『奇麗な、悪』

 2月21日の封切から約3週間を経た木曜日。靖国通り沿いの地下にあるテアトルで12時丁度からの回を観て来ました。1日に2回の上映が為されていますが、翌日の金曜日からはさらに一週間以上の上映が予定されているものの各日1回の上映になっています。社会的な認知度で言うならかなり低い方の作品なので、これでも健闘している方かと思えます。上映館もかなり少なく、翌日金曜日段階では都内でこの館1館になっていました。(記憶では前日まではもう数館あったようには思いますが、定かではありません。)

 私がこの作品を観たいと感じた最大の理由はオリジナルの映画作品の方がまあまあ気に入った作品であるので、そのリメイク的な作品を観てみるのも悪くないかと思い立ったことです。映画.comの作品紹介欄には以下のようにあります。

「映画プロデューサーの奥山和由が約30年ぶりに劇映画のメガホンをとり、2016年にも『火 Hee』のタイトルで映画化された中村文則の短編小説『火』を原作に撮りあげた実験的な自主映画。

街の人混みのなかを、まるで糸の切れた風船のように危うげに歩くひとりの女。やがて古びた洋館にたどり着いた彼女は、そこが以前に何回か診てもらったことのある精神科医院であることを思い出す。ひと気のない洋館の中に吸い込まれるように足を踏み入れ、以前と同じように患者用のリクライニングチェアに身を横たえた女は、自身の悲惨な人生について語りはじめる。

『由宇子の天秤』『火口のふたり』の瀧内公美が主演を務め、1時間以上におよぶワンカット撮影で圧巻のひとり芝居を披露。全編を彩るピエロの口笛のメロディは、芸術文化功労賞受賞者で国際口笛大会優勝経験を持つ加藤万里奈が担当。」

 この文章に登場する『火 Hee』は(原作が同じですから、余程翻案をしない限り当然のことではありますが)今回の作品同様に、一人の女性が精神科医の所でほぼ独白と言っていいような感じで、延々と今に至る彼女の人生を振り返る内容です。主演は桃井かおりが務めていて、女性は幼少時に自分を虐待する親をカーテンに火をつけて焼き殺した過去を持っています。そして、高校を中退するなどして零細企業に勤めますが、長く続かず、ホステスをしたりする中で富裕層の客と結婚に漕ぎつけますが、そのセレブな家庭環境に合わず、女児を設けますが、家出をします。その後、売春で身を立てるようになり、彼女をSMプレイではなく虐待そのものを楽しむような男との腐れ縁と、彼女をセフレ以上恋人未満として扱うまあまあ裕福な男との関係の間で漂うようになって行きます。

 彼女の人生がそこから変じるのは、虐待男が今は思春期を迎え母に会いに来るようになった娘を見つけ、その娘ともセックスしたいと望むようになったことです。それを彼女は拒みますが、虐待男は彼女の不在時に尋ねてきた娘を捕え、言いくるめて彼女の部屋に連れ込みます。それを帰宅途上で遠くから見つけた彼女は、自分の娘が虐待男から暴行・凌辱を受けることを分かっていながら、交際相手未満の男の所にタクシーで慌てて移動し、交際相手未満の男に抱かれ、今までになかった深い悦楽のセックスに浸るのでした。事後、その男に虐待男や娘のことを言うと、突如男は売春女の背後のよからぬ関係を不安視するようになり、悦楽から一転、彼女も男への愛情が侮蔑や拒絶に変わって、いざこざの中で男をその場のナイフで刺して、男の部屋を出てくることになります。

『火 Hee』が今回の作品と異なるのは、今作の作品が実質的に主人公の彼女の一人芝居であるのに対して、主人公の彼女はナイフでの傷害罪で逮捕されており、精神鑑定のために刑事によって精神科に連れて来られていることです。ですので、刑事も精神科医の男性も、そして精神科医のセレブっぽい(同じく医師であるらしい)妻と娘の家族の光景も描き込まれていることです。ネットで調べてみると、尺は72分しかなく、とても短いのですが、そのうちの多分7割以上が桃井かおりの独白シーンだったのではないかと記憶します。

 また、本作と異なり『火 Hee』は舞台が米国の多分ハワイだったように記憶します。熱い日中の強い日差しの中で、件の虐待男(らしき男)とのぶっきらぼうな会話のシーンなどもあります。桃井かおりの天性とも言うべき気怠さとやや躁鬱的に感じられる感情の振れ幅ごとの緩急ある独白が、亜熱帯のような茹だるような空気の中でドロリと鈍く流れ進むような作品でした。(娘も富裕な家で育っているので、わざわざ飛行機で母に会いに来ている想定になっていたように記憶します。)

