『愛に乱暴』

 8月30日の封切からほぼまる1ヶ月経った9月最後の日曜日の晩9時55分の回を新宿のピカデリーで観てきました。105分の作品ですので、他作品のトレーラーの時間などを含めると、終了はほぼ12時の終電時間です。

 1日1回しかやっていません。都内でも、新宿以外では渋谷で1館、吉祥寺で1館と言った状態で、すべての館が1日1回になっています。

 新宿ピカデリーではこの週末のみが夜遅い上映時間で、その後の月曜日からは所謂人気が翳った作品の定番時間枠の午前早めになってしまうため、慌てて観に行ってきました。

 新宿ピカデリーでは建物の入口直ぐのホールが正面と裏側で高さが違うため、中二階のような構造が存在します。映画館に上がって行く手前のそのホールでもよく映画作品のプロモーションが行なわれていますが、この作品も嘗てかなり大々的なプロモーションが行なわれていて、主要な角柱の4面に江口のりこがチェーンソーを抱いている等身大よりも大きそうなビジュアルが描かれていたこともありました。そのようなプロモーションの気合の入りようからすると、まる1ヶ月でかなりの落ち込みと考えられるように思います。

 シアターに入ると、この落ち込み感はさらに増しました。日曜日の終電時間枠とは言え、私以外に男性が4人、女性が2人という状態で、低調と言うしかありません。男性は2人が30~40代の肥満体型で偏見全開で言うと、オタク系というか引きこもり系の飾らない服装にやや油ぎって伸び放題の髪という風体でした。残りの二人は20代のようで、ややストリート系の服装に見えました。女性の方は20代が1人と40代ぐらいが1人です。前者は黒髪にシンプルな黒系カジュアルと言う感じでしたが、後者は茶髪にTシャツ、デニムのホットパンツ、金色の装飾付のバッグを肩から掛けていて、映画開始前の段階では遠目に20代なのだろうと思っていました。

 私がこの作品を観たいと思ったのは、単純に江口のりこが主演しているからです。江口のりこが凄く好きでその出演作を何でも観たいというほどのファンではありませんし、例えば、彼女のエッセイ集とか写真集が出ても全く購買意欲が湧かないと思います。ただ、彼女が主役の作品で、それが気怠いエロスであれ、抑圧感であれ、そうした真夏の東京の重く湿気た空気ようにまとわりついてくる場の中に溶け込んでいる彼女を観るのはとてもエキサイティングに感じます。『あまろっく』の感想で江口のりこについてこのように書いています。

「この映画を観に行こうと思った最大の理由は、久々の江口のりこ主演作であることです。『戦争と一人の女』の感想で以下のように書いています。

「 しかし、この映画を私が観に行きたいと思い立った理由は、やはり、江口のりこです。江口のりこの色白ののっぺりした華の無い顔と特にスタイルが妙にいい訳でもない風体から繰り出される、よく言えば何もかも達観したような言動、悪く言えば、人を食ったような態度やせりふが私はとても好きです。遥か昔の若い頃に、似たような顔・体型、そして言動の女性が好きになったことがあるのが、多分最大の理由だと思いますが、(本当の江口のりこはどのような人物なのか全く知りませんが)彼女の務める多くの役柄において、その放射される妖しさが突き刺さってくるように思います。

 実は私が観に行った日の翌日のトーク・イベントには江口のりこが登壇の予定でしたが、当日行ってからその事実に気付いた上に、スケジュールが全く合わなかったので、江口のりこが本当はどのような人物なのかを私は全く知りません。翌日のトーク・イベントは『「野田とちがいます 女優が見せるもうひとつの顔」』と言うタイトルで、彼女が最近主演を張って大受けであるらしいワンセグドラマ『野田と申します。』の本人との違いなどを語るとのことでした。しかし、画面で見る江口のりこで十分で、別に追っかけのファンになりたい訳でもないので、まあ、良いかと言う感じでもあります。

