『ハワの手習い』 番外編@狸小路

 8月1日の封切からまるまる2ヶ月半が経過した10月半ばの金曜日。札幌市の狸小路にあるミニシアターで観て来ました。夜18時50分のスタートです。狸小路にミニシアターは嘗て2館存在していましたが、そのうち映画館然としていて券買のシステムなどもハードが揃っていたりした館の方が今年3月末に閉館してしまったとのことでした。残った1館は市民団体のような組織の運営による映画館で、色々と手作り感があります。その館で1日1回のみの上映で、その金曜日が上映最終日という状況でした。

 この時点で全国ではたった4館でしか上映していません。当日が最終上映日でしたから、残りは全国で3館。東京では田端の超ミニシアターだけで、残りは山形と広島に各1館というあまり見ない組み合わせです。

 この映画を観ることにした理由にあまり明確なものは有りません。今月は前半にほんの数日とは言え海外に観光旅行に行き、その事前の準備や行った先で体調を崩し、帰国後1、2日ほとんど寝て過ごしたことなどが重なって、月の前半を経て尚まだ1本も劇場鑑賞ができていないことが最大の原因で、1本を消化しようとすると札幌に行っている期間に観なくてはいけないことになり、どうせならどこでも見られるようなものではない作品を観ようと思い立ち、札幌に唯一残っているミニシアターの上映メニューをチェックすることになりました。

 実はもう一つ、劇場鑑賞が進まない理由があります。それは最も見たいと思っている『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』が、マイナー作品であるのに大人気で、海外旅行前にも劇場に行き、完全な満席状態で全く入り込むことができず、帰国後にも行こうと思い立って、ネットで観たらすでに満席という状況だったことがあります。

 札幌のミニシアターの選択肢は上映時間の短い手ごろ感のある作品を優先しつつ、観に行ける夕方の時間枠に遭っているものを選ぶと、本作とその後の『撃たれた自由の声を撮れ』が該当し、その中で早い方の作品を選ぶことにしました。実はこれらの二作は配給元が同じでアフガニスタンの現実を描く2本の映画としてセットで上映されている作品でした。どちらも当日が最後の上映ということでしたが、私は取り敢えず1本で良いかと考え、本作を選んだのです。ちなみにこの配給元は国内版のパンフレットを制作していますが、2作をまとめて1つのパンフレットにまとめるという、非常に変わった対応をしています。多分、過去にこのようなパンフレットは入手した事例がない(※)ように思えます。

※特定のテーマで行われる映画祭などの場合は、10本単位などの上映作品群の解説が全部1つにまとめられたリーフレットが販売されていたりすることがありますが、そのような冠となる映画祭が行なわれている訳でもなく、パンフレットが合併版であるのは初めてであるように思います。

 それ以外に当日『1回限りの特別上映』と題したシリーズイベントのようなものがあり、その作品として上映されているのが17時15分からの『ナイトシフト』で、上映が1回限りということの希少性は感じましたが、映画のテーマそのものに今一つ関心を持てず、却下しました。

 本作を選んだ補助的な動機の要素は、アフガニスタン映画を観たことがない(※※)ということとと、ここ最近、パリからフランス全土、さらに西欧全体に飛び火しつつある、学生デモが転じた移民の略奪暴動などで、何かとイスラム教徒の話が話題になっていますので、それに関する映画を観るのも悪くないかと考えたこともあります。直前に行った海外旅行も生まれて初めてのイスラム教国だったので、多少関連付けられる何かがあるかとも思いました。

※※厳密に言うと、2021年に劇場で観た『アウトポスト』はアフガニスタンの山岳部の米軍基地を押し寄せるタリバンから守り抜く話でしたので、アフガニスタンを舞台にした映画は観たことがあることになりますが、この作品は単なる戦争映画で制作も米国でした。さらに厳密に言うなら『ランボー3/怒りのアフガン』もDVDで観たことがありますが、史実を基にした『アウトポスト』どころではない荒唐無稽さの、“ザ・戦争映画”ですが、こちらも米国製作です。

