『海を感じる時』

 平日の午後4時過ぎの回を新宿、靖国通り沿いのテアトルで観てきました。封切から3週間近く。もともと上映館は少なかったはずですが、全国でも10館ありませんでした。それでも、平日の仕事帰りでは見られない時間帯であるのにも関わらず、かなり劇場内は混雑していました。客層は女性が多く、女性の二人連れも目に付きました。男女比でほぼ半々ぐらいだと思います。主演の二人の人気から、それなりに若いのかと思っていましたが、40代以上もかなり目立っていました。意外に主演の二人はアイドル的な人気がある訳でもなく、かといって、映画に数多く出て、たとえば今で言うなら二階堂ふみや染谷ナンチャラのような知名度や露出がある訳でもない、と言ったことなのかもしれません。

 二日前に観た『風邪(ふうじゃ)』同様に、何のサービスなのか分かりませんが、サービス・デーと言うことで、1100円で観られました。上映館は少なくても、これだけの入りを維持できている訳ですから、やはり話題作と言えると思います。

 話題作の理由は、一般には、赤裸々な愛の物語と言うことでしょう。平たく言うと、主演の市川由衣の濡れ場の連続と言うことになると思います。準主演と言うか、ほぼ主役の相手の男は、『愛の渦』の主人公の池松壮亮とか言う男優で、あちらでもセックス三昧でした。セックス・シーンの長さと頻度では『愛の渦』の方が圧倒的に多いものと思いますが、『海を感じる時』の方が、文学作品としての奥深さがあります。

 私が観に行くことにしたのは、この濡れ場の多さではなく、他の二点によります。一つは、この原作です。原作は36年も前に、当時18歳の現役女子高生によって発表され、文学賞を受賞した作品であると言うことです。18歳の“少女”が描いた等身大の“性に捉われて行く物語”であることに、とても関心が湧きました。当時も“事件”とさえ評された受賞劇で、映画化の話はすぐさま湧き、脚本も数年後には完成していたと言います。それが、30年以上のときを経て、とうとう映画化されるには、原作者が…

「男女の距離感とか、二人の間に射し込む光りの捉え方とかその種の映像表現も1980年前後の日本映画とはずいぶん変わってきました。(中略)このキャスティングなら怒鳴りあいの映画にはならないという確信がもてたので…」

 とパンフレットの中の脚本家との対談で書いている通り、原作者の作品イメージを再現する機が熟すのを、30年以上脚本家が待つことができた結果だったと言うことです。これだけの時間をかけても尚、映画化する価値が失われるどころかいや増しになっていく、男女の愛のあり方の相違を描いた物語に関心が湧いたのです。

 もう一つの理由は、市川由衣演じる女性のキャラが、映画紹介の記事の表現を借りれば、「好きな男に拒絶されながらも、一心不乱に彼を求め続ける女性」であり、「そばにいれるなら体の関係だけでも良いと自ら体を差し出し、「好きだ」という気持ちを告げ続けるちょっぴりウザい女」であるところです。

 私は思いつめた目を持つ女性のキャラが好きです。恋焦がれる感情に呑み込まれて溺れて行く選択は誰もが経験できることではありません。しかし、それが結果的に身を滅ぼすような事態に陥る結果に至っても、気が狂うほどに、相手が好きで好きで仕方ない、やり場なく、常に心と体を貫く想いに振り回される経験は、間違いなく人生の至宝と思えるのです。『女殺油地獄』や『美代子阿佐ヶ谷気分』、『戦争と一人の女』、『私の男』などが記憶の中に鮮やかに残るのはそのためです。洋画では遥か以前に観た『ベティ・ブルー』がロングランの大ヒットであることも、私は強く頷けます。

『海を感じる時』は、そんな期待の中で観ましたが、アタリだったと思います。市川由衣の演じる女子高生は新聞部の一年先輩に対して好意を抱いています。その先輩から部室で「キスがしたい」と迫られて、浮かれる訳でもなく、どちらかと言うと、おずおずと唐突な要求に身を任せます。放課後に先輩を喫茶店に呼び出し、“今日のこと”を尋ねると、「決して君が好きな訳じゃない、ただキスがしてみたかったからだ」と、先輩は馬鹿に素直に、且つぶっきらぼうに本音を言います。全く作為もなく、この歳にしても、やたらにバカ率直な言い草です。

 先輩はその後、市川由衣を避けるようになりますが、市川由衣の方は、映画の紹介記事の“ウザい女”どころではなく、やたらに付き纏い、学校内でも追い掛け回し、「あなたが私に世界に入ってきたからこうなったのだ」と執拗に言い続け、肉体関係を迫ります。要求が実現しても、と言うよりも、それが実現したからこそ、市川由衣の少女の行動はエスカレートしていきます。設定は千葉の房総界隈の海町のようですが、先輩が東京の大学に行っても、下宿に押しかけてきます。

「帰った方がいいよ」や「言いたいことがあるなら、全部言ってくれ。どんな恨み言でも良い。言って終わったら、これで終わりにしてくれ」などと先輩は言いますが、「私は何も恨んでいない。あなたも私を抱かないとおかしくなる。あなたがあの日、私を求めたからこうなった。私はあなたに抱かれるだけで良い。私のことを好きでなくても構わない。終わりになど絶対にしない」と、目を逸らしている先輩に下着姿になって迫っていきます。