 追っかけのファンではありませんが、私はゆっくりと江口のりこに注目するようになったように思います。一番最初に前述のような魅力のある女優としての彼女に気付いたのは『非女子図鑑』での主役作品です。そして、映画館で逃して後にDVDで観た『ユリ子のアロマ』での堂々の演技です。怪優と言っていいと思いますが、思いのほか、主演作が少ないのが難点でした。ウィキで見ると、『ジョゼと虎と魚たち』、『スウィングガールズ』、『気球クラブ、その後』、『観察 永遠に君を見つめて』、『赤い文化住宅の初子』など数々の私が大好きな作品群に出ている筈なのですが、殆ど記憶に残らないような役柄です。さらに、『イキガミ』や『ヘルタースケルター』などにさえ出ていると言われると、DVDを山のように借りて、ウォーリー君の如く江口のりこを探しまくってみたくなります。」

 この後も江口のりこを見るごとにじわじわと好印象が無意識のうちに蓄積して行ったように感じます。その中には上に挙げた『ジョゼと虎と魚たち』での彼女の存在感の大きさを後でDVDで見返して再認識したこともありますし、『スウィングガールズ』の寧ろやたらに影の薄い楽器店店員を再確認したこともあります。さらに、ネット上で大きく話題になったドラマ『名もなき毒』の狂気のストーカー女の役もDVDで確認して非常に楽しみました。

 その後も色々な作品で観ます。DVDで観た『あさひなぐ』の尼やら『羊とオオカミの恋と殺人』の殺人組織のまとめ役やら、劇場で観た『波紋』の新興宗教狂いの主婦とか、あちこちに出てきます。最近でもDVDで観てみた『シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。』にもいきなり犯罪に走る敏腕刑事役で終盤に登場していました。主演を張る江口のりこのイメージはやはり、『月とチェリー』『お姉ちゃん、弟といく』『ユリ子のアロマ』、そして傑作の『戦争と一人の女』のように気怠いエロさが最高です。しかし、今回は主役なのに大分趣が異なり、細かな表情や言動で本人の抱える複雑で揺れ動く感情を表現しなくてはならない、難易度の高い役と『王様のブランチ』で見た前情報で知っていました。」

 この『あまろっく』を観に行った最大の要因は中条あやみでしたし、江口のりこの存在は物語のテイストを決めるのに笑福亭鶴瓶と並んで必須でしたが、それでも、江口のりこを観るための作品としては不発感が残ります。そこで『あまろっく』以上の全開の江口のりこを観てみたくなり、この作品を鑑賞することにしたのでした。

 観てみると難解な作品です。全体の印象で何か似ている作品があるなと思って頭に浮かんだのが、佐々木心音主演の『クオリア』でした。どちらも形ばかりの結婚生活が物語の「場」となっていて、妻の方は夫を愛する気持ちが溢れ出て来るものの、夫がそれを受け止めることができず、若い愛人に走り、愛人は妊娠をしたと言って来ます。この作品では愛人の妊娠は結果的に流産になった可能性があります。『クオリア』では愛人の妊娠は最初から嘘でした。つまり、両作品において愛人と夫の間の子供が生まれる描写は登場しません。

 姑的な存在がほぼ同居している状況も類似しています。今時の核家族化が進んだ状態で、寧ろレアな設定かもしれませんが、そうなっています。どちらの作品でも、夫婦は離婚に向かい、この作品では夫が戻らなくなり、姑は二世帯が別々の棟に住む家・土地の半分を売って出て行きます。『クオリア』では妻が家を出奔するエンディングです。

 酷似した構造であることが分かります。この作品は神奈川県綾瀬市が舞台のようですが、古い平屋の家が目立つ緑の多い住宅街です。『クオリア』の方はかなり地方の感じで主人公達が住む家が、彼らが経営する養鶏場と隣接しています。いずれにせよ、先述のような核家族が高層のマンションやアパートに住んでいるような都市部の生活とはかなり縁遠い感じの家族の物語です。

 この作品を観終って一番最初に頭に浮かんだのが、遥か以前読んだ『人はなぜ不倫をするのか』という新書です。その中で上野千鶴子だったと思いますが、不倫を論ずる以前に、「人はなぜできないことが分かり切っている結婚という約束をするのか」のような疑問を提示していました。生物として考えるなら、遺伝子の組み合わせはより良いものを試せた方が良いのが当然ですから、長らく同じ組み合わせのオスとメスが生活を共にする方が不合理ではあります。

