『ヒポクラテスの盲点』

 10月10日の封切から既に1ヶ月以上が経った金曜日の午後1時の回を銀座の路地裏映画館で観て来ました。今年に入ってから、『山逢いのホテルで』、『マリア・モンテッソーリ 愛と創造のメソッド』、『ハッピー☆エンド』、『うぉっしゅ』と既に4回来ているので、5回目です。『山逢いのホテルで』は1月に来ていますが、その前年11月にもこの館を訪れて『運命屋』を観ていて、大好きなSPECシリーズで、看護師の那須茄子を演じている広山詞葉という女優を初めてナマで見るだけでなく会話までしました。

 この映画館になぜ来ることが多くなっているかというと、マイナーな作品の上映館であることが第一の主要な理由です。東京23区どころか東京都下でもたった1、2館と言ったような状態の上映館となっていることもあります。しかし、マイナーな作品であれば、新宿にも上映館はたくさんあります。来年には消滅予定のカリテを始め、その系列の親館(?)である武蔵野館、ケイズシネマ、シネマート、そして私もよく行くテアトルなどです。それらがあってさえ、この銀座の路地裏老舗映画館に来る必要が生まれるのは、この館が特定マイナー映画を長期間上映し続ける傾向があるからです。

 今回もその例外ではなく、都内にはこの館も含めてたった2館(もう1ヶ所は吉祥寺のパルコ地下のやたらにシアター数の多い映画館)しかありません。鑑賞日の前日木曜日までは、新宿では何とピカデリーで上映していたのですが、流石に封切から1ヶ月を過ぎて脱落しました。『ゴールデンカムイ』、『鬼滅の刃』、『チェンソーマン』など数々の大規模動員が見込める作品を抱えている中で、このマイナーな作品を維持する理由が見当たらなかったとしても不思議ではありません。

 前日までのピカデリーは1日1回の上映で、その時にはこの路地裏映画館も1日1回でしたが、ピカデリーで上映が終わるや否や、1日3回に上映を増やしています。なかなか機動的で巧妙な劇場運営に見えます。現実にこの作品には観るべき大きな価値があると、私も感じますし、また社会的にもそうした価値を見出す人々が一定数、それも相応に無視できない一定数存在するということなのであろうと思えます。

(鑑賞日段階では全国に14館が上映館として残っているようですが、その中には私が数回訪れ、市民性高く運用されている厚木の映画館が含まれています。他には九州に福岡、大分、宮崎、鹿児島と4ヶ所もの映画館が偏在しているのも不思議です。さらに沖縄にも1館あります。)

 現実にシアターに入ってみると、(開始30分前のチケット購入時に見た座席表上の観客数に比べて大きく伸びた)およそ50人程度の観客が集っていました。ほんの数人の例外を除いて全員50代以上、半数が70代以上ではないかと思えるぐらいの高齢観客層でした。女性が全体の7割ぐらいを占めていたように思います。2人連れ客は当初2組しかおらず、女性2人連れと男女ペアの各1組でしたが、この4人も例外なく高齢でした。

 さらに暗くなる寸前からトレーラー上映の時間ぐらいで、一気に観客数が増えましたが、高齢者の複数連れも3組が加わりました。50代ぐらいの男女ペアが1組、あとは60代ぐらい同士、70代ぐらい同士の女性2人連れでした。高齢者は人数が多くなると機動的な動きができなくなり時間に遅れがちになるということかと、我が身を振り返りつつ思いました。

 先述の通り、この映画は観るべき価値が高い作品です。この観るべき価値は、当然ながら娯楽作品としての一般的な映画価値によるものでは全くなく、日本全土を覆う社会問題を相応に深く抉ることに成功している数少ない資料としての価値です。現実にこの問題は、所謂「反ワク」としてメディアでも取り上げられることがほぼなく、SNS系では比較的最近まで、または今でも、アカウントが即座にバンされるような状態がありました。つまり、記録を世に問う隘路は映画ぐらいしか見つからなかったということなのです。なかなか他に例がない状況です。このように見れば、SNS上などで吹聴される陰謀論などに思い至りますが、映画の内容に全くそうした要素は含まれておらず、登場し語るのも医師免許を持つ人間、それも現場で治療に当たった臨床医の割合が非常に高い構成の医師群という状態で、信憑性の非常に高い内容になっています。

 映画.comの紹介文は以下のようになっています。

[以下引用↓]

