マイナーでかなり認知度が低い作品の筈なのに、昨年11月下旬の封切から未だに上映館が存在し続けている隠れた人気作と言えると思います。封切からまるまる1ヶ月半近く経った今年二度目の土曜日の午後16時35分の回を銀座のビル街の裏路地にあるミニシアターで観て来ました。この館には昨年11月に『運命屋』を観に来てプロデューサーでもある出演女優をロビーで会話するという体験をしました。
上映館はかなり限られて来ていて、日本全国で見ても映画.comで見る限り、山形・大阪・宮崎の3ヶ所しかないことになっていて、私が観に行く銀座の上映館は含まれていません。慌てて映画館のサイトを見てみたら間違いなく1日2回の上映が為されているとありましたが、不安を抱きつつ映画館を訪れました。上映状況の情報は、映画館側がこうした映画情報サイトに入力するような形になっているのではないかと素人ながらに想像しますが、このようなマイナーな作品のミニシアターでの上映が続いたり続かなかったりという微妙な状況に至ると正確性が落ちるのかもしれません。何にせよかなり珍しい事態だと思います。
封切当初はこの作品のオフィシャル・サイトでも挙げられている通り、東京エリアでは吉祥寺の地下映画館でも上映されていたようですが、最近急激に上映館を失ったようです。
私がこの作品を観たいと思ったのはこの銀座の映画館や幾つかのミニシアター系の劇場で映画を観た際に、トレーラーを観たことがきっかけです。勿論、トレーラーだけならもっとほかの作品もたくさん観ているのですが、その中でも、この作品は何か、今風に言うと、心をざわつかせるものがあるのです。物語は映画.comの以下のような紹介文(抜粋)にあるまんまのものです。
「「ボレロ 永遠の旋律」「バルバラ セーヌの黒いバラ」などで知られるフランスの俳優ジャンヌ・バリバールが主演を務めた大人のラブストーリー。スイスの壮麗な山々と湖畔に囲まれた実在のホテルを舞台に、息子への献身的な愛と現実逃避の夢の間で揺れ動く女性を描く。
スイスアルプスをのぞむ小さな町で仕立て屋として働く女性クローディーヌは、障がいのある息子をひとりで育てている。毎週火曜日になると彼女は白いワンピースをまとって山の上のリゾートホテルを訪れ、一人旅の男性客を選んではその場限りの関係を楽しんでいた。もう真剣に恋をすることなどないと思っていたクローディーヌだが、ある男性との出会いによって彼女の人生は大きく揺さぶられる。
ファッションデザイナーとして活躍してきたスイス出身のマキシム・ラッパズが長編初メガホンをとった。」
普段、特に私が選ぶことが少ないジャンルの作品です。しかし、例えば、スイスアルプスの山間の美しい風景を見ると、普通は何か清々しいドラマ展開をイメージしてしまいます。勿論、山村の人間関係の軋轢や揉め事を描いた作品も多々存在しますが、そうした作品群は背景の自然風景を厳しく人間の社会生活を制限したり抑圧したりするものとして描くことが殆どだと思います。そのギャップがまず第一のざわつき要因です。
さらに、シングルマザーの洋裁師が週一で見知らぬ男とセックスを重ねるのが当たり前という設定がまたざわつきの要因です。これをまず当たり前のこととして受け止める文化が地元(EUなのか西欧なのか、西欧の特定の文化圏なのか何とも言えませんが)の人々の間で一般的と受け止められている前提が日本人からするとかなり異色であろうと思われます。
仮にこれを日本を舞台にして同じ設定を想定すると、岐阜とか長野とかの山間の人口減少に喘ぐ市町村を舞台にして、シングルマザーの洋裁師が地元のホテルで旅行者に声を掛けて金をとる訳でもなく、自らの意志でセックスを楽しむ…ということになります。あっという間に地元で噂が広がり、何らかの社会的な制裁を受けるとか、何かの問題が起きそうに思えます。現在ならSNSなどで常時「●●町に滞在予定の方がいたらプロフをお送りください。よろしければご一緒にセックスを楽しみたいと思います。」的なメッセージを出している状態でそうしたその場限りの関係は維持できるかと思いますが、それでさえ、SNS上で炎上が起き、身バレなどが簡単に起きそうな気がします。
