『きまじめ楽隊のぼんやり戦争』

 3月26日の封切から二週間余。4月2回目の日曜日の15時15分からの回を新宿界隈靖国通り沿いの映画館で観て来ました。前アポが曙橋の病院でしたが、病院はすぐ終わったので楽勝だと思っていたら、薬局が他に全く客がいない状態なのにやたらに時間がかかる、何かの障害のあるオペレーションになっているようで、都営新宿線で移動してギリギリでした。実は、時間的余裕があれば、15時10分からのピカデリーの『奥様は、取り扱い注意』を観に行こうと計画していたのですが、日本の大手チェーンのやることとは思えないような調剤薬局のオペレーションのせいで時間が危うくなったので、プランBに移行した結果です。『奥様は…』の方も、本作よりも封切が前で、観るなら残された期間は少ない状態になってしまっていますが、致し方ありません。

 この映画を観に行きたいと思ったのは、1月に『私をくいとめて』を観た際などにこの映画館に来て、チラシや予告を観ていたことです。それ以外にもどこかのミニシアター系で告知を観たようにも記憶します。トレーラーにも登場する片桐はいりの異様な「食堂のおばちゃん」の様子や、たった4人しかいない楽隊が大正から昭和初期ぐらいの日本の山村のような場所を練り歩く様子が、やたらに印象的だったので、キワモノを観てみようと言う感じの動機です。

 チケットを買うと、何の理由かよく分かりませんが、専用パッケージもきちんと作られたキットカットを1箱くれました。ここの映画館を含む幾つかの映画館グループで使えるメンバー会員制があって、以前は私も会員でしたが、観たい映画が全然なく期限切れと共に更新を止めました。会員になることに拠るディスカウント金額を今回はキットカット1箱でまあまあ回収した感じかと思いました。キットカット1つ貰えるからと言って、また映画を観に来ようとか、この映画館に親愛感が湧くとか言った効果があるとは到底私には思えませんが、そこまで予算を投じて何かをしなくてはならないような状況に映画館が陥っているということなのかもしれません。

 シアターに上映時間ギリギリに入ると、既に座っている観客ばかりで終映を待って確認した状況も合わせてみて、概ね20人余りの観客がいました。男性は全体の7割程度ぐらいでした。男性の方は年齢層がかなり広がっていて若い層から高齢な層まで居たように思います。女性の方はやや若目な層が厚くなっていたように記憶します。1日に4回の上映を行なっていて、封切からのタイミング、さらに映画の認知度と言った点などを考えると、まあまあ好評の上映であるようには思えます。

 予想と違わず、そして切り口によっては予想以上に、おかしな映画です。設定だけでも異様な点が多々見つかります。まず時代背景を示す手掛かりがほとんどありません。厳密にミリオタ系の人物がみれば銃の種類などに手掛かりがあるのかもしれませんが、私の知る限り、そのようなものは見当たりません。大正ぐらいから昭和初期ぐらいの日本の山村のように見えます。或る意味、懐かしい風景が広がっています。

 映画のシーンも非常に限られていて、村のようなものの全景が見えることがありません。軍事基地が舞台のうちの半分ぐらいを含んでいますが、門、超クローズアップしか存在しない体操場所、基地の入口受付、技術部の兵舎、その脇の楽隊の部屋とそこに至るまでの暗い経路、着替室ぐらいしかありません。そのすべてのフレームは全く同じで、その場面が始まるとカットも何もありません。固定されたカメラでずっとシーンが続くのです。

 おまけに人びとの服装も場面に紐づけられていて、ほぼ変わりません。さらに人々の会話はここまでやるかというぐらいに棒読みで、感情の起伏がありません。何か感情を抑える強烈な薬剤でも飲まされているかのような状況で、発声も平坦なら表情も変化に乏しく、所作にさえ目的以外の要素がなく、非言語コミュニケーションが全く成立しない状態になっています。登場人物ほぼ全員、歩き方まで機械的で、進行方向を変える際も、90度単位でガクンと方向を変えます。見ようによっては、一世代前のポリゴンがやたらに粗いRPGゲームのキャラを実写で見ているようにも感じられます。

 作中の町、津平(つひら)町は太津(たつ)川を挟んで隣接する太原(たはら)町と戦争状態にあります。いつ何をきっかけにこの戦争が始り、何を目的に闘って、全体にどのような戦況なのかなど、登場人物の誰一人として知りません。石橋蓮司が町長で劇中で最も強い権限を持っています。依怙贔屓で息子の窃盗を握り潰し、警官にいきなり取り立てているなど、或る意味暴君と言っていい状態です。その上、どのような政治構造なのかよく分かりませんが、毎朝基地の兵員が全員で体操をしている所に来て、体操を行なっている最中の兵員に対して、訓示も兼ねた日々の情報伝達をしています。重要な責務を負っているのは間違いありませんが、いつも自分の護衛についている警官の名前も、新しい部隊が持ち込む新兵器も、何もかもを多分聞いた瞬間に忘れ去っています。

