『DOGLEGS』

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 前回、東中野のミニシアターで『ヤクザと憲法』を観た際に、告知を見て唖然とし、観に行くチャンスを窺がっていたのが、この作品です。木曜日の夜8時40分からの回。封切は1月9日ですが、全国でも上映館はたった二館で、ずっと1日1回の上映が続いていた様子です。ちなみに、この映画の配給はこのミニシアターを運営する会社そのものですから、実質単独の上映と同じです。

 テーマは、障害者プロレス。監督が外国人であることも手伝って、最初にポスターが視界に入った際には外国映画かと思いました。ところが、この障害者プロレス映画は、現実に日本で行なわれているプロレス興行のドキュメンタリー映画と知って、先述の通り、唖然としました。その理由は、私が50年余りの人生の中で、全くそのことを知らなかったこと以上に、ポスターの超弩級のキワモノ感だと思います。

 障害者全般に対する社会の扱いは、“可哀想な人”そのものであると私は思っています。可哀想な人だから支援しなくてはならず、可哀想な人だからどこかに囲っておかねばならず、可哀想な人だから普通の人のような生活はできるわけがない。そんな障害者の立ち居地で、主人公の脳性麻痺のサンボ慎太郎が、プロレス団体代表のアンチテーゼ北島にリング上で容赦なく滅茶苦茶に殴られる。これは一般的に観れば「可哀想な障害者を辱めて見世物にする言語道断の行為」か「可哀想な障害者への許されざる暴行行為」のいずれかに映るのではないかと思えました。多分、私の周囲の人々にこの映画の話をすれば、半数以上がこの様な評価を下すでしょう。この一般的な(と私が感じる)障害者観を根底から突き崩す破壊力がポスターにはありました。

 離婚して洋裁師として細々と母子家庭の生計を営み、私を育ててくれた母の所に、生地を持ち込むお客の中には、通常の服を着ることができない肢体不自由者や小人症の人々が何人かいました。狭い北海道の田舎町で、彼らが買い物などをしていると、目を背ける者や逆に奇異の目で見つめる者がそれなりにいました。私は、他のお客さんと同じように彼らに接するよう母から言いつけられていましたから、かなり普通の対応だったと思いますが、それが、他の人々の彼らに対するものとは大きく異なることを強く自覚させられていたのを記憶しています。

 私も彼らがその身の不自由さによって可哀想な人々だと思っています。しかし、それは老人が老眼で不自由するのと同じ可哀想さでしかありませんし、肺結核を長く患った私が長く日射に当っていられないのと同じ可哀想さでしかありません。同様にEDでセックスが楽しめない人とか、記憶力が悪くて周囲の三倍かかっても100マス計算ができない人とか、可哀想な人は世の中に溢れていると思っています。そのはずでした。ですので、多くの可哀想な人の一部がプロレスをやっても全くおかしなことではないはずです。そのように感じなくては理論的におかしいことになります。しかし、そんな私にさえ、このポスターは衝撃を持っていました。

 私はプロレスが特に好きな訳でもなく、昔のプロレスブームの頃は一応リアルタイムの世代ですが、コミックの『CAN☆キャン えぶりでい』などで、ハルク・ホーガンのキャラが登場すると、「あ。ナンチャラ・ボンバーの人か」などと思うのが限界のレベルの知識量しか持ち合わせていません。

 アニメの『タイガーマスク』も一応リアルタイム世代で、主題歌を今でも歌えますが、全くストーリーの記憶がないので、比較的インパクトのあるオープニングを憶える程度の回数しか見ていないのだと思います。まして最近の格闘技ブームなどは全く分かりませんし、観戦に行ったこともありません。それでも、この映画を観たいと思った理由は、やはり、障害者と言うキーワードと、それがこの映画館で上映されていると言う事実だと思います。

 この映画のポスターを観て、最初に脳裏に浮かんだのは、衝撃の映画『おそいひと』です。今でも、私の邦画ベスト10に間違いなく喰い込んでいるこの作品は、「重度身体障害者が包丁を持って無差別な殺人を繰り返すと言う、凄いモノクロ映画」です。この映画を2008年に観た映画館がまさにこの東中野のミニシアターでした。『おそいひと』の強烈な“悪名”故か、この作品と『おそいひと』を比較している映画評などはネット上でも、私には見当たりませんでしたが、同じ脳性麻痺の障害者を描く、これら二作品は恐ろしいほどに対称を成しています。