新型コロナワクチンによる後遺症の影響に、多角的な視点から迫ったドキュメンタリー。

新型コロナウイルスの感染拡大で政府が初の緊急事態宣言を出してから5年が経ち、感染症法上の位置づけが5類に移行して2年が過ぎた。未曾有の危機を経て国の感染症対策は変化を重ねてきたが、従来のワクチンとは異なる新技術で開発された新型コロナワクチン(mRNA遺伝子製剤)による後遺症被害について、さまざまな情報が報道され始めている。過去に例のない「新薬」の認可と流通には、医学の盲点や限界のみならず、不都合な事実に目を向けさせないようにするデータのトリック、アカデミアやメディアの政府への忖度など、日本社会が抱える問題が集約されていた。そんな中、新型コロナワクチン後遺症の影響を科学的に究明しようとする医師たちがいた。

映画では、後遺症患者、遺族、当時のワクチン推進派など、多様な立場の人々の意見を多角的にとらえることで、科学とファクトに基づいた真実をつまびらかにしていく。

2025年製作/110分/G/日本

[以上引用↑]

 私はこの作品はかなり前から気になっていました。リアルタイムで状況が変化するのと共に追っかけでどんどん出るので、内容に重複が目立ち、最終的には少々飽きが来た『ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論』シリーズも読んでいて、私は人類史上初のmRNA形式のワクチンが世界規模の薬害を起こしているのではないかと感じている一人だからです。

 なぜかというと、私自身も1回目の接種でファイザー社のワクチンを地元の内科で打った所、当日晩に(病弱で色々な病気に罹患した経験がある私でも)全く未経験の症状が重く出て、救急車を呼ぶか否か逡巡するほどになったからです。症状は心臓が重苦しく感じるようになったことがまず始まりでした。最初は強めの胸やけのような感じで始まった重苦しさが段々と部位的にも心臓に集中して行くような感じで、布団に横になっても誰かが心臓の上にピンポイントでダンベルを置いているような感覚になりました。入眠さえ困難なぐらいになって来て、横向きになったらほんの僅かに症状が軽く感じられて眠りました。

 第二の症状は胸の苦しさに続いて多少時間差で発生しましたが、手足の指20本全部の指先から一つ目の関節の痛みです。最初は神経痛とかリウマチのような感じがこれかなと思うような変わった痛みから始まりましたが、そのうち、PCで軽く仕事をしていた中で指の関節の方は針を刺すような痛みに変わって、PC作業が全くできなくなりました。救急車を呼ぶことも考えましたが、取り敢えず、歩くことも話すことも思考することもでき、大体にして何科に掛かるべきなのかも分からず、考えた末、まあ、これで最終的に死ぬなら仕方ないと思い、どのような症状が起きているかを家人に説明してから寝てみることにしました。

 インフルエンザにせよ、何にせよ、自分の経験値の中では、寝て休養を取ることで、どの程度どちらの方向に症状が改善するか、ないしは全く改善しないかの変化を知ることで、自分の身体状況のありようが理解できるように常日頃感じているというのも、この時の判断のベースです。痛みに耐えた疲れからかかなり長時間、途中で起きることもなく眠ることができ、翌朝遅く目が覚めてみると、心臓の重苦しさはかなり軽減していて、手足の指の痛みは消えていました。心臓の重苦しさは微かに残ってその後、別途循環器内科の精密検査を受けることになりましたが、異常は見当たりませんでした。

 私は(陰謀論を掘り返したり喧伝して回るほど生活に余裕はありませんが)個人的にこの新型ウイルスが中国の研究所から漏れ出たものであるという風に思っていますので、多くの場面で「通称武漢ウイルス」と表現していますが、このワクチンに関して、先述の『コロナ論』シリーズの内容に首肯する所が増えた理由があります。一つは勿論奇妙な症状そのものです。mRNAワクチンが体内を駆け巡り、スパイクを生じさせるという説明があり、それが心臓に帰着すると心筋に激しい炎症を生じさせ、「心臓が溶けた」と表現されるような症状で死に至らしめる…という話につながるような症状であるということです。幸い「心臓が溶ける」のは若者が多かったからか、私はそこまで行かなかったということのようです。

 また、指先というのは末端の血管が細くなって、動脈から静脈に折り返す部分と理解されます。そこに血流が澱み溜まればそこにスパイクが出ることもあるというのは、素人考えながらイメージしやすいように思えます。こうした『コロナ論』の説明と自分の身に起きたことの類似性が一つ目の分かり易い理由です。