「今日も向こう岸からの脅威が迫っています。どんな脅威かは忘れましたが、みなさん、とにかく頑張りましょう」と映画開始後数分の段階で言っています。その後の台詞もほぼ同パターンです。

 戦闘は河原で一応現実に発生しています。毎朝、部隊は基地を発ち、9時には河原に伏して土嚢に銃を備えて銃撃を開始します。敵の姿は見えません。対岸の草むらに向かって、一人午前50発・午後80発ぐらい撃つのがノルマとなっています。撃てば向こうも撃ち返してきます。先方も同様に機械的に撃ち返してきます。正確に言うと、撃ち返してくるのではなく、こちら同様に撃つことになっているということでしょう。9時に開始される銃撃は5時まで続けられます。それを毎日繰り返しているのです。

 こちらの銃撃がどの程度先方に被害を与えているかは全く分かりません。ただ、先方の銃撃はそれなりに正確で、土嚢の近くの地面などに着弾していて、劇中で確認される唯一の犠牲者は、右腕を打ち抜かれ肘から下辺りを切断するに至っています。

 また、戦闘局面はこの河原だけではなく、上流ではより激しい戦闘が為されていると言われています。片桐はいり演じる食堂の(他の登場人物に比べて取り分け)無表情なおばちゃんの自慢の息子は、上流の戦線で活躍し、20人を射殺した上、後日の戦闘で戦死しています。しかし、それもどのような戦闘が行われているのか全く描かれることがありません。それどころか、母親の片桐はいりの持っている情報も酷く曖昧で、彼女自身「生まれる前から続いている戦争だから、それが当たり前なんだよ。あんたたちも張り切って戦えばいいんだよ」と棒読みで言います。町長は「頑張って」といい、食堂のおばちゃんは「張り切って」といつも繰り返します。

 戦争の実態を舞台芸術どころか紙芝居か人形劇のように再現していることで、戦時下の社会と人間の様相がデフォルメして描かれています。理由も敵も分からない戦争を何十年も続ける中で、9時5時の日常と化して、ほんの一部の例外を除いて全員思考停止しています。

 9時5時の戦場に出勤する感覚は、昔読んだ名作(というより、予言書に近いですが…)『ジハード対マックワールド』の中の話を思い出させました。確かイラン・イラク戦争、通称「イライラ戦争」の描写だったと思います。同じイスラム圏の中の教義違いの諍いから、もちろん他にも各種の利権やら思惑があるのでしょうが、隣接する二国は戦いを始め、その戦争中の兵士の生活が描写されている部分があるのですが、その様子がまさに9時5時の戦場への出勤だったのです。

 イライラのどちらの軍だったかとか正確な描写を思い出せませんが、兵士たちは朝になると戦場へ自宅から車で出勤し、膠着状態の戦線で適当に警備に当たり、侵入者や不審者があれば発砲するというだけの「勤務」を毎日続けているとのことで、両者がイスラム教徒なので、礼拝などの都合で攻撃をしないどころか「勤務しない」日時も同じで、示し合わせたように、向き合うだけです。おまけに帰宅すると、MTVなどの音楽番組を中心にアメリカのポップカルチャーを楽しんでいる…。これが『ジハード対マックワールド』の描く世界でした。夜間も24時間スーパーのようにシフトが決められていたのだとは思いますが、大多数の兵士は9時5時で戦場に出勤していたというような話だったと思います。

 多分、現場の兵士も、兵士の家族達も、既に戦争の意義や目的を知らないか忘れたままに日々を過ごしていたことでしょう。この作品の戦争も終盤以外は全くそのような状況の膠着した戦況と無意味な日常が続いています。戦闘で手を失って除隊になる者もいますし、食堂のおばちゃんの息子は戦死していますし、町長の息子は依怙贔屓され、基地の部隊長は「子供を孕まないから」という理由で橋本マナミ演じる美人妻を捨てますし、たくさんの理不尽があちこちに鏤められています。それでもその理不尽ささえ思考停止した人々にとって、淡々と続く日常の中に埋没してしまい、意識さえされていないのです。感情を表現する言葉さえ吐かない人々なので、「そうですか」とか「そうですね」が理不尽な出来事に対する彼らの大抵の反応です。

 川向こうの敵に関しても、まるで「鬼畜米英」とばかりに、「恐ろしい人々」らしいと言われ、「残酷である」と言いつつも誰もどのように残酷なのかを知りません。敵の太原町と言う名前ですら、「縁起が悪い」ので口にしてはいけないと言われています。その敵に疑問を抱き川を泳いで隣村を観てきた人間が一人出現しますが、警察に追われるようになりました。主人公の真面目な兵士の露木は、トランペットが吹けることから或る日楽隊に配属を変えられます。そこで無意味な毎日を傍観する立場になり、ジワジワと疑問を抱くようになります。さらに楽隊配属後トランペットを持ち歩くようになった彼は、川向こうからのトランペットの演奏を聞きつけ、対岸の女性トランぺッターと共演を楽しむようになります。毎日夕刻過ぎの決まった時刻に行なわれる男女の共演です。音楽による川向こうの恐ろしいはずの敵との交流。それが彼の戦争観を揺さぶり始めるのです。

