『小学校 それは小さな社会』 番外編@狸小路

 12月13日の封切から2週間余り経った今年最後の土曜日の15時20分の回を札幌の狸小路の映画館で娘と二人で観てきました。狸小路には2つのミニシアター系の映画館がありますが、そのうちの一つで、昨年7月に『世界のはしっこ、ちいさな教室』を観た雑居ビルの2階にあるNPO法人による運営の珍しい映画館の方です。

 15時20分の回と書きましたが、この映画館でこの作品は1日1回しか上映していません。北海道ではたった1ヶ所です。東京の上映館を見ても、23区内では銀座に1館、先日『運命屋』を観た老舗映画館です。東京都に範囲を広げても吉祥寺と武蔵村山しか加わらず、関東に拡大しても茨城県つくば市の、通称武漢ウイルスの流行時に非常事態宣言で私が都内で映画が観られないので致し方なく足を運び『一度死んでみた』と『心霊喫茶「エクストラ」の秘密-The Real Exorcist-』を一気に観たあの映画館が加わるだけです。非常に限られた上映館と上映回数と言わざるを得ません。

 私はこの映画の存在を以前から映画.comの上映作品の欄で流し見で認知はしていたように思います。その際には「教育関係のドキュメンタリー」という漠然とした認識があっただけで、観賞しようという関心はありませんでした。鑑賞動機が一気に膨らんだのは、『運命屋』を観た際に、映画館でチラシを見かけて手に取ったのがきっかけです。

 チラシに拠るとこの映画の英題は『The Making of a Japanese』です。そしてチラシの裏面には、後に私がトレーラーを観た際にも聞いた言葉「6歳児は世界どこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子供は“日本人”になっている」が書かれています。つまり、この作品は、日本人がどうやってでき上るのかを描いた映画だということなのです。おまけにこの作品は日本の映画人によって作られたのでもなければ日本映画でさえありません。日本の外の目線からの日本人の出来上がり方という視点を知ったとき、非常に興奮しました。

 この映画の監督イギリス人と日本人のハーフで、この作品は日本・アメリカ・フィンランド・フランスの4ヶ国合作です。オフィシャル・サイトの「introduction」には、以下のような紹介文が書かれています。

「イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ監督は、大阪の公立小学校を卒業後、中高はインターナショナル・スクールに通い、アメリカの大学へ進学した。ニューヨークに暮らしながら彼女は、自身の“強み”はすべて、公立小学校時代に学んだ“責任感”や“勤勉さ”などに由来していることに気づく。

「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている。すなわちそれは、小学校が鍵になっているのではないか」との思いを強めた彼女は、日本社会の未来を考える上でも、公立小学校を舞台に映画を撮りたいと思った。

1年間、150日、700時間(監督が現場で過ごしたのは4,000時間)に及ぶ撮影と1年を要した編集を経て完成した本作には、掃除や給食の配膳などを子どもたち自身が行う日本式教育「TOKKATSU(特活)」──いま、海外で注目が高まっている──の様子もふんだんに収められている。日本人である私たちが当たり前にやっていることも、海外から見ると驚きでいっぱいなのだ。

いま、小学校を知ることは、未来の日本を考えることだ、と作品は投げかける。」

 パンフもないこの作品のチラシに拠れば、日本では12月13日からの公開で、札幌では1週遅れの公開ですが、海外ではかなり前から公開していたようです。よく日本で教育大国として紹介されるフィンランドでは1館から始まった上映館数が20館に増えて4ヶ月間のロングラン大ヒットになったとありますし、韓国では教育チャンネルで放送されて50万人以上が視聴したと説明されています。それ以外にもドイツ、アメリカ、ギリシャ、エジプトなど多くの国からの反響が短く紹介されています。先述の「TOKKATSU(特活)」はエジプトでは20000以上の公立小学校で採用されているとも書かれています。

