『神は死んだのか』

 木曜日の晩、夜7時からの回を有楽町のパチンコ屋のビルにある目立たない映画館に行って観て来ました。封切から一週間近く。比較的小さなシアター内はそれなりの人混みで、30人以上は人がいたように思います。男女半々程度の構成だと思いますが、20代以下も60代以上もあまりいない、年齢層は比較的集中している人々でした。

 この映画館はグループで営業されており、名前を書くだけで有効になる会員制度への入会を勧めていました。会の仕組みは、入会すると、最初の一本は1000円、その後、いつでも会員カードの提示で1300円で映画が見られると言うことなのですが、今だけなのか、三カ月有効な無料鑑賞券を貰えると言うものです。「今回、一本ご