感想記事をアップするのに、劇場鑑賞から大分時間を費やしてしまいました。それぐらい、このシリーズ作品は考えさせるところも多い優れた作品で、その新作である今作の鑑賞を心待ちにしていたからです。空騒ぎが過ぎた通称武漢ウイルス禍のドタバタで鑑賞が延びに延びた大期待作『子供はわかってあげない』を漸く鑑賞できた際のような、久々の「待たされワクワク感」です。
私はこのシリーズ作品をテレビシリーズのオンエアから数年以上の時間経過の後に知りました。きっかけは、某全国展開中小企業のクライアントの幹部勉強会を数年にわたりお引き受けしていた中で知り合った先方の九州拠点長のお奨めでした。他の参加者の幹部は単に普通の付き合いが続きましたが、この九州拠点長だけは、若い頃のヘビメタ系のロックへの傾倒経験も、ややカルト系の映画の好みも、そして、アニメなどの作品の好みもかなり被っていることが普段の会話から段々露呈して来て、色々なやりとりをするようになったのでした。
そして或る日、勉強会後の羽田空港への移動の途上、彼が「是非観るべきです。私を信じて時間を投じてください。是非観るべきです」と念押ししてきたのが、私は何となく名称を聞いたことが或る程度しか知らなかった『魔法少女まどか☆マギカ』だったのです。2013年に『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』が発表されて少し経った頃だったかと思います。(その翌年2014年の同作のDVD発売のタイミングに近かったかもしれません。)
彼の勧めでTVシリーズのアニメのDVDをレンタルし通しで観て衝撃を受けました。ネット上では第三話のマミがあっさり魔女に殺されてしまう点が常に話題になりがちですが、私は寧ろ少女達が如何にも個人的なものも含めて願いを叶えるために魔法少女になり、それが安定を失って魔女になり、そして人々に災厄を齎して後、魔法少女によって消滅させられるというサイクルの設定そのものに驚嘆させられました。
登場人物の立場や心情の設定の妙にも驚愕させられました。当時、最後の最後になるまで魔法少女になることのない主人公まどかが全く主人公然としておらず、テレビシリーズの最終話を除いてほぼ全編タイトルに偽りがあるように感じられる設定にまず関心とないまぜの違和感を覚えました。
そして、さやかです。悲恋の中でソウルジェムの現実を知り、「ゾンビみたいな体じゃ、キスして貰うこともできない」と悲嘆する少女の姿がとんでもなく刺さります。電車の中のリーマンふたりの猥談に憎悪を炸裂させる場面も恐ろしく印象的です。そして魔女化してしまい、盟友になりつつあった魔法少女の杏子と相打ちになって消えて行きます。
さらに、というよりも、極めつけが九州拠点長が「ほむほむ」と呼んで愛でるほむらです。先述の「少女⇒魔法少女⇒魔女⇒魔法少女による消滅」のサイクルの上に、さらにほむらのタイムループを延々と繰り返す孤独で戻ることのできない戦いの連鎖の物語が乗っていたことが終盤明らかになって、再び驚愕させられます。
その上で、テレビシリーズ全編を観終って、全体を振り返ると、一番印象に残るのは、こうした少女ものの作品群(と言っても、私は娘と観た『プリキュア』シリーズと他幾つかぐらいしか知りませんが)の中で異様に存在感のあるまどかの母親詢子です。キャラだけで見ると、まどかと全くの対極にいるような、酒で日々の辛さを癒しつつバリキャリを貫く、清濁併せのみ過ぎといった立ち位置の女性です。グラスを手に語る言葉は少ないものの「大人の本音」のオンパレードです。
テレビシリーズを全編観た後、九州拠点長が待ってましたとばかりに雑談時間を設けてくれて…
<九>「凄かったでしょ。まず、誰が推しキャラになりましたか。それを聞かせてください。私は当然ほむほむですよ」
<私>「ほむほむは圧倒的ですよね。ちょっと綾波レイも彷彿とさせますし。けど、さやかもザックリ来るし。だけど、一番の推しは、やっぱり、まどかの母ですかね。あの大人の言葉はもう凄すぎですよね。ああいう親になりたいって思えますもん。酒もあんまり飲めないのにボトルを入れているバーがあるんですが、何でそうしているかって、そこのママが、全然まどか母とは外見も年齢も印象も違うんですけど、言うことが達観しすぎていて、それが目的で店に行っちゃうってことなんですよね」
<九>「ほほ~。まどか母を挙げた人を私は初めてみましたよ。流石市川さん。ちょっと視点が違いますね。なるほど、なるほど…」
