『敵』

 今年1月17日の封切から既に1ヶ月余り経った2月の木曜日の夕刻、18時30分の回を靖国通り沿いの地下にある映画館で観て来ました。ここでは1日に3回の上映がされていますが、翌日からは1日1回に減少すると映画サイトでは書かれています。(チケット購入後、パンフレットの販売について尋ねると、売切れとのことで、再入荷が近日中にされるはずとの回答でした。再入荷をする以上、まだ上映は続くのかと尋ねると、「決定してはいないので何とも言えませんが、まだもう少々は続くと思います」のような回答をスタッフはしていました。

 都内では7ヶ所、23区内に限定すると5ヶ所で上映している様子です。これからまだ上映が少々続くとすると、社会的な認知度は低いものの、それなりの人気作と言えるかと思います。私がこの作品を観ることにしたほぼ唯一の理由は原作が筒井康隆であることです。

 画像記憶ができず、画像も頭の中に浮かばない人間なので、小説を読む楽しみが少なく、特に長編小説は殆ど読むことがありません。筒井康隆も中学生から高校生の頃にかけてやたらにハマりましたが、殆ど文庫本の短編集ばかりを買い漁り読み漁りました。きっかけは何となくSFの小説を読もうと書店で手に取った『ミラーマンの時間 SFジュブナイル』だったと思います。『ベトナム観光公社』、『アフリカの爆弾』、『アルファルファ作戦』、『にぎやかな未来』、『ホンキイ・トンク』、『わが良き狼(ウルフ)』、『馬は土曜に蒼ざめる』、『おれに関する噂』などなど、今でも紙が変色して古くなった文庫本を持っていますが、全部で20冊ぐらいあります。

 その後、多岐川裕美主演のNHKドラマで観てからどうしても気になって『七瀬ふたたび』を読み、それを読んでしまうと(短編集である『家族八景』は既に読んでいたので)どうしても三部作を完結させねば気が済まなくなり『エディプスの恋人』を読み、そこからは筒井康隆の長編小説の面白さに少々目覚め、『農協月に行く』も『日本以外全部沈没』などを含んだ短編集でしたが、表題作の『農協月に行く』は結構長い作品だったと記憶します。さらに、中学から高校にかけて2年少々演劇をやっていた関係で戯曲にもちょっと興味が湧き、『筒井康隆劇場 12人の浮かれる男』、『ジーザス・クライスト・トリックスター』も読みました。挙げればキリがありません。

 小説以外ならスルスル読み進められるので、『狂気の沙汰も金次第』、『やつあたり文化論』、『乱調文学大辞典』、『不良少年の映画史』、『腹立半分日記』、『みだれ撃ち涜書ノート』なども文庫本で持っています。

 彼の原作の映画作品もかなり観ています。『文学賞殺人事件 大いなる助走』が一番マイナーかもしれませんが、誰もが知っているとでも言えるほどの(1983年の実写版ですが)『時をかける少女』や映画に出ているタモリ観たさに観た『ジャズ大名』などがありますが、極めつけはTシャツまで買って今でも頻繁に着ている『日本以外全部沈没』と特典付きのDVDまで買った筒井康隆映画化作品の中での私の一番のお気に入り『パプリカ』などです。

 私の人生の中で、一人の作家で最も作品を多く読んだことのあるのが筒井康隆であると思います。ということで『敵』はどうしても観るべき映画だったのです。私が感じるような筒井康隆の魅力にやられている人々は多いのか、プロモーションも殆どされない作品ながら、封切一ヶ月を経て尚、上映回数は1日3回ですし、終映の予定も見えてないぐらいの状況です。
 
 シアターには30人弱の観客が居ました。男女比は7:3ぐらいで、男性は40代~70代で7割以上を占めていたように見えました。少ない方の女性は男性よりもやや年齢層が若く、20代~30代で半分、40代以上で半分といった感じです。殆どが単独客でしたが、30代ぐらいの男性同士の2人連れと20代に見える男女の2人連れが各々1組ずついました。

