『ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実』

 GW明けの木曜日に新宿武蔵野館で観てきました。全国でも5館程度でしか上映していません。関東ではたった一館です。多分、二週間ぐらい前に上映が開始された状態なのだと推測します。一日二回の上映。私は夜9時ちょうどからの回に行きました。劇場には30代以上に見える観客を中心に、男女混ぜて30人ぐらいはいたように思います。

 この映画の上映がいつ開始されたのか分からない理由は、ここ最近の封切作品ではないからです。封切日を映画紹介サイトなどで見ると2010年6月19日となっていて、5年近く前です。では、その5年前の頃に制作されたのかと言えば、それもまた違います。なんと、1974年制作です。つまり40年以上前の映画(のデジタルリマスター版)なのです。

 この映画は、ベトナム戦争の実態を描いたドキュメンタリー映画です。1945年、第二次世界大戦が終結し、駐留していた日本軍が撤収した年に、ベトナム民主共和国が独立を宣言しますが、宣言と言うだけのことで、それはそれまでの宗主国フランスが認めるものではありませんでした。それからフランスとベトナム民主共和国とのインドシナ戦争が開始されます。9年続いたインドシナ戦争はジュネーブ協定でベトナムを南北に分けることで一旦終結したかに見えますが、インドシナ戦争末期からフランスを支援していた米国が、南ベトナムに傀儡政権を立て、北ベトナムとの戦争状態に入ります。歴史上の大きな戦争の中で宣戦布告のない戦争で、いつから始まったのかの定義が明確ではありません。1950年代後半には、米国は南ベトナムに軍事顧問団を送り込んでいて、明確な支援状態を作っていました。

 それから約20年後まで、小さなベトナムの国土で、歴史上嘗て無い大規模な破壊と殺戮が重ねられることになります。1973年に米国は軍の完全撤退を完了して北ベトナムとのパリ和平協定を結びますが、南北ベトナム政権同士の戦いは続き、1975年春に南ベトナムの首都が陥落するまで終結を見なかったのです。

 この間、南ベトナムに投入された米兵が1960年には1000人に満たなかったのに、1969年のピーク時には54万人以上となっていました。米軍戦死者も68年の最大値で15000人に至っています。そして、カメラ機材などの充実が果たされていて、しかし、まだ報道管制と言う考え方が確立していなかったこの時代、ベトナム戦争は、ほとんどの規制なく無配慮に映像に記録され尽くした歴史上唯一の戦争となったのです。米国が戦争から手を引いても尚、現地では戦火が絶えなかった1974年、この映画は膨大な数の証言を組み合わせ制作されたのでした。

 そこに描かれているのは、呆気にとられるほどに無邪気に幼稚な嘘に基づく殺戮を繰り返す大国の人々と、ありとあらゆる悲惨の中で、敢然と反旗を翻し続けた不屈の人々の姿でした。上映を制限するように裁判まで起きたこの映画は、1975年のアカデミー賞を受賞したのでした。受賞の会場では、司会を務めたハリウッドの超タカ派として知られるフランク・シナトラが受賞プロデューサーのスピーチに、「アカデミー賞に政治を持ち込むな」とあからさまな不快感を示したと言われています。

 戦争に関与した三人の大統領がつき続けた嘘も、政権の体をなしていない南ベトナムの傀儡の実態も、多くの民間人が何一つ納得できる理由のないままどんどん殺戮されて行く様子も、この一本の中に総て収まっています。このような内容の映画が、戦争終結の一年後には既に完成に漕ぎ着けた事実には驚かされます。

 その驚きは単純に私のものだけではなく、この映画の制作と存在そのものが、当時の反戦に傾き、独立戦争以来の愛国の意義が大きく揺れて毀損した国内の世論に強烈な衝撃をもたらしたのです。ベトナム戦争映画が反戦のコンセプトの下、この後大量につくられたのも、この映画が社会に突きつけた事実によるところが大きいと言われています。確かに、『ディア・ハンター』、『地獄の黙示録』、『プラトーン』、『ハンバーガー・ヒル』、『フルメタル・ジャケット』、『カジュアリティーズ』、『7月4日に生まれて』、『ジェイコブズ・ラダー』などの私も思い出すことができる悲惨で狂気に溢れたベトナム戦争の有名作品の原風景がこの映画には溢れ返っています。

 史実には、当然ベトナム人同士の血で血を洗う戦闘も多々存在しますが、米国製のこの作品では米国とベトナムの対照の構図が際立っています。米国側の登場人物の話は、あまりに馬鹿げているものが多く、話者の白痴を疑いたくなるようなものばかりです。

「人口が多いせいだと思うが、アジアにおける人の命は軽い。彼らの哲学にもそのようなことがある。彼らは人が死んでも特にどうと言うことはない」、「文明には年齢のような成熟度があり、ベトナムはまだ若く、世界というものを分かっていない」のようなことを真顔で言っている在ベトナム援助軍最高司令官。