 しかし、感情表現も何もない作品ですので、彼が何かを彼女に伝えようとする訳でもありませんし、会えない彼女に対する思いを募らせているような場面も明示されることがありません。

 そして、作品の前段から噂されていた「凄い部隊」が現着し、後半でとうとうその実態が明らかになります。それはスイカ大の砲弾をとばす大砲でした。それを川岸に持ち込み、どうも過去にテストをしたこともない(ないしは、していても、少なくとも津平町の基地の人々はそのテスト結果を知らない)武器をいきなり実戦に投じるのです。露木も含む楽隊の演奏に率いられ、河原に到着した大砲を発射すると、一瞬何も起きず、川の対岸の河原にも何の変化も起きません。町長から部隊長から皆が見守る中、困惑が広がりかけます。ところが、その後、川の対岸遥か彼方にきのこ雲が大きく立ち上り、恐ろしい威力の爆風が大砲付近に集まった人々にも襲いかかってきたのです。スイカ並みの、『トムとジェリー』などで見慣れた爆弾のような代物でしたが、現実には核兵器並みの威力だったと推量されます。

 その日の夕方に川の浅瀬にトランペットが一つ流れ着いていました。夕刻にいつもの共演に来た露木はそのトランペットを見つけます。そして対岸の女性は現れることがありませんでした。表情も何も変わりませんしセリフもありませんが、露木はこの日、基地受付にある自分の出勤を示す木札を取り外して持ってきて、対岸から流れ着いたであろうトランペットの近くに投げ捨てます。露木が明確に反戦を表現した数少ない場面です。音楽さえ奪った大量殺戮兵器の出現で決まった露木の新たな価値観だと考えられます。

 露木が河原で一人トランペットを吹いていると、彼の後方遥かに存在するはずの津平町で先程こちらの大砲が引き起こしたのと同じ大爆発が起きて、映画は終わります。津平町側の大砲を撃った後、なぜか露木以外全く人がいなくなった基地の状態が描かれています。私はその意味する所が分かりませでした。

 ただ、その前に泳いで隣町へ行った男が、「この兵器を何とかしなきゃ」と警官の拘束から逃れて行く(と言っても、例の機械的な歩き方で去っていくだけですが…)場面がありますので、エンディングの津平町での大爆発は、彼の仕業による大暴発なのか、隣町の報復攻撃の結果なのか、いずれかであろうと私は思います。いずれにせよ、津平町の人々も大被害を受け、多分、両者が壊滅的な打撃を受けた状態になったというエンディングで、平和や友好を象徴する河原の露木のトランペットだけが(持ち主と共に)一つポツンと残ったということなのだと思います。

 理不尽さや虚しさを両陣営共に強く意識しつつ、業であり、大義でありのために、戦闘を止めることができず、両者が全滅するという流れの私の大好きな物語があります。アニメ作品の中で、私が過去を振り返って揺らぐことなく第一番に挙げられる作品で、『伝説巨神イデオン』です。登場人物達が戦闘を続けることについて激しい葛藤に身悶えする姿がこれほど強烈に描かれた作品を私は知りません。しかし、この作品は違います。

 この作品は戦争の理不尽さや無意味さ、そしてそれがもたらす破滅を、感情も思考も欠落し、人形のように生きる人々の群像によって描き出しています。それは、大本営に踊らされて破滅に至る戦争を続けた太平洋戦争下の日本人の姿をデフォルメしたものとして受け止める人が多いことでしょう。その不気味さや無機質さが、この作品の中のありとあらゆる無個性さによってきれいに浮き彫りにされています。

 おかしな作品ですが、そのおかしさこそがこの作品の持つ戦争映画としての価値を最大限に演出する材料となっていることが分かるのです。良作です。現時点では今年観た中で最高に優れた映画のように見えます。DVDはもちろん買いです。

追記:
 通称武漢ウイルス関係の馬鹿げた配慮で延々と延ばされていた作品群の公開スケジュールがロビーのポスターで分かったのが結構大きな収穫でした。私が最近『獣道』・『神と人との間』・『ウルフなシッシー』で注目し始めた根矢涼香の出演作である『万歳!ここは愛の道』が今月、山田孝之が出演しているのが私としてはかなりマイナス・ポイントですが、佐藤二朗が原作・脚本・監督を務め仲里依紗が出演する問題作『はるヲうるひと』が6月、さらに、私が今年一番観たい映画『子供はわかってあげない』がとうとう8月に公開が決定していることが、なかなか嬉しいネタでした。