『フード・インク ポスト・コロナ』 番外編@長者町

 昨年12月初旬の封切から1ヶ月少々経った今年二度目の木曜日の午後4時40分の回を横浜の伊勢佐木モール内にある、初めて行くミニシアターで観てきました。なぜ横浜まで足を運んだかというと、都内どころか関東圏で見ても既にここしか上映館がないからです。全国では沖縄を含む5館でやっているので、最も東側の上映館がここという見方もできます。この映画館でも1日1回の上映です。行ってみると上映作品の中には、先日私も観た『小学校 それは小さな社会』も含まれていました。

 この作品は都内では当初新宿のミニシアターでも上映していましたが、早々に上映が終わり、行くなら渋谷など別の場所かと考えつつ年を跨いでいるうちに、あっという間に上映館が消えて行きました。致し方なく伊勢佐木町にまで足を運ぶことになったのですが、私にとって、このエリアは(以前大火災を起こしたこのエリアのパチンコ店がクライアントだったことなどもありますし、記憶は全くないものの2歳まではこの界隈に私は住んでいたらしく)比較的馴染みがあるので、例えば先月頭に『てっぺんの剣』を観に大森に赴いたのに比べると、かなり気軽に向かえました。

 伊勢佐木町の伊勢佐木モールは戦前までは日本有数の大商業集積地でした。ウィキによると…

「明治時代から商店などが集中したため、現在でも明治創業の店舗が残っている。

1873年(明治6年)に興行場が開かれ、大相撲も催される興行街となる。1882年(明治15年)に遊郭が高島町から真金町へ再々移転すると、関内から遊郭への通り道となり、伊勢佐木町通りを中心に繁華街へ発展。1911年(明治44年)にはドイツ人貿易商・ヴェルダーマンが日本最初の洋画封切館であるオデヲン座を開館、大正初期までには東京・浅草や大阪・千日前と並ぶ大繁華街となり、「ザキブラ」「イセブラ」なる言葉も生まれた。

関東大震災で大被害を受けたが復興は早く、昭和に入ってなおも大いに栄えるが、太平洋戦争で被災、さらに戦後は占領軍によって接収される。1951年(昭和26年)返還が順次開始され、復興が本格化したのは昭和30年代に入ってからである。

1978年(昭和53年)からは恒久的な形での歩行者天国が実施されている。また近年では、ミュージシャンのゆずがアマチュア時代にストリートライブをよく行っていた場所として知られている。 」

と説明されています。実際にはその残滓が戦後にも大分残っていて、そこを「ザキ」と呼び人生の大半の時代をそこで過ごして慣れ親しんできた高齢の人々が多数存在することを私は知っています。(もしかすると、日本最大級の繁華街が凋落してしまい、頽廃的なムードと共に、革命の熱に浮かされたような当時の若者のたまり場には丁度良い街になっていたということかもしれません。)

 現在80歳ぐらいの私の人材紹介事業の師匠筋のオジサンは中央大学在学中からカントリーウェスタンにのめり込み、今でもほぼ毎月その界隈で自分率いるバンドのライブを開いています。私が初めて自分を登録に行った人材紹介の事務所で、私はサラリーマン時代の最後の方で人材紹介事業の基本を学ぶため鞄持ちを1週間ぐらいしましたが、その事務所も伊勢佐木町の外れにありました。彼が以前定例ライブを毎月開いていたのは、伊勢佐木町の老舗中華料理店の二階の大部屋でしたし、そこが無くなってからは、日ノ出町や馬車道近くでライブを開いています。私は年に2、3度は彼の誘いでライブを訪れています。

 映画館に到着し、狭いロビーを見渡すと、まさにそうした「ザキ」に若い頃から愛着を感じている人々と思われるような(それなりに知的で、(富裕層というほどではないものの)それなりに裕福で、それなりに身なりも髪も整えた、まさにそういう雰囲気の)高齢者ばかりがいました。シアターに入ると、15人ぐらいの観客がいて、男女は半々ぐらいの構成でした。年齢層の分布は先述の通り高齢者に大きく偏っており、2人連れの20代後半の男女1組と40代ぐらいに見える1、2人を除いてほぼ全員私よりも10歳以上上の70代から80代の人々に見えました。

 このシアターはそうした人々のコミュニティセンターとしての機能も持ち合わせているようで、チケットを買いながら「最近、支配人を見ないね。どうしてるの」などとこれまた中高年女性のスタッフに話しかけている人物もいました。チケットとは別にポイントカードを私も貰いましたが、それは多分こうした人々とこの映画館の繋がりの物理的な証になっているのだろうと思えます。カウンター脇には来場客の知的レベルを示すように、関連書籍などの販売がかなり念入りに行なわれていました。