 この『火 Hee』を私の邦画ベスト50などに入るぐらいに熱狂的に好きな作品ではありませんが、このテーマにしてこの桃井かおりの配役とその結果の演技の妙には、高い評価があって然るべきとは思っています。購入したパンフの中には一言も『火 Hee』に対する言及がなく、まるでそのことを意図的に消し去ろうとするような姿勢と思えますが、私にとってはこのような『火 Hee』のリメイク作品(/リブート作品)として、本作に非常に関心が湧いたのです。

 それ以外に、少々関心が湧いたのは、「1時間以上におよぶワンカット撮影で圧巻のひとり芝居」とされている部分です。映画全体の尺が76分しかありませんので、実質ほとんどすべてがワンカット撮影の結果と言うことになります。ワンカット撮影と言う手法にどれほどの演出的な効果があるのか、私は素人なのであまり理解していません。観る側にとって何らかの目覚ましい効果が無いのであれば、或る意味、作り手の自己満足的な演出にしかならないという考え方までできそうにさえ思えます。それでも、そのような演者や撮影者にかなり負荷のかかるそのような取り組みの結果は、私が観た中でもあまりなく、一見の価値があるかと思ったのです。

 このブログを書き始めて以来、そうしたワンカットの画面が延々と続く点がウリになっていたのは『ウトヤ島、7月22日』だと思います。島に上陸した連続殺人鬼から逃げ惑う若者たちの中の一人の女性に注目し、その不安・恐怖に耐えながら島を逃げ回り、身を潜め、最後の最後、漸く助けの気配が現れた時点で、殺人鬼に見つかり射殺されるまでの課程を描いた作品です。ワンカットである上に殆どがPOV的な映像なので、没入感が物凄い作品で、揺れながら逃げ惑うカメラのフレームを観ていて酔ってしまう観客が続出したと言われています。

 他にも過去に劇場で観たタルコフスキー作品などの往年のロシア映画はカットを切り替えると言う撮影常識がなかったと言われていますが、ワンカットのモノローグが延々と続くような印象を私は強く持っています。それ以外に、私は劇場でもDVDでも観ていませんが、『1917 命をかけた伝令』という戦場の伝令の行動を描いた作品もあるのを知っています。ネットで見るとこちらは「全編ワンカットに見える撮影」だったようです。(ウィキでは、「本作は全編ワンカットで撮影されたように見えるが、実際には複数回の長回しによって撮影された映像をワンカットに見えるように繋げたものである。撮影チームはそうできるようにカメラの動きを綿密に計算した上で撮影を行った。」と説明されています。)混乱の戦場で使命を果たすべく悪戦苦闘する主人公の様子を表現するのに効果的な演出となったと言われています。

 そのように考える時、今回の作品は特に手に汗握る展開でもなくワンカット撮影が往年のロシア映画のように、印象深いとは言うものの、私を含めた映画素人には退屈な顔面アップが延々と続くのではないかとの危惧もありましたが、上述のようなオリジナル映画の方のまあまあの魅力と、レアなワンカット作品という関心が勝って、鑑賞を決めたのでした。

 主演といっても、街の雑踏の人々以外は主人公しかいない状態の主演女優は、瀧内公美です。私が彼女を劇場で初めて認識したのは『裏アカ』で、あまりの凡庸な物語とあまりに型にハマった主人公の演出に飽きて呆れた作品でした。この作品の彼女は私にとっては全く記憶に値しないぐらいの存在でしたが、DVDで観た彼女の代表作の『グレイトフルデッド』と『火口のふたり』の印象は鮮烈でした。『グレイトフルデッド』に出演時のインタビュー記事がネットに載っていて、オーディションに通い続けても全く役が得られない不遇の時期が続いた後の『グレイトフルデッド』のオーディションの場で、何よりも先に「私は脱げます」と宣言したと本人が語っています。

 この「脱げます」宣言がその後も引き摺っているのか、名作の『火口のふたり』でも私には駄作にしか見えない『裏アカ』でも、脱ぐことが大前提の役回りをこなしています。脱ぐこと売りの女優では私は佐々木心音が好きで、その彼女の高い演技力がじわじわと評価され、『クオリア』などで、脱ぐことがない主要な役どころに配置されるようになってきていることを知っています。