 映画の概要は映画.comにまとめられた通りです。

[以下引用]

アフガニスタン出身の女性ジャーナリスト、ナジーバ・ヌーリが監督を務め、幼少時に教育の機会を奪われ13歳で結婚させられた母ハワにカメラを向けたドキュメンタリー。

アフガニスタンの首都カーブルで、30歳上の認知症の夫を世話しながら暮らすハワ。結婚を強いられたときハワはまだ13歳で、父は幼い彼女を教育から遠ざけ、母は出産について何も助言してくれなかった。6人の子を産んだ彼女は、娘たちが同じ道に進まぬよう教育の機会を与え、次女ナジーバはジャーナリストとして自立した生活を送っている。母の味方になることを決意したナジーバは彼女にカメラを向け、夫の愚痴や秘密の恋、そして“やってみたかったこと”について話を聞く。ハワは民族手芸の商売と読み書きの学習を始めるが、ささやかな夢が動き出した矢先、長女の元夫と暮らす孫娘ザハラーが支配的な父のもとから逃れてくる。孫娘を引き取り一緒に読み書きを学ぶハワだったが、タリバンによる襲撃と占領は日ごとに進み、ザハラーと彼女を匿う家族にも命の危険が迫る。2021年8月にタリバンが復権すると、報道の自由を封殺する動きが強まり、ナジーバは兄アリーにカメラを託して母国を後にする。

山形国際ドキュメンタリー映画祭2025にて市民賞を受賞したほか、世界各地の映画祭で多数の賞を受賞した。

2024年製作/85分/G/フランス・オランダ・カタール・アフガニスタン合作
原題または英題:Writing Hawa
配給:東風
劇場公開日:2026年8月1日

[以上引用]

 座席指定がなく整理番号順に呼ばれて入る、館に1つしかないシアターに入ると、最終的に15人ほどの観客が居たように思います。私も含めて全員単独客で、女性が5人だったように記憶します。全体に比較的高齢の方に年齢層は偏っていて、20代はゼロといった感じに見えました。(30代もゼロだったかもしれません。)人数が多い分、男性の方が年齢構成の広がりがやや広いように思えましたが、女性の観客も特に一様な年齢層というほどではありません。

 観てみると、現地の人々の世俗化しつつある価値観が非常によく分かる作品でした。監督の母である主人公のハワは13歳で所謂児童婚を強いられ、既に子供が二人できていたので想い人と結ばれることもなく、自分の人生を諦め、自分の二人の娘たちには同じ轍を踏ませず、教育も与えようと取り組んできました。長女は具体的にどうなったのかはよく分かりませんが、最初の夫とは別れ、二番目の夫と専業主婦として暮らしているように見えます。次女である本作の監督はフランスなどにも暮らした経験が有り、フランス語も堪能で、完全にインテリです。

 児童婚をした夫は認知症でも辛うじてコミュニケーションははかれる程度ではあり、女性は家に籠っているべきであるし、不必要に出掛けるべきではないが故に、学校にも行く必要がないという従来の価値観の中にどっぷりつかっていて、ハワが出掛けようとすると、「俺にお茶を誰が入れてくれるんだ」などとかなり寝たきりになった状態で不機嫌に文句を言ったりしています。それでも、ハワの啓蒙か洗脳の結果なのか、自分の娘たちが教育を受けることは(積極的に支持はしないものの)受け容れているように見えます。

 ハワの周囲にもハワ同様に児童婚で「人生を棒に振った」と自覚するほぼ同年代の女性が居て、周囲に人がいない環境でハワは彼女と児童婚が如何に馬鹿げている習慣だったかを、自分の人生を振り返りながら、溜息とともに語っていたりします。

 それがタリバンが政権を取る直前までのアフガニスタンの現在地のようでした。ところが、米軍が撤退しあっという間にタリバンが地方都市から制圧を始め、瞬く間に首都カーブル(私は中学校・高校でカブールと習った気がしますが、今はカーブルと表記するようです。)も占領され、政権を取ってしまいます。そして彼らのイスラム教原理主義的な思想が国民全体に暴力と共に強いられるようになるのでした。