相手の異邦人的男性の立場が分からないということは取り急ぎ置いておき、本人は独身なのですから、誰に迷惑もかけない範囲で自分の意志で行なっていることを他人から糾弾される筋合いは全くありません。それは合理的で当たり前のことなのですが、現実の日本の地方都市などでこのような住民を許容できるかどうかはかなり疑問です。寧ろ、どちらかというと、かなりローカルなエリアで昔の風習の延長で(例えば津山三十人殺しをモチーフにした映画『丑三つの村』などに登場するような)夜這い的な文化の中で昇華されそうに思われます。
例えば比較的最近私が観た作品の『裏アカ』では、不倫などの問題がない形の女性がセックス相手を求める都市圏の話でも、瀧内公美演じる主人公の女性には不遇の制裁的な結末が待ち受けています。ところが本作は全くそうした社会的制裁の要素なく、いきなり別のタイプの問題を用意して観客に突き付ける形になっています。それは主人公が介護しなくてはならない障碍者の息子の存在です。その場の恋とセックスを楽しんでいるうちは何も問題が生じませんでしたが、恋に落ちてしまうような相手が登場し、街を出て一緒に暮らそうとの誘いを受けた時点で、彼女の葛藤が生じてしまうのです。繰り返しになりますが、日本人の間ではなかなか描けないシチュエーションとその葛藤であろうと思えます。これが何となく心がざわつく大きなポイントであろうと思います。
おまけにこの作品のサムネイルはこうした事情を知っている人間が観ると、あまりに象徴的でこれまた心をざわつかせます。背景に美しい山々の稜線が描かれる中で後ろから抱きしめ支える男性に主人公の女性が仰け反るようにしな垂れて身を任せている姿勢の、バストアップどころか頭部にフォーカスした映像です。男の方は彼女の頭の蔭に入って全く表情が読めません。けれども、男の表情などここでは全く関係ないと断ずるが如く、サムネイル画像は、静かに溢れるような愉悦に身を任せ脱力する彼女の表情を後ろ様に描いて見せるのです。どうだと言わんばかりの圧力を持つ画だと思います。
この作品の原題は「Laissez-moi」で、フランス語が全然分からない私にはこのタイトルを見た際に経済学で習う「レッセ・フェール」が「laissez-faire」なのは知っていて、(どの程度適訳かは分かりませんが)英語なら「let do」に該当するような「(神の手が)為すに任せよ」のような意味であることをすぐさま思い起こしました。「moi」の部分は多分「私」だろうと思ったので、この意味が多分「let me」であろうことは想像がつきました。(その後、パンフを購入したら、まさにその点に言及した解説文があり、)「let me go」などの後続する動詞を限定しない想像力を煽る表現であるというような説明が為されていました。
先述のざわつくサムネイルはまさにその脱力して身を任せる主人公そのものですから、このタイトルにこの上なく合致した画であることが分かります。
ずっとこうしたざわつきを意識して、この作品を観たいと思っていましたが、徐々に上映館も減り始めて、慌てて(丁度、上映時間より数時間前に東京駅付近でアポができたのを機に)銀座に向かうことにしたのでした。
チケット購入の際にモニタを見ると、観客数はほんの数人だけでしたが、広くないロビーのスペースを見渡しても後述するような劇場のスタッフはいても、他の観客が全く見当たりませんでした。シアターに入ると、結果的に私以外の観客は11人だったように思います。女性4人に男性7人の性別構成で、私よりは若いものの中高年の年齢行きのような男女2人連れがその中に含まれていますが、残りは全員単独客です。年齢層はかなり広がっており、やや高齢側に傾いているものの、男性は30代前半らしき人物が1人いましたし、女性の方は20代と思しき単独客が1人いました。