 拒絶すると言いながらも、先輩も迫られれば彼女を抱き続けます。そんな関係が延々続き、とうとう、彼女の想いは成就し、二人は交際を始め、同棲するに至ります。パンフレットによると原作にはない展開のようですが、そうなると、彼女の方には拒絶されていたときとは異なり、自分を“大切にし”て、自分と同じ気持ちを理解することができるようになることを相手に求める情動が生まれてきます。そして、行きずりのサラリーマンのアパートについて行き、ソフトSMのセックスをして、それをわざとに元先輩に話します。

 元先輩は激昂し、彼女を荒々しく犯します。しかし、そのセックスを覚めた目で受け止め、彼女は「なんだ。結局、いつもと同じじゃない」と言い放ちます。拒絶されていたときのセックスと、受け容れられ、“大切にする相手”となってするセックスも、結局、同じと知って、自分が高校二年生の時から思い描いて、人生のすべてを捧げて追い求めたものの現実を思い知ることになるのでした。

 試写会のアンケート結果を紹介するネット記事によれば
「多くの女性たちが恵美子に感情移入した様子。しつこくてウザいけど、それは、好きだからゆえ…という恵美子のありのままの姿が多くの女性の心を打ち、アンケートの共感度は98%に及んだ」とのことです。

 原作にはないらしい彼女の想いの結末は、或る意味、必然に私には思えます。早くに夫を亡くし、母子家庭で娘一人を育てた母は、市川由衣が受験勉強もせずに恋の激情に絡め取られていく様を見て、不道徳とさんざんに責め、「自分の今までの苦労は全部無駄にされた」、「私は大学に生かせてもらえなかったから、あなたには行って欲しいのよ」などと身勝手なことを言い連ねます。

 私は中学校の後半、水商売の母に育てられている同級生の女子とやたら仲良くなりました。母子家庭同士、何か通じるものがあったように感じていましたし、実際、本や映画の話題が彼女とは合いました。好きでした。或る日、彼女に公園に会いに行くと言って出かける私に、母は「好き合っているのなら、責任あることをしなさい。そういうことをすることがあってもよいけれど、責任をもてないうちは避妊はきちんとしなさい」とぼそりと呟きました。当時、彼女の肌に触れるだけでも動悸がするぐらいで、セックスなど全くできる状態ではありませんでした。

 私の変な様子に気づいて尋ねる彼女に、バカ正直に母から言われたことで動揺したことを告げたら、彼女の方も「今まで、そんなこと一度も言われたことなかったのに、今日、親から“コンドームはちゃんと持っているのかい”って言われて、もう何にもいえなくなって…」とうつむいていたことを思い出しました。映画と同じ母子家庭の母親。時代はほとんど劇中のものと同じです。向こうは高校生。こちらは中学生。関東とは異なり、北海道の田舎はしきたりや伝統もなく、色々な意味でおおらかだったと言うことかもしれません。

 けれども、そんな経験さえある私には、この映画の親が醜く映って仕方ありません。男の方も、バカ率直な態度を変えず、据え膳は食い続けても、いつまで経っても中途半端な態度をとり続けています。セックスもガキのようなままで、セックスそのもので彼女を悦楽に導くこともなかったようで、アダム徳永の本でも読んで欲しいように感じます。

『サイレン』での主役と『罪とか罰とか』での存在感あるチョイ役のコンビニ店員などしか知らなかった市川由衣ですが、彼女でなければ、この映画は成立せず、ただのストーカー少女の醜態を描いた映画に、大半が堕していたかもしれません。市川由衣の美しさと高い演技力と、濡れ場だらけの作品に没入する覚悟が、この役の存在を確立させたと思えます。そして、交際が始まった後の彼女の心境の変化を描いたエピソードが、市川由衣の役柄に奥深さと艶かしさを実装させたように思えてなりません。

 先述の通り、親として、自分の人生の価値観を高校生になった子供に投影したりすることには全く共感できず、気分が悪くなるほど、母親の言動に嫌悪感が湧きました。そして、自分をここまで好きになって選び続けた女性を、彼女の望む“大切な存在”とすることができなかった、男のバカ率直さにも全く共感できません。そのような部分だけを取り上げると、この映画は非常に気分の悪い映画です。

 そして、再び先述の通り、何年経とうと、執拗に「高校の新聞部の部室であの日、あなたが…」と言い募る市川由衣のキャラにも、一面では辟易させられます。しかし、改めて考える時、このような自分に向けられた強い“想い”が顕現したら、私だったら、それに躊躇なく真正面から向き合うものと思います。

 愛憎は紙一重で、激しい“想い”は、或る瞬間に簡単に崩壊し、裏返した感情に変わることも多いものと思います。それでも尚、そのような激情の経験を大切なものと思うことができます。そんなことに思い至らせる、穏やかで柔らかな映像の中に暴力的なまでに強烈な想いを描いたこの映画が気に入りました。DVDは勿論買いです。