 イスラム教徒の劇中の人々でさえ、タリバンを忌み嫌い、ことあるごとにじわじわと不服従のような運動を展開しているのを見て、私は初めてタリバンが現地の人々に受け容れられていない思想を持っていることを知りました。またタリバンは基本的に都市部を占拠して支配を進めているので、元々保守的伝統的である地方はそのまま放置され、都市部の世俗化しつつある社会を体感していた人々から、自由を根こそぎ取り上げる結果を招いているようでした。頭では「イスラム教徒も一様ではない」と何となくは想像できてはいましたが、映像でこの落差を現実のものとして見るのは初めてでした。

 これを機会にと思い、鑑賞後にネットでタリバンの思想を調べてみると、イスラム教原理主義と単純に括るべきでもなさそうで、デオバンドは原理主義と呼ばれる思想に基づきイスラム教の訓えを「解釈」した思想であるようです。つまり、原理主義は原理主義でも、独自の色がついているということでしょう。具体的には劇中でも確認できる幾つかの思想的特徴があります。(以下はウィキの情報を抜粋要約したものです。)

◆シャリーア法について
 調査対象のアフガニスタン人のうち、99%がシャリーア法による国の統治を望み、85%が姦淫者を石打ちすることを望み、81%が泥棒の手を切断する事を望み、50%が背教者の処刑を望んでいる

◆教育について
 近代教育よりも宗教教育が優先され、近代教育は宗教教育の中にあるべきである。 なぜなら、宗教は有益な知識と善行に基づいており、有益な知識と善行は至高なるクルアーンに基づいており、虚偽が存在しないことがすべてのイスラム教徒に証明されているからである。

◆女性の生活
 タリバンのメンバーは彼らの教師であったムッラーたちから「女性は誘惑的で、男性をアッラーフへの奉仕から引き離す存在」といった内容の教育を受けていたとされる。1990年代後半に政権の座についた彼らは女性の通学・就労・買い物等含む外出行為や、家族以外の男性が女性と話すことを禁じた。
 女性が教育等で外出するときは、マフラム(兄弟やおじ、父親など親族関係にある男性同伴者)以外の男性に身体を見せてはいけないため、合法的な服装(ヒジャブ)でなければならない。合法的な服装とは主に7つ条件があげられる。
(1)除外された部分を除いてヒジャブで全身を覆わなければならない。
(2)ヒジャブはそれ自体が装飾品であってはならない。
 ジャーヒリーヤ(イスラム教布教以前の無明時代)の無知な女性のように自らの美しさを男性にひけらかしてはならない。
(3)身体を覆うものが透明だったり透けたりするものではいけない。
(4)ヒジャブは幅が広く、ボディーラインを露出するようなきついものではならない。
(5)外出する際に香水をつけてはならない。
 美しい服や宝石などと同じで、情欲を刺激することに関係しているからである。
 例え夫が許可しても、女性が身を飾り外出するのは大きな罪である。
(6)男性と似た服を着用しない。
 男女共に異性を模倣することは神によって禁じられている。
(7)不信者の服装を模倣しない。
 男女共に服装や飲食習慣などで不信者を模倣することはシャリーアによって禁じられている。

◆同性愛
 タリバンは同性愛がシャリーア法に背くものとしており、死刑に処した事例もある。

◆音楽
 タリバンは音楽の禁止を打ち出している。(これは演奏するのは勿論、聞いて鑑賞するのもダメということのようです。)

 女性に関しては、本来、クルアーン(私達は子供の頃から学校でコーランと習っているので、かなり違和感がある呼称です。)が言っているのは、ジェンダーごとの役割だけであり、イスラム教では男女を「同等の価値があるが異なる役割を持つ存在」と捉え、男性に家族を養う経済的義務(キワーマ)を課す一方で、女性には家庭の管理などを割り振る考え方が基盤とAIさんなども回答しています。