パンフには『ル・モンド』紙が「すべてが柔らかい絵画のような作品」とこの作品を評していると書かれていますが、切り立った山々の縦の構図に交差するように青く水平に広がるダム湖の水面などの中に、私のようなあまり詳しくない者のイメージにもあるような典型的なフランス映画っぽい出で立ちや言動の俳優達が物語を描き進めて行く作品です。乏しいイメージの中で言うと、(山岳地帯が舞台ではありませんが)『眺めのいい部屋』などに見るような典型的な明るく美しい構図と色遣いの画像がずっと連続しているように思えます。それは本作の主人公が移動に用いる電車の中の閉鎖空間でさえ、座席の裏側に妙に凝った模様が配されているなど、常に絵になる構図やデザインが埋め込まれているように感じられるのです。
先述のようなざわつきがそれなりに鎮まる要素も鑑賞してみて発見しました。幾つかあります。まず、主人公が相手の男性を探すホテルは自分が住む街の中にはないという事実です。主人公は家を出てバスに乗り駅に向かい、電車で街よりは上にある箇所に行きます。そこからダム湖の畔の長いセメントでできたように見える広い道を歩いて、その先で今度はロープウェイに乗ります。ロープウェイはその経路がホテルの壁面を掠めるほどに近くを通りホテルの入口に着くのです。つまり、街の地元の人々に直接見られる機会などはあまりない状態が一応キープされており、主人公はその中で、濃く赤い口紅を塗ったり、街中では掛けていたやたらにデカいサングラスをはずしたり、如何にも高価なブランド風のスカーフを解いたりして、ホテルに着いた時には、スイッチが入った「戦闘態勢」に遷移していることが明確に分かる演出になっています。
主人公は毎週火曜日にこのホテルに着き、ナタンと言う名の若い男性ホテルマンに、宿帳をめくらせ、ホテルのレストランで食事をしている単身の男性の一人ひとりの情報を尋ねます。ナタンは主人公を「ミス・クローディーヌ」と名前で呼んでいて、彼女が何を目的にこの質問をしているかを十分分かって応対をしています。例えば、主人公が「奥に座って新聞を読んでいる青いセーターの人は」などと尋ねると、「今、奥様がお手洗いに立っているだけなのでダメです」のような対応をするほどに、(いくら主人公が情報提供に対してチップをくれるからといは言え、)異常に協力的なのです。
ナタンとのやり取りの段階で、主人公は男性一人の宿泊客で近日中にホテルを発つ予定の人物を抽出していることが分かります。(「二週間の滞在です」とナタンが応えたケースで、主人公が「長過ぎる」と答えている場面があります。翌週来てもまだいるから避けるということなのでしょう。)また、ナタンとの会話で抽出した人物でもクローディーヌを娼婦と見越して近寄ってくるような男性の場合は却下されています。こうして選別された男性に対して同じテーブルの席に座り出身地の街の様子を尋ねる質問をし、それから「あなたの部屋に行きたいわ。今すぐ」と意味深な眼差しで相手の男性に告げるのが典型的パターンでした。
物語の本命である本気の恋に落ちてしまう男性までの間に、劇中では二人の男性の部屋に行った主人公が描かれていますが、最初の男性とはセックスを愉しみ、「メルシー」の一言を主人公は告げて部屋を去ります。男性の方もベッドに掛けて煙草を吸いながら彼女を見送っていました。主人公を「セックスがしたかった女性なんだな」的に普通に受け止めたようで、詮索をしようともしなければ、娼婦として金を払おうともしませんでした。
二人目のイギリス人は勃起することがなかったようで、「こういうこともあるわ」と言って服を着直している主人公の姿からシーンが始まります。ベッドの端に掛けて男性は主人公のブーツを裸足の足先で主人公の方に押しやって来て、それを床から拾って主人公がブーツを履き終え去ろうとすると、札を一枚彼女に持たせようとして断られます。彼女は無言で部屋を出て行くのでした。