などと会話したのを懐かしく思い出します。そして、その後、DVD化された『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』を観て、ほむほむの悪魔になることさえ選ぶ深い業に戦慄し、またぞろ九州拠点長とそれを共有することとなったのでした。
それぐらいこの作品シリーズは意味深いもので、これがもし私が10代の時などに巡り会っていたのだとしたら、『デビルマン』や『日出処の天子』などのコミックやアニメの『伝説巨神 イデオン』並みに人生観にさえ影響を与える作品に間違いなくなっていたものと思えます。そのことに2022年に劇場鑑賞した『ハケンアニメ!』の感想で言及しています。
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細かな理由は幾つかあります。最近だと京アニが凶悪犯罪の犠牲になりましたが、そのような事件が起きるほどに、アニメは社会に深く根ざし定着したように感じられます。その制作の実態の物語に観てみる価値はあるだろうと思えたことです。私はアニメとコミックならどちらかというとコミック派です。ただ、コミック、アニメ(放映・配信用)、アニメ(劇場用)、実写映画のいずれか一つ(非常にレアですが、いずれか二つの時もあるにはあります)で鑑賞を完結させることが多いように感じています。
最近ハマっている『アンゴルモア 元寇合戦記』など多くの作品がコミックだけで情熱が収まるのに対して、たとえば、『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』は、大ファンと言えますが、放映アニメのみが好きで、コミックは何度か迷いましたが買わないままになっています。『進撃の巨人』は実写映画のみが好きで、それ以外に何も見たいと思えません。こうしたコンテンツの歴史的に見る社会への浸透度だけで見たら間違いなくコミックの方が大きく、色々な意味で、それによって人生観を変えたり、職業選択を変えたりした人々が多々いるものと思います。
私も人生観に強い影響を与えたコミックを挙げろと言われたら、『ぼくたちの疾走』、『デビルマン』、『あさってDANCE』、『BE FREE!』、『代打屋トーゴー』、『日出処の天子』、『寄生獣』などなど、簡単に多数挙げられます。それに対して、アニメで人生観に影響が出るような…と考えると『伝説巨神イデオン』ぐらいしか思い当たりません。ギリギリ『魔法少女まどか☆マギカ』ぐらいでしょうか。そのように考える時、私の世代の人間から見ると…ということかと思いますが、漸くアニメも(単純に多くのファンを抱えるというだけではなく)人生を揺さぶる浸透度を持ち始めたというような気がしてなりません。トレーラーで観たこの作品の登場人物の言動には、そうした人々に影響を与える作品作りをしたいという熱意が滲み出ていました。それを観てみたいと思ったというのも、細かな理由の一つです。
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また、テレビ作品終了後の映画化についての話題でも2023年に劇場鑑賞した『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の感想で、このシリーズ作品をいくつか挙げた事例の中に含めています。
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このブログの記事でも時々言及されていたように、私はこの作品を楽しみにしていて、今回の作品を観る直前に発売になったドラマDVDの第三作もレンタルして穴の空くほど観て、本作の原作コミックも購入して読み、さらに本作鑑賞後に偶然書店で見つけた本作のフォトブックも早速その場で購入して読み耽ったのでした。
なので、端的に言うと、この映画作品の良さが殆ど分かりません。なぜそうかと言えば、原作コミックとDVDのドラマ群が一続きの世界観を創り上げていて、この新しい映画作品もその一端を更に押し広げたピースに過ぎなく感じられるからです。敢えて言うなら、あまりに『岸辺露伴は動かない』のドラマの世界観が完成され過ぎていて、その一部を観たようにしか認識できないのです。それほどドラマと共通の世界観が共通のスタッフの手で創り上げられ、そこには共通の演者たちがそのままに躍動しているのでした。物凄い「地続き感」です。