 それに対して、梨園の出自の良さに反してすぐ脱ぐことが最大のウリで、その演技力にも脱いだ際に表現される情欲やエロスなども殆ど感じられず、若くもなく肢体も顔も美しくも見えないのにその手の作品群に出まくっているように私は認識しているのが寺島しのぶです。私は佐々木心音の作品群は極力観るように努力し、寺島しのぶの出演作は極力避けるように努めています。私にとっての「脱ぐことウリ枠」を活用し続ける女優の中で、瀧内公美は佐々木心音と寺島しのぶの中間に位置しています。つまり、積極的に作品を観る動機の要因になってはいないものの、「脱ぐ系」の役回りの場合は、そのプロセスで表現できる事柄が非常に多い優れた俳優…ぐらいの認識です。

 これは先述の『グレイトフルデッド』と『火口のふたり』でできた認識で、先日観たばかりの『敵』でも、服を脱ぐことこそないものの、老齢の仏文学教授の実質的なセックス・アイコンとなっていて、彼に夢精までさせる存在を演じていますが、醸し出されるエロスはオーラとなってスクリーン上のモノクロの空間を満たすが如くに感じられました。その瀧内公美のワンカット独白を延々と観ることも魅力の一つとは感じられました。

 シアターに入ると全部で20人余りの観客が居ました。座席の背が高いので、上映開始時の後頭部確認では大分属性分析が甘かったのですが、終映後の立ち去る人々を見て、概ね男女構成比は男性7に対して女性3と言った状況で、高齢者比率が男女共に極めて高いことが分かりました。20~30代は多分皆無で、一昨年後半からシニア割引適用の私でさえ、平均年齢を引き下げる側に居たように思えます。全員単独客でした。

 唯一の出演者である瀧内公美は口頭ではセックス描写を何度も語るものの、本作では濡れ場を演じるどころか脱ぐこともありませんので、彼女のファンの高齢男性だとしたら、彼女の妖艶さそのもののに惹かれたということなのかと少々考え至ったりしました。

 観てみて思ったのは、私の動体視力が低く、且つ画像記憶ができないためなのかもしれませんが、この映画の大きな売りの一つである1時間以上に及ぶワンカット撮影というのが、少々疑わしく感じられました。ネットの映画紹介の文章は勿論、比較的ページ数の多いパンフレットを読んでも、そのように書かれていますので、本当なのだとは思いますが、誰もいない診察室の椅子に座ったり部屋の中や階段を歩き回ったりする彼女を色々な角度からとらえるカメラワークが、部分的に切れているように私には感じられる場面が何ヶ所かありました。それでも勿論、広い洋館とはいえ、密室空間を動き回る彼女を延々追いかける映像が続くので、ワンカット感は十分あります。

 オリジナル作品に比べて、やはり、主人公が一人登場するだけという設定が色々な演出面での違いを生んでいます。精神科医がいない分、精神科の空き部屋にはピエロの人形が置かれており、(電動で動いたりするのですが)それが桃井かおりの聞き役であるかのように配されています。また、高台にある洋館の裏には二階の窓から見下ろすような位置に墓地があり、劇の終盤、主人公が「生きていても、いいですか」と呟く場面で、主人公の視界には(やけに分かり易い記号ですが)墓地が映っていたりします。

 部屋の片隅にある小机には投函されないままの手紙が封筒にも入れられず置かれていて、主人公はそれを黙読したりしています。手紙の文面はそれなりにアップにはなりますが、文章を読み取るには、解像度と時間が(少なくとも私には)十分ではなく、どうも医師が閉院前に主人公に宛てて書いた手紙であるように感じましたが定かではありません。

 こうした記号の中で、特に目立っているのは壁に掛けられた一枚の絵画で、後藤又兵衛という日本人画家の『真実』と言う作品です。絵画の素人の私にはシャガールの人物描写とパウル・クレーの構図と色遣いを組み合わせた感じに近いような風に感じられる、独特のタッチがある画です。この『真実』の構図は、縦長の画面に対して、右に裸婦が後ろ姿で配置され、それを中央から左側に位置するパレットを手にした画家が描いている様子になっています。裸婦を描いている画家は、この裸婦の真実を見抜きつつ絵を描くことができる…という確信なのか、そういう能力を画家は持ち合わせているのか…という疑問なのか、そうしたものを感じ取るのに、中野京子ばりの絵画読解力を必要としない作品ではあります。