 寧ろクルアーン成立当初の時代で見ると、女性に財産権や相続権、離婚申請権を認めていて先進的な女性の社会的地位を提示しているものでした。しかし、クルアーンの教義そのものとは離れ、7世紀のアラビア半島の歴史的背景や、各地域の家父長制の文化・政治権力構造が複雑に結びついて形成されているとAIさんは説明しています。詰まる所、ジェンダーの役割分担の考え方から、男性に都合の良い、女性は家庭の中にいて特定男性に守られ、その特定男性に支配されるものといった価値観がクルアーンのどこにも書かれていなくても定着していったと考えるべきなのかと思われます。

 劇中でも、タリバンの制圧以前の段階でハワが地元文化の刺繍作品を販売するビジネスを起こそうと、家を数日離れると言いだした際に、半分寝たきりの老夫は「家からお前が出て行けば、家の女に逃げられて見捨てられた男と周囲の人々は終れを笑うだろう。お前は俺がそんな風に思われて良いのだな」のように言って不貞腐れています。AIさんが、「ヒジャブの着用義務化、一夫多妻制、あるいは名誉殺人や女子割礼」などを挙げて、「特定の地域社会や部族の古い慣習が宗教と結びついた結果」とした上で「家父長制と男性優位の価値観:女性の行動や貞操をコントロールすることが一族の男性の「尊厳」とされる文化が根底にあります」などとするのは、タリバン支配が始まる前からの伝統であるのは間違いないようです。

 このように見ると、劇中ではタリバンの政権奪取によって、暗黒時代が始まったように強調されていて、それはそれで嘘ではありませんが、児童婚や女性の生活に対する伝統的な制限は、長らく続いてきており、主人公ハワやその同世代の女性らの意識の変化を軸に緩やかに周囲の男性も巻き込んで、その緩和が萌芽しはじめていたという風に見るべきなのでしょう。ただ、多分、認知症が嵩じる前の夫も含め多くの中年以上の男性の価値観は表面上、女性側の価値観の変化、世俗化に許容的であったとしても、長く変わらず保守的なのであったのは劇中で端々に感じられます。

 劇中では描かれず、エンドロール手前で文字で説明される情報に拠れば、サワ達家族は数年後にイランに出国することができ、そこからパリに移動してタリバン政権奪取後すぐに出国していた本作の監督ナジーバと合流して暮らせるようになったようです。しかし、長女が先夫との間に設けた(ハワの孫娘)ザハラーは、一旦ハワが引き取り教育を与えようとしますが、タリバンの圧政が及ばない親権を持つ元夫の手に引き渡さざるを得ず、そこで後に児童婚をさせられたことが判明します。つまりパリの生活に合流することはできなかったということです。

 主人公ハワの縛られた人生は児童婚から始まり、家の中に押し込められたものであったということで、ハワと同世代の同じく児童婚をした女性との会話などに或る程度の尺が割かれていることを見ても、児童婚が一つの大きな抑圧の象徴として描かれていることに間違いはありません。

 ネットで見ると「児童婚とは、配偶者の一方または両方が18歳未満で結ばれる公式または非公式な婚姻のことです。世界では20~24歳女性の約5人に1人が18歳未満で結婚しており、年間約1,200万人の少女が被害に遭い、教育の中断や健康被害などの深刻な権利侵害を引き起こしています」のように書かれており、人権侵害の世界的な重要課題として騒がれているようです。

 これまたネットで見ると、国連人口基金(UNFPA:United Nations Population Fund)なる国際機関があり、「すべての妊娠が望まれ、すべての出産が安全に行われ、すべての若者の可能性が発揮される世界の実現を目指す国際連合の補助機関」とのことです。この機関のミッションとして…

●妊娠・出産による妊産婦の死亡をゼロにする
●ジェンダーに基づく暴力や児童婚などの有害な慣習をゼロにする
●家族計画サービスへのニーズが満たされない状況をゼロにする

が挙げられていて、まるで児童婚が悪の所業とばかりの言い方です。現実にこの機関の児童婚に関わるウェブページには…

[以下引用]

児童婚は、ほぼ全世界的に禁止されている

世界で最も広く賛同されている人権協定である、子どもの権利条約(CRC)と女性差別撤廃条約(CEDAW)は児童婚を禁止しています。この2つの条約は、ほぼすべての国によって署名または批准されています。