たとえば、エヴァンゲリオンのテレビシリーズで考えると、テレビの方が主人公シンジの心中を執拗に最終二話で描いたのを、後に創られた映画がその時に起きていた現実世界を描く形で完結させていたりします。物語は繋がってはいますし、世界観も一緒ですが、(エヴァンゲリオンの作品テイストとして)分かりにくさもそのままであったかと思います。同様の最終話を映画化によって完全な完結に導くのは、私がアニメ映画作品の最高峰として認識する『伝説巨神イデオン』でも見られます。こちらはエヴァンゲリオンに10年以上先立って行われたことになりますが、この映画作品は二本立て同時公開で、一作目がテレビシリーズのおさらいをして二作目が完結編となっていました。つまり、テレビシリーズに映画の物語が依存しないで成立していると見ることができます。後のアニメの『魔法少女まどか☆マギカ』では、映画がドラマの物語の時系列的に後の世界観をより深める形で存在している名作になっているようなこともあります。
このように、テレビドラマと映画作品の関係は様々ですが、わざわざ映画にする意義が常にその制作判断に対して問われるのだろうとは思います。実写の物語でも、私がドラマシリーズからガッツリ見入っていた例では『仮面ライダーアマゾンズ THE MOVIE 最後ノ審判』が好感のもてる事例ですが、こういった関係は多々あるものと思います。しかし、単純に「人気ドラマだったから映画化もしよう。そうすればドラマの方のファンが動員できそう」という安易な動機が見え隠れするケースも少なくないように思えます。その点、この作品は絶妙なミクス感がドラマと映画の間に存在しています。ドラマそのものが1話完結の物語の集合体なので、映画もその新たな1話として加わっただけの形になっているのです。おまけにDVD第三集では、そのエンディングで泉京香がルーブルへの取材の話を振っている念の入りようです。
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そして、漸くそのほむほむの深い業によって形成された世界の顛末の物語が解禁されたのでした。8月28日の封切から2週間少々経った火曜日の夜26時15分(つまり、実際には水曜日の未明の午前2時15分です)の回を新宿バルト9で知己と観て来ました。降ったり止んだりが続き、霧雨のような雨の降る真夜中でした。
バルト9では1日8回の上映が為されています。この作品の知名度からして、新宿ではマルチプレックスの大型映画館4館全館が上映していても良さそうですが、なぜかピカデリーは上映を行なっていません。歌舞伎町の高額映画館は安定の毎日2回を当面繰り返すようですが、ゴジラの生首ビルの映画館とバルト9はこの週の金曜日から1日の上映回数を減らす予定が既に発表されています。(それではバルト9では1日5回程度に減らすだけですが、ゴジラの生首ビルの映画館の方はなんと1日3回にまで減じ、さらにその翌週の予定では2回になっています。)
こうした状況と同様の判断が働いているのか、上映館数はそれほど多くなく、都内では34館で、全国では291館と映画.comに表示されています。全国の上映エリアでも元々映画館が存在するエリア全体で都道府県単位の漏れはないようですから、新宿のケースと同様に、大都市や中核都市エリアで多少の間引き状態になっているものと解釈できそうです。
私は上述のようにこの作品の公開を心待ちにしていましたが、混雑した劇場で観たいとは全く思えないため、封切から時間を置いてみようと決めていました。そして可能な限り深夜枠などの空いている時間帯に観ようと思っていました。2週間待ちに待ってそろそろ限界になりました。
それまでの間に、既に持っていたチラシやネットのネタバレ記事を熟読し、概ね物語設定は理解していました。
(何度か書いている通り、私はネタバレが全く気にならない人間です。ネタを聞いても一度観ると決めた鑑賞動機が揺らぐことはありませんし、優れた作品はネタバレが先になされていても価値が変わるように感じません。また優れた作品かどうかは鑑賞しなくては分からないですから、ネタバレが価値を棄損したと感じるか否かは観てみなくては分かりません。また、多くの人々にとっての駄作であっても私が諸手を挙げて素晴らしいと感じる作品もありますし、その真逆もあります。ですので、レビューによって大きく自分自身の作品評価が影響されることもほぼありません。)