 フィンランドに映画館がどのぐらいあるのか分かりませんが、ネットの情報によると、日本には約600館ぐらいあるようで、仮に人口比でフィンランドの映画館数を割り出すと、フィンランドの人口が北海道と同じぐらいで約550万人ですから、30館ぐらいになります。実際に「フィンランド 映画館数」で検索した結果出てくるフィンランドの映画館のリストには32軒が登場します。フィンランドの都市部は非常に限定されたエリアで、それ以外の場所に映画館が多数あるとは考えにくいので、仮にこの32館が全部だとすると、20館で上映というのは全国の映画館の60%以上で4ヶ月に亘って上映されたという異例のヒットであることが分かります。

 同様に韓国もどの程度正確か分からないものの50万人が視聴したと言いますから、全人口の約1%が観たことになります。恐ろしい数です。それに比べて劇中の舞台である日本での注目度が異常に低い作品ということができるかと思います。

 シアターに入ると札幌での封切から約1週間の段階でざっくり50人ぐらいの観客が居たように思います。性別は概ね半々で、年齢分布は中高年以上で7割を占めていると思います。男女で年齢構成は大きく変わりませんが、小学校低学年の子供を連れて来ている母親の組み合わせが4組ほど見られました。母親1人に対して2人の子供が2組、1人の子供のケースが2組だったように思います。他には男女2人連れや女性同士2人連れなどの組み合わせも2、3組存在しました。

 観てみると、面白い映画ではありますが、一点当たり前のことに気づかされます。それは日本の小学校のドキュメンタリーなので、チラシに書かれているような、そしてオフィシャル・サイトに書かれているような、海外の驚嘆の反応がどこにも現れていません。単純に日本の小学校の様子を見るということでしかない作品なのです。私は2年半米国に留学していた頃にも大学教授から(私の専攻には全く関係ありませんが、村に非常に限られた日本人なので日本についての村中の疑問は私に集中するような構造の中で)子供の教育のありかたについて尋ねられたことは何度もありますので、向こうの子供達がどのような教育を受けているかをその都度聞かされ認知するに至りました。

 また大学に入学してくるつい最近まで高校生だった若者達は、受験勉強や塾の経験がある多くの日本人学生に比して、総じて勉強習慣が全く欠落していて、1日2時間ずつ勉強するのでさえ苦痛で持続できないような状況が多々見られました。こうした事実関係を知っている立場で、(特にチラシやオフィシャル・サイトの情報を手掛かりに)外国人目線を想像しながら見れば、この作品の秀逸さが一応理解できます。ただそれでもかなりまともに運営されている公立小学校の様子をただ見ているだけであるのは(当たり前ですが)否めません。

 勿論、そんな中にもドラマがあります。映画は特に入学したての1年生と卒業が間近の6年生にフォーカスすることで、「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている。」事実を効果的に描写しています。1年生では「いい(多分「井伊」なのだろうと思います)」という女子が1年生の終わりに、2年生進級後すぐに新1年生を歓迎する演奏会の演奏メンバーに選抜されシンバルを担当することになるのですが、個人の練習不足で全体練習について行けず挫折します。みなが練習している教室でオイオイと大声で泣く情けなさや悲しさ悔しさは誰しも何かしらの形で経験があるように感じられます。

 そこから彼女は家でも練習し、先生に個別練習の時間も設けてもらい、担任の女性教諭には繰り返し激励され寄り添われ、最後には見事に演奏を行ないます。その努力の姿と歓喜の姿は観る者の心を打たずにはおきません。同様に6年生のケースも登場します。

 給食時間の校内放送を担当している6年生の男女2名の委員がいます。映画は特にこのうちの男子「きはら」に着目します。毎朝早く登校し放送室で作業します。学校内で授業時間以外は殆ど放送室にいるような様子に見え、委員としての重い責任を淡々と果たしているように見えます。ところが、そんな彼にも超えられない壁が出現します。運動会の縄跳びダンスのような出し物の練習です。縄跳びが普通にはできているのですが、捻った「交差跳び」などや二重・三重跳びができず、全体練習で全くついていけません。