 当然、この絵画がこの作品を象徴しているという風に解釈できます。劇中でも(前作の桃井かおり同様)主人公は独白の中で、精神科医は患者の心理や真実を本当に理解できるものなのでしょうかと、何度も問いが立てられ直しています。両親を焼き殺す火の美しさに魅入られ、自分を愛する男の下に行って、娘が(自分の日常の一部になっている暴力によって)凌辱される事実を忘却しようとする、そんな無自覚的に存在している「悪」や、どこからどこまでがどのように罪になるのかが判然としない、何か森鴎外の『高瀬舟』のような味わいがある作品に、明確な『真実』というタイトルの絵画はそぐわないように感じられるので、少なくともこの劇中では「真実」に対する懐疑的態度の象徴として用いられているのではないかと私は理解しました。

 因みに、後藤又兵衛と言う日本人画家は国内ではあまり知られていず、私も全く知らなかったように思っていますが、海外では非常に有名でセレブの間にコレクターが非常に多いとパンフレットには書かれています。((1985年だと思いますが、)「We are the world」のキャンペーンで来日した当キャンペーンの中心人物である有名歌手ハリー・ベラフォンテに日本のマスコミがインタビューで「一番会いたい日本人は誰か」と尋ねたら、彼は「マタベエ」と応えたらしいのですが、インタビュアーの方が後藤又兵衛を知らず、答えの意味が分からなかった…というエピソードがパンフレットに書かれています。)私も後藤又兵衛と聞くと、どうしても、関が原から大坂夏の陣までの辺りで活躍している武将しか頭に浮かびませんでした。

 出演者は事実上たった一人しかいないのに、各種の記号提示と(多分原作からそのままに引用されているのであろうと(オリジナル作とほぼ共通の内容であることから)推測される)独白内容で、抗うことが難しい人間の無意識的な悪との関わりを描くことに一応成功している作品だとは思えました。ただ、オリジナル作は桃井かおりがやたらに適役であり、南国の気怠い空気感の中のだらしなく漂流するように生きる売春婦を好演しているのに対して、脱がずに語るだけの瀧内公美がどうも理性的且つ理知的に見えて仕方なく、違和感が残ります。

 オリジナル作品では、精神科医の如何にも偏差値が高そうな女医の妻との家庭生活の断片も並行して描かれるので、その合理的且つ計画的で、表面上不自由一つない生活と、桃井かおりとのセッションにずるずると付き合わされる男性精神科医の存在を通して、桃井かおりの演じる主人公の人物像がより際立つように計算されています。そうした背景的な演出要素がない中で、まるで『敵』に出てくる教授の教え子のような理性的な視線を放ち続ける瀧内公美は、どうもこの役にハマっていないのです。結果的にパンフに脚本36ページ分の独白も、日東駒専レベルの四大卒の30代後半女性が、裁判所で証言しているような感じの固さのままで、ずっと突き抜けてしまっているように思えてなりません。

 オリジナル版にも共通する、独白の中に時々挿入される「…なのでしょうか」という質問は、桃井かおりが気怠く言うと混乱や論点からの逃避などのニュアンスになっていますが、瀧内公美が一本調子の寿限無のような勢いのままに口にすると必死の詰問のように感じられます。ワンカットの面白さを演出しようとして、丸暗記の単調な語りを出現させてしまっているように感じられます。配役の不発と解釈すべきかもしれません。少なくとも、瀧内公美に『グレイトフルデッド』、『火口のふたり』、『敵』に観るような切れ味を感じませんでした。『火 Hee』を観てもいず、存在も知らなければ、この作品はそれなりの鑑賞価値を持つものであったろうと思います。

 エンドロールに「企画協力」として名を連ねる桃井かおりの目に、この作品はどのように映っていたのか、非常に興味深いように感じられます。DVDは『火 Hee』を知っているが故に不要かと思えます。

追記:
 シアターに入る前にパンフを購入したところ、『敵』のパンフもそこで売られていることが分かりました。鑑賞時には売り切れだったので、合わせて購入することにしました。読んでみると、不明点やもやもやが解消したり、少なくとも、解釈の選択肢が明確になったりした部分はありますが、敢えて、先日書いた感想を書き換えることはしないことにしようと思いました。いくつもの微調整部分が発生してしまうからです。