『風よ あらしよ 劇場版』

2月9日の封切から約1ヶ月経った水曜日の夜7時35分からの回を全く初めて赴く映画館で観て来ました。場所は千葉県柏市。柏駅に事実上接して存在する映画館ですが、歴史ある映画専門誌であるキネマ旬報の名を冠した全国でも唯一の映画館で「キネマ旬報シアター」と言います。有名な雑誌の持つ(であろう)映画館であるのに、私はその存在を全く知りませんでした。一般的に考えられる東京の都心の立地ではなく、なぜ柏市にあるのかは、下のページの詳しい説明を観ても分かりませんでした。

http://www.cinema-st.com/mini/m061.html

私がわざわざこの映画館に赴いたのは、前回観た『フレディ・マーキュリー The Show Must Go On』の記事に…

「(実際には、伊藤野枝の短い生涯を描いた『風よ あらしよ 劇場版』は2月9日からの公開でかなり観たい作品なのですが、上映館数・上映回数が少なく、おまけに尺が127分とかなり長くて、色々な面で都合が合わずにDVD発売待ちになりました。)」

と書いていましたが、やはりこの作品を劇場で観てみたいと思うようになったのが最初のきっかけです。基本的に午前中早めの上映では、起床後時間が短く、私の身体から水分が抜けきっていないために、120分を超える様な長尺の作品をトイレに中座せずに見ることができません。ところが、都内ではたった3ヶ所の上映館、新宿、池袋、阿佐ヶ谷の映画館ではどこも1日1回の上映しかなくすべて午前中の上映開始で選択肢から排除される結果になっていました。

エリアを拡大して神奈川を見ても関内1館で1日1回、午前中からの上映です。続いてさらにエリアを拡大して千葉を見てみて漸く千葉県内たった1館のここキネマ旬報シアターでの夜の上映を発見したのでした。

上映開始1時間前に地図を頼りに到着し、チケットを買った際には、私がこの日の第1号の観客で、いつもの希望通りの最後列の最左端の席をゲットしました。この映画館は上述のサイト記事に書かれている通り…

「大正8年7月に創刊された日本最古の映画雑誌社である“キネマ旬報社”が映画館を作った。“キネ旬”の愛称で親しまれている老舗映画雑誌社がプロデュースする映画館に、何かすごいプログラムをやってくれるのでは…とマニアックな期待が膨らむ嬉しいニュースだった。その場所に選ばれたのは、都心から30分ほど常磐線と東武野田線が乗り入れる柏駅のほぼ真下に位置する、以前は“柏ステーションシアター”という映画館だったところだ。平成25年2月2日にキネ旬ベスト・テン受賞20作品興行(何と魅力的な興行だろう!)をこけら落としでオープンした当初は“TKPシアター柏”という館名だったが、TKPとのネーミングライツ契約が終了になった事から平成26年6月より『キネマ旬報シアター』という館名で再スタートを切る。」

という経緯で設けられたキネマ旬報社の運営映画館ということのようです。通りに面した側は総ガラス張りで館内は煉瓦模様を基調としたレトロな雰囲気になっています。およそ150席のシアター3つを備えるそれなりに大きな映画館であるばかりではなく、キネマ旬報のバックナンバーが揃う『KINEJUN 図書館』という小型の専門図書館もあり貸出さえ会員に対して行なっています。また、各種の映画関連書籍を読めるスペースや寄贈された映画パンフなども閲覧できるコーナーもあり、映画鑑賞の楽しさを“啓蒙する”ことさえできるような、一般の映画館とはかなりコンセプトの異なる施設です。

この映画をやはり劇場で観てみたいと思った理由は、他の映画鑑賞候補が1月から2月にかけての枯渇状態から漸く抜け出て『マダム・ウェブ』、『ウルトラマンブレーザー THE MOVIE 大怪獣首都激突』、『フィリピンパブ嬢の社会学』、『コットンテール』、『映画 マイホームヒーロー』などと増えてきた中で、映画そのものの私にとっての魅力では、やはりこの作品が一番だったことにあります。この作品が持つ魅力は、主人公の伊藤野枝の壮絶で短い生涯の物語を、私は観ていない今期の大河ドラマ主演などで評価が高まっている吉高由里子が演じている所にあると思っています。

映画.comの解説の冒頭に…

「大正時代に結婚制度や社会道徳に真正面から異議を申し立てた女性解放運動家・伊藤野枝を描き、2022年にNHK BS4K・8Kで放送された吉高由里子主演のドラマ「風よ あらしよ」を劇場版としてスクリーン上映。原作は村山由佳による同名の評伝小説。」

とある通りの立場の女性ですが、彼女の極めて短い人生とその最期にこの紹介文の冒頭三行は言及していません。その後に「関東大震災による混乱のなかで彼女を襲った悲劇など、野枝の波乱に満ちた人生を描いていく」とシンプルに書かれていますが、彼女は関東大震災直後の大混乱の東京でただ夫と夫の甥と三人で歩いている所を憲兵に連行され、拷問の末に虐殺され、莚に包れた遺体は古井戸に投げ捨てられたのです。その時、彼女はまだ28歳でした。

昨年2023年は関東大震災からまる100年が経ったということで、関東大震災を振り返るテレビ番組が放送されたり、関連イベントや防災活動などが頻繁に行われたりしています。私もその流れで『キャメラを持った男たち 関東大震災を撮る』を観ましたが、もう一本、あまりの長尺に観るのを止めた映画があります。『福田村事件』です。この事件は、関東大震災直後の自警団が各地で組織されていた状況を背景に、千葉県の福田村で起きた集団暴行殺人事件(15人中9人が死亡、遺体の多くは利根川に投げ捨てられるという事件)です。

