」の現れであったろうと思われます。教師同士の結婚で、その家を盛り立てて行くはずが、家の断絶しかない状況がどんどん明らかになっていく中、哲代さんの自責の念は非常に激しいものであったろうと思われます。
 もっと財産があり格の高い家なら、子を生さない嫁を離縁したり、妾の子供を家に招いたりするなどが起きても不思議ない時代であったはずです。
 哲代さんの家の仏壇の上には先祖数台前までの人物の肖像写真が飾ってありますが、それらの人々が見下ろす中、今でも哲代さんは毎日仏前に日々を報告し、大過ない日々を送れることを感謝し念仏を唱えます。そして入院などで家を長く開けて戻ってきた際には、念仏の前に必ず「長らく家を空けて申し訳ありません」と先祖に詫びるのです。
 同窓会に担任教師として呼ばれた際のインタビューの中に、まさに哲代さんが教師になるのと同時ぐらいに始まった太平洋戦争について語っている場面があります。開戦の報に校長先生が全体集会を開き、戦争が始まった旨を告げたなどと言います。その後、状況はどんどん厳しくなり、グラウンドの周辺で芋を栽培したりするなどの生活の変化と教科書の内容の軍国教育への変化など、戦争の影を語りの中で再現してみせます。
 哲代さんは「この子達が戦争に行かなくても良いように、何とか早く戦争が終わってくれないものか」と日々願っていたと言います。劇中では言及されていませんが、尾道から広島は目と鼻の先ですから、原爆被害なども事実上現地で体験した人々と言えるかと思います。「グラウンドのあの辺まで畑じゃった」と笑いながら語る80代の生徒達に対して、当時を思い返す哲代さん表情は必ずしも明るくありません。
 さらにもう一つのイベントが先述の妹桃代さんを神戸に訪ねる件りです。両者が亡くなる前に最後となるかもしれないから一度実現させたいと姪たちが実現させてくれました。しかし、当時通称武漢ウイルス禍の真っ只中で、高齢者介護施設での面会はアクリル板越しで互いに触れることもできず、面会時間もたった10分でした。さらに桃代さんは麻痺のせいで体は動かせず、ものも言えず、目はほんの微かに開いているような状態です。哲代さんがアクリル板越しに1mぐらいの距離から車椅子と同化したような桃代さんに「モモちゃん。モモちゃん」と呼びかけ涙すると、桃代さんの瞼も僅かに動き、頬を涙が伝って流れていました。
 劇中では哲代さんが桃代さん訪問後に書いた詩が哲代さんの手書き文字のままスクリーンに浮かび、ナレーターのリリー・フランキーの落ち着いた口調で読み上げられています。最後になるかもしれない面会の形としてあまりに理不尽に感じられますが、帰りの車中でも哲代さんがその不満や理不尽さを語ることはありませんでした。
 こうした諸々のエピソードを通して、冗談を言っては人を笑わせ、自分も「エヘヘヘ」と笑い暮らしている哲代さんの胸の内の一端にある深い悲しみや自責が明らかになって行きます。だからこそ哲代さんの前向きな人生の姿勢が際立って理解できるのです。

パンフには、最初のテレビ取材を初めて書籍出版にまで至った二人の女性新聞記者、監督、統括プロデューサーを始めとして、老人医療の先駆者である和田秀樹、女性の生き方を描くことに定評のあるエッセイストの酒井順子(最近『老いを読む 老いを書く』という書籍を出しています。)、先述の二階堂和美が各々2ページもの文章を書いていますが、全員が全員、哲代さんのもつ魔術的なほどの魅力と、完成した総集編である本作の中に描かれた哲代さんからの学びを消化できず、要素を取捨選択することもできず、七転八倒していることがとてもよく分かります。それほどに、哲代さんは新たな思想や社会潮流に疲弊して行き詰まり、生き辛くなっていると言われる私たちにとって、型破りでいて圧倒的な説得力を持った「ロールモデル」なのであろうと思います。

取り分け、木ノ元陽子・鈴中直美の両記者の文章は、まだ世の中が哲代さんを知らない頃の原石の発見の衝撃が綴られており、面白い上に、パンフの文章中で辛うじて哲代さんと本作の魅力を包含することに成功しているように感じられます。『小さな背中を追いかけて』と題された文章は以下のように始まります。

