『神聖ローマ、運命の日 オスマン帝国の進撃』

 ここ最近、GW映画の大作、メジャー作が集中したので、何か違う類の映画を観たいと、一ヶ月ぐらい前から考えていて、狙って観に行ってきました。関東ではたった一館。全国でもたった二館でしかやっていません。上映は一日に四回。封切から二週間半ほどたった平日の夜の回で観てきました。

 有楽町にあるスバル座と言う映画館ですが、スバル興業と言う会社が映画館の事業を始めたのが昭和21年で、この有楽町スバル座はいつからかデータが見当たりませんでしたが、いずれにせよ、古い映画館の建物をそのまま使っている感じです。木製の階段や手すりなどが、それこそ、映画『三丁目の夕日』に出てきそうな感じです。スナック類の販売カウンターなども、昭和初期のデザインそのままです。

 観客は全部で20名ほど。九割以上男性で、それも、私が明らかに平均より若い感じの、如何にも「映画文化に親しむのが嗜みです」と言った風体・言動の人々が多く見受けられました。先日、『キャプテン・アメリカ…』を観たコレド室町も初めて赴いた映画館ですが、あちらはかなりファッションを意識した感じの観客が多く、「コガネ持ってます。見た目も気を使ってます」系の人々の構成率が高い映画館でした。いつも行く映画館では、映画の内容による観客層の偏りが観察できますが、初めて行く映画館では、周辺立地の人々の層の偏りが観察できるものだと、感心させられます。

 この映画を観に行った理由は、ピントはずれな連想の重ね合わせ…としか言いようがありません。私がPC作業をまとまった時間する際には、必ず、頭の準備や心の準備として、PCゲームの『エイジ・オブ・エンパイア』を最低一回戦はプレーすることにしています。異なる文明間の文明成長競争と軍事的衝突のシミュレーションゲームです。

 文明は色々選択でき、概ね古代から中世ぐらいの歴史幅の中の文明の選択肢があります。私が文明の発達のパターンや武器のパターンで最も好きなのが、東ローマ帝国です。対戦相手に選ぶのはドイツ騎士団国(チュートン)です。第四回十字軍でカトリックのキリスト教徒に首都を占領された東ローマですので、歴史上の直接的な戦闘はなかったと思いますが、カトリック側の尖兵たるドイツ騎士団は、設定的にも無理のないはずです。ゲーム中で文明がかなり進んだ状態でなら、兵器の相性がいい(つまり、ドイツ騎士団的には難敵な)ことも爽快です。

 実際の歴史では、その東ローマを最終的に滅亡に追いやったのが、オスマントルコです。1453年のことですが、紀元前700年代(紀元前なので700年より前です。)の古代ローマから数えると2200年におよぶ間、それも文明の十字路と呼ばれるエリアで数々の外敵の脅威にさらされながら続く帝国と言うのは、陳腐な表現ですが、単純に凄いことだと思います。その東ローマ帝国が進撃を止めることができなかったオスマントルコが、欧州に征服の手を伸ばした際に、その勢いを西欧勢が食い止め、それ以降、ほぼ恒常的に劣勢に追い込んだターニングポイントの戦いが、この映画に描かれている1683年の第二次ウィーン包囲です。

 最近読む書籍の中には文明論などでローマ帝国の勃興と衰亡が描写されているものが多く、私は、高校で学んだ西洋史の中でローマ帝国関係は比較的よく記憶が再現維持されています。しかし、のちのドイツになる神聖ローマ帝国については余り知識がなく、東フランクからできたのではなかったかとか、カノッサの屈辱とか宗教改革の舞台であるとか、ナポレオンによって早い段階で壊滅した国とか、断片的な記憶しかありません。しかし、私が多少は明るいローマ帝国滅亡を引き起こした国を撃退した国家なので、どのようなものか多少の関心が湧きます。

 私の理解では、この当時ぐらいまでは、イスラム各国(その前はゾロアスター教のペルシャなどですが)の文化圏の方が文明レベルが西欧各国よりも高く、「十字軍は遠征先でけが人の手術に麻酔が使われているのを見て驚いた」などの記述を見ていました。第一次大戦まで存在していた大国オスマントルコの文明の高さはいかほどかと期待していました。一方で、文明後進地域であるヨーロッパの中で神聖ローマ帝国はどれほど優秀だったのかなど、それなりの勝手な想定をしながら映画に臨みました。

 結論から言うと、この二つの想定が両方とも裏切られる結果でした。まず、オスマントルコの劇中の描写は、やはり荘厳で文明レベルの高さを感じさせます。衣装一つでも煌びやかなものが多く、(特にこの映画はこのような細部の再現に拘ったと言う話でしたので)なるほど、こう言うことかと理解できました。

 しかしながら、文明の高さが必ずしも戦略面に活きていないので、観ていてがっかりさせられます。文明のレベルの問題と言うよりも、司令官(大宰相)のカラ・ムスタファの慢心に慢心を重ねた戦略の大破綻と言うべきかもしれません。敵を侮り、リスクを考えず、周囲の部下が「ポーランド王は強敵です」と言えば、「奴は体が悪くて出撃できない筈だ」と大した根拠もなく意見を退けますし、そのポーランドが出撃したと言う報を受けても、「やつらがここに来るころには、教会は既に我らのモスクに変わっているだろう」などと大言壮語を吐くだけの馬鹿げた態度を取り続けます。全く、頭がからなので、カラ・ムスタファなのではないかとさえ思えます。