福田村事件はなぜ起きたかというと、背景には日本により統治されていた当時の朝鮮で独立運動が散発的に発生していて、1919年(大正8年)には朝鮮半島全体に広がった三・一運動と呼ばれるデモ(/暴動)の鎮圧に軍が出動している事態となっていました。この状況が内地で歪曲報道されて、関東大震災の混乱に乗じて「鮮人が放火している」、「鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」などの流言を警察も真に受けるだけではなく、寧ろ広めていて、取り締まり、というよりも寧ろ暴動鎮圧の戒厳令の敷かれた状態になっていました。

そのデマを信じて各地で自警団が組織され、町の要所々々で通行人を一人ひとり捕まえては、「15円50銭」などと言わせて発音をチェックして鮮人を炙り出そうとしていました。福田村では香川県から来た薬を売る行商団15人が、讃岐弁の訛りを朝鮮訛りと間違えられ、暴行虐殺されたのでした。

こうした暴行や殺害は自警団によるものばかりではなく、警察など官憲組織も「鮮人の裏で“主義者”達が糸を引いて、国家転覆を図ろうとしている」として、共産主義者や無政府主義者などを虐殺したケースもありました。有名なのは亀戸事件でウィキに拠れば…

「東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平澤計七、加藤高寿、北島吉蔵、近藤広蔵、佐藤欣治、鈴木直一、山岸実司、吉村光治、中筋宇八ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、9月3日から4日(あるいは9月4日から5日)に習志野騎兵第13連隊によって亀戸署内あるいは荒川放水路で刺殺された事件]。また、同月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある」

と説明されています。地震発生は9月1日でこの亀戸事件は数日後の大混乱の中で起きていることが分かります。軍が戒厳令を敷いている状態での軍による殺害は合法な治安出動行為と見做されて実行者は罪に問われませんでした。しかし、伊藤野枝のケースは異なります。陸軍所属の憲兵隊の甘粕大尉らによって彼女が連行されたのは16日で既に街には復興の兆しが見えていた時期でした。前日の15日には大正天皇の摂政だった後の昭和天皇が東京各地を視察しています。

そのような状況になってから発生した「甘粕事件」は非常に重く受け止められ、戒厳令下にあっても治安出動行為と見做されず、20日には甘粕大尉以下関係者は軍法会議に掛けられ、戒厳令を指揮した福田戒厳令司令官は更迭されました。

甘粕大尉と行動を共にした森曹長は…

「隊内では主義者を遣付けた方がよいというような話は、毎日のように皆が雑談して居りました。又、亀戸警察署では八名ばかり遣付けたと言うような話も、皆が致して居りました」

と供述したとパンフには書かれています。亀戸警察署が上手くやったのを後付けで自分達も踏襲し、主義者を単に抹殺しようとした試みが成功したというのが明らかな証言です。このような軍も虐殺行為と認めざるを得ない行為で28歳にして命を奪われた伊藤野枝という女性は、映画.comを読むと…

「「元始、女性は太陽だった」と宣言し、男尊女卑の風潮が色濃い社会に異を唱えた平塚らいてうに感銘を受けた野枝は、らいてうらによる女流文学集団・青鞜社に参加。青鞜社は野枝が中心になり婦人解放を唱えていく。」

とあり、『青鞜』を平塚らいてうから引き継いだ人物だったのでした。私は平塚らいてうは大雑把にその活動などを認識しており、「元始…」の有名な言葉が創刊号に載った『青鞜』も一応学校の歴史の勉強の延長線上ぐらいの認識をしてはいましたが、伊藤野枝については全く知りませんでした。

弱冠18歳にして青鞜社に参加し、『青鞜』の出版を引き継ぎ、奔放な恋愛関係に生きた後に、関東大震災の暗部ともいえる甘粕事件で28歳の若さで虐殺される女性。これが私がこの映画を観る前に知った伊藤野枝の情報でしたが、それはこの作品を、一旦は諦めましたが、翻意して劇場で観ることにするに足る、好奇心を湧かせる事実関係でした。

封切から1ヶ月あまりのタイミング故か、シアターに入ると私も含めてたった3人の男性が観客でした。稼働率3%という極端な空席状況です。私以外の男性のうち、1人は私と同年代かやや上で、もう1人は70代ぐらいに見えました。背広という訳ではありませんが、両者ともに、事務所での仕事をしていても全くおかしくないぐらいの、かなりきちんとした服装でした。

二時間超えのこの作品を観てみて、NHKの大河ドラマの総集編を観ている気分になりました。私は大河ドラマにはかなり好き嫌いがあり、人気トップ3は順に『花神』、『風と雲と虹と』、『どうする家康』です。この作品はこのトップ3に次ぐぐらいの面白さの大河ドラマの総集編という感じで、二時間の長さに飽きが来ることもなく観終わりました。元々この作品はNHKのBS8Kで二時間モノのドラマとして2023年3月に放送され、それが三回に分けられてBSとBS4Kで9月に放送されています。或る意味、大河ドラマのショート・バージョン的な作品であった訳です。

飽きが来ない理由は多分伊藤野枝の人生が「波乱」という言葉では収まらないぐらいに波乱に満ちていることが大きいと思います。物語がイベントだらけです。それらのイベントは、伊藤野枝に対して逆風として次々と発生します。基本的に伊藤野枝の思い通りに事が進んだことは、辻潤(※)と平塚らいてう、大杉栄などの、福岡の田舎を飛び出してきた10代の少女には望むべくもないような縁を結ぶことができたことぐらいで、後は逆風の連続です。

※「辻」のしんにょうの点は本当の表記では二つです。

少女時代は貧乏暮らしです。極貧に近いぐらいに見えます。元々実家は海産物問屋でしたから貧乏とは縁がなさそうですが、父が放蕩に耽り事業を潰してしまい、野枝(当時はノエという実名)は叔母の家に養女に出されます。貧乏から大きく脱した訳ではありませんでしたが、本好きの野枝は懇願して上京を許され猛勉強の結果、上野の高等女学校に編入します。

