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土曜日の晩6時半からの回を新宿靖国通り沿いの映画館で観て来ました。公開から3週間。都内では数館しかやっていません。はっきり言ってマイナーな映画だと思います。しかし、人気のほどは上々のようで、1日4回の上映の最終回、シアター内にはどう見ても50人以上の人が居たように思います。観客はやはり比較的高齢な層ばかりで私が中心値ぐらいのように見えます。男性が全体の6割以上だったと思います。
この映画は以前から観に行ってみようと狙っていました。しかし、狙っていた理由が自分でも、それほど明確ではありません。主演女優二人に、私は間違いなく好感を持っています。特に、ここ最近、以前に比べて、奇天烈な役が減ってきた(と言っても、直前に観たのは金魚の役でしたが…)二階堂ふみが、直近ではどんな感じになったのかを見たいような気がしたのは間違いありません。
小泉今日子の方は、最近ですと『あまちゃん』の出演が最大の話題だったように思いますが、私はテレビをほとんど見ないので、全然その印象はありません。映画では、DVDで観た『空中庭園』が良かったと思いますが、『ユメ十夜』や『リアル〜完全なる首長竜の日〜』などのチョイ役でも存在感があります。ただ、私の小泉今日子のイメージはやっぱり「自称アイドル第一号」と言う存在です。早い段階から喫煙をあからさまにしていましたし、当時の「アイドル」のイメージをぶっ壊しつつ、自分は『なんてったってアイドル』を歌い上げる、或る意味、孤高のアイドルです。
音源がどこにあるどのようなものなのかが、今尚分かりませんが、高校時代に友達からコピーを貰った、彼女のライブの様子を収めたカセット・テープがありました。その中には、『東の島にブタがいた』などの、これまたアイドルらしからぬ曲が続く中、『なんてったってアイドル』が始まるのですが、冒頭のセリフで予告した後、曲の歌詞まで徹頭徹尾、他のアイドルの暴露話や駄目出しの替え歌となっていて、唖然とさせられた記憶が鮮明にあります。この後に『非実力派宣言』などを出し、『私はオンチ』と言う曲まで歌った森高千里が、ただのアイドル破壊者であったのに対して、小泉今日子は自分がアイドルから別のものへと変容することで、相対的にアイドルの価値を引きずり落として見せたのだと私は思っています。
今でもiPODには、小泉今日子のベストヒットが入っていて、さらに、ノーランズが英語でカバーした小泉今日子の曲ばかりのアルバムも入っています。歌えばコンスタントにヒットを出し、グラビアでも写真集でも人気があり、コマーシャルに出ればヒット商品が続出し、ドラマに出れば映画にも出て人気者となる。それでも自分のスタイルや主張を続け、先述の通り、喫煙も隠さない。長年所属する“あの”バーニングプロの力の結果の部分もあるでしょうし、秋本康との関わりの結果の部分もあるのかもしれませんが、抜きんでている人であるのは間違いないことだと思います。
この映画を観に行った動機は、何となくこんな主役二人を観てみたかったこともありますが、これまた何となく、舞台となった北品川の街並みを観てみたかったことも否めません。港区にある品川駅の南側にあるのに「北品川」。品川区の北端の北品川駅は、開発が進む品川駅界隈と古い住宅街・商店街や港湾地区的な粗い区画の産業用ビルなどが入り混じる変わった街だと思っています。私は北品川に降りたことがないのですが、時々、羽田空港から品川駅に来る経路上で車窓からパノラマ的に見る北品川の街並みに、ちょっと関心を持ってはいました。
二人の女優。北品川の街並み。観てみると、とても堪能できる映画でした。それ以上に、魅せるものがたくさん見つかる映画です。老いた母、その次女、その旦那、二人の赤ん坊、そして二人の間の子とされている娘の二階堂ふみ。頻繁に来るスナック(らしき店)をやっている三女。預けて行かれるその娘の小学生。そんな女ばかりの中に板尾創路演じる旦那がぼんやり存在する舞台は、北品川の小さな旅館風の佇まいの居酒屋。小泉今日子はそこの長女で、子供の頃から爆弾づくりにはまり込み、自分を好きになった板尾創路の指二本を爆発で吹き飛ばし、さらに、あちこちで爆弾を使っては警察に追われるようになり、最後は北海道で爆死したことになっていました。ところが、「私、生きてたんだ」と店に戻ってきます。
死んだはずの者が生きて帰ってくる話は色々ありますが、大抵は生と死の価値を考えさせ、感動を呼ぶストーリーになることが多いように思います。科学的根拠を越えて、泣かせる映画である『黄泉がえり』などはその典型だと思います。
ところが、この映画は、死んだはずの者が帰ってきても、警察や政治組織から追われている身なので、厄介が舞い込んできただけです。おまけに、板尾創路はその昔小泉今日子を好きでいて、実は二階堂ふみは板尾創路と小泉今日子の間にできた子であると言う設定です。小泉今日子が家を出て行き、爆死したことになった後に置いてかれた二階堂ふみを次女が養母になって育てていたということだったのです。なので、板尾創路も小泉今日子がポンと現れると心穏やかではいられません。