 私はこの『敵』という作品の原作を読んでいません。パンフレットも売切れなので、レビューやネットの記事などを読んでみると、かなり原作に忠実な描写になっている作品のようです。それはつまり、小説も映画も共に、前半は肌理細かく主人公の77歳の元仏文(具体的には近代フランス演劇の研究のようですが)教授の渡辺儀助の日常を淡々と描写して、後半は襲い来る敵の物語に急激に舵を切るということです。

 儀介は妻には先立たれ、祖父の代から続く和風の庭付きの家に一人暮らしをしています。手料理はかなり凝っていて、あまり栄養に配慮しているとは思えない感じの、自分の好きな料理メニューをそれように持っている調理器具(魚焼き器など)を使って相応に時間をかけて作っては食べています。年金と少ない原稿料、雀の涙ほどの印税では支出を賄いきれず、貯蓄を切り崩しつつ生活していますが、貯蓄が全部なくなった際には自死しようと遺言まで用意して一見淡々と暮らしています。

 なぜ「一見」かというと、儀介はプライドやら性欲やらが捨てきれずに生きていることも彼の日常生活の描写に紛れ込む形で描かれているからです。自分を慕う教え子の(『グレイトフルデッド』、『日本で一番悪い奴ら』、『火口のふたり』など問題作的話題作に出ることが多く瀧内公美演じる)靖子に性的妄想を抱いたり、バーで出会った若きオーナーらしい(河合優実演じる)歩美に「困っている」と相談され、殆どパパ活的な感じで300万円をぽんと渡して逃げられてしまったりしています。

 靖子に対しては、現役の頃から演劇鑑賞に連れ出し、その後は食事にも行っていたようで、当時の段階でも肉体関係はなかったようですが、ほぼアカハラと言える状況になっていました。引退後もたびたび訪ねてくる靖子とセックスする機会が訪れることを意識しながら暮らしており、彼女を妄想しつつマスターベーションしていますし、後述するような「敵」が来るようになってからの幻想で夢精までしています。

 彼がマックのPCで原稿を書いていると、金銭を請求しますだの懸賞が当たりましただのといったスパムがぽつぽつと届きます。通知が表示されると彼はいちいちそれを開いて、「はっ」のような呆れ顔をしてから削除します。まるでこうしたスパムでさえ、誰も何も言って来ない生活の中では、小さな生き甲斐になっているかのようです。そのスパムと同じように、或る日、「敵が迫っている」というメールが届きます。

 その「敵」は北から上陸してくるというようなデマ的な内容なのですが、それがぽつぽつと届くようになってから、儀介は現実と幻想の区別がつかなくなって行きます。よく幻想を見ている場面が不意に終わり、「ああ、これは幻想だったのか」と現実に引き戻されるような形の認識を物語の登場人物がすることがありますが、儀介の場合はそうではありません。現実への引き戻しは発生せず、どこまでも現実と幻想がシームレスに繋がっているような感じなのです。

 それは認知症や記憶障害などが加齢と共に発生している人物のリアルであるのかもしれません。得意の料理もしていますが、本人は幻想の中で靖子を招いて食事しているのに、実際には自分だけの分を作って一人で食事をしていた様子の場面も(確定ではありませんが…)存在します。観ていてもどこまでが現実に起きたことなのかが線引きできない状態にどんどん陥って行きます。

 靖子への思慕が募る幻想が続くと、無意識の中の死別した妻への罪悪感が起動するのか、不機嫌な妻や儀介を糾弾する妻も執拗に現れるようになります。この妻は、これまた『六月の蛇』や『冷たい熱帯魚』など問題作などに出るわ、濡れ場だの全裸シーンだのが頻繁に見つかる黒澤あすかが演じています。バンバンあるわの北から来る「敵」はこちらの防戦ラインをジワジワと乗り越え侵し、とうとう儀介の家に現れたりするようになります。その姿はエスキモーのような毛の襟のついたフードの中に日焼けしたのか汚れなのか分からない黒い顔をした東洋人的な顔の男達でした。儀介の家の中の部屋の襖の陰や階段先の二階から群れを成して現れるようになります。