「この国の自由を守る戦いだ。我々は必ず勝つ」などと村々の藁葺きの家々にライターで火をつけて回る軍曹。

「この戦争が無駄だなどと批判する者がいるが、大学にまで行った私の息子が戦地に赴いて戦って死んだのが無駄であるはずがない。崇高な国の理念を守るための闘いだったのだ」などと、イミフなことをこぶしを握って力説する戦死した兵の父親。

 60000人近くの戦死者を出し、南ベトナムから撤退したにもかかわらず、「我々は勝利した。南ベトナムが自立したのを見届けたので、役割を終えて帰還するのだ」などと戯言をしらじらと述べるノータリンもいます。

 最大の死者を出した68年には短期長期を合わせると20万人以上の兵が脱走し、帰還兵も戦地での残虐行為をどんどん告発するに至っても尚、このような声が出る世界の超大国のエゴと白痴に言うべき言葉がありません。

 これに対して、ベトナム人の登場人物は、葬式の場であってさえ、泣き喚く者もほんの僅かで、家を焼かれ下半身を露出させられ泥の中に倒されて、銃座で頭を何度も殴られている男性でさえ、声一つ出さず、自分を殴る米兵を射抜くような視線で見つめるばかりです。ナパームで焼かれた皮膚が全身からボロボロにめくれて、全裸で農道を逃げる少女でさえ、全く泣き喚くことなく、無言で中空の一点を見つめ、駆けて行きます。

 仏僧らしき人物が流暢な英語で「ベトナム人は野蛮だと米国人は言うが、現実を見ると野蛮な殺戮をしているのは、米国人の方だ。我々は5000年の歴史を持っている。200年の国の人間達とは違う」というようなことを言っています。卓越した知性です。

 北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンは、戦争の初期に、返事の来ない手紙を何通も米国大統領に送ったとされ、その中には、「革命によって自由を勝ち得て発展した米国には、我々のフランスの支配から独立を勝ち取る崇高な努力が分かるはずだ」という主旨が書かれていたと言います。「自分の国の独立は自由を勝ち取る崇高なものだが、アジアの蛮族が同じことを言ったら、全力で叩き潰そうとする」という事実一点で、この戦争の大義がどちらにあるかは明白です。

 よく9.11に関して米国の被害を殊更に語る人々がいます。私もその一ヶ月後に米国に居て、入出国時に歯ブラシ一つまで検査されてウンザリくる経験をしました。街のあちこちに“United. We Stand” との標語が掲げられていました。この映画を知らない当時から、米国を含め西欧諸国が他国で行なってきた膨大な残虐を知っている私は、「いい気味だ」とはさすがに思わないものの、「別に自分達が他国にしてきたことの超ミクロ版の事件にすぎないだろ」ぐらいにしか解釈していませんでした。

 10月の帰りのユナイティドの機内では、座席に余る体をエコノミー症候群から守るために、白人男性の多くが、通路にウロウロと立っていて邪魔で仕方ありませんでした。軽く“Excuse me.” と言っても聞こえないようだったので、“In United. You Stand, huh?” と言ったら、あまりの不快感故か皆道を空けてくれたのを思い出します。

 映画の中のベトナム人は、こんな変なキャッチフレーズをあちこちに掲げることなく、米軍の数倍の戦死者とさらにそれと並ぶほどの民間人の死者を出しても、敢然と自分たちの国を取り返そうとする人々。それに対して、殺した数で言えば、多分、世界最大級のテロ国家米国の本当の姿が、この映画には満ち溢れています。DVDは既に存在するようですが、勿論、買いです。

追記:
 1990年頃の米国オレゴン州の私が留学した片田舎の街には、ベトナムからの移民が大量に居ました。彼らは入国直後は聞き取れないぐらいに英語の発音が悪かったりしましたが、ほんの数カ月で会話に問題ないどころか、その街では限られた人しか買物をしない書店で書籍を買って貪り読んでいました。
 低時給の仕事でも文句一つも言わず黙々と働いていました。そして一族郎党で働いて貯めた資金で小さな事業を興し、勤勉に臨み利益を蓄えていました。元々借入などもできない者が多かったようで、当時のS&Lなどの地方金融機関の大量破綻劇にも、全く影響を受けない健全で確実な経営ぶりでした。大学でも留学生の成績優秀者の中に必ずベトナム人の名前がありました。
 米国人の失業者や浮浪者が不況で溢れ出る頃、公共施設のトイレの落書きに、“Small Dick, Vetnamese sucks!” とあったのが思い出されます。あの大学の街で見た米国人とベトナム人の有り様の対比が、この映画の中にも見てとれるのは、とても興味深い事実です。