 動物の生態を扱うテレビ番組などで、生物でも固定的なオスとメスの組み合わせで子育てをしているなどと人間の結婚生活に擬えた解説をしている場面を見ることがありますが、そのような動物達の多くは特定の発情期の間や最長でも数年の特定の子育ての間だけそうしているのであって、死ぬまで添い遂げるような関係性ではないでしょう。その意味で、神に誓って固定的なオスとメスの関係を築いたりするのは人間固有の(それも有史以前からカウントすると)ほんの最近の制度でしかなく、洞窟の集団生活に最適化された人間の遺伝子の決める種の保存則に逆らったものである以上、破綻しやすいのは当たり前とみることができます。

 それでも家族という構造を維持しようと思うなら構成員がその姿勢を共有していなければなりません。親が子供を育てるという関係はそれなりに「かすがい」になるようなものであっても、それ以外の関係は基本的に他人のそれや、兄弟・姉妹のように「他人の始まり」ですから、意志を以てそうした家族関係を築く努力を構成員皆がしなければ、家族は維持できないでしょう。『クオリア』では妻のみがその努力をし、他の家族構成員は徐々に彼女がそうしてくれている効用に気づいて行動を変容させていくものの、その時には後の祭り…といった展開ですが、本作では既に夫は家族を維持する意思が全くなく脱出の準備を水面下で進めていて、姑は別棟で形式的に妻との人間関係を維持しているだけ。妻はそういった二人の意志のベクトルを知っていながら、それに気づかないふりをしつつ、家族維持のための姿勢を維持し続けていて、ジワジワとストレスが表面化していくのでした。短い文章にこのような設定を映画.comの作品紹介はややスッキリし過ぎであるものの上手くまとめています。以下のような文章です。

「「悪人」「怒り」などで知られる作家・吉田修一の同名小説を江口のりこ主演で映画化し、愛のいびつな衝動と暴走を緊迫感あふれるタッチで描いたヒューマンサスペンス。

初瀬桃子は夫・真守とともに、真守の実家の敷地内に建つ離れで暮らしている。桃子は義母・照子から受ける微量のストレスや夫の無関心を振り払うかのように、石鹸教室の講師やセンスある装い、手の込んだ献立といった“丁寧な暮らし”に勤しんで日々を充実させていた。そんな中、近隣のゴミ捨て場で不審火が相次いだり、愛猫が行方不明になったり、匿名の人物による不気味な不倫アカウントが表示されるようになったりと、桃子の日常が少しずつ乱れはじめる。」

『名もなき毒』などの幾つかの作品で共演経験のある江口のりこと小泉孝太郎ですが、今回は一般的な彼のイメージを覆し、かなりクズな夫の役です。彼女に会ってくれと妻の江口のりこにいきなり言い出し、江口のりこはそこで夫と愛人が別れるための決着をつけるものと期待して行きます。しかし、先に着いた夫婦二人は4人がけのテーブル席に並んで座っていますが、馬場ふみか演じる愛人が現れると、夫は彼女の隣に移動して、二人で「すまない(/すみません)」と繰り返しつつ、周囲に人が大勢いる中で、妻に「別れてくれ」」と迫るのでした。

 江口のりこ演じる妻は「離婚」を拒絶し続けて、映画の最後でもどうなっているかわかりません。しかし、夫は家を出ていき、夫婦がそのような関係にあることを(以前から感づいていたと思われますが)理解した姑は、自分が住む母屋の部分の家と土地を売り、妻に「居たければ、ここにいて良いのよ。離れをあなたにあげるわ」と告げて去ります。

 姑も息子である夫から話を聞いた際には「桃子さん(妻)はどうするってことなの?それじゃあ、桃子さんにあんまりじゃない」的なことを言い、彼を詰問する姿勢を一旦はとります。しかし、二人の結婚の経緯を思い出し、自分が当初から妻を歓迎していなかったことを思い起こし、辛うじてフェアであろうとして、不動産の半分を妻に分け与えたということなのでしょう。