 おまけに、ウィーンは既に100年以上前の第一次ウィーン包囲で、その城壁が堅牢だと理解されています。コンスタンティノープル陥落から100年弱の満を持しての攻撃であるのに、すんなり落ちることはありませんでした。その後、城壁はさらに強化されていると言われています。それなのに、本土から離れていると言うことで、攻城砲の最強のものは持ち込めず、だらだらと大砲で城壁を攻めつつ、地下に穴を掘り、下から突き崩す作戦を取って、やたらに時間をかけるのです。おまけに布陣の際に、「自軍を見下ろす位置にあるカーレンベルク山に部隊を置いておくべきだ」と何人もの部下が進言しているのに、それをも無視して、「30万の大軍で恐れるものはない」と言い放つのです。傲慢無策とはこのことです。

 対する神聖ローマ帝国の方は、皇帝が余りにも政治や軍事に無知です。ただ、「朕は困ったぞよ」風におたおたするだけで、(確かにドイツは統一されることないままに緩やかな連邦のような形の国家だったなと思いだしたのですが)周辺諸侯を集めて軍事会議をしても、単に、「どうしよう」とぐだぐだ言い合うだけです。そこに家柄が劣るだの、何だの言われている実戦叩き上げのポーランド王が来ても、「家柄の低い奴の意見を聞いても…」などと言い出して、会議が進まないのでした。こちらはこちらで全く愚昧の連中です。

 傲慢vs愚昧の戦いはどうなるのかと思っていたら、主人公の、奇跡を起こすと言うマルコ神父が愚昧側の軍議に参加して、「ポーランド王は(敵30万に対して総勢5万でも)勝算があると言っている。まずは話を聞いてみようじゃありませんか」と促すだけで話がまとまります。そのポーランド王が進言した策が、まさにカーレンベルク山の険しい山道を進み、大砲と馬まで含めて山頂に持ち込む作戦なのです。砲撃で敵全軍に大被害を与えた後、騎馬で掃討を行なうというものでした。

 山から騎馬で急襲すると言うのは日本国内でも源義経の一の谷の戦い等で見られる典型的なパターンですし、まして、山頂から砲撃した方が圧倒的に有利と言うのも、映画で言うなら、『ハンバーガー・ヒル』で描かれたベトナム兵による米国兵の大殺戮戦などでも明らかで、誰しも分かるぐらいのレベルの話です。そこまで行かなくても、せめて、孫氏の兵法で「兵は詭道なり」とか聞いたことがないかとか、色々いちゃもんをつけたくなります。とてもこれからたった100年少々後に、あのクラウゼヴィッツがあれほどの完成度の『戦争論』を書く地域の人々の争いとは思えません。

 結局、傲慢と愚昧の戦いの行方は、当たり前の解を撥ね退けた傲慢側が、当り前の解を教えて貰って採用した愚昧チームに、あっさり破られたと言うことだったのです。映画が分かりやすい構図にしているだけで、実際には、レーダーも監視衛星もない時代の戦いですから、不確実要素が山ほどあるのだとは思いますが、どうも、ウィキで観る史実でも或る程度、本当の話のようです。余りにも馬鹿げていて、死んだ馬も兵士も浮かばれまいと思わざるを得ませんでした。

 ちなみに、映画では、「1683年9月11日、運命の日」と殊更に強調し、まるで、9.11のあのでっちあげ戦争誘発剤的事件に準えるような表現をしていますが、暦の関係なのか、事実関係の記録ポイントの違いなのか、ウィキでは運命の日は9月13日です。おまけにこの映画は、執拗に「唯一絶対の神を信じて…」とか「真の神の存在に気付いた時に、許しを請うのだ」などとお互いに言い合うシーンが登場し、そういう位置付けの一神教発想がない(多数派)日本人には、非常にうんざり来るものがあります。こんな馬鹿なことに拘るから、余計な血が流れるのだと思わざるを得ません。

 オスマントルコ側は陣地内に(慰安婦と称される軍票で対価をきちんと得ることを商売にしていた人々とは全く異なるタイプの)大量の性奴隷の女性を、柵のような壁で仕切っただけの場所に押し込めて用意していました。しかし、神聖ローマ帝国側ではそのような描写が全くないのです。史実的に無かったのか否か分かりませんが、コントラストで観る時に、どうも文明差別が非常に色濃く感じられる節は多々存在します。

 そもそも、神父マルコの敬虔ぶりは際立って描かれ、邪教から自らの信仰と伝統を守れと力強くアジっていたりしますが、この頃の神聖ローマ帝国は既に宗教改革に大揺れだった筈で、その辺に一切言及していない所がまた、非常にいやらしく感じられます。一神教の人々ほどに宗教が身近でもなければ意識的でもない私には、非常に鼻につく映画です。

 その時代の人々の生活や言動、そして、「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と、ヴォルテールが評したとウィキに書かれている国家の実態が描かれているという意味では、とても勉強になります。細部まで検証してよく作られた映画だと思います。しかし、DVDが欲しくなるほど入れ込める要素が見つからないのです。