 授業の中の練習ではやや不貞腐れた態度をとるものの、帰宅してから家の前の路上で、まさにまるでドラマの中の特訓の様子のように、何度も失敗を重ねても諦めず、誰が見ている訳でもなく褒めてくれる訳でもない中で夕暮れまで練習を重ねるのです。そして運動会の当日、彼は演目をキッチリとこなしてみせるのでした。泣かせます。

 集団の中で割り当てられた役割を果たすべき責任感を自覚させるのが日本の小学校教育の特徴という風にチラシやオフィシャル・サイトでは言われています。確かに「いい」ちゃんのケースでは自分から希望してオーディションに臨み、ピアニカ(娘の世代では鍵盤ハーモニカというようですが)などと異なり、1人しかいない演奏者のシンバル担当になった訳ですから責任重大ではあります。「きはら」君のケースも運動会での集団ダンスですから、できないままなら全体が見劣りしてしまうことでしょう。

 しかし、私は責任感という切り口で、「日本人が出来上がる」という海外に多いこの作品の内容の解釈はピントがややずれているように感じられてなりません。勿論、責任感は一つの要素ではあります。しかし、この学校の6年生担当の「遠藤」という男性教諭が何度も6年生たちに向かって「殻を破れ」と(ダチョウの卵ぐらいの大きな卵を自分の頭にぶつけて(僅かに)出血までしてパフォーマンスして)力説しているほどに、今までの自分とは違う自分になれということが強調されているように思えてならないのです。それは端的に言って、努力によって自分の可能性を押し広げる経験です。

 以前観た『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』の感想の記事の中で私はこのように書いています。

「この映画を観ていて、一つどこを探しても登場しない人間の姿があります。それは「真剣に努力している人」の姿です。それを美徳とする考え方も見当たりません。彼らの努力の定義によれば、きっとそれは、劇中に時々登場する、街をプラカードを持って行進し、場合によっては警官隊と小競り合いするような権利主張が、“体を張った努力”なのではないかと疑われます。」

 今年は、10月に1週間余り米国の以前居た州を訪ねてきましたが、上の印象は今も全く変わりません。学歴階層が固定化していて、高卒や高卒未満は仕事上で何をどう努力しても「ジョブ型雇用」で契約上決まっている収入が組合の指定する範囲以上に上がることはありませんから、努力してよりよく仕事ができるようになろうというインセンティブが生じません。学士持ちだろうと、修士・博士持ちだろうと原理的には一緒です。

 今の自分のままで今できることを反復して収入を得るだけの生活を繰り返している人生観が幅を占め、努力する対象は好きだからそれに打ち込むということだけの人間が殆どで、嫌なものでもやるなら努力してやれるようにするという発想はどこを探してもなかなか見つかりません。(軍隊などの強いられること前提の特殊な立場以外にはないのではないかと思えます。)それを「やればできる」や「好きなことをやるのではなく、やるから好きになる」の体験を子供達にさせるようにあらゆる機会を活用しているのが、日本の教育の他国と最も異なることなのではないかと、この作品を観ても思えてなりませんでした。

 海外で注目されているという「TOKKATSU(特活)」のシーンも流石日本以外の3ヶ国の目線が入っているせいか、ふんだんに挿入されていますが、それらは私たち日本人には有り触れた光景です。有り触れていない小学校の様子という意味では、通称武漢ウイルス禍下での授業のありかたが、確かに不便で子供達も先生方も非常に大変だったろうと思ってはいましたが、リアルに様子を見ると、仕組みとして中々成り立たず大変という部分はあっても、意外に順応している子供たちの姿が描かれているように見えました。