 実はこの夫婦の結婚の経緯は曰く付きで、夫は別の女性と婚約ないしは結婚していたようなのです。夫はその時点でも(どの程度本気だったかは別として)二股を掛けていたようで、江口のりこは捨てられかける状況になったと思われます。その際に、江口のりこは「妊娠した」と現在の夫に告げ、それが早々に流産していたにもかかわらず、それを教えることなく結婚に漕ぎつけていたようなのです。

 つまり、夫は本来の結婚相手の女性を捨てて、本来捨てようとしていた女性(江口のりこ(演じる桃子))の妊娠を理由に不本意な結婚をしたことになります。息子から離婚の意志を聞き、愛人に乗り換える話を聞いて、姑は「また同じことを繰り返すの?」と詰る場面もあります。息子は「過去の話はもういい」と言っていますが、実際には不本意な結婚の精算をずっと模索して来たのではないかとも思えます。

 その経緯を知ると、(夫がクズ臭いのは明白として)妻の方も計算尽くで妻の座を得た結果なのではないかと思えますし、だからこそ、その妻の座がとうの昔に揺らいでいてもそれを無かったことにしたかったでしょうし、夫が自分と離婚しようとしているなど絶対に認めたくなかったのだろうと思えます。そのような経緯が姑と夫との短い会話で触れられると、突如、今まで健気に結婚生活を維持しようとしていた江口のりこの表情がやたらふてぶてしいものに変貌して見えるのが不思議です。

 夫は彼女のプライドやら希望やらをズタズタにして去り、普段コミュニケーションを一番取っている姑は理解者でも何でもなく、住む場所を残した以外は何の救いも齎しませんでした。おまけに正社員で働いていた職場でパート復帰していますが、仄めかされた正社員復帰の道は彼女のほぼ唯一のパイプの元上司のリップサービスでしかなく、彼女が講師として活躍する場だったパート仕事はいきなり終了を告げられ、何等の説明もなければ、多分会社からの正式な通知もない状態でした。

 犯人が誰かも分からないままですが、前述の紹介文にある通り、彼女が使う町内会のごみステーションではあちこちで放火が続き、最後には彼女がよく使うステーションも火に包まれ、警察から追及されかけます。それ以前にそのステーションは空き缶や生ごみのようなものが散乱していることがあり、放置されたそれを自主的に片付けるのは彼女だけです。彼女がごみを捨てに行っても、大抵1、2羽のカラスがいて全く物怖じせず、彼女が足を踏み鳴らして威嚇しても、逆に彼女を威嚇し返してくるぐらいでした。色々な意味で彼女の日常生活が不快なものへと蝕まれるように変貌し、彼女の立場がどんどん失われて行くプロセスが緩慢に描かれて行きます。

 この作品はチェーンソーを持ち出し、行き詰まった日常を破壊する妻のカタルシスや、ゴミステーションの近くに住んでいて、清掃や片づけを自発的にしてくれる彼女をただ傍観していた中国人らしい若い男性に「ありがとう」と言われること、物理的にも家と土地が半分失われ過去とは違う形の中で自分一人の生活を始めることになったこと、そういった僅かで多くは刹那的な喜びや解放に支えられて、妻が歩み出すに至る物語ではありますが、その歩み出しはかなり終盤になって発生し、それもまあまあ建設的且つ円満なのは、ラストの半分になって残った家・土地の縁側でもう片方の解体工事を見つつアイスキャンデーを頬張る江口のりこの姿ぐらいで、それまでの間はずっと追い詰められどんどん崩れて行く江口のりこの怪演を堪能するための映画に見えます。