こうして相手の男性の態度の比較によって主人公の満足度が推し量れるような演出が続きます。本命のドイツ人はレストランでの会話も弾みますし、部屋に来てからのダム研究を仕事とする彼の書いた論文が載っている雑誌についての会話さえしています。おまけにドイツ人の彼は、ブーツを拾って座っている主人公の足を取りブーツを履かせてくれるのです。
こうした(本命の彼は例外として)1回限りのセックスを彼女が選んで行なっていることをナタンは当然完全に理解していますし、レストランの他の男性も先述のあからさまにセックスを求めてくるような男性も含めて、それなりに彼女の存在を意識しています。ですから、例えば彼女とのセックスを喜び、もう一度火曜日にここに宿泊に来ようと考える男性が出ても不思議ない状況ではあります。その辺を彼女がどのように管理しているかは劇中で描かれることはありません。いずれにせよ、このようにどっぷり嵌ってしまい、何度もホテルでの逢瀬を重ねたり連絡を取り合ったりするようになったのは、ドイツ人ダム研究者の彼が初めてだったということでしょう。
街の方でも、主人公が火曜日に出掛ける時は障害を持つ息子のシッターとして老女が一人雇われていますが、特に語った訳でもないようですが、このシッターの老女はすべてを見透かしています。主人公がドイツ人男性と逢瀬を重ね、本来の火曜日以外にもシッターを頼み、予定の時間よりも遅れて慌てて帰ってきた際に、息子を風呂に入れたまま時間が来て帰宅してしまったようで、風呂に放置された息子を発見した主人公と口論になっています。その際に「私だって女なんだから、あんたが何をしているか知っている」のような言葉を投げつけています。
このように考えると、先述のように日本の社会で起きるような社会的な制裁レベルではなかったとしても、少なくとも主人公の行動は現地でも人に言えるようなことではなく、知られると非難されかねないものぐらいには認識されていることが分かります。現実に、主人公がかなり親しく付き合っている顧客の一人と何度か会話を重ねる場面が登場しますが、当然ながら彼女が火曜日に何をしているのかを知られている様子はありません。
ダム研究者のドイツ人は世界中あちこちのダムを仕事で見て回ることになっているようで、元々は劇中のホテルにも近くのダムを調べるために訪れています。実はダム湖の脇の広い道を主人公が歩いていく脇でダム湖の写真撮影を行なっていたりして、主人公が彼に声を掛けた火曜日より以前から、彼は彼女の存在自体には気づいていたのです。そして、彼は彼女との恋に落ち、彼女の住む街にまで姿を現すようになり、離れ難くなっていき、滞在を延ばし続けていたのでした。そしてそれも長くは続けられず、とうとう三ヶ月以上は戻ることはないという出張に出なくてはならなくなります。行先はアルゼンチンです。
彼はアルゼンチンに一緒に行こうと彼女に要望し、迷った末、彼女は息子を以前から検討していた施設に入れることを具体的に考え始めます。その間にこの親子関係に変化が幾つか訪れています。まず常連客の一人が離れてしまい売上がガタ落ちになり、蓄えがどの程度あるのか分かりませんが、自宅を売ることの検討まで主人公は視野に入れて動き始めます。また、主人公も息子もダイアナ妃が大好きで共通の話題の一つでした。主人公はホテルに行ってそこにあるゴシップ誌のような週刊誌からダイアナ妃の写真を切り取っては、帰宅した際に息子に「お土産よ」と渡し、息子は喜んでそれを眺め大切に引き出しにしまっています。そのダイアナ妃が事故死してしまうと、彼らの共通の話題は口にするのも悲しい思い出に変わってしまいました。そして短期間テスト的に預けてみて息子は施設の滞在を全く苦にしていないことが判明します。
条件は揃い、彼女は息子を施設に恒久的に預けることにし、スーツケースに荷物をまとめて家を出ます。その直前には例の老女に「これが連絡先よ。息子はあなたのことを好きだから、たまに行ってくれたらとても喜ぶと思うわ」と言って紙片を渡し、去ろうとします。その後ろ姿に(ここでもまた収入が激減してしまう)老女は「こんなことが許される訳がない」のような強い非難の言葉をぶつけるのでした。先述の通り、現地でも彼女の行為は倫理的にかなりまずいものであることが窺われます。