 とうとう家のすぐ外で銃撃戦も起きるようになり、儀介の眼前で体臭が酷いと言われ気にしている隣家の老人男性も、犬の糞を処理していない疑惑をかけられている近所の中年女性もどこかから放たれた凶弾に貫かれて死亡します。そして儀介も一旦物置に隠れていた所から庭に出て銃殺されます。

 子供も兄弟もいない儀介の家などは、その遺言によって、従兄弟の息子だったと思いますが、若い男性、槙男に譲られることになります。彼が遺言の公開の場から庭に出て、物置で見つけた双眼鏡を覗くと、家の二階の窓に儀介の姿が見えます。動転して双眼鏡を落とした槇男の脇の建物の屋根の上にチラリと北からの「敵」らしき小さな影が1人分見えて、すぐ引っ込み消えます。そこで突如物語は終わります。

 結局「敵」とは何だったのかと言えば、それは老いであり死であろうと思われます。現実に儀介より大分若い友人が体調に異変を感じ検査入院をしますが、(これも幻想かもしれませんが)状況が悪化して儀介が見舞いに行くとかなり重態で酸素マスクまでしている状態でした。彼の妻が席を外した後、儀介が見守る中で彼は目を見開き儀介の腕をもぎ取るように引き寄せ、「敵が来る。早く逃げろ」と言って心電図が異常音を立てるのでした。彼に「敵」が来て死んでしまったのか、彼にも迫っている「敵」が儀介に迫っていることを彼が教えてくれただけなのか、よく分かりません。しかし、「敵」が死であることを端的に示している場面だと思われます。

 年金受給ぐらいの老齢になったら、料理をすることで頭も使いボケを遠ざけると同時に、無駄な出費も避けられる…と言った言説をよく耳にすることがあります。エロを高齢になっても否定せずにいるとホルモンが分泌され続け、若く心身を維持できるなどとも言います。年も年ですが、それでも平均寿命になるかならないかの儀介は、PCまで使ってバリバリ文章を打ったりしていますし、スーパーで材料を買って料理もすれば、先述のように元の教え子に欲情して夢精までします。それでも突如死は迫り、それと共に意識が現実と幻想を区別できなくなり、無限の中で死に急速に向かっていくようになるということなのだろうと思えます。その観点からすると、エンディングの若い槙男も、儀介が亡き妻を家の中で見るようになったように、死んだ儀介を目にし、北から「敵」も遠巻きに様子を窺っているようですから、死がじりじりと彼を包囲している状況になっていると見ることができるのかもしれません。

 レビューの中に、映画化にあたって筒井康隆はこの作品を彼が64歳の時に書いた動機について、「年をとるのが怖かったからでしょうね」と言っていると書かれたものがあります。迫り来る死の恐怖を混濁し、彼を糾弾したりするようになった妻や靖子が現れるようになり、(多分幻想の中の出来事でしょうが)彼に仕事を持って来たフランス文学も戯曲も全く理解していない態度のでかい編集者を靖子が「突然襲われたから」と殴り殺し、靖子と二人でその死体を井戸に投げ捨てることまでします。

 靖子と悪事まで共有したかった欲望の表れかもしれませんし、連載の仕事を無くした彼に舞い込んだ仕事を靖子との関係性の中で犠牲にしなくてはならなかったということかもしれません。いずれにせよ、加齢と共にどんどん儘ならなくなるのに、欲だけは消えずに絆され続けて、幻想の中でさえも不愉快で理不尽な(人間関係をも含む)社会全般が迫ってくる。それが「敵」であるということかと思います。国民年金基金だけではあるものの、年金をもらうようになり、この映画も含めてシニア料金で映画鑑賞している私も、多くのこの作品のレビューアーと同様に、他人事とは思えない「敵」の姿でした。

 瀧内公美、黒沢あすかの怪優然とした不穏なオーラが湧き立つ様子が、儀介が嵌り役の長塚京三の好演に加えて、この映画の魅力を増幅していますが、『あんのこと』に続いてこの作品でもまた河合優実が薄味過ぎたように感じられます。その点が少々マイナスですが、まるで『陰翳礼賛』の世界の様なモノクロの日本家屋を舞台にした老いから逃れられないインテリ老人の混迷の終焉を描いた名作です。DVDは勿論買いです。