正月明けの金曜日の夜の19時の回を観てきました。例のJR新宿駅超絶隣接のミニシアターです。封切から二週間ほどなのに、この立地と曜日と時間帯を考えると、明らかに入りが少ないように感じました。新宿界隈の他用を足す前にまずチケットカウンターに行ったのは、18時頃。その時点で5席しか席は埋まっていませんでした。実際に、開始時点でもそれほどの混雑ではありません。小さなシアターの中は、20人少々の客が入ってもまだまだスカスカに空いていました。
この映画を観に行こうと思ったのは、今月のノルマの二本をこなすには、今月の封切作品まで含めて、あまり見たい映画がないことが最大の背景要因です。そこで先月末(=昨年末)の映画に着目して、『完全なるチェックメイト』とこの作品に目を着けました。この作品が目が留まったのは、単にタイトルの魅力です。米国留学時代にキリスト教原理主義的発想の人々が比較的多い田舎町の環境に身を置いていた私は、取り敢えず彼らの言う神を全く信じていないという意味で(大した調査もなく)「無神論者」と名乗っていました。(後で、いろいろ調べると、実際には、ユニテリアン・ユニヴァーサリズムなどの方が、近い感じもしてきました。)
と言うことで、元無神論者としては、是非このタイトルを映画のブログのタイトル一覧に加えておきたいと言う、かなり王道ではない理由です。タイトルをきっかけに見ようかと思った映画は他にも、最近観た『愛を語れば変態ですか』やちょっと前なら『子宮に沈める』など多々ありますが、見終わって尚、「この映画を観てよかった」と思える理由が「タイトルをリストに加えること」と言うだけの映画は、かなり記憶を手繰ってみても、せいぜい『FUCK』ぐらいではないかと思えます。
映画の原題はパンフの表紙に書かれている「Heaven Knows What」で、「神様なんかくそくらえ」と言うよりは、「神様が何を知っているっていうのよ」ぐらいのニュアンスではないかと思われます。シドニー・シェルダンの超訳に比べたらかなり善良な翻訳だとは思います。劇中でこの言葉を誰かが吐くのかと思って期待していましたが、米国東部の英語に慣れていないせいか、少なくとも私の聞いていた限りでは、一度も出てこなかったように思います。(少なくとも、数限られた印象に残るシーンの中にはこのセリフがなかったように思います。)まして、何らかの宗教的、ないしは反宗教的な場面も何もありません。
全編を通して退屈な映画です。少なくとも私には、パンフにある「2014年東京国際映画祭云々」、「2014年ヴェネツィア国際映画祭云々」などなど、4つの賞に輝き、「世界の映画祭で賛否の嵐を巻き起こした、過激な愛の問題作!」と評価される作品には全く見えませんでした。仮に私の印象が或る意味「妥当な評価」だとするなら、それらの映画祭に出ていた作品群はとんでもない駄作ばかりと言うことになりますし、賛否両論の嵐を巻き起こした人々は、多分もっと色んな映画を観、色んな娑婆の修羅場を観たほうが良いものとしか思えません。
この映画の着目すべき点は、自分についての手記「Mad Love in New York City」を書いた原作者が劇中の本人の役を演じているということです。タイトルに惹かれて、ネットの紹介文を読んで、この事実を私も知り、多分初めて見る「究極の自作自演映画」の構図に期待していました。
パンフによれば、原作のほんの一部のエピソードを抉り取って実写化した映画だということですが、盛り上がりもなければ、心に突き刺さってくるようなシーンもありません。まるで、犬に興味のない人が、ずっと脚色ナシ編集ナシの、数匹の犬がじゃれ合ったり喧嘩したりしているだけのネット上の素人動画を見せられたような、そんな気分にさせる映画です。どこに、パンフにある「最高にエキサイティング!過去のことはどうだっていい。大事なのは“今”この瞬間だけなのだ(ザ・ガーディアン紙)」のようなエキサイティングさがあるのかさっぱり分かりませんでした。きっと、ザ・ガーディアンの記者は余程退屈している人なのであろうとしか思えません。
ストーリーは、MovieWalkerによれば「ニューヨークの路上に暮らす無軌道な若者の破滅的な恋を、リアルに写し取ったドラマ。主演のアリエル・ホームズの実体験が反映されており、薬物におぼれ恋人に依存する主人公のひりつくような痛みが映し出される」(抜粋)となっています。
私は無軌道な生き方やその日暮らしの生き方を全く否定しませんし、「だらしない人」、「ダメな人」の人生の中の愉しみや悦楽のあり方に対して、寧ろ、共感できるぐらいに思っている人間です。
二十歳の頃、初めて上京して何度も通って看続けた“山谷”の人々も、カツカツの中で日雇い労働をしてはほんの少したまった金を、ギャンブルかサケか買春(たちんぼや当時のトルコ風呂など)につぎ込んでいました。人生はそのサイクルの繰り返しそのもので、そこには何かの時の貯えもなく、破綻寸前の“稼ぎ生きる時間”と“生きる快楽を享受する瞬間”しか存在してませんでした。けれども、彼らの多くはその生活を抜け出そうともしていませんし、不平不満を誰かに向かってわめきたてる訳でもありません。
