『寄生獣』

 今年初の劇場映画鑑賞。バルト9で、水曜日の夜9時50分からの回。終了時間は11時50分。終電時間になること、封切から一ヶ月と二週間余りを過ぎた、平日の上映であることなど、色々考え併せると、20人に満たない観客は当然の状況かもしれません。全般に若い層の客が多く、カップルもいれば、女性三人組も男性三人組もいて。私ぐらいに歳を取っているのは、主に男性一人の客数人でした。

 一応、原作の大ファンにカウントしてもらってよいと言う自負はあります。岩明均の作品では、その後の『七夕の国』が最も好きですが、さらにその後の、『ヒストリエ』や『ヘウレーカ』などもかなり好きです。

 映画評で見ると、かなり高評価ですが、私の知る数人の『寄生獣』原作ファンは、「イメージが違い過ぎる」、「必ず失望すること請け合いなので見たくない」などと言う否定派が圧倒的です。私が見た高評価のコメントの主の多くは、原作未経験者ですので、「まあ、それが大きな理由かな」などと思っています。

 私もかなり躊躇した上で観に行くことにしました。躊躇した理由は、やはり…

▲ミギーの声どころか動きまでが阿部サダヲだと言うのが、イメージに合っているとは全く思えないこと。
▲映画に出過ぎで、「他に使える若手俳優はいないのか」といつも思わされる、染谷将太が主演であること。
▲寄生生物同士の戦いなどが、特撮できちんと再現できるとは思えないこと。

などです。それでも、観に行くことにしたのは…

■『寄生獣』には数々の名場面があり、それを実写で見てみたかった。
 実はこの名場面の多くは、後編(『完結編』と言う名称のようですが)に含まれているので、原理上、後編だけを観に行けばよいのですが、そうすると、前編との連続性が強い作りなので、前編を見ておかなくてはならなくなることが見えています。

■大ファンと言うほどではないですが、私は深津絵里が結構好きです。
『(ハル)』、『博士の愛した数式』、『ザ・マジックアワー』などで職人芸的名演を披露していますが、ここ最近ではなんと言っても、『悪人』です。『悪人』以前にも、何かのテレビ番組を見て、「おっ」と思い、『深津絵里のblack comedy ブラコメ』と言う作品までDVDで持っています。
 ただ、今回の配役は、私がかなりこだわりをもつ登場人物の一人、田宮良子で、そのイメージにしてはかなり線が細すぎると思っていました。

■さらに、これまた大ファンと言うほどではありませんが、橋本愛も結構好きです。
 ホラー系の作品の『アバター』や『アナザー』にも主演しているどころか、『貞子3D』で貞子を演じる暴虐ぶりですが、一方で、『告白』、『桐島、部活やめるってよ』、『渇き。』の彼女は、私から見て等身大の“その年代の子”がやたら自然でやたらに印象深く演じられていると思っています。後者のグループの延長線上で、確かに、私が『寄生獣』で最も好きなキャラである村野里美を演じると言うことなら、これは必見と判断せざるを得ません。

 これら三つの理由で観に行った『寄生獣』は、やはり、「原作を知らなければ、非常によくできたドラマ」でした。

 ただ、やはり原作にかなり思い入れを持っている私としては、「いや、これはちょっと」と思えるポイントは幾つかあります。

▲ミギーのキャラは、やはり、翻案の範疇に入っていると思います。
 阿部サダヲの声が先ず軽すぎると言うのは予想通りです。それは、一応、ミギーの体のサイズから考えて、バリトンの声を波長として出すには無理がある…などと、物理学的見地から無理やり納得することにしても、ミギーの性格自体が軽すぎます。原作にはない“喜び表現”などもあれば、好奇心そのままに橋本愛の胸をまさぐったりしますし、シンイチの寄生生物達に対する憎しみにかなり共感・協力的であることには違和感があります。もっともっと理屈っぽく、冷静・冷徹なおっさんのようなキャラにしてもらいたかったです。