 二つ目はこの症状に対する医師の態度です。ワクチンの接種券の二度目の分があったので、元々指定された日に二度目の接種に一度目と同じ医院に行き、医師から「一度目の後はどうでしたか」と尋ねられました。そこで、症状を子細に説明し、「これはもしかして危険な状態だったのではないかと思いますが、どのように考えるべきでしょうか。このような症状を回避しつつ接種を行なうようなことができるのなら良いなと思っていますが」と私の意向を説明しました。

 すると、医師は「心臓の状況が今仰ったようなことなら、これは二度目は打たない方が良いでしょう。けれども、ウチでも既に2000人以上に打っていますが、市川さんのような症状の人は一人も発生していません。体質的に何か合わないということのように考えるべきですね」と明確にドクター・ストップをかけてきたのです。私の方から「けれども、打たねばならないという感じになっているじゃないですか。どうすれば良いのですか」と尋ねると、「考えられるのは、メーカーを変えてみることです。モデルナ製は現在自衛隊基地で接種が一般人でもできるようになっていますから、そちらを試すということは考えられます。しかし、モデルナ製なら症状が起きない、ないしはより安全であるというようなことは全く保証の限りではありません」との答えでした。

 つまり、二度目は打つなとも明確に言いたくないが、高い確率で大きな問題が起きそうなので、自分の医院では打ちたくないという意向が透かし見えたのです。現実に、当時、ファイザー製よりもモデルナ製の方が、強めの副反応が出ると噂されていましたし、自衛隊の基地の接種は予約手続きなどが大変で受けられる日程枠も限られていたこともあって、私はワクチンを打たないことを選択したのでした。その時点でも、ワクチンの副反応で死に至るような人々は接種者10万人に対して、ギリ1桁といった情報は『コロナ論』以外でも出回っていたので、私はどうも当時微妙に還暦前とは言え、若者の仲間入りで通称武漢ウイルスワクチンで命を落とす確率が高い大当たりの人ということと、自分を認識することに決めたのでした。

 それから3年以上を経て、昨年2024年8月に初めて通称武漢ウイルスに感染しました。既に5類になっていて、家で休養しつつ熱が引くのを待っていましたが、熱が引いても咳が止まらず、おまけに血痰まで出るようになりました。どんどん呼吸が苦しくなって、盆休みの真っ只中、新宿で開いている内科を訪れたら、胸のレントゲンを撮った段階で、「ウチではどうにもならない状態なので、すぐに総合病院に移ってください。紹介状をすぐに用意します」となって、新宿の南にあるJR総合病院に1週間入院しました。通称武漢ウイルスそのものは体内にほぼ居ず(居ても活性ではなく…ということかと思います)、その症状として肺の内部に炎症が広がり、炎症の激しい部分が呼吸に寄与していなくなったので、酸素を取り込めなくなっているということでした。血中酸素飽和度を測るパルスオキシメータの数字が恒常的に90未満になっていて、即入院が決まりました。

 腎臓も肝臓もかなりやられましたが、毎日点滴で強力なステロイドのデカドロンを大量投与してまあまあ持ち直しました。寝ていても稼げないので、呼吸はやや苦しめですぐに息が上がるものの、パルスオキシメータが平常時で93以上になった段階で退院が決まりました。まるまる1週間の入院でした。担当の医師からは、「あと数日状況を放置したらエクモが必要な状態になっていて、死亡確率20%以上ぐらいでしたよ」と後日月一検査の場で言われました。

 そんな私ですが、反ワクではないと自分では思っています。どんな科学技術も失敗の積み重ねから生まれる部分が否定できないですし、それが医学の場合、どうしてもどこかの段階では人間でナマに試さなくてはならないのも致し方のないことです。名作『華岡青洲の妻』にあるような事態は医学史上、無数に起きていると考えるべきだとも思っています。ですから、ワクチンを評価する際に、今回の劇中でも語られているようにベネフィットがリスクをどれほど上回るかという評価が為されるという発想には、私は頷ける気でいます。仮にそれが自分が「負の大当たり」を引くことになるのだとしてもです。

(そんな考えがあったので、よく分からない急造ワクチンを打った結果を病院に持ち込んでも、多分、ありきたりの対症療法しかされないうちに、「心臓が溶ける」急激な変化は発生するのだろうという認識があったのが、ワクチン接種をした日の晩に救急車を呼ばなかった背景心理でもあります。逆に軽い症状で病院に担ぎ込まれたとしても、これまた急造ワクチンに対して当時の段階では明確に発症パターンが広く知られていない訳ですから、良くて何かの対症療法的な投薬で、あとは「様子を見てください」になるのが関の山ぐらいとも考えていました。)