アナ・カビさん(左)とザイダ・ナ・ンファドさんは、児童婚から逃れるために、ある福音教会に避難しました。その教会は、一時は40人の少女を受け入れていました。

しかし世界中で、国または地域の法律によって、条約の趣旨は異なるかたちで解釈されています。例えば、多くの国は、親の同意、宗教法、慣習法の下での児童婚を認めています。世界には法的に登録されない結婚も多く存在します。児童婚を違法とする地域でも、あまり厳密には執行されていません。

[以上引用]

 定義に拠れば、児童婚は「配偶者の一方または両方が18歳未満で結ばれる公式または非公式な婚姻」ですから劇中のようなかなり年が離れた男性と10代半ばの少女の結婚のことばかりを指す訳ではないようですので、必ずしもこのウェブサイトの言う児童婚の話全部が劇中のケースの解釈に該当する訳ではありません。ただ、私にはこうした国際的な枠組みで児童婚を悪の所業のように断じるのは、完全な文化干渉としか思えません。

 本人達が伝統文化として行なっていることをなぜ外部の人間が「人権侵害」だの「健康被害」だの言えるのかが私には全く分かりません。クジラを食べるのは野蛮だと食べもしない動物を散々虐殺して絶滅させたオーストラリア人に言われる筋合いがないとか、女性天皇が認められないのは差別と考えられるとの勧告が国連機関から日本が受けるのも全くおかしな話です。それと同様の欧米文化・文明によるくだらない価値観押しつけにしか私には思えないのです。

 もちろん、ハワのように世俗化を推し進める力が社会の内部に生まれ、彼らの社会が彼ら自らの力で変わっていくのは全く問題ありません。タリバンの圧政も本人達が劇中にもある通り、緩やかな反抗を通して覆すべきものである可能性が高いでしょう。それを他国や他文化の基準を安易に押し付けて普及させようとするのは間違いです。多様な文化を認めるとはそういうことであろうと思われます。

 実際、先述の国連人口基金のウェブページには…

[以下引用]

ギニアビサウは子どもの権利条約と女性差別撤廃条約、および、アフリカ人権憲章に基づく女性の権利議定書であるマプト議定書のすべてに署名していますが、子どもたちは親や保護者、裁判所の了承があれば結婚することができます。 アナ・カビさんは14歳だった2008年当時、両親に結婚させられそうになり、20キロ以上歩いて、強制結婚から逃れた少女たちの安全な避難所として知られる福音派の教会に辿り着きました。「私たちのコミュニティで、早婚は、文化的および経済的側面に関わるものとして、親たちによって正当化されています」とアブド・カサマ牧師は言います。 「親たちは、先祖代々続くそのような考えをもとに、教会にいる娘たちを取り戻そうと、銃器を用いることもあります」

[以上引用]

のように書かれています。この事例の銃器を取る親たちからすれば、教会がまるで日本の某新興宗教のように、自分の子供達を洗脳して拉致していっているとしか見えないのではないかと思えます。

 大体にして多くの発展途上国において、条約の批准などが国民の総意や合意を経て行なわれているケースがどれほどあるのかかなり疑問です。政府側が先進国群からの援助などの利益を餌にそうした条約も「先進国の仲間入り」のために飲み込んでいるだけというケースも多々あるのではないかと私には思えます。

 見合い結婚などでさえ、米国人が「愚の骨頂」と嘲笑っていたのを私は知っています。それもかなり高学歴の米国人です。彼らの言う文化交流などこの程度の差別的で且つ上から目線の全く非合理的なダブスタものが殆どではないかとさえ私は思うことがあります。

 ですので、少なくとも劇中のような児童婚が一定の望ましくない面を持っていることは十分理解しますが、それを変えるべきと考え、実際に変革の波を起こしていくのは、当事者であるべきでしょう。その意味では海外に逃亡したハワの娘の監督もその資格を失っているように思えます。