彼女は彼とバスターミナルで合流し、長距離のように見えるバスに乗り込もうとしますが、日本の映画作品で記号的に分かる表情表現には全く存在しない、まるで窒息しているかのような大口を不自然にパクパクと開けながら身悶えするようになり、彼がそれを抱き支えた後、彼女を連れて行くことができないと悟り、一人でバスに乗って去って行きます。フランス人ならこうした反応は或る程度パターン化されたものであるのかどうか分かりませんが、非常に珍しい身悶え方で、日本人ならこのシチュエーションで、立ち止まり沈鬱な表情で唐突に落涙するとか、そう言った展開になるのではないかと思えます。
同様の見慣れぬ反応を更に映画の最後のシーンで主人公は見せます。バスターミナルで彼と別れた後の同日のことのように見えますが、彼女が施設に息子を訪ねます。また引き取り直して元の生活の再現を考えたということかもしれません。しかし、彼女と亡きダイアナ妃の死の様子を暗い表情で話した後、彼女が周囲の草地で摘んできた花束さえも忘れて、施設の仲間のもとに車椅子で去って行きます。
この息子の父はどうも息子がかなり小さい段階で二人を捨てて出て行ってそれきり音信不通であることが劇中の会話から窺われます。ところが、彼女は火曜日のその場限りの逢瀬を重ねた相手から聞き出した相手の街の様子を手紙にまとめ、息子宛に父を語って投函し、それを数日後に「またパパから旅先からの手紙が着いたわ」とその内容を息子に読み聞かせるのです。ホテルでダイアナ妃の写真を切り取るのも、逢瀬を重ねた男性との時間にも息子を喜ばせる仕掛けを作ることを忘れないのも、彼女が息子に対して感じている罪悪感の埋め合わせの行為ではないかと考えられます。
それは母子家庭にして不自由にさせてしまっている親としての責任を感じてのことかもしれませんし、本来親として面倒をみなくてはならない責任を一時放棄して自分の快楽に身を委ねていることの後ろめたさに拠るのかもしれません。ところが、そうして感じてきた彼女を彼女足らしめてきた責務でもあり生き甲斐伴っている息子との関係は、息子があっさり施設の中の生活に馴染んだことで、無価値なものに変貌してしまいました。
息子との関係を捨てた罪悪感や街の人々との数十年慣れ親しんできた関係性を捨てることになる暗く重い不安感、さらに老女が彼女に最後の一言で植えつけた背徳的罪悪感。そうしたものが、今まで街から火曜日の小旅行以外他で暮らしたこともない彼女には大きく圧し掛かってきたが故のバスターミナルでの窒息だったかと思います。ところが、その出奔を自らができないことを悟らされ、戻った先に息子との関係は残っていませんでした。
息子と友人の車椅子が施設の建物に向かっていくのを遠い背景にして、施設の門から真っ直ぐに伸びる道を彼女はずんずんと思い足を引きずるように歩いてくるのをカメラは真正面から捉えます。その際、再び、日本人なら全くしなさそうな挙動を彼女はします。まるで怪獣の雄叫びかのように「ぐぁぁぁぁ」みたいな声を2度ほど叫ぶでもなく喉から漏らし、しかし号泣するでもなく、どちらかというと決然とした表情でカメラに向かって来て、シーンは暗転し、映画は終わるのでした。
この場面を見て、息子の支えになっていた介護という行為は彼女の人生の支えになっていて、それがその制約の中での彼女の火曜日の愉悦を作っていたと見る時、息子が彼女の手によって選ばれた選択肢を取り、彼女の前から消えてしまったことで、彼女は自由になりました。しかし、多分、彼女の年齢や街での長年の暮らしぶりから考えて、自由になったからと言ってアルゼンチンに彼を追っていくようなことはできないでしょう。長年の暮らしぶりという観点から言うと、ずっと(息子はいるものの)実質孤立した暮らしという意味で「一人暮らし」を続けてきた彼女にとって、性愛は必要だったでしょうが、同居してすべてを見せ合い総てを共有し合う人間関係さえ維持できない可能性もかなりあることでしょう。