そこで英語教師をしていた稲垣吾郎演じる辻潤と出会い、学問や知識の扉を押し広げられ、『青鞜』をその有名な「元始…」の言葉と共に教えられ、蒙を啓かれます。ところが卒業すると、家では結婚相手が決められており、「帰りたくない」と辻潤に言いベンチで(当時ではかなり煽情的な行動ですが)抱き着きます。辻は「一旦は帰ってきちんと話をすべきだ。それでも理解されなければ、そこを出て、うちに来たら良い」と言います。

野枝はその言葉を頼りに実家に戻り結婚をしますが、夫は家父長制そのものの価値観で、そこに九州男児の男尊女卑的価値観も加わってか、野枝の『青鞜』で開かれた世界など全く理解しないだけではなく、野枝を軟禁して性行為を迫る状況でした。何とか脱出して野枝は殆ど身一つ(辻から借りている『青鞜』は大事に持参しています)で辻の家に転がり込んできます。ここから辻の母もいる家での同棲が始まります。

貧乏から脱し、自分を縛る実家を捨て、漸く野枝の自由な暮らしが始まるかに見えました。インテリで後に日本を代表するダダイストになる辻は野枝を教え導き自分の作品にしようとしているかのようでした。野枝も新しい世界をどんどん見せてくれて、自分の学びを理解してくれる辻をどんどん愛するようになり、福岡の方の離婚が成立すると辻と結婚します。しかし、その時には既に辻は野枝との同棲を職場で咎められ、野枝の戸籍上の夫からも、不貞行為を糾弾する書状が職場に届き、辻は職を捨てていたのでした。

後にダダイズムを知ってダダイストを標榜する辻は、元々そうした志向で生きており、面倒なことには関わらず、自分の好きに生きる人間で、野枝が自分の子を妊娠しても「自分で責任もって始末を決めるべきだ」(この始末は堕胎することだけを指しているのではなく、堕ろすも産むも育てるも、自分の責任範疇で行なえという意味のようです。)と告げ、育児を手伝うでもなく、再就職するでもなく、実質的にヒモになって行きます。

野枝が辻の奨めで平塚らいてうに手紙を書き青鞜社に入社したのは良かったのですが、そのわずかな収入で辻の家計を支えることになり、姑からは家事をやるよう迫られ、子育ても姑が多少手伝うだけでほぼワンオペで、二人目の子供が生まれた頃には辻への敬愛は完全に消失していました。

子供時代の貧乏、実家の結婚からの逃避、辻との結婚生活の破綻、さらに波乱は続きます。ドラマではきちんと描かれませんが、今度は青鞜社の中で問題が次々と発生します。社員の一人の尾竹紅吉(本名:富本一枝)の件だけでも、平塚らいてうとの同性愛関係が破綻したことを『青鞜』上で発表し、バーで飲酒して「五色の酒事件」と呼ばれ、吉原遊廓の見学して「吉原登楼事件」などと叩かれ、スキャンダルが連続します。さらに彼女と別れた平塚らいてうは年下の収入もない画家の男と同棲生活に入っています。

その他にも、当時の社会には受け容れられ難い主張の記事により『青鞜』も何度も発禁処分になるなどして、平塚らいてうが『青鞜』を投げ出し頻繁に男と旅行に出るようになります。

(平塚らいてうの年下の画家との事実婚状態は世間の話題となり、後に「若いツバメ」との表現を流行させることになります。実は平塚らいてうは『青鞜』立上げ以前にも夏目漱石の弟子である作家の森田草平と栃木山中で心中未遂事件を起こして世間に記憶されています。)

既に支援者や発起人の多くが去り、青鞜社の存続は非常に困難になりました。世間も『青鞜』で平塚らいてうが標榜した「新しい女」を「権利や自由に目覚めた女性」から「ただふしだらな女」と評価するようになり、新聞や各種同人雑誌などでも批判や嘲笑が激しくなりました。野枝はこの状態でも自分の人生を変えた『青鞜』を見限ることができず、劇中では一人青鞜者に残って、原稿作成も編集も金策も印刷手配も総てを行なおうとして破綻して行きます。

この頃、既に無政府主義者の大杉栄と接触し、村一つを潰して鉱毒沈殿用の遊水地を作るなどの足尾鉱毒事件の政府対策の非道を聞かされていた野枝は『青鞜』を平塚らいてうから正式に譲り受けると、貞操問題、堕胎問題、売娼制度など女性を扱う雑誌としつつ、大杉栄の無政府主義に傾倒し、政府批判の色彩を明確にしていきました。この極端な傾倒に読者はついて行けず、部数はどんどん落ち、返本の山になり、1915年に最後に発禁となってから復刊することはありませんでした。野枝は『青鞜』を投げ出し、辻との子供とも別れて、大杉との同棲に入ります。

大杉は無政府主義者として社会・経済の問題をネタに政府を徹底して批判しており、野枝は今度こそ自分の本当の意味のパートナーを得たと喜びます。そして辻との離婚が成立すると、今度は大杉と結婚しようとします。ところが、大杉には正妻(と言っても籍は入れてないので内縁の妻)が居て、さらに愛人の新聞記者で元青鞜者社員の神近市子がおり、その状況で野枝との同棲を始めた大杉は自由恋愛を掲げますが紛糾します。

それから神近市子が葉山の旅館日蔭茶屋で大杉を刺して重傷を負わせる「日蔭茶屋事件」が起き、大杉は入院し神近市子は逮捕されます。彼女は大杉を経済的に支えていたので、内縁の妻からも見限られ神近市子も去った大杉を野枝は自分一人のものにすることができましたが、生活は困窮することになりました。

都内を転々としながら、貧乏な中で「主義者」の同志達が同居を始めて、毎日同人誌の執筆・編集・出版を行なうような日々が続く中で大杉と野枝は5人もの子供を設けています。(そのうち次女は大杉の縁者に里子に出しています。)無政府主義者の活動はそれなりに活発になって行き、官憲に常に監視されている状態が続き、大杉は国内でも海外でも逮捕されたり拘束されたりしています。