 老いた男性と年端もいかない女子の結婚と言えば、確かに児童婚の歪みを感じないではありませんが、20年も経てば、日本で言う「後妻業」か何かのように、遺産ガッポリなら、寧ろ望ましいと思う人間もいるかもしれません。敢えて言うなら、『痴人の愛』のナオミのように、衰えゆく男を置いて、自由奔放な人生を少女は成長して送っていけることさえあるかもしれません。(勿論全員そう感じるべきとも思っていませんし、そう感じない人間がたくさんいても不思議はないとも思っています。)

 日本でも元服直後ぐらいの結婚は珍しくない時代がずっと続いていました。ゴーギャンなど南方の小島に行くたびに現地で10代の少女を妻に娶っていました。児童婚の何が問題であるのかを、そして、誰がどのように損害を被っているのかを冷静に考えてみても良いのではないかと思えます。

 国連人口基金のウェブページには「未熟な身体での妊娠・出産により、毎年多くの少女が命を落としています。」と児童婚の問題が書かれていますが、それは医療体制が不備だから起こる問題のように感じられます。そうでなければ志田未来主演の『14才の母 ~愛するために生まれてきた~』なども人権侵害の極悪ドラマになってしまいますし、1980年の大反響ドラマ『3年B組金八先生』(第1シリーズ)の杉田かおる演じる中学生も恐るべき人権侵害を受けたことになるはずでしょう。こうしたことをどう考えるべきなのか、全く度外視して、児童婚は人権侵害の悪の所業と国連機関が国々に価値観を押し付けることに強い違和感を感じざるを得ません。

 その意味では、ハワは兎も角、フランスで大成した娘の価値観は既に「児童婚は悪」に染まっていた可能性は相応にあり、認知症にはなっていない周囲の高齢者やザハラーに児童婚させた地方の家族たちはどう考えているのかも劇中に登場させていない偏りは感じざるを得ません。

 児童婚ではありませんが、たとえば諸外国でも評価が高いドラマ『おしん』の主人公の人生など理不尽の極みではないかと思えます。そのおしんを見て、人権が侵害されていると言うのは簡単ですし、人権は守られたに越したことはありません。しかし、社会がそうあるのは社会がそうあらねばならない理由が少なくともそれまでの何処かの段階までは存在したということです。そして、それを変える力と権利と立場を持つのは、その社会構造に直接的に関与している人間だけであろうと私は思うのです。

 同様のことは『ムクウェゲ 「女性にとって世界最悪の場所」で闘う医師』を鑑賞した際にも思いました。以下のように書いています。

[以下引用]

 人権侵害、特に女性に対する人権侵害と考えれば、重大な問題ですが、武装勢力に拠れば、通常の戦術的活動の一環として行なわれる「必要悪でさえない行為」であるということなのかもしれません。いずれにせよ、映画は組織的に行なわれるレイプをする武装集団に対して軍事的な排除も行なわず、レイプをしたと((あくまでも、軍事的活動の一環なのでということでしょうが)自慢して回るようなことはないものの)公言している人々を罪に問い罰を与えるということもしない政治体制によって、レイプ被害者の女性はどんどん増えているという事実を観客に衝き付けます。

 ここで終われば、なるほどと納得できる衝撃のメッセージを伝える秀逸なドキュメンタリーとして理解できたのですが、この作品はムクウェゲ医師の考えに従って、さらに一歩踏み込んだ主張を開始します。それは、「正義の実行」を国外(特に国連)に求め、続けられる犯罪行為の責任の一端を日本を含めた先進国に見出し糾弾することです。

 前者に関しては、確かに第二次コンゴ戦争ではコンゴも含め6ヶ国が関与した戦争ですから、事実上「世界大戦」と呼んでも良いぐらいの規模です。現実にウィキに拠れば「アフリカ大戦」と別称されているようです。そして、今でも続く紛争を鎮圧する軍事力を新生コンゴ政府は持ち合わせていないのかもしれません。その上、ムクウェゲ医師も何度となく命を狙われており、現在は広い病院の敷地内に国連軍の部隊に警護されつつ暮らしています。そのような中で、確かに「自国で何とかしろ」と単純に決めつけてしまうことには無理があります。