▲シンイチの両親の設定変更は容認しがたいです。
 結構良いことを言ってくれるし、それなりにシンイチに影響を与え続け、物語の最後まで生き残る筈であった父親は、既に死んでいるという設定で、良くも悪くもシンイチにとって最も身近な「寄生生物によって家族を奪われた一般社会人」の心情が物語から欠落してしまっています。
 さらに、シンイチの母ですが、専業主婦の原作とは異なり、薬剤師として働いています。それは別に構わないのですが、スタイルとイメージが全然違うのです。余貴美子は、私は全く嫌いではありません。私が観た映画にも多数出演して、物語の世界観の中で原初からそこに居たような自然でありながら圧倒的な存在感がある女優さんだと思っています。このブログでも『ディア・ドクター』での彼女を絶賛しています。ただ、ウィキにも書いてある、彼女の素の“明るくさばさばした性格で姉御的存在である”がそのまま出ているのです。シンイチの母はもっと繊細で壊れてしまいそうな性格の人物でした。母子家庭の母は余貴美子のような性格でなくてはいけないということなのかもしれませんが、スレンダーな外見を持つ原作の母とは、何もかもが違いすぎて、いきなり田舎の肝っ玉かあさんの登場のような感じになってしまっています。

▲そして、予想通り、シンイチのキャラも手垢のついた染谷将太には無理があります。
 私はこの男優がダメな役者だとは思っていません。しかし、山田孝之や松山ケンイチのようなキャラの振り幅がありません。やたらに出る映画の配役が皆、似たり寄ったりの凡庸な性格の今時男子になってしまっていると思えるだけです。私が見た中では、『脳男』の犯罪者ぐらいがこの役者の領域の端っこだと思われます。寄生生物の細胞が混じる前のシンイチはもっとおどおどして、状況に振り回される人間ですし、後のシンイチは、もっと荒んだ、まるでアモンと合体した後の不動アキラのような人物だと思います。そのベクトルの変化は染谷将太も表現しているのですが、如何せんベクトルの長さが短すぎるのです。

▲予想通り、田宮良子のキャラが深津絵里のイメージに引っ張られすぎです。
 先述の通り、深津絵里の“完璧さ”はこの映画でも炸裂しています。田宮良子になりきっていると言って過言ではなく、原作とは異なる田宮良子がそこにいる感じでした。きちんと、その価値観が滲み出た田宮良子でした。しかし、深津絵里のイメージから引っ張られた演出なのか何なのか分かりませんが、シナリオレベルで田宮良子のキャラは原作よりももっと人間的な軟弱キャラになっているように思えるのです。
 それが鼻につく場面が二つあります。一つは原作の冒頭にも登場する詩文(?)です。「地球上の誰かがふと思った。人間の数が半分になったら、いくつの森が焼かれずに済むだろうか…」(原文に句点を追加しています)と言うナレーションが映画でもいきなり登場します。私はこの詩文は原作でもまだ連載開始時点のコンセプトが決まっていない中で入れてみた、結果的には、原作の流れに無関係に近い位置付けの文章だと思っています。原作の中の登場人物で誰もこの価値観を代表する人間が居ません。寄生生物は種の宿命として人間を食い殺すことを自分達の存在意義として認識しています。地球のことなど心配していません。こんなことを考えているのは、準主役級にもならないような広川市長ぐらいだと思われます。そんな台詞を映画の終盤に意味ありげに、深津絵里に言わせるのにはとてもちぐはぐ感があります。
 もう一つの場面もひどいものです。先述の寄生生物の種の存在意義に言及しているのは、原作では田宮良子です。それが、映画では、田宮良子が先述の物語にはほとんど関係ない詩文を呟き、それを戦闘マシーンでしかない後藤が田宮良子を嗜めるようにこの台詞を言うのです。全く腹立たしいキャラ設定の変更です。

「わたしが思うに…ハエもクモもただ「命令」に従っているだけなのだ。地球上の生物はすべて何かしらの「命令」を受けているのだと思う…。人間には「命令」が来てないのか?わたしが人間の脳を奪ったときに、1つの「命令」が来たぞ…。“この種を食い殺せ”だ」。名言です。原作に数ある名場面でも際立って優れた場面です。

 この作品の最も重要な核となっているコンセプトを語る最高のシーンを田宮良子から取り上げて、あの変に感傷的でどこかの狂信的なエコ信者が言いそうな幼稚な台詞を代わりにあてがうなど、どのような意図にしろ馬鹿げているとしか私には思えません。この台詞をビシッと深津絵里が言うような設定になっていたら素晴らしかったと思います。

 他にも、戦闘マシーンの後藤に、うすら汚い無精ひげを生やさせるなとか、本来、原作では、村野とシンイチがまったく別の場面で口にする「ごめん…。人違いでした」の構成の妙をぶっ壊して、村野だけに言わせておくのは、おかしいだろとか、細かく見ると、キャラのイメージが合っていなくて、色々と苛々させられる場面はたくさん見つかります。