その意味では、封切から2週間の間に、既に何度も劇場に通っているようなコアなファンによって、この作品の世間的評価は大分定まってきていたように感じます。それでも、例えばエヴァのケースが典型的ですが、私はコアファンのような考察を重ねて合わせぶつけ合わせといったレベルで傾倒していないので、細かな設定や解釈などには至らないままです。作品ファンの範疇にはギリギリ入っているかと思うものの大枠の作品理解とそれを目的とした鑑賞をしたという実感でいます。
例えば、映画.comでも以下のような紹介が為されていますが、既に前作でキーワードとなっている「円環の理」に加え、「名塚底根」などの新概念も或る程度想像がつくものになっています。全作までをまあまあきちんと理解していれば、ネタバレのネット記事の結末まで読まなくても、かなり今回の物語設定は推測できるように感じていました。
[以下引用↓]
2011年1月?4月に放送され大きな話題を集めたテレビアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の劇場版第4作。2013年公開の「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語」の続編で、鹿目まどかへの想いゆえに自ら「悪魔」と化した暁美ほむらが作り出した世界を舞台に物語が展開する。
見滝原市の女の子たちの間では、この世の呪いと戦うことと引き換えに「トカゲさん電話」が願いをかなえてくれるという噂話がささやかれていた。その頃、ソウルジェムを持たない少女が魔獣狩りを行うという異常事態が続発する。その状況を悠然と眺める暁美ほむらは、この世界に君臨する悪魔としてすべてをほしいままにしているはずだったが、そんな歪んだ日常を終わらせる存在が突如として現れる。すべての魔女の始まりの場所である「名塚底根(なづかそこつね)」、かつてほむらを苦しめた複数の魔女の集合体「ワルプルギスの夜」、そして「円環の理」を求める2人の魔法少女。円環の理を失った世界で、魔法少女たちの運命は再び廻りはじめる。
キャスト・スタッフにはこれまでのメンバーが再結集し、総監督を新房昭之、脚本を虚淵玄、キャラクター原案を蒼樹うめ、アニメーション制作をシャフトが担当。
2026年製作/120分/G/日本
配給:アニメック
劇場公開日:2026年8月28日
[以上引用↑]
シアターに入ると、深夜枠でロビーにも人がまばらであったのに、それなりに観客が集まっていました。上映開始20分ほど前のチケット購入時にモニタで観た際には、私達以外に15人程度の観客しかいなかったはずですが、その後、急激に観客が増えたようで、シアターの暗がりの中で確認できた最終的な人数は30人を超えていたように思えます。モニタ上では2人連れと思しき席の取り方がほぼなかったのに対して、実際には6、7組の2人連れが居て、さらに、珍しい女性4人連れも1組居ました。2人連れは1組の女性同士を除いて全部男女の組み合わせで、40代ぐらいの男女1組を除いて残り全部20代といった感じに見えました。4人連れ女性は10代後半かと思える若さに見えましたが、深夜時間帯の18歳未満のチケット購入は、券売機のモニタで見る限り制限されているはずではなかったかと思います。
全体の半分程度の人数を占める単独客も年齢的には圧倒的に20代から30代前半が多く、それ以外の年齢層はほんの数人でした。男女比はやや男性が多いように感じましたが定かではありません。また1人70代ぐらいに見える高齢男性がかなりラフな格好で来ていました。当初、始発待ちの睡眠目的の来場者かと思っていましたが、(かなり集中してスクリーンを見続けた鑑賞でしたが、比較的近い私から斜め前方の席だったので、そのさなかに1度視線を投げた際がありましたが)少なくとも寝入ってはいない様子でした。この男性客に次いで私はシアター内で2番目の高齢者だったと思います。(私の年齢からチケットは「ペア50」という片方が50歳以上の2人連れの割引チケットを購入できています。)
観てみると、このシリーズ作品の魅力はきれいに維持踏襲された新作だと思えました。特に画像の描写は印象的です。光に溢れ美しい庭園や前衛的だったり未来的だったりする建築物などの描写も、その街並みが闇に包まれると突如ベタなコラージュ的なモブが溢れて不穏極まりない様相を呈する描写も、そのコラージュが極限まで活かされる魔女や魔女の魔法空間の描写も、(従来作品とより戦闘シーンが多く、やや構成比が減ったようには思えますが)全く健在です。