●池袋の路上清掃員として稼ぐサンボ慎太郎と、補助だけで生きている殺人鬼住田。

●周囲の人々と対等に付き合うことに成功しているサンボ慎太郎と、可哀想な人として気遣いの上で接してくる人だらけの殺人鬼住田。

●プロレスと言う暴力を昇華させられるサンボ慎太郎と、溜め込んだ負の思いの発露として暴力が殺人にすぐに行き着く殺人鬼住田。

●周囲の障害者とも当たり前にコミュニケーションを図るサンボ慎太郎と、先輩障害者からの助言に背を向ける殺人鬼住田。

●団体取材者の女性にきちんと言葉で恋愛感情を告白するサンボ慎太郎と、ファクスで介助の女子大生に「一発やらせてください」と送りつける殺人鬼住田。

●「良い友達でずっといたい」と女性に言われて、「それでも告白できてよかった」と言えるサンボ慎太郎と、女子大生に自分が持っていたAVの山をぶちまけられて罵られて、連続殺人に走る殺人鬼住田。

 サンボ慎太郎と殺人鬼住田は、同じ脳性麻痺でも重度が異なりますし、大体にしてサンボ慎太郎は実在の今の社会を生きる人間であるのに対して、殺人鬼住田は架空の人物です。比較するには無理があるのは分かるのですが、二作品に登場する場面は、余りに似ていて驚愕させられます。そして、この作品のエンディングにある最終決戦のスローモーションの暴力シーンは、どうしても、『おそいひと』の中のモノクロの血飛沫に染まる住田の顔のアップを私に連想させるのです。

 この二人の人物の対比の構図で、二人の人物の障害の重度の“ボリューム”をグンと下げて、所謂「健常者」の域にまで下げると、「現在の世の中」的な勝ち組と負け組みの構図そのものになるのが、さらに衝撃的です。詰まる所、誰もが可哀想な人々として公平であり、逆に言えば、誰もが可哀想であるからこそ、誰も可哀想扱いされるべきではない“当たり前の構図”が見えてくるのです。

 それにしても、この作品に含まれる画像のインパクトは強烈です。重度障害で自力でリングに入ることができず、不自由な身体を転がされてリングインする選手もいます。対戦も、完全に無差別級で、聾唖者対盲人、身体障害者対精神障害者、障害者対介護者、障害者対その妻(健常者)など、想像を絶する何でもアリの世界です。

 癌と鬱を患い、抑鬱剤を服用しては、リングに上がり続け、そして負け続けては、精神に深刻なダメージを受ける男性は、日常、重度障害者の介助をしています。その重度障害者は酒に溺れつつ女装してリングに上がり続け、「愛人(ラマン)」と名乗っています。健常者である、その妻と息子も、いつしか「ミセスラマン」・「プチラマン」としてリングで鎬を削るようになります。ラマンの健康状態はどんどん損なわれ、酒に溺れつつリングで死ぬことを夢見ていると言います。

 対戦群に共通するのは、選手達の直向さと、それに真っ向から向き合い、目を逸らさず、時には檄を飛ばし、時には野次り、時には笑う、観客の普通の態度です。

 自分の人生や想いをかけた表現の方法には色々なものがあります。それが立派な仕事と高報酬になって、ハイエンドのワインを飲むこともそうでしょう。趣味でコスプレをしたり、フェイスブックに前向きな自分の姿を書き付け続けることもそうでしょう。不倫恋愛への耽溺や逃避、リストカットさえ、その表現方法の一つだと私は思っています。取り敢えず合法で、取り敢えず人に迷惑をかけない範囲なら、何をしても自由ですし、それが人を楽しませ、人にプラスの何かを提供するものならもっと望ましいでしょう。この作品に登場する障害者達は、その自己表現の手段にプロレスを選び、観客の目を釘付けにし、観客に涙させることに成功しています。そこには、どこにも「可哀想な障害者を辱めて見世物にする言語道断の行為」や「可哀想な障害者への許されざる暴行行為」が見当たりません。

 セクシャル・マイノリティについては、(彼らの現実に対する社会の扱いはまだまだ揺れているものの)このような立ち居地の映画作品が作られて、相応に広く見られるようになったように私は感じています。しかし、障害者をこのような形で扱った作品は少ないでしょう。テーマ設定自体が既にこの映画の大きな価値をなしています。この作品にして一ヶ月を経たせいか、観客が10人少々なのが残念に感じました。プロレスそのものには、今尚関心が湧く訳ではありませんが、DVDが出るなら間違いなく買いです。

追記:
 障害者プロレス団体代表のアンチテーゼ北島は、リングに上がるときのアナウンスで、「20年間に渡って、障害者を容赦なく殴り続けた男」と言われています。その一言にさえ充填された強烈な違和感がこの映画の魅力だと思います。
 彼がインタビューを劇中で受けたのは、私が大好きな街、祖師谷であったことも、この作品の持つ“個人的な”魅力です。