野枝は執筆を続けつつ、不当逮捕された大杉の釈放を求めて内務大臣後藤新平に、野枝が「果たし状」と呼んだ、不当逮捕を糾弾し即時釈放を求める挑発的な手紙を書いていたりします。貧乏ではあるものの大杉との暮らしは一応充実したものであり、野枝の著作もこの時期に増えていきますが、大杉との無政府主義の活動はいつか命を失う程のものになる予感を野枝は抱くようになっています。

(パンフには英国の哲学者バートランド・ラッセルが訪日した際に野枝に会い、「官憲が怖くないのですか」と尋ねたら、野枝が「遅かれ早かれこうなることは分かっています」と喉にあてた手を横に掻っ切る動作をして見せた話が書かれています。)

こうした危うい中でも充実の日々が漸く訪れましたが、そこへ関東大震災が来ます。近隣の人々に自分達の持つ食料や衣類まで分け与えて支援していた野枝が大杉と被害の大きかった横浜に住む大杉の兄弟の家を助けるために、大杉の甥を一時引き取るために連れ帰る途中に憲兵隊に連行され、先述の通り、甘粕事件が起きます。

これが28年間分の主要な出来事です。波乱が多過ぎます。そして、世間知らずだった地方の少女の「成長」と「自立」、そして当時のその言葉の意味の枠を大きく超えた「新しい女」への変貌。若くして、辻潤や平塚らいてうを追い抜くようにして生き急ぎ、大杉と対等に無政府主義者を体現して見せるまでになった野枝の姿を吉高由里子が熱演しています。

吉高由里子を私は特段好きという訳ではありません。映画では『ユリゴコロ』『紀子の食卓』『真夏の方程式』『GANTZ』の順の好きな作品があります。特に主演(だと思っていますが、松坂桃李・松山ケンイチとのトリプル主演かもしれません。)を勤めた『ユリゴコロ』の彼女は素晴らしいと思います。ただ、今作も含めて、役のキャラの印象が何かあまり変わらない気がするのです。伊藤野枝でも『ユリゴコロ』の美紗子でも、何かそこに吉高由里子が透けて見えてしまうように感じられます。

吉高由里子は「2010年、CNNの「まだ世界的に名前は売れていないが、演技力のある日本の俳優7人」の一人に選ばれた」とウィキに書かれていますが、同じく選出された中に『ユリゴコロ』で吉高由里子の美紗子の後の殺人鬼の姿を演じた木村多江がいます。

映画やドラマをごっちゃに並べてみると、『ゼロの焦点』の薄幸系、『マイホームヒーロー』シリーズ、『ラストマン-全盲の捜査官-』、『一度死んでみた』のコメディエンヌ系、まだ観ていない『コットンテール』の真面目系、『ブラックリベンジ』の狂気思い詰め系など、多様に演じ分けられているように思えます。ウィキには「演じた役柄から「薄幸女性がよく似合う」「日本一不幸役が板につく女優」などと称され」と書かれていますが、流石フリーの長い舞台俳優経験がモノを言っている、幅広いバリエーションだと私には思えます。このような木村多江と比較するとき、吉高由里子は何の役を演じても私には吉高由里子に見えるのです。

吉高由里子のせいではなく、脚本や諸々の要因のせいとは思いますが、私から見ると評価の低い作品にいくつか出演していることも原因かもしれません。特に物語的に共感できなかった『ロボジー』や『わたし、定時で帰ります。』、『ヒミズ』の不発感は大きいように思えます。

内容は色々なことを考えさせられる作品だと思います。大雑把に書きまとめると以下のような感じです。

■「主義者」の分類がアバウト過ぎる時代:

劇中の一般人や警察・憲兵隊などの人々が呼ぶ「主義者」は、かなりアバウトな認識に基づく呼称です。大杉栄の無政府主義は革命を起こして政府転覆を画策するレベルのものですが、野枝の試行している無政府主義は後述するようにどちらかというと田舎の寄合的共同生活というイメージに近いように思われます。それ以外に今で言うリベラルやリバタリアニズムなどがグチャグチャに混ぜられており、活動している本人達も言論の違いに関しては各同人誌上で論争したりしますが、離合集散を繰り返しているように見えます。

野枝自身の関心も、当初の『青鞜』に参加した際には、女性の地位向上が主眼であったようですが、それ以降、男性に束縛されない自由が、生きる上での自由に拡大して行き、労働者の立場の向上を目指す労働運動支援や、自分が『青鞜』を引き継いでからの貞操問題、堕胎問題、売娼制度、さらに、足尾鉱毒事件に触発され、大杉の革命による無政府状態への移行に傾倒して行っていて、かなり広範です。

インターネットの普及により、誰もが自分の細かな主張まで広く自由に訴えることができるようになった現在、例えば、米国の二党体制も国防や福祉、堕胎問題、経済政策などの論点で二党の分類ではきちんと収斂できない状況に至っていて、近く行なわれる選挙では黒人までがバイデンを見限ってトランプに投票しそうと報道されていたりします。

そうした細分された主張の差異が多様に存在して或る意味、収拾がつかなくなる以前の「主義」の括りを特にそのような思想活動に関心の薄い層が、「主義者」と超アバウトに括ることができた時代なのであろうと考えると、何か感慨深いように思われました。

■日本における国民革命の可能性:

大杉栄は労働者の団結による革命を意図しており、だからこそ官憲が言うような「関東大震災の混乱に乗じて革命を起こそうとする主義者」という考え方を浅薄と否定し、「多くの庶民の生活基盤さえなくなってしまったような状態で、彼らが革命など起こせる訳がない。混乱に乗じて行なうなど革命ではない」というような主張をし、同居している同志を窘めたり、憲兵隊に反論したりしています。