 この界隈にはまだ生き残っている昔ながらのザ・衣料品店のような店で売っているような地味な防寒服に身を包んだ20代に見える2人組以外に、夫婦に見える高齢男女カップル1組を除いて、全員単独客だったように記憶します。

 私がこの作品を観たかった理由は単純に前作が良かったことに尽きます。前作『フード・インク』は2011年の公開で、その頃既に私は(1ヶ月2本以上の鑑賞ノルマルールはないものの)『脱兎見!…』を書き始めていたのですが、なぜか前作を劇場鑑賞していません。理由は全く不明で、該当時期の投稿状況を見ると、特にその時期に多数の劇場鑑賞したい作品が存在して漏れてしまったということでもないようです。私は前作をDVDで観ることとなりました。よく言われる社会派ドキュメンタリーの与える衝撃という意味でのインパクトは(私が良く言及する衝撃作『ダーウィンの悪夢』に比べて、)それほどではありませんでしたが、その後に延々と続く、環境系ドキュメンタリー作品のブームを作るほどに、人々の目をこうした社会的テーマに向けることに成功した影響力の大きな作品だとは思っています。

 細かく見ると、まだ黎明期の『脱兎見!…』に短文の感想が残る『いのちの食べかた』が2008年ですから『フード・インク』に先行していてかなり近いテーマを扱っています。この作品は劇中であまり解説もなければ主張もなく、淡々と私達の食べる行為は他の生物の命をいただいているものであるという現実を衝き付ける内容です。それが以前の牧歌的な農業・漁業の営みの結果ではなく、工業的・機械的な生産によって命が食べ物に変化しているプロセスに変化していることを映像で延々と見せる衝撃作でした。子供たちの食育として見せるなどの目的に非常に適した作品であり、所謂日本国内に一時見られた愚劣な「いただきます論争(「金を払って食べている外食などでは「いただきます」という必要はないという愚昧な発言を巡る論争)」を有無を言わせずねじ伏せるような力を持った作品でした。

 それに比して『フード・インク』は、米国の農畜産業の大手資本による支配というかなり絞り込まれたテーマで作られており、当然ながら、米国人が大好きなストレート・フォワードな主張を重ねて、そうした大手資本を糾弾する論者が次々と登場しつつ、惨状を訴えるという社会派ドキュメンタリーで、読解力が低くてもウケるような配慮が為されていて、感性でじわっと受け止める内容の『いのちの食べかた』とは大分趣が違います。

 そうした評価の『フード・インク』のその後の状況を、昨年10月にナマで米国オレゴン州の社会の格差の拡大を体感してきた結果と比較対照してみるというのも悪くないなと思えたのが本作鑑賞の最大のきっかけです。観てみると、想定通りの内容で、具体的には映画.comの以下のような紹介文にあるまんまの内容でした。

「アメリカの食品業界の闇を暴き、第82回アカデミー長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた2009年製作の映画「フード・インク」の続編で、新型コロナウイルスの世界的流行後に浮き彫りになったアメリカのフードシステムの脆弱性に迫ったドキュメンタリー。

2020年の新型コロナウイルスのパンデミック後、巨大食品企業の市場独占がさらに進み、個人農家の衰退と貧富の格差が深刻化した。その実態や“超加工食品”による健康被害、子どもの糖尿病の増加、巨大企業による移民労働者の搾取など、さまざまな問題に「食」の観点から切り込んでいく。その一方で、解決策を求めて持続可能な未来を作りだそうと奮闘する農家や活動家、政治家たちの前向きな姿にもカメラを向ける。」

※この文章に拠れば『フード・インク』は2009年製作となっていますが、同サイトの『フード・インク』の作品情報では2008年制作となっています。

 前作の制作者達は、先述のような環境系のドキュメンタリーがどんどん後続することになって、これで大手資本による市場支配には歯止めがかかるであろうから、自分達はこの作品の続きを作る必要がないと感じていたようなことがパンフに書かれています。しかし、その後、状況は悪化を続け、大きく二つの要因による変化を描きたく考えて、この続編を作ることにしたと述べています。その二つの要因の一つは勿論タイトルにもある通称武漢ウイルス禍です。