 世間一般から“原作潰し”との悪評がある『ガッチャマン』や『キャシャーン』、ついでに言うなら『黒執事』なども独立した作品としてみたら、私は十分楽しめるものと思っています。『寄生獣』も、とんでもない名作とは思いませんが、少なくとも、「『ゴジラ』シリーズを或る面で超えたと言われる『GODZILLA ゴジラ』を産み出したハリウッドへの日本の回答」などとも評されるのは、一応、理解できます。その意味では、DVDも買っても良いかもと映画を観ながら思っていました。

 ところが、終盤に入り、寄生生物と化した母をシンイチが自ら殺しに行くシーンを息を飲んで観ていたら、信じられないような原作の世界観を根底からぶち壊すシーンが登場したのでした。それは、寄生生物となった母がシンイチと対峙する中で、本来の心を取り戻し、一瞬寄生生物側の攻撃の軌道を変えることで、シンイチの命を救う場面です。これは、『寄生獣』のコンセプトを根底から覆しています。

 憑依だの乗っ取りだのによって、悪に取り込まれてしまった善の心が究極の場面で発現し、自己犠牲の覚悟を顕わにして、善の心諸共、悪を滅ぼす…と言った展開は非常によくあります。ミギーを演じる阿部サダヲも『ヤッターマン』でそのような役をやっています。古くは『デビルマン』でジンメンに喰われた悲劇のヒロインのさっちゃんもそうです。比較的最近なら『地獄先生ぬ〜べ〜』の美奈子先生など、枚挙に暇がありません。ゾンビモノなどにもよく登場します。これらと一線を画しているのが『寄生獣』の寄生生物です。

 寄生生物は、首から上だけを乗っ取られていますから、シンイチが母を乗っ取った寄生生物に対峙して、「かあさん今!その化け物を切り離してやるからね!!」と言うほどに、過去の人間関係から来る思い入れを断ち切れない要素を具備しています。一方で、顔も表面上は以前のままですが、それは全くの作り物で、思考も記憶も全く元の人間のものを失っています。外見と内実の乖離の底知れぬ不気味さや違和感、不快が『寄生獣』の魅力の一つだと私は思っています。この乖離を完成させるのは、妥協ない“寄生生物の人格の表出”だと思います。この『寄生獣』の基本的なコンセプトを、有触れて手垢のついた、憑依モノに貶めたことは私には全く許容できません。

 脳を失っても、元の人格が戻ると言う珍妙極まりない設定を誰が入れたのでしょうか。心臓移植などによって、心臓のドナーの記憶が蘇ると言う話は一応、スピリチュアル系の話として耳にしたことはあります。心臓にも記憶する機能があるなどの論説も遥か昔何かで読んだことがあります。100歩譲ってそれを容れても、なぜシンイチの母だけそれが発現する設定なのか、全く理解しかねます。それができるなら、田宮良子がもとの人間そのままに学校教師として人間社会で生きることさえ、もっと簡単にできたはずです。ここまで設定を緩めれば、外見のみならず、記憶や技能まで総てコピーする『仮面ライダーカブト』の“擬態”の設定まで、ほんのあと一歩と言う感じです。それでは寄生生物の無機質な強さや“非人間的な”生物性が浮かび上がらなくなってしまうと私は思います。

 このシーンを観るまで、気分的には100点満点なら、まあ良い所もあるよなぁと言った68点ぐらいの評価だったのが、35点ぐらいに急落しました。橋本愛の村野は予想通りの優れモノでした。島田秀雄の校内での暴れ方の忠実な再現、ミギーが弓に変形して島田秀雄を倒す斬新なアイディアや、橋本愛演じる村野が言う「ごめんなさい。人違いでした」の名場面、そして、水族館を舞台にしてあらゆる生物種に囲まれた中で進められる人間シンイチと寄生生物の会話の素晴らしい設定など、評価すべき点はそれなりにあるのに非常に残念です。

 私が原作の中で最も好きで、一番最初に台詞を暗誦した田宮良子(その時点では田村玲子に変わっています)の最期も、胸に刺さる村野とシンイチのセックスも、そして、シンイチの総てを察していても丸ごと受け止める村野との感動の終劇も総て含まれているはずの『完結編』を観ない訳には行きません。観てみて『完結編』がDVDで欲しくなれば、この作品のDVDもプロローグ収録の付録ぐらいの位置付けで入手しなくてはならなくなるでしょう。しかし、『寄生獣』の核のコンセプトの改竄をしたこの作品単体ならDVDは不要です。