 しかし、他の軍事勢力が介入すれば、それが「正義」と呼べるか否かには、その介入勢力自体の解釈も絡んできます。第二次コンゴ戦争のコンゴ以外の五ヶ国にも何らかの大義があったことでしょう。ならば国連がということになりますが、国連の平和維持活動が功を奏したケースが少ないことは映画の中でも語られています。仮に国連が圧倒的な軍事力でコンゴを制圧したとしたら、それは既に国家ではなく、寧ろ信託統治領などとしたほうが良い状態になると思えます。国連が手を引けば、また元の木阿弥になって紛争の火種がすぐに業火になってしまう可能性が常にあるように思えるのです。なぜなら、そこに全世界的に見て主要な鉱物資源の山が存在し続けているからです。もしかすると、国連と言えども、アンバランスな強権を持ち続ける常任理事国に都合のよい結果を導き出して、特定グローバル企業などに利権を委ねる結果になるのかもしれません。

「私は、この星で最も豊かな国の一つから来ました。しかし、私の国の人々は、世界で最も貧しいのです」

 これはムクウェゲ医師の2018年のノーベル平和賞受賞時のスピーチの一節です。このような事態を根本的に解決するのなら、誰の手による内政干渉も許さず、コンゴの人々が自らの手で法秩序を回復する歩みを起こさねばならないものと思えてなりません。きれいごとのようですが、内政干渉や軍事干渉が歴史的に良い結果を生み出したケースはそう簡単に思い当たらないからです。

 この作品の後段の主張の「続けられる犯罪行為の責任の一端を日本を含めた先進国に見出し糾弾すること」も私には非論理的に感じられました。たとえば、ナイキなどの特定企業が発展途上国においてとんでもない搾取的労働を強いていたことなどが嘗てニュースになったことがあります。今でもコーヒーだの熱帯植物製の物品だのでフェアトレードが叫ばれているのは、そのような特定企業が多数今尚搾取をバンバン続けているからでしょう。このブログでも2020年作品の『グリーン・ライ ~エコの嘘~』の内容として、そのような企業行為にふんだんに言及していますから、多分間違いないことでしょう。

 しかし、今回のケースはかなり違います。最大の違いは鉱物資源は生産財であって、それ単体で特定の商品を形成するようなものではないことです。ムクウェゲ医師は「スマホを使う時、それがコンゴの多くの女性の苦痛によってできているものだと思い起こせ」などと言っていますが、苦痛を与えているのは、搾取企業であって先進国ではありません。

 大体にしてスマホは先進国どころではなく、今時、ありとあらゆる世界の地域で使用されています。搾取している企業がどこの国籍の企業であれ、多国籍企業であれ、その利益を何がしかの方法で処分していて、一定の廉価で世界に供給しているということでしょう。仮に特定の企業がフェアトレードを叫んで、レアメタルや錫を生産者に有利な価格で買い上げることにしたら、当然それが原材料価格に反映されます。その結果、新たなどこぞのグローバル企業がその市場に参入し、利益性が薄く、顧客からも支持されない最初の企業に取って代わるだけでしょう。その交代劇は多くの場合、武力や軍事力を伴うものになりかねないので、またぞろ、戦禍を生み出すだけです。

[以上引用]

 ムクウェゲ医師はノーベル平和賞を受賞した人物ですが、この他責発想でどうしてそういう受賞ができたのか全く不思議に感じられます。自分達の国民でさえどうすべきか意志を持つことができない状況で、問題の原因を他国に求め他国にその賠償まで求めるような姿勢には呆れるほかありません。

 ハワが小型のホワイトボードを買ってきて、小学校低学年の基礎から始まり、徐々に確実に文字を覚えて行く姿は、彼女自身と時代を変えようとする不屈の意志を感じさせる感動を観る者に与えます。しかし、児童婚を単純に諸悪の根源として捉える、単純発想は少々いただけない映画でした。直向きなハワの姿が見られることで、辛うじてDVDは買いかと思います。