 ただ、だからどんどん医学発展の裏で人の命が失われて行って良いとは全く思っていません。科学である以上、というよりも、合理的な思考パターンのベースには、「仮説と検証」があるべきです。企業経営でも同じですが、全くデメリットのない経営施策などありません。その中で合理的に見てメリットが大きい施策を、想定されるデメリットへの対症療法的対応策とセットで採用しつつ、結果を見て機動的に修正を施すしか方法はありません。通称武漢ウイルスのmRNAワクチンに関しても、同様に思えます。死に至る副反応をどんどん科学的に分析し、対応を案出し、「薬害」と言える状況になるのを如何に回避するかということが重要なのであろうと私には思えます。

 劇中にはワクチン推進派の医師も登場していますが、その人物でさえ、ベネフィットとリスクを秤に掛けたら、第三波のオミクロン株以降は、ワクチンのリスクの方が無視できないぐらいになっていると認め、既往症があり通称武漢ウイルス感染症の急激な悪化が見込まれるような人々以外には接種の必要性が無いと言っています。既に7回だの8回だのの再接種を政府が呼び掛けているのにも拘らずです。

 一方で、劇中の中心人物である京都大学名誉教授でもある福島雅典氏を始めとする医師団が作ったワクチン問題研究会などが厚生労働省にワクチンに関するデータの開示を求めても黒塗りの資料しか提示されないなど、誰かに避難や責任問題が及ぶのを必死で避けようとしているのがあからさまな対応しかなされていない様子も描かれています。

 福島氏は自分が関わった20代の元気な若者のワクチン接種後の突然死とその心臓が溶けている様子(後にこれは心筋が激烈な炎症を起こして断裂した状態と判明します。)を知って、その追及を一つの切り口として問題に切り込み、その被害者について語る時には、落涙し、嗚咽するぐらいの姿勢で事に当たっていることが描かれています。

 推進派だった医師達の中でもオミクロン株以降は明らかにワクチンのデメリットの方が大きくなった事態認識があるような状態なのに、未だに通称武漢ウイルス禍はどのように推移し、ワクチンの成果は何であったのかが、科学的に全く検証されていない状況をこの映画は暴いてゆきます。福島氏はこの状況を、単に医学的な問題のみならず、社会全部の問題であり、科学(的姿勢)上の問題であり、人類の歩みの姿勢そのものの問題であるとさえ言っています。先述の中小零細企業の経営においてさえ定石・常道とされるアプローチが、日本全国(どころか世界全部かもしれませんが)で全く為されず、大量の死亡者を出して尚全く国家を挙げた検証の道筋さえ見えていないことに驚かされます。

 福島氏は「医師なら、『デメリットで死ぬこともしょうがない』なんてことは口が裂けて言える訳がない」とさえ言っていますが、私は先述の通りその考えには賛同しません。医学どころか科学全体の進歩はそうした犠牲の上に成り立っているのは明白だからです。けれども、少なくともそうしたマイナスを社会全体で如何に小さくするかを真剣に案出し実践しなければだめだとも勿論思っています。少なくとも、現在の隠蔽・有耶無耶放置状態は福島氏の指摘通り、被害で現在も苦しんでいる人々や亡くなった人々へのせめてもの筋を通すことにも全く繋がらず、そうした声に背を向けている非倫理的な状態ですし、人類の科学の発展に対する姿勢の上でも決して許さざる状況であろうと思えてなりません。

 福島氏は四国の地方の町の医師と協力して作成した寿命分析の結果も、最近は講演で公開するようになったと物語の終盤で描かれています。それは通称武漢ウイルス禍の広がりよりもやや遅く日本人の寿命が統計上明らかに短くなり始めているというデータです。なぜやや遅いのかと言えば、それは通称武漢ウイルスそのものによる影響ではなく、ワクチンの方の影響だからと考えられなくはありません。福島氏も「ワクチンとつなげて論じることはできないが、こうしたことが起きているということを政府も知っているはずなのに、それを科学的に分析し、把握をしようとしないことが最大の問題だ」というように述べています。全くその通りで、そうしたバカでも分かるようなことがなぜ為されないのかが、全く理解の範疇を超えています。誰かの責任が明らかになることなどどうでもよく、同じ愚行を繰り返さないために、分析と把握、そして対応策や改善策が用意されるべきなのは論を待たない自明なことと私には思えました。

 メディアから拒絶されているテーマですので、DVD発売も全く怪しいようには思えますが、DVDが発売されるなら間違いなく買いです。