端的に見て、こう言ったマルクスが宣言したような労働者による労働者のための政府というものは本当に成立し得るのかということは現実的に検証されたことあるのかなと、私には訝しく思えました。これは山本直樹の優れたコミック『レッド』で描かれる1969年から1972年の日本の連合赤軍の若者達の様子が実現性の低い行為の連鎖に見えるのと同様です。たかだか数丁の銃を仕入れるために交番を襲ったりした程度の大学生を中心としたグループで、公安を含む警察や自衛隊などを敵に回して国を転覆できると考える方がかなり異常です。

つい先日約50年の逃亡生活の末にそのメンバーの事実をカミングアウトして急逝した桐島聡容疑者が居た「東アジア反日武装戦線」は爆弾テロまでこの日本で頻繁に行ないましたが、国の体制が揺らぐなどのことは全く無かったと言ってよいかと思います。核兵器まで手に入れる可能性があるという国際的テロ組織は現在ニュースに頻繁に登場するハマスなど幾つかありますが、IS並みに武装を徹底しても国家転覆は容易ではありません。まして、転覆した後にまさに労働者が満足するような政治体制を自ら敷くことができる可能性はさらに低いことでしょう。海外の発展途上国のクーデターどころか、西欧的自由の本家本元のフランスの市民革命でさえ、結局はナポレオン皇帝を生むことになっているのです。

まして、マルクス・エンゲルスの思想を基に作られたソビエト連邦と中国において労働者による労働者のための政治体制が実現しているなど誰も信じないことでしょう。それは北朝鮮でも同じことです。

■野枝の主張した無政府主義:

パンフには野枝が主張した無政府主義体制の社会のありようが「此の字(あざ)は、俗に「松原」と呼ばれていて戸数はざっと六七十位。大体街道に沿うて並んでいる。この六七十位の家が六つの小さな、「組合」に分かれている」(「あざ」の読みは原文に追加)などと野枝の文章を大量に引用しつつ説明されています。(他の映画作品のパンフに比して、A5判の小型なものなのに異様な中身の濃さです。)それに拠れば、野枝は幼少期の自分が福岡の漁村で見知っている寄合的集落の社会のありかたを理想としていて、個々の家が自律的に生活しているものの、何か助けが必要な時には「組合」として互助活動を行なうとされています。

理想的ではありますが、当時の日本に多数あった寒村ではこれが成立しても、東名阪を中心とした人口集中地区ではどうするのかという問題があるような気がしないではありません。何代にも渡ってそこに棲んでいる人々だからできることであって、住民の流動性が高い地域ではかなり無理があります。

現在はこの問題な尚更起きやすく、人口減少地帯でも問題山積です。地方市町村が外部からUターン希望者だのIターン希望者だのを移住させても、既存住民との摩擦が起きて必ずしも上手く行かないことをどのようにとらえるかは問題になるでしょう。野枝が嫌って飛び出した町村で、仮に家父長制全開の価値観で女性に三従(結婚前には父に、結婚後は夫に、夫の死後は子に従うということ)を強いるような慣習が全くなかったとしても、野枝の言うような自由は(現在で言うプライバシーの侵害や各種のハラスメントなどの発生で)多分保証されなかったのではないかと思えます。

また、パンフの野枝の寄合礼賛の文章を読むと、そこには政府や警察が登場しています。概ね日常レベルのことは「組合」で処理するものの、それ以上の事柄は政府や警察などの組織で処理する前提なのです。これは無政府主義というよりも、現在「ミナキズム」とか「ソフト・リバタリアニズム」と呼ばれる主張に近く、もっとマイルドに「リベラリズム」でも合致するかもというぐらいの主張で、大杉の国民革命とは大分話が違います。

先述のように、無政府主義者として括られている野枝のこうしたマイルドな社会体制の発想は、無政府主義も共産主義も女性解放主義も全部ごちゃごちゃの「主義者」レッテルを貼付け掛かってくる人々には殆ど理解されなかったことでしょう。それならば、野枝は都会のど真ん中で自分も嫌った田舎の寄合を夢想して文章を書くのではなく、いっそ、自分で既存の田舎のそういった「組合」に参加して、そこを乗っ取り、自分の理想郷を作った方が、余程早く効率的に結果を出せ、且つ、自分も28歳で横死するようなことにもならずに済んだのではないかと思えてなりません。(※)

極論すれば、言葉でただ動物愛護を訴えるのではなく、自ら家族まで巻き込んで、見て体験できる動物王国を具現化したからこそムツゴロウ氏の偉業は偉業たり得るように思えるのと同じ原理でしょう。それであれば、その理想郷を実際に見て体験して賛同する者がいたなら、どんどん参加してきたのではないかと思えます。ただ、あくまでもそれに賛同する者がいるならの話です。

■100年前のウーマンリブの社会的価値:

この作品のチラシには、なぜか平仮名だらけで「100年経ったいま。なにがかわりなにが残されているのか」というキャッチコピーがつけられています。パンフにも野枝の時代よりも社会は「退歩している部分がある」という主張も見られますからそういうことを言いたいキャッチなのでしょう。

確かにこの作品で平塚らいてうがズバリ言ってのけていますが、少なくとも劇中で描かれる女性が抱える問題というのは以下の二点に大きく集約されます。

・参政権がないというあからさまな女性差別
・先述の三従の教えや女性にだけ期待される貞操観も含めたジェンダー・ロール的差別

これらと戦う必要があるというのは非常によく理解できます。この時代にこれらを打破する活動が必要だったというのは全くその通りであろうと思われます。しかし今これら二つの問題は殆ど存在していません。参政権から何からすべて権利的には男女が平等になりましたし、よく言われる夫婦別姓も結婚すると認められてはいないものの、男女どちらの苗字を選んでも良いという意味で男女は平等です。専業主婦の年金が…などの問題も言われますが、それを甘受して喜んでいる人々もいることを考えると必ずしも唾棄すべき制度などとして括れる単純悪的な問題ではなさそうです。離婚後に女性側が養育費が貰えないなどの主張も、法的な措置に訴えるなど個別のケースに対応することは可能で、性別的に固定した問題構造とは言えません。