[以下抜粋↓]

「100歳になるおばあちゃんが、はつらつと一人暮らしをしている」。そんな話を聞きつけて、アラフィフの記者2人が哲代さんに会いに行ったのは、2020年春のことだ。とっぷり日が暮れて帰る道で、私たちは即決したのだった。この人の日常を丁寧に追っていこう、言葉を拾っていこう--。そうして始めた新聞連載は反響を呼び、2冊の本になった。
 あの日、初対面の私たちに哲代さんはこう言った。「わたくしは自分をご機嫌にする名人なんでございますよ」。そして、くくくと首をすめて笑った。その言葉、しぐさ、まなざし、息づかい…。温かくて、深くて、鋭くて、尊い。その一つ一つに100年の歳月が年輪のように刻まれているようだった。「老いてこその輝き」がそこにあった。」

[以上抜粋↑]

パンフでその切り口からの言及が(他にもあまりにも触れるべき要素が多過ぎるからでしょうが)あまり見当たりませんが、私は哲代さんの言葉遣いが劇中で妙に引っ掛かりました。なぜそんな言葉遣いなのか、言い換えれば、どうしてそのような言葉遣いを教師だった哲代さんが選択しているのかが、鑑賞後の今でも尚、よく分かっていません。

哲代さんの語用には目を見張るものがあります。

「そんな心配は全然ナイチンゲールでございます」
と否定的なことを言う際にはナイチンゲールと言って笑える言葉に替えると、ネット記事か何かで哲代さんが言っているのを読みました。現実に劇中でも何回か言っています。映画の冒頭でトレーラーにも登場していてパンフレットでもかなり冒頭に載っている台詞も印象的です。

「生きとるからこそできることがいっぱいですよ。友達とも話ができるし、花も摘まれるし、ありがたい人生でした。あ。『でした』言うたらいけん。ありがたい人生です。『ing(アイ・エヌ・ジー)』でいきましょう」。

勿論100年前の英語だって進行形があるのは当たり前ですし、学校教師のみならず、中学英語を習っただけで進行形を作る現在分詞の形は誰しも習っているはずです。しかし、日常のふとした会話の中に、こんな表現を組み入れるには相応の知性が必要です。仲良しクラブでは大正琴で自作の曲を弾き、触れることもできなかった妹への想いを詩に纏め、日記をつけ、何となく漠然と考える100歳過ぎの老人のイメージとは大分食い違っています。その上でそれに伴っての時にウィットが利き、時に含蓄溢れる語用なのです。(惜しむらくは、広島弁が色濃く出ている際には言っていることが分からないことです。DVD化があるなら、是非字幕を付けて欲しいと思います。)

ドキュメンタリーとしてのこの作品が凄いのは結果論であるように思えます。実は開けっぴろげに取材活動を自分の親しい友人の訪問のように自分の生活に取り込める哲代さんの価値観や知性が物凄いがために、そして、新聞記事の連載から著作2点、そしてテレビ番組、映画と、徐々にコンテンツが揃い漸く哲代さんと言う複雑なコンテンツ・システムの全容が捉えらえるようになり、それが一応現段階の映画に結実したということのように思えます。

しかし、いずれにしても驚愕の作品です。パンフで相互告知される『ハッピー☆エンド』は快作でしたが、同ジャンルに『エンディングノート』が屹立しているために、僅かに邦画ベスト50を逃していますが本作は私の邦画ベスト50に含めなくてはなりません。今年最大の衝撃作だと思います。勿論、DVDは出るなら絶対の買いです。

追記:
 尾道は数年前に広島市街や厳島神社など共に1泊2日の弾丸旅行で商店街と大林宣彦監督作品の幾つかのロケ地を訪れたばかりでした。哲代さんの住む場所は(尾道市に併合された場所のせいだろうと思いますが)全く見覚えがありませんでしたが、哲代さんが誕生日に商店街に買い物に行く場面では、登場する服屋でさえ微かに見覚えがあるように感じられました。