 この作品は世田谷区の塚戸小学校でオールロケされています。場所は世田谷区のほぼど真ん中で、私も長く住んでいた場所に近く、小田急線の祖師ヶ谷大蔵駅と京王線の芦花公園駅を結んだ直線の中間点ぐらいの辺りにあります。私も年に1回必ず観に行くことにしている仙川の川沿いの桜並木を子供達が通学する姿も映像化されています。当然ですがこの地域が東京でも有数の富裕エリアに近い位置で、少なくとも劇中に登場する親は、家においても教育熱心で、過剰に勉強を強いるという態度ではなく、寧ろ我が子に常に関心を払い、コミュニケーションを多くとることを心掛けているように見えます。1年生の過程を描いたシーンでは、学校で発生するであろうトレーに載せて自分の分の給食を自分の席まで運ぶシミュレーションを自宅で繰り返しやっている様子さえ描かれます。

 先述の遠藤教諭は厳しく指導する方針で児童の親からも「厳し過ぎる」という指摘が続き、「向いていないから仕事を辞めようかと思」い悩む場面も登場していますが、少なくとも劇中で観る限り、モンペが怒鳴り込んでくるような場面はありませんし、「校長が経営者で副校長はぼろ雑巾のような存在。何でも意見をぶつけてください」と自嘲する副校長が教師陣に呼び掛けているような環境ですので、教師陣が過剰にペーパーワークに追われて心を病んでいるような様子も登場しません。

※私はこの作品を観た後、検索して初めて「副校長と教頭の違い」を知りました。

 そのように考えると、このドキュメンタリーで描かれる小学校の姿は日本の小学校の理想に近いものという風に見ることもできそうです。通称武漢ウイルス禍の緊急事態宣言で自宅で子供がタブレットで授業を見る場面が2、3出てきますが、それらの子供の脇には親(すべて母親だったように記憶します。)が居て、タブレット操作を補助したり、子供の注意が逸れないように付き添っていたりします。

 通称武漢ウイルス禍で親も自宅待機になっている可能性もありますが、多分、父親の稼ぎだけで生活でき、母親は家で子供のリモート授業のサポートもできる体制があると想定した方が良さそうです。そのように考える時、先述の通り、劇中の先生方の「上手く行かない」、「大変なことになっている」という評価とは裏腹に、その先生方の献身的ともいえるような努力の結果、かなり恙なく事態は収束したように思えてなりません。そしてそれはニュースやテレビドキュメンタリーなどで当時見た多くの通称武漢ウイルス禍に翻弄された学校機関の姿とは異なるように思えるのです。

 観れば日本の小学校の有り触れた、しかし生徒たちの成長が明確に分かる日常の断面が溢れている映画ですが、日本人にはその特別さがこの作品を観ただけでは非常に分かりにくい作品で、冒頭で述べたように小学校低学年の子供たちに見せようとする親たちは何を目的にしていたのかが私には全く分かりませんでした。

 可能であるのなら海外の反応をセットにした作品、例えば、前半が今回の映画の本編で、後半が海外の識者・一般人交えた感想などの紹介部分のような構成にしてもらった方が、日本でこの作品の持つド級のインパクトが理解されやすかったのではないかと思えます。現在の尺は99分ですので、2時間をやや超えるぐらいまでそうした感想を付け足す価値は十分あったように思われます。

 どこぞの教育学の大学教授が授業見学に来て、その後、教師陣を集めて「ご高説」を述べてくださる場面が登場します。その内容が少なくとも聞いた範囲ではやたらに薄く、おまけに抽象的・主観的なパヨク論調のようでした。仮に上述のように海外の鑑賞者の感想を加えて作品になっていたとしたら、そこにはこの教授のご高説と真反対の評価が並んだのではないかと思えます。4ヶ国連合の制作陣が現場にも現実にもあっていない日本人の自虐的評価論調のこの学者の場面をなぜこの作品に挿入したのかが腑に落ちませんでした。

 それでも、改めて見ると組織体の運用シミュレーション体験そのものの小学校教育の現場で、実際に、努力して変わり、新たな自分になることに成功する小学生の姿を見ることができる点にそれなりの価値がある作品に思えますので、DVDは買いです。可能ならチラシやオフィシャル・サイトの情報やその関連動画なども豊富に収めたDVDにしてもらいたいものです。