私は幾つかの本シリーズ作の画像をPCの壁紙にしてアップで観ていて(デジタル画像処理などの技術に疎い私にしても)気づいたのですが、顔の輪郭の線を太い焦げ茶色で描くやや平板に感じられる顔の描き方なども、スクリーンでアップになった顔をみていると健在であるように思えました。
ただ前作『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』に比べて、どうも軽く感じられる印象が残りました。テレビシリーズから前作までの流れが、観る者にざっくりと刺さって抜けないナイフのような逃げられない重苦しさを持っていたのに対して、かなり軽い印象です。それは先述のようなネタバレによる影響では決してなく、前作までの物語構成から、その延長線上に順当に登場する物語設定ということが一つの大きな要因であったかもしれません。
また、新少女キャラ3人が登場しますが、どうも不自然にキャラが濃すぎるように感じられるのです。他の既存キャラがテレビシリーズを通して、さらに劇場版前作を通して、時間をかけて重厚なキャラ設定になっているのに対して、3人は本作で登場して、一枚岩の価値観では決してない3人が3人とも、それぞれに語られるべき重たい過去を背負っているのを駆け足で紹介しなくてはならなくなってしまった結果であるかもしれません。
ネットの記事で東京新聞が本作の脚本担当者にインタビューをしているものがあります。2026年9月12日付けの『『まどか☆マギカ』脚本の虚淵玄「セカイ系は時代遅れ」実感』という記事です。その一部を抜粋します。(その総文字数に比して記事全体が持つ情報量が極めて多い内容で、全部ベタ貼りしたいぐらいですが、流石に止めておきました。)
[以下抜粋↓]
2011年にテレビアニメが放送されて以来ファンが増え続け、いまだ高い人気を誇る『魔法少女まどか☆マギカ』。2013年の「[新編]叛逆の物語」の正当な続編となる『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 〈ワルプルギスの廻天〉』が8月28日に公開された。脚本を担当した虚淵玄は、新作が10年以上前から動き始めていたと明かす。「セカイ系の物語は時代遅れになった」と語りつつ、新しい時代のエンタメ作品の出現に期待した。(取材・文 共同通信=高坂真喜子)
(中略)
▼記者 今回登場した新キャラについて、こだわったところはありますか。
●虚淵 初期メンバーの魔法少女の5人に被らないような、別の個性を持たせるように気をつかいました。「普通の人ならこう思う」というキャラ付けを、これまでの作品でやったので、キャラクターのカウンターになるような価値観を持ったキャラにしないと、印象として負けちゃうんじゃないかと考えました。それによって、セルマは結構“ピーキー”なキャラクターになりました。
(中略)
▼記者 10年以上前に書いたということですが、ご自分も変わったことはありそうですね。
●虚淵 僕もいろいろ芸風が変わっちゃって、中学生の女の子は、この先書けないな、みたいな。そういう変化が生じる前に書くことができて良かったなとは思います。今だからこそ言えますけど、てっきりお蔵入りかと思って諦めていたので、何はともあれ実現に至ったというのは、本当にうれしい限りですよね。
▼記者 女子中学生を書くのが難しいとは。
●虚淵 この10年間、僕は脚本の仕事で男性のチャンバラばかりを突き詰めていました。気がつくと、自分が年齢を重ねたというのもありますが、若い子たちの気持ちやはやりというか、今の時代の中で、彼や彼女が何を思って青春を過ごしているのかが見当もつかないという場所に来た。今から青春について書くと、昔話になる気がします。
▼記者 もし青春ものの依頼があるとしたら、書きづらいですか。
●虚淵 僕としては、きちんと自分も成長できたんだな、という前向きな気持ちではあります。この年になってまで、心が中学生のまま、生きているのはしんどかろうと思います。これからの時代の青春物語というのは、それを知っている若手に書いていってもらえばいい。昔話をしていけばいいじゃないか、という思いはありますね。
▼記者 年齢以外にも作風の変化に影響したものはありますか。
●虚淵 世界の流れが速いですよね。こんな勢いで世の中が変わっていくのって、昔と比べてなかなかなかったのではないかと思います。今の世界は、3、4年前に想像もつかなかった。コロナ禍で学校に行けなかった人の青春も、語り聞く範囲でしか分からないし、そこから出てきた物語なんていうものもいろいろあって、自分が共感できた青春の物語が既に古いと、常々感じますね。