元々、この商店街の日常に埋没した生活が嫌で出て行った小泉今日子のキャラである上に、どこかの国の米大使館爆破に使われたのも小泉今日子の作った爆弾であると語られているぐらいですから、見てきたものや体験してきたことが、商店街の飲食店経営の日常とは全く噛み合いません。つまるところ、小泉今日子は生きて帰ってきた感慨など、家族にほとんど齎すことなく、単に厄介者が転がり込んできた状態となっていきます。
実の娘と後に判明する二階堂ふみ演じる女子高生も、毎日に退屈し、すべてが見える通りにただあり、どこにも新しいものも感動や感激をもたらすものもない日常に飽き飽きしている状態です。それがつまらなくてしょうがなく、家族の女性たちからは、単に「あの子は、いつも機嫌が悪いんだよ」と認識されたままになっています。
他の女性陣は、商店街の日常にどっぷりと浸かっていて、特段、新しい何かに挑戦するでもなく、店舗の経営改善に取り組むでもなく、毎日皆でテーブルを囲んで主要メニューの豆料理用の豆をちまちま剥きながら、とりとめのない会話をダラダラと続けています。本当にダラダラとして結論に至らない会話ばかりなのですが、驚くことに、この豆剥きの会話同様に、この映画に出てくる会話全般が有意な情報を交換すると言う役割を全く果たしていません。
答えの出ない、何も積み重なっていかない時間の中で、(先述の通り、劇中のみならず、実は本人自身もかなり)異質な存在である小泉今日子の出現に、ただ揺らぎ、どよめき続ける、その場に住み続けた人々の姿を描く、非常に実験的で楽しい作品です。よくよく見てみると、この映画では時代背景もきちんと提示されていません。昭和の終わりごろと言われれば、そんな風にも見えますし、ギリギリほぼ現代と言われても一応頷けます。
スマホを持っている登場人物は見当たりませんでしたし、会話の中に出てくる「衰退ってどういう字よ。ちょっとぉ、漢字ぐらい誰かちゃんと書けなさいよ」と言った展開でも、誰もネットで調べようとしません。運河のある街並みの古さや古居酒屋の雰囲気によるところも大きいですが、いわゆるIT系の機器が登場しないだけで、これほど時代感がなくなってしまうことは発見でした。
退屈だったはずの二階堂ふみの日常には、小泉今日子が非日常を持ち込みます。それは、彼女に爆弾を作らせようとして懐柔してくる、どことなく緊張感のない世界的組織のエージェントらしき男であったり、深夜に彼女に船で連れられて行く邸宅跡地の便所の底からの硝石掘り作業であったり、その硝石から作った手製爆弾の爆破実験であったりします。それらは二階堂ふみに大きな変化をもたらさずに結果的に収束していくので、ふたたび二階堂ふみの不満が募っていきます。
小泉今日子がテロ組織に戻った後、結局、豆を剥く女どもが噂話のネタにしかしていなかった、運河のUMA的存在である大鰐が姿を現し、暴れ回る様を見て、胸を躍らせる二階堂ふみのアップで映画は終わります。
もちろん、愚鈍な人々が何等の学びもなく、昨日と同じ今日を生き、今日と同じ明日を生きるであろう姿を描いた批判的な映画と見ることも、そこから抜け出た小泉今日子の際立つカッコよさをネタに、できなくはありません。けれども、その生活に不満を抱いていた二階堂ふみは、何か新しい発見や新しい体験を得ることができたかと言えば、そうでもありません。そのコントラストを写実的に描いた映画と理解するのが一番良いように私には思えました。
小泉今日子の役柄の名前はミキコで「未来の子」と書きます。それに対して、二階堂ふみの役柄の名前はカコで、「果子」とは書くものの、タイトルにある通り、「過去」を象徴していると考えるべきでしょう。永遠に思われるほどに続く毎日を抜け出した「未来」は、そこで自分から生まれた「過去」を捨てて行ったのにもかかわらず、寂しくなって「過去」を見に来た。そんな構図がうまいまとめになりそうな気がします。小泉今日子が「今日子」と言う名前であるのも計算づくだったら面白いですが、小泉今日子のこの配役は、彼女の元々のキャラそのまんまと言う気がしてなりません。
面白い映画です。ありとあらゆる世界中の汚いものを見てきてしまった澱や疲れから、物憂げに解釈の余地の大きい短い言葉を何度も吐く小泉今日子のキャラには、観る者を引きずり込む重力のような魅力があります。それは、芸能界で長く生き続けた、小泉今日子本人の価値観が投影しているからと、どうしても思えてしまいます。DVDはもちろん買いです。買ってみたパンフはやたらに分厚く、なんだろうと思ったら、台本が全部ついていました。再度台本を片手に観てみるのも悪くないと思います。
追記:
エンドロールを見て気付いたのですが、スナック経営の三女の役は、『愛を語れば変態ですか』の主役の多情人妻でした。「うぉぉぉぉっ」と叫び走る色情魔に変わることもないチョイ役ではありましたが、エンドロールを見て、「ああ、三女だな」とすぐ分かる存在感でした。DVDを入手する価値が増えました。