ジェンダー・ロール的な差別は私は勘違いの産物だと思っています。勿論、女性らしさや男性らしさを本人の意思に反して強要されるなどは許すべきではありません。ただ、現在に至って科学が発達し、生物学的にジェンダー・ロールは間違いなく存在します。数千、数万年の単位で、人類の遺伝子は洞穴集団生活の頃に最適化するように組み上げられています。おまけにすべての生物は「遺伝子の乗り物」でしかありません。つまり繁殖することが生物の目的そのものです。ですから、性行動を求めるのは当たり前のことで、意識がそれを認めてなくても無意識レベルではそれを許容するなどのことは当然起こり得ます。

私はメルマガで出している『経営コラム SOLID AS FAITH』の21周年記念特別号の序文に以下の文章を書きました。

『経営コラム SOLID AS FAITH 21周年記念特別号 前篇』
http://tales.msi-group.org/?p=1997
『経営コラム SOLID AS FAITH 21周年記念特別号 後篇』
http://tales.msi-group.org/?p=2015

「自分が所有しているものを、どんな風に使っても、それが合法で、おまけ
に公序良俗にも反していないのなら、特に大きな問題がありません。持ち主
が自由にできます。では、農業用のトラクターの持ち主が一人いました。ま
だ成人する前に相続でもらっていて、農業を継いでもいません。トラクター
の持ち主になりましたが、「俺は消防団員になりたいんだ」と言って、トラ
クターにドラム缶か何かを据え付けて水を入れ、消防車代わりに使っていた
ら、どうでしょうか。どんなふうに使っていても本人の自由ですが、効率も
悪いでしょうし、余計なコストもかかりそうですし、仮に他の団員は消防車
を持っていたら、それと伍して消防活動をするのにはかなり無理があること
でしょう。それでも、そうしたいのなら、それは本人の勝手です。

構造主義という言葉があります。大雑把に言ってしまうと、世の中には
「構造」というものが存在していて、それによって私たちの考え方やモノの
見方や、行動そのものも規定されている…といった考え方です。例えば、母
国語で考えをまとめる以上、母国語で表現できない考え方はもともと発想の
中に浮かぶことがほとんどありません。普通こういったことを意識しません
が、私たちは「構造」によって決められたことの範囲を抜け出ることが非常
に困難なのです。困難なことに挑めば、そこには必ず無理が生じます。トラ
クターで消防活動をする人間は、かなり色々な無理が必要であることでしょ
う。

人間には色々な「構造」が覆い被さっています。その最たるものが、遺伝
子的に決まっていることや脳の働き方などです。人間が今の形になったのは、
諸説ありますが、概ね200万年前ぐらいです。ホモ・ハビリスと呼ばれる、
初めてのヒト属の生物種の段階からです。それ以前に存在していた、チンパ
ンジーから明らかに分岐して人間に近くなった猿人と異なり、ホモ・ハビリ
スは石器も使っていました。私たちはクロマニヨン人らの新人類の末裔と考
えられていますが、その新人類の登場でさえ20万年前です。

私たちの文明が成立したのは、概ね紀元前5000年前ぐらいです。つまり、
私たち人類の歴史をクロマニヨン人の時代から計算すると、文明が存在して
いるのは歴史のラスト3.5%に過ぎません。私たちの体の構造が決まってから、
文明生活をしている期間を計算すると、0.35%にしかならないのです。仮に
人類の歴史を1年と計算すると、前者は二週間にも満たない時間です。そし
て、後者は大晦日1日ちょっとの時間でしかありません。ほとんど丸一年を
通じてカラダとしては最適化された生活をしていたのに、最後の一日で、突
如として違うことをやろうとしても、無理が生じるのは当たり前と誰もが気
付くことでしょう。

『経営コラム SOLID AS FAITH 21周年記念特別号』は、『自然派宣言』と題
して、私たちのカラダ全般の仕組みや長く続いた太古の社会の仕組みに、逆
らうことの少ない現代社会での生き方を色々と考えてみます。それは、手放
すことのできないトラクターを持っている以上、農業をやろうという、普通
に考えて最も無理のない生き方なのです。」

ですから、構造主義的にジェンダー・ロールは現に存在しています。それを否定することはできません。ただ本人がそれを無視した生き方を指向するのは勝手で、その権利を侵すべきではありません。なので、初期出荷設定(つまりデフォルト)としての「ジェンダー・ロール」は認めざるを得ないと私は考えています。

名著『できそこないの男たち』にもある通り、女性は生物の基本で女性はそれだけで社会を構成しています。その意味でも「元始、女性は…」は至言です。その社会を為す女性達に使役され選別されるのが男性の立場で、女性達の共同体に交われないが故に洞窟の外で競争社会を男性は作らざるを得なかったのが歴史的な事実です。ですから、女性の社会進出が遅れているなどの主張は全くの虚言として考えることができます。女性の政治家や役員が少ない理由も、遺伝子レベルでそうなっているからであって、男性が差別してそうなっているという主張は二次的で個別の理由に言及しているにすぎません。(大体にして野枝の理想とする共同体型社会では、こういった役職の人々の存在意義は極端に希薄化してしまい、そんな存在に女性の割合が少ないと問題になることはないでしょう。)

芸能人などをみる限り、男女の別なく不倫で叩かれています。そうした中で、映画館の「レディース割引」や電車の「女性専用車両」などがどれほど男性差別的かが分かるものと思います。野枝の主張していた女性の権利や女性の社会進出、女性の自由についての議論は、現在過剰に満たされていて、寧ろ場面によっては揺り戻しが来ているような社会状況に私には見えます。

■NHK的主人公美化:

全体に野枝の人物像はこの作品で美化され過ぎで、物語も色々な暗部を見せないようにしている気がしてなりません。ドキュメンタリーではないのですから、それはそれでよいのですが、ウィキなどでも分かる歴史的事実関係はそれなりに歪められているように思えます。

まず野枝が死に至る拷問シーンなどは描かれていません。最近色々なドラマや映画でよく見る音尾琢真演じる甘粕大尉に、拘束もされてない段階で顔を一発殴られるシーンはありますが、この程度であれば福岡の結婚相手の方が余程野枝に対して暴力的です。実際には、「事件から約53年後に発見された死因鑑定書によれば、野枝は大杉と共に肋骨が何本も折れており、胸部の損傷具合から激しい暴行を受けていたことが発覚した。」とウィキにもある通りの状況ですから、かなり酷いものであったでしょう。

神近市子の起こした「日蔭茶屋事件」も口論もそこそこにあっという間に発生し終わっていて、修羅場が描かれてはいません。大杉の下に転がり込んだ当初、野枝を含む3人の女性と大杉との「四角関係」は当時の新聞でも大騒ぎのネタでした。それもこの作品では数分も懸けず「日蔭茶屋事件」で解消するのです。野枝の評伝の一つのタイトルが『村に火をつけ、白痴になれ』というぐらいに、過激な発想・行動・主張を野枝は常日頃からしてきたはずですが、その辺もかなりマイルドです。辻潤の野枝に家事を押し付けっぱなしの態度や、野枝に対して不勉強だの常識知らずだの評価する態度に対しても、明確に反論しているのは数度で、他の場面での野枝の激情とあまり整合性がありません。

おまけに、野枝は恋心に関してもやたらに従順で、辻潤との敬愛が情愛・情念に変化するプロセスや、辻潤との子供を二人も捨てて新たなパートナーである大杉に走る身を焦がす想いなども、結構サラッと描かれていて、到底『村に火をつけ、白痴になれ』という評伝タイトルが相応しい人物に見えないのです。野枝がまあまあまともな人に描かれている点が、実は爽快感が常に漂う吉高由里子が野枝を演じていても透かし見えてしまう最大の理由かもしれません。

野枝が『青鞜』を平塚らいてうから「引き継いだ」というのも、劇中では二人が座敷で向き合って正座して穏やかに「頂戴します」、「よろしくお願いします」的な会話でことが済んでいます。しかし、ウィキやパンフなどには到底そのような穏当な禅譲ではなかったと考えられる表現が色々見つかります。『青鞜』のウィキには…

「11月号は、平塚に頼まれ伊藤が薄い青鞜を出した。
その後、これにより「全部委せるならやるが、忙しい時だけのピンチヒッターは断る」と野枝が表明し、平塚は同年11月号をもって青鞜の編集を引退した。」

とありますし、「伊藤野枝」のウィキにも…

「平塚からもぎ取るようにして始めた「青鞜」の編集作業だったが、野枝も無政府主義に共鳴して大杉栄と行動を共にするようになったことから僅か1年余りで放棄し…」

などの表現が為されています。客観的に見ると、仮に自分の周囲に存在していたとしたら、野枝は自己中心的で傍迷惑な人物であると考えた方が良いように思えます。同じく「伊藤野枝」のウィキには…

「野枝は小学2年生で口減らしのために叔母・マツの自宅へ預けられたが、ムメはのちに野枝が成人した際に「私は自分の子を他人にやったりは絶対にせんよ」と言われ、晩年に野枝を里子に出したことを度々思い出しては後悔しているという。しかし、野枝はのちに夫となる辻潤との間に出来た流二を里子に出している。」

と書かれていて、母を非難した割には自分も同じことを行なっています。その後、大杉との子供の一人も養女に出しています。

「母・ムメの妹である代キチ一家が東京から帰省した際に東京の空気に触れたことで東京への憧れが募り、叔父に懇願の手紙(「ひとかどの人物となり恩返しをする」など)を送った。叔父はその熱意に負け、叔母一家は同年暮れに野枝を東京へ迎えた。」

ともあり、結局、金銭的な支援を懇願して実現した教育によって、野枝はこれらの親戚縁者から離れて行きますが、親戚縁者の側から見たら、ただの放蕩と裏切りでしかないように思えます。出奔してもせめて金銭的な負担については弁済するぐらいのことがあっても良いように感じられるのです。

先述の通り、子供二人を捨てて新たな男に走るのも、致し方ない選択と考えられますが、今ならネット上で中傷ネタになり得る話でしょうし、大杉との同棲生活の頃に世間は二人のことを「悪魔」と評していたので、二人の間に生まれた長女は「魔子」と名付けるなど、遥か以前の「悪魔」君と自分の子供に命名した親の話並みに、かなり非常識です。

辻潤の論い方には流石に酷さを感じますが、劇中でも描かれる足尾鉱毒事件の顛末を聞いた時の野枝の落涙する反応と無表情でいる辻潤の反応の対比は注目に値します。自分の村が水没して村を追われることになった人々の悲惨を聞いて、野枝は落涙しながら、「そんな政府の勝手なやり口で汚染された水の中に自分の村を沈められるなんて…」と憤激します。しかし、辻潤はそれを「センチメンタリズム」だと言い捨て、「今から他人の僕らに何かできる訳でもない。政府から金を貰って、喜んで引っ越した人間もたくさんいる」と事実関係から冷静に言うのでした。

大杉もこの水没した谷中村の一件に心を動かされ、後に野枝と二人でこの場所を訪ねているぐらいです。しかし、結局二人がこの村や旧村民に対して何一つ行なうことができないままになっています。辻潤の卓見というべきかと思われます。大体にして訪ねてきた社会運動家の渡辺政太郎から足尾鉱毒事件について聞かされるまで、野枝はこの事件を全く知りませんでした。当時の最大の社会問題で後に「100年公害」の別名が付くぐらいの大事件です。それを野枝は知らずにいたのです。