 劇中では、タイソン・フーズ社による独占に近いような寡占状況下で、特にマスク着用も全く指示されない労働者が肘がぶつかるように並んで食肉加工を行なう大工場で通称武漢ウイルス感染が拡大し、その工場に経済を大きく依存する町の人間は健康的にも経済的にも大ダメージを被ったという話が紹介されます。タイソン・フーズ社は利益を保全するため、「米国民の食を守るためには工場操業継続はマストだ」とキャンペーンを張り、ロビイスト活動も展開して、当時の第一期トランプ政権に工場操業維持を約束させる法律を成立させています。しかし、実際にはその大工場で生産される食肉の多くは輸出向けのものだったという欺瞞付きです。おまけに操業維持には何の条件も付かなかったということなのか、感染対策も殆ど図られておらず、工場内で感染爆発が起きて、毎日の単位で感染者とその後の死者が積み上がって行く地獄絵図となったようでした。

 こうした切り口からの独占・寡占の弊害を描くことが要因の大一番です。そして第二は超加工食品という切り口です。利益を増やすために、寡占食品業界のプレーヤー達は化学的に合成を必要とする食品(つまり缶詰にするというような保存料などを少々加えるのが加工食品であるのに対して、成分調整から何から工業製品として作る食品というイメージです。)の出現とその依存性や健康被害を齎す悪性を描くことが目的だったと制作者は劇中で語っています。

 曰く「脳は太古の昔から創り上げたシステムで、味とカロリーのバランスが取れているときによく機能してきちんと吸収を行なうように人間の体を作ってきた。例えば、カロリーゼロの飲料などは、甘いにもかかわらずカロリーがないので、脳の回路が誤作動を起こし、もっとそれを摂取してカロリーを得なくてはならないと判断する」というような話のようで、そうした知見が劇中後半では満載です。

 独占・寡占が進む結果、大規模農場を作ろうと、ネバダやテキサスなどの広大な砂漠で地下水を大量に汲み上げて緑化を進め、巨大な放牧地帯を作った事例なども紹介されます。その結果、川の水位は下がり、井戸水に頼った人々の水道システムも機能しなくなり、大問題になっている話なども紹介されます。独占・寡占が進む結果、生産者も、農地を含む大地・水資源の環境も、消費者も何も得る所がなく、どんどん悪い環境を押し付けられている一方で大手資本はどんどん利益を重ねているという構図が描かれるのです。

 私の発行しているメルマガ『経営コラム SOLID AS FAITH』の創刊25周年記念特別号で書いた文章があります。日本では比較的独占・寡占が起こっていないことを指し、それが優れた社会のありかたであるという議論をしました。以下のような文章です。

「不思議なことに海外のマーケティング論では差別化という概念があまり登
場しません。「レッド・オーシャンとブルー・オーシャン」とかいう変に
写実的な名称の理屈で「多くの競合が犇めく市場は儲からない…」という
話などもありますが、ではレッド・オーシャンの市場に居たらどうすると
いう話になると、日本では「棲み分ける」(≒「差別化する」)とか「市
場の勝てる小さい部分を切り取る」などの対策が出てくると思われます。
少なくとも多くの場合中小零細企業の生きる道はそこにあります。

ところが欧米発の経営論では、上の様な戦略を考える前に、多くの場合、
二つの選択肢しかありません。「他社買収で自社シェアを大きくして競争
を減らす」か「撤退する」です。レッド・オーシャンの中の多くの企業が
このいずれかの戦略を採用すると、市場の企業数はどんどん減って行きま
す。すると寡占市場や独占市場が生まれます。

古典的で強烈に支配的な経営論にSCP理論というものがあります。大雑把
に書くと、もともと古典経済学の“完全競争市場”の理論をそのまま経営
に適用させたものです。“完全競争市場”は「参入障壁もない市場で無数
の小規模事業者が全く差別化の余地もない商品・サービスを売り続けてい
る」状態のことです。これでは儲かりません。

この市場のどこを変えて儲けられるようにするかという話になります。日
本企業の多くは、上の定義の中の「全く差別化の余地もない商品・サービ
ス」だからダメなのだと考えて差別化を図ります。しかし、欧米の多くの
企業経営者は定義の中の「無数の小規模事業者」だからダメなのだと考え
て、買収を重ねて「無数」でもなくして「小規模」でもなくするのです。

この結果、起きることは全く違います。日本の場合は棲み分け他市場はも
とより小さくなりがちですし、企業規模も急に大きくはならないので、
各々の企業の売上も利益も低いままになります。しかし、多様な商品や
サービスの選択肢が市場に存在するので消費者には多くの選択肢が生まれ
ます。その中で高付加価値の商品は高くなるでしょうが、大手が普及させ
るコモディティ的な商品は廉価で生き残りますので、競争が激しい中で、
エンド・ユーザーには非常に望ましい市場が発生します。