例え話ですが、昔「セカイ系」という閉じた空気の中で、ヒロインと疑似恋愛して、みたいな文化がありました。あれはおそらくもう完全に時代遅れですね。僕なりに実感したのが、昨今の推し文化、若い子たちは、男の子も女の子も、ときめきの相手を他の人たちと共有することに何の抵抗もない。あの開けっ広げな祝祭感は、僕らが覚えているすごく閉塞的な青春の景色からは想像もつかなかったものですね。「おまえ、ウジウジしてないで、YouTuberの配信とか見てみなよ」みたいに思っているのかも。コメントを拾ってもらえたら、何か悩みが晴れるかも、とか、そんな青春。なるほど、これはちょっともう、僕が何か新しく語れる余地っていうのは、どんどんなくなっていくだろうなっていう感触はありますね。
▼記者 このような時代に、この作品はどう受け止められると思いますか。
●虚淵 正直不安です。もうちょっとお客さんが参加するというか、お祭りのようなものが喜ぶんじゃないのかな、という気持ちはちょっとあります。この作品は、セリフの密度が多すぎて、こんな勢いでキャラがしゃべっていると、同時視聴とかしんどくないかと感じます。これが今どきの若い人に喜んでもらえるのかどうかは、ライターとしては不安はありますが、それはそれとしてとても刺激的な映像なので、そこで評価はしてもらえるだろうなと、安心感はありますね。
[以上抜粋↑]
本作のテレビアニメが放映されたのは2011年で既に15年も経っています。傑作の前劇場版でさえ2013年で13年前です。虚淵玄は2011年時点で逆算すると39歳で、現在53歳とウィキに載っています。本人自身が少女達の“生態”を緻密に描く技術を鈍らせたこと、さらにテレビシリーズで或る種の出揃ったキャラ設定に今回の3人を隙間を広げるようにして押し込んだこと、そして、彼自身が意識する観客ニーズや価値観の変化などなど、色々なことが読み取れる記事だと思います。
そしてそれらが私も抱いた本作への感想である「軽さ」を説明する主要な要素であるように感じられてなりません。エヴァの劇場版のように、10年を超えるシリーズ4作であっても、少なくともテレビシリーズから乖離した所に作れるパラレルワールド的な物語であれば、或る意味自由自在ですが、完成度の高いテレビシリーズ、そしてその直後のさらに完成度の高い劇場版から、13年を経て出される同じ世界観の物語というのは、かなり自由度が制限されたものになってしまうのが当然であろうと思われます。
(もちろん、記事に拠れば、本作のシナリオ原案は既に10年前にできていたとのことですから、逆にその後の検討と試行錯誤のプロセスが、その都度の時代には合っていても、鮮度が低く尖った魅力を削いだ、逆に言えば円熟した作品を作ることになってしまった可能性さえ、素人の私なりに感じないではありません。)
それでも、単に強力な魔女として存在していた「ワルプルギスの夜」の出自も明らかになり、それがきちんと先述のような物語の重層的なサイクルの中にキッチリはめ込まれた世界観形成は見事としか言いようがありません。(喩えとしてどうかと思いますが、たとえば、『北斗の拳』のツギハギ世界観などは笑いネタぐらいにしか思えないぐらいのお粗末さですが、それとは天と地ほど異なる物語整合性の高さです。)
最後の最後、やはりまどかは自らの意思で円環の理の中に戻ることを選択し消えて行きます。エンドロールの後に、トカゲの電話(?)が再び鳴り続け、受話器を壁から現れた手が取る所が描かれています。複雑な世界観ですので、ゲームからアニメへと進んだ外伝『マギアレコード』のような作品もある訳ですので、物語の続きはまだまだ広げる余地が残っていそうには思えますが、先述の虚淵玄のインタビュー記事内容を観ると、このままの継続は難しそうに感じられます。(世の中には『NARUTO -ナルト-』から『BORUTO-ボルト- -NARUTO NEXT GENERATIONS-』のような原作者交代(/継承)による世界観継続の事例もありますから、何とも言えません。)
前作に比べ、戦闘シーンの迫力向上や緊張のつばぜり合いの応酬の魅力とは裏腹に、作品全体のインパクトはサイズダウンしたようには感じられましたが、まどかやほむらのその後の選択が明示される良い物語作品であったと思います。DVDはもちろん買いです。