 実際に、ネットでも言われているように、それ以外の要素ではかなり回収されない謎やら伏線があるように見えますし、隠喩・暗喩の類もそれなりに鏤められているように思えます。最大の謎は「ぴーちゃん」でしょう。江口のりこ演じる妻は、劇中で(観ていてうんざりするほどに)「ぴーちゃん」と彼女が呼ぶ野良猫に餌をやるべく探しています。途中から姑がそうした野良猫が敷地に入るをの嫌がって、猫除けのスプレーの自動発射装置を玄関脇に設置しているのを知り、妻がショックを受ける場面もあります。この「ぴーちゃん」の鳴き声が微かにするたびに妻は縁側に飛び出して探しますが、映画の最後まで「ぴーちゃん」は現れませんでした。(米国ではペットの猫に名づけない人々が結構います。「名前を読んでも来ないから」というのがその理由です。私は必ずしも同意しませんが、ペットの猫の行方を探すのに、住宅街の路上でまで呼び続けるのは、少々非現実的に感じられました。)

 この鳴き声は想像するに他の野良猫の声であることもあったでしょうし、江口のりこの偏執的なストレス状況での幻聴であったこともあるのではないかと思われます。いつしかこの鳴き声は縁の下から聞こえるようになり、「ぴーちゃん」を救うためにチェーンソーの出番となります。しかし、実際に縁の下に畳の間のど真ん中に穴をあけ入れるようになると、その土中からクッキー缶のようなものを江口のりこは掘り出し、中からベビー服を一着取り出します。明らかに彼女自身が埋めたのを掘り出した様子です。そのベビー服を縁の下の土の盛り上がりをくるむ様に置いて添い寝するようになります。夫や姑がその様子に怯えを抱くようになると、「ぴーちゃんに会いたくなったからこうした」と彼女は答え、「野良猫を探すためにこんなことをしたのか」と言われて、「ピーちゃんは猫じゃない」と妻は答えています。

 つまり、当初餌付けされ続けた野良猫の「ぴーちゃん」として描かれていたのは、縁の下に眠る彼女の流産した子供であったようなのです。流産した子供が輪廻して野良猫になって、彼女の周りにいた…ぐらいの解釈をしなければ、この辺の辻褄が合いませんが、その説明は一切ありません。

 また、妻は作品の初頭から旧ツイッターの特定アカウントを(夫に隠れて)よく見ています。フォローしている相手は「うにゃ22ニャン@妊活」というアカウントで、妊活の結果妊娠し、「彼が現在の妻に離婚の話をしてくれます」、「二人で旅行に行きます」、「二人で謝りに行くことになりました」、「奥様は真面目な方だそうです」などと投稿は続きます。そしてその後、「流産しました」が続きます。この投稿の状況は夫の愛人の話と並行して進行するので、劇中の江口のりこを見ていると、彼女は既に夫の愛人のアカウントを特定し、ずっとそれをフォローして読んでいるのだろうと思えます。パンフを読むまで私もそう思っていましたので、それなりに多くの観客がそう思っていたのではないかと思えます。

 しかし、原作はかなり古くSNSなどない時代に書かれていて、この部分は日記が対応しているのだとパンフに書かれています。実はこの日記や投稿は妻本人のものだったのです。原作で日記が登場したら、それは妻が自分が書いたものを読み返していると分かるのではないかと思われますが、スクリーン上でスマホ画面を繰り返し見るだけでは、それが愛人のものと思ってしまいがちですし、並行して展開する愛人の事実関係を見ると、監督は意図的にそのような取り違いを誘発しようとしたのだと思われます。

 パンフの中で江口のりこがインタビューに答えて、このつぶやき投稿が妻のものであると明言しているので間違いないでしょう。そうすると、後に姑と夫との会話で言及される夫と妻の結婚の経緯も明確になりますし、それが今回の馬場ふみか愛人との再スタートの構造と全く同じと姑が指摘するのもよく理解できます。

 他にもパンフでわざわざかなり大きな面積を割いて江口のりこが愛人宅に乗り込む前に自宅の畑でスイカを一玉切り出して抱き上げて立っている写真が掲載されています。その写真を見ると、スイカの持ち方が妙に大事そうで、愛人宅への土産(この妻は自分を邪険に扱っている元上司に会いに元の職場を訪ねるのでも手土産を持って行きます。)にしては、異常に大切そうに見えるショットです。劇中ではこの構図があったのでしょうが、一瞬のことで(特に画像記憶ができない私には)その存在が記憶されていませんでした。