一方で欧米の場合は真逆です。M&Aを重ねて短期的には濡れ手の粟の売上
上昇が望めますし、長期的には寡占・独占状態を形成しますから市場でや
りたい放題になって行きます。極端な例で思考実験してみましょう。

お客はどうしても買いたい商品・サービスに対し、自分しか売り手がいな
ければ普通は価格を吊り上げたくなります。製品開発やマーケティングの
努力も根本から要らなくなります。その結果、売上も利益もガッチリ確保
できる一方、エンド・ユーザーには低品質の商品・サービスを高く売りつ
けることで不利益を強い続けることになるのです。[参考:ソリアズ第498
話『?陀多の未来』]

こうして物価はどんどん上がって行きます。その売上や利益は株主にまず
還元され、それを実現した経営者に日本の中小零細企業経営者の報酬の数
百倍・数千倍の報酬が支払われることになります。割を食うのはエンド・
ユーザーでB2Cなら一般消費者です。株主や経営者に還元を優先し、職業
別組合が煩いので労働者にはおこぼれを分け与えます。これが一般労働者、
特に単純労働系の人々の賃金が上がらず、多数派の人々は平均賃金の上昇
など全く体感できずに暮らすようになる絡繰りです。

よく「諸外国の賃金はどんどん上がっているのに日本は全然ダメだ」とい
う話を聞きますが、二つ抜け落ちている論点があります。一つは「平均賃
金」なので国民全体の賃金が一様に上がっている訳ではないことです。格
差がどんどん広がっている以上、むしろ平均以下の人々は増えています。

もう一つは上のような構造なので、賃金が上がる以上に物価はもっと上が
っているということです。日本が長くデフレを続けている間、多くの先進
国ではインフレがずっと続いてきました。現在でも毎年5%などのインフレ
が嵩じた状態が続いている国々が存在しています。そう言った国々の人々
の多くは賃金の上昇率以上の物価高騰を経験しているのです。賃金は上
がっても多くの人々がそれでも間に合わない物価上昇に喘ぎ苦しむ状態の
方が、日本の現状に比べて間違いなく「ダメ」でしょう。「消費者に多様
な選択が残らない」どころか、食うや食わずやの人々が急激にその割合を
増やすことになるのです。

余りにその数が無視できなくなってきたので、他国では色々と対策が打た
れています。ちょっとした犯罪でも刑務所に入れたり、富裕層の慈善活動
のネタにしたり、年金よりも少ないようなベーシック・インカムで「皆が
幸せに暮らせる社会」を謳ってみたりしている背景には、こうした社会構
造があるのです。」

 文中で「極端な例で思考実験してみましょう」と書いていますが、もっと極端な事例をこれでもかと渾身の力で米国の農畜産業の事例を中心に紹介するのが、この映画と考えられます。

 劇中ではフェアトレードの部分的な成功(それでもフェア・トレードに協力を拒む大手企業はたくさん残っていると名指しで紹介していますが)を描いたり、水産資源を守るためにコンブの養殖に打って出た漁民の事例なども描かれていますが、それらがどんどん大手寡占資本を追い詰めるほどに大きなうねりになるような風には見えません。米国議会の議員で本作の主張をそのまま政治で実現しようとしている2人も紹介されますが、ロビイストの壁は無敵なほどに厚く、なかなかブレイクスルーが見つからないように見えます。

 状況が複雑でさらに悪化した続編は前作に比べて大分素人にも直感的に分かる主張が増えて、より受けとめられやすい内容になったのではないかと思えます。それにしては、日本国内での取り扱いが小規模に終わり過ぎているように思いますが、それは日本国内での独占・寡占化による弊害がまだまだ小規模で散発的なものにとどまっているということの証左なのかもしれません。(ただ、それも、昨今騒がれるホンダ・日産の統合の話や、被買収に揺れるIYグループなどの事例を見ると、ひたひたと日本を侵食しているように思えないでもありませんが。)

 物価は日本よりだいぶ高いと既に広く知られている米国で、果実の摘み取りの移民労働者は恐ろしく低い法定最低賃金で働かされているなど、なかなか他で見ることのない流行の言葉で言うなら「不都合な事実」なども暴露されていて、前作に続き、まあまあの佳作だと思います。DVDは買いです。