突如開けた何をしても良い自由に途方に暮れる中高年女性の人生の形を「柔らかい絵画のような」たった92分の画像の中に凝縮した優れた作品だと思います。DVDは買いです。
追記:
劇場に上映開始40分ほど前に着いて、チケットを購入した際にはロビーには他に誰もいなかったので、手隙に見えたキュートな黒眼鏡黒尽くめ衣装の女性スタッフに映画.comではこの館の上映が表示されないことを告げました。お礼は言われ、次にカウンターに着いた女性スタッフにも(ロビー端のベンチに座っていた)私を指し示して引き継ぎを行なっていましたが、映画.comのサイト表示が修正されるようなことはありませんでした。飲食店やパチンコ店のポータルサイト上の情報を店舗側が簡単に修正する…といった私の想定していた仕組みにはなっていないのかもしれません。
私がぽつんとロビーに居てこの原稿を打っている間、カウンターの女性スタッフは先述の二人になり、清掃担当の小柄な女性が現れ、さらに前の上映(『小学校…』だと思われます。)が終了するタイミングでシアターのドアを開ける担当男性スタッフが上階の事務所らしき方から現れ、さらにその男性スタッフが現れていないことを想定してか、今度はやや中年の男性スタッフまで現れましたが、映画.comの支障は共有されている様子はなく、その後も映画.com上の表記は修正されませんでした。(二人目の男性スタッフは、一人目の男性スタッフの存在を見て驚き、すぐ上階に戻って行きました。)
私の商売の視点で言うと、飲食店でもパチンコ店でもこうしたポータルサイト情報の更新や適正化は非常に基本的な必須マーケティング作業で、これを発覚から数十分にせよ放置しておけるオペレーションには疑問を抱かざるを得ません。
追記2:
こうしたセックスを愉しむという設定になっている映画やドラマの作品に登場するセックスで、一部常識化している究極の快楽と充足を齎すスロー・セックスやスピリチュアル・セックスと呼ばれるセックスの形を採用しているケースが殆どないことが非常に気になります。何でも(弓道や華道のように)「道」として深掘りしたがる日本人の作るそうした作品でもセックスに関してはお座成りな世間一般のありがちなセックスが描かれることが多いので、海外なら余計そうなるということなのかもしれません。
他の一部の『脱兎見!…』の記事でも書いている通り、多くの著作で代々木忠監督が説くようなセックスのありかたを追求して1回毎のセックスの充足感を究極に高めていたら、この作品の主人公もドイツ人にどハマリすることもなく、(勃起しない男性は置いておき)誰を相手にしても深い没入を伴う体験をすることができ、その結果、息子を捨てることもなく日常を維持できた可能性はかなりあるように思えました。(それでも仕事量の減少に対する対策にはなりませんが…)
深掘りによる学びの重要性に思い至らずにはいられません。
追記3:
帰途にふと頭に島田裕巳による『もう親を捨てるしかない』という新書が浮かびました。息子ではなく親の話ですが、子供だからと言って自分の人生を犠牲にしないために自分の親の介護をやり抜こうという義務感から自由になろうという主旨の書籍だったと記憶します。本作では息子の介護から自由になった主人公の「自由による抑圧」のような構造が描かれているように思えます。『もう親を…』とこの作品の主旨をつなげると、介護を続けても辛く介護から離れても途方に暮れるということになってしまうようにも感じられます。
嘗て中島みゆきは『見返り美人』という曲で「自由。酷い言葉ね」と言っていて、自由であることの残酷さに言及しています。この作品が邦画で制作側がこの曲の存在を知っていて、エンドロールの背景にはこの曲でも合うかもと、(大した細かい検証もしていないですが)漠然と思えました。