 パンフの大きな画像で見ると、その抱え方は胎児のものであろうと分かります。勿論、胎児は露出していませんから、実際には臨月近い大きなおなかを妊婦が自分で撫で支えるようなポーズと言った方が正確です。自分の夫の子供を身籠った愛人に向き合うのに、自分は(流産したものの)自分も胎児を持っているかのような構図を作ろうとしたものと想像できるのです。

 私の映像読解力が低いのかもしれませんが、パンフを読んで初めて理解できるこうした点を踏まえると、江口のりこが演じた妻は、自分が夫の前妻に対してしたことをそっくりそのまま返されている、ネット的に言うとブーメラン状態であることが理解されるのです。自業自得とか因果応報的な物語として改めて振り返ると、江口のりこの追い詰められ様の緩慢な描写は、勧善懲悪的な視点からシンプルに見れば、或る意味、拍手喝采の展開かもしれません。それでも、老獪になった彼女は、多分以前の捨てられた前妻以上に得るモノ多く、人生の再スタートを(「あなたはまだやり直しが利く」という姑の言葉通り)切ったのではないかと思えます。

 それが推量されるのは、ラストに縁側でアイスキャンデーを頬張る江口のりこのシーンが湧かせる違和感です。劇中で観た時点でも、江口のりこが見上げる解体工事用重機の方向が、今までの離れと母屋の構図と逆なのです。つまり、妻は姑とどのように話をつけたのか分かりませんが、自分が住んでいた「ぴーちゃん」の缶も埋まったままであろう離れを解体処分し、自分は姑が居た母屋に移り住んだことになります。離れの方は元々彼女がチェーンソーで破壊したり、畳の間の床に大穴を開けたり、様々なものを処分する途中の荒れ散らかされた状態でしたから、丸ごとリセットしようとしたということかもしれません。

 原作の小説は上下巻の長編で、原作者と監督がかなり連携して映画一本の尺で描かれるSNSも存在する現在の世界観の物語に作り直したことがパンフに書かれています。その結果、その世界観は単に映画を観るだけでは、相応の読解力不足の人間には十分堪能できないものになっていたのかもしれません。そういった深みや緩慢な展開が比較的早く観客離れを起こした要因の一つかもしれません。(トレーラーなどから多少なりともホラー展開を期待した人々の間では、床板や柱を切るだけのチェーンソーの使い道も拍子抜けだったかもしれませんが…。)それでも、江口のりこ主演作として、パンフの記事でも強調される「江口のりこ謹製“仏調面”」の妙を大いに楽しめる作品であるのは間違いありません。DVDは買いです。

追記:
 最近、某焼き肉チェーンのセットメニューの問題を始めとして、男性に対する性差別を糾弾する声が高まっているように言われています。男女平等であるのなら女性に対する差別ばかり取り上げられ、男性(特に中年以上の男性や恋愛弱者的な立場の男性)をネタにして差別や誹謗中傷するのはまかり通るのはおかしいという、或る意味、非常に当たり前の主張によるものです。
(私は映画館で以前は多かったレディース・デー割引も電車の女性専用車両も男性に対する明確な性差別だと思っていますので、こうした意見には一応賛同します。勿論、痴漢は取り締まるべきだと思っています。)
 そのような流れから考えると、本作も先述の『クオリア』もクズ夫に振り回される可哀そうな妻の話と一応受止められ、こうした物語の多さに気づかされます。(上の本文で述べた通り、本作の方は、妻の方も結構因果応報のストーリーと受け取れますが…)
 男女平等をこうしたことにも演繹するのなら、もっとクズ女に振り回される可哀そうな男を描く作品が増えるべきという意見がネット上で目立つようになるかもしれません。

追記2:
 どうもこの作品のタイトルの示すところが私にはよく分かりませんでした。パンフを読むと、人によって多様な解釈が許容されているようですが、監督は妻も夫も“二人の間にあるべき愛”に対して乱暴な態度をとっているというようなことを述べています。その趣旨は分かりますが、「愛」が独立した存在として人間間にあり、それに対して「乱暴な態度」という表現構造が私には何かピンときませんでした。