人間には「どうしようもないこと」が山ほど存在します。その「どうしようもないこと」との向き合い方は人それぞれで、それが他人に害悪や犯罪的被害をもたらさないものならば、私はそれを一つのあり得る人生の形として尊重するべきだと思っています。
ダメンズウォーカーのありとあらゆるエピソードを読むまでもなく、社会的にどう見ても不適格と言われるような男への恋に溺れ愛に縛られていく女性がそれなりにいることも知っています。ダメな女にのめり込んで行く男もたくさんいることでしょう。“山谷”の日雇い労働者のギャンブル・サケ・セックスに、(特定個人への)情念を付け加えてもいいかもしれません。
そんな風に思っている私なので、ニューヨークの若いホームレスの子がどのような情愛に溺れて破滅していくのかを観たいと思っていました。「愛するイリヤ、あなたと一緒に踏み込む闇ならいい」と言うセリフはどういうことを指しているのか、相応に関心が湧きました。
しかし、そこには人間の「どうしようもなさ」が全くありませんでした。ただただその場に流されて、時間経過の中でだらだら生きているだけの“生”しかありませんでした。愛するイリヤに「そんなに俺を愛しているなら死んで見せてくれ」と言われて、自殺未遂をしたというエピソードも鑑賞前に知っていましたが、実際には、「死んで見せてくれ」は何度も言われ、そのたびに「じゃあ、死ぬ」を繰り返し、イリヤがある時「まだ生きているのか。おかしいだろ。やるなら早くやれ。今まで何回死ぬと言ってきたんだ」とギンギンに迫って、しぶしぶ漸く手首を切ったのでした。
映画紹介によれば、「退院して元の生活に戻ってみたら、イリヤは姿を消していた」とありますが、これも単に会うのが気まずくて本人がイリヤを避けていただけですし、ドラッグに溺れていたので、ドラッグの売人と同棲したほうが便利だったというだけに見えます。それ以外の男とも、つかず離れず過ごしていて、場合によってはセックスもしていたようですが、「誰が好きか」と尋ねられると、(ほぼ習慣的に)「イリヤ」と答えているだけのように見えます。実際、イリヤと同じ路上の溜り場にいるようになっても、イリヤにどんどん迫っていくわけでもなく、ドラッグの売人と寝泊まりしています。
転機は突如イリヤが(多分)ドラッグのショックで倒れたことで巡ってきます。主人公の原作者は、イリヤのところに駆けつけ、やはり彼と居ようとすべてを捨てて、金のない彼と盗みと盗品の現金化を繰り返す逃避行に入ります。劇中最も彼女が幸せに過ごした期間です。(なぜかこの手の人たちが必ず言い出す定番の)「フロリダに行こう」と長距離バスに乗って二人で出かけますが、イリヤはハイウェイの途上で寝ている主人公をバスに置き去り、降りて一人で旅を続けます。主人公はその後目を覚まし、路上で叫びまわった後で、街に舞い戻り、すぐさままたドラッグ売人のところに戻るのです。
ちなみにイリヤは路上から、空き家のようにみえる家に侵入し、その物置で長旅の疲れをいやすために寝入るのですが、その際に点けっ放した蝋燭から引火して火事を起こし、(確認されていませんが)焼死したようです。(全身が炎に包まれる描写があります。『るろうに剣心』の志々雄真実のような根性はなさそうなので、絶望的でしょう。)寝煙草をした時点から、既に死亡フラグが立っています。このアホな死に様が、この映画に登場する唯一の“破滅”であるようです。
破滅的な愛と言うなら、『ベティ・ブルー』などの方が数百倍すぐれた作品に見えます。『私の男』だって、敢えて言うならこのジャンルです。他にも戦時下における破滅覚悟の愛の物語など多数あります。一途で盲目な愛と言うのなら、私の好きな『美代子阿佐ヶ谷気分』や『海を感じる時』など、これまた名作が多々あります。バカバカしい映画ながら、思いつめ度合いだけなら、『十年愛』もタイトルに偽りがありません。犯罪覚悟の男女の逃避行なら、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『トゥルー・ロマンス』も『悪人』も、どれもこれも見るべきものを持っています。
イリヤは一応メタルバンドのミュージシャンと言うことらしいのですが(一度たりとも、ステージの上の姿も練習の姿も出ないどころか、楽器もマイクも手にしている場面が一つもありません。)、バンド・ミュージシャンの破滅的な愛なら、名作『シド・アンド・ナンシー』もあります。どうしても止められない偏執と言うことなら、『R-18文学賞vol.1 自縄自縛の私』だってなかなかなモノです。
原作はどうであるのか分かりませんが、少なくともこの作品の中に、これらの数多の作品群に見るすべてを擲つような激情も献身も執着もなにも見当たらないのです。パンフをめくっていくと、来日した原作者で主演の女の子のインタビューが載っていました。笑みを浮かべてマイクを握る姿に、破滅的愛を乗り越えた路上生活者の片鱗も窺えません。映画に人生の輝きが見えない理由がここに見つかったような気がします。DVDは全く不要です。
追記:
登場人物の知的レベルの関係か、比較的セリフの量が少ない映画ですが、劇中のセリフ中の“fuck”の構成比率で見ると、多分私の見たすべての映画の中のトップ10には入っているものと思います。