実際にパンフやネット上にある野枝の文章を見ても、(広く読まれることを意識したという理由はあるでしょうが)どうも平易過ぎて、広範な知の下地が感じられません。青鞜社に入社したのが18歳の時で、その10年後には横死します。その間に恋には燃え、逃げ回るように都内を転々として困窮の中で暮らし、子供も7人も設け、子育てもすれば、一時期にせよ青鞜社も支え、大杉栄と政治活動もし、執筆も重ねるという状況です。どう考えても知のインプットが足りる訳がありません。(勿論、辻や大杉、その同志達の会話からのインプットはあるでしょうが、(インターネットもない時代に)体系的な知識や俯瞰的な見識を読書から得る時間的余裕は乏しかったことでしょう。)

世の中の女性に奮起を促すのなら、世の中の女性の目線や思考、おかれた立場に配慮して文章を書くのがマーケティング的見地を挙げるまでもなく当然だと思われますが、劇中でも何人もが野枝に忠告しても『青鞜』を読者の思考力レベルを考慮した出版物に野枝は変えず、「時代が追い付いていない」とばかりに、自分の思い付き的な断片的思考も含めて、どんどん文章化して吐き出して行きます。これは売れない商品づくりの典型で、当然の如く、『青鞜』は政府からの弾圧以前に読者離れを引き起こし、消滅に至るのでした。ここでも野枝の浅慮は際立っています。

こうした事柄が大分NHK的にぼかされた物語で、それを吉高由里子が演じると妙に爽快でスルッと受け止められる熱血お嬢さんの物語のように感じられるのです。唯一、この作品で沈鬱な印象を盛り込めているのは、劇中に何度も登場する井戸の底からの風景であろうと思われます。冒頭から登場しますが、これは野枝の遺体が投げ込まれる井戸の底を暗示した挿入カットです。この意味を理解しつつ物語を追うと、いつか来る悲劇を知りながら、吉高由里子の熱演による熱血大正娘を追うことができます。しかし、それでも歴史に残る本来の伊藤野枝の実態とはかなりかけ離れた所に位置付けられた美化された物語に感じられるのです。

それでも示唆することの多い物語の価値は大きく、DVDは間違いなく買いです。

追記:
※に書いたような小型コミュニティが連なって存在する社会は、寧ろこれから主流になるのかもしれません。私は以前クライアント企業の経営者に配る文章に以下のような一節を書いたことがあります。ただ、そのような未来型のコミュニティでも、そこでの生活の閉塞感やそこでの集団組織的な拘束が具体的に解消してしまうようにはあまり思えず、少なくとも野枝が求めるものがハイテクで実現する…との期待は無理そうです。

「『限界費用ゼロ社会』によれば、いつか全世界には、水路に沈めるだけのミニ水力発電機や土に埋めるだけの地熱発電、その他の自然発電方法が普及し、かなり低廉なコストで電力がローカルコミュニティ単位で入手できるようになるという。(そこでは現在の自然への負荷が極めて大きいソーラーパネルや、一旦設置してしまうと分解して産廃処理なども容易にはできない風力発電用の巨大プロペラなどの設備は含まれていない。)

さらに、それらの電力を使って、土から3Dプリンタ用の材料となる粘土を作る。そして、ネット上の3Dプリンタの設計図一覧から村のAさんは食器類の製造、Bさんは文具・家具の製造…などと分業して日用品の生産を行なう。漁業は養殖をメインに、農業は工場施設で行なって、基本的な村の需要を村単位で賄う。加えて里山的なバイオマスの活動があったら尚可だ。最初に必要な設備への投資は莫大に必要でも、運用コストは僅かな設備のメンテナンス費用だけで、仮想地域通貨のやり取りで村の人々は暮らす。そこでは大量生産も殆どなくなれば、大量の国際間物流もなくなるという。自動車さえもタイヤとバッテリーなど一部部品だけは全世界的な大量生産で安価に作って村に供給するが、ボディもシャーシでさえ、3Dプリンタで分業して作り、村の中を自動運転の野良グルマが走り回って村民に使われるようになると言われている。

かなり未来のことのように思えるし、既得権益を持つ人々がこのような世界の実現を阻むだろうと言われている。しかし、それは先進国の話であって、発展途上国の生活インフラが乏しい場所なら、スタートからこのようなコミュニティを目指して、究極のリープフロッグ現象を起こせる。現実に、月面基地を無人で月面の土から作るプロジェクトが進められており、実験はアフリカの砂漠のど真ん中に無人で家を建てることに成功している。住みやすい家が立ち並ぶ国ならそんな砂づくりの家は必要ない。しかし、今、何もない国なら、そのような家を標準化して殆ど限界費用ゼロで機械にどんどん只に近い価格の分譲住宅を作らせることも十分あり得る施策である。

世界はこうしたコミュニティ経済に発展途上国を中心として引きずられて行く可能性が高いと言う意見がある。既得権益の問題もあるものの、安く住める日本、総じて働かない人間が増える日本、個々バラバラな好きを追い求める日本。その先には、生活の質は置いておけば、こうした限界費用ゼロ社会が何らかの形で生じても不思議がなく、現実にそれが徐々に実現していると言われている。」

追記2:
 この映画を観終わってから数日、どうも頭に浮かびつい口遊んでいる歌があり、「風よ、光よ、正義の祈り~♪」というものでした。このフレーズしか思い出せず、ずっとリフレインするばかりの中で、何の歌だったかと考えて、子供の頃、コミックで読み、テレビで実写番組も観ていた『快傑ライオン丸』だと気づきました。改めて歌詞を見ると、本作品のコンセプトに合っているのは寧ろ同じく子供の頃にテレビで見ていた『変身忍者 嵐』の「吹けよ嵐、呼べよ嵐、嵐よ叫べ」の方のような気がしますが、当時の番組に対する好悪度合いの違いからか、無意識下から浮上してくるのは『快傑ライオン丸』の方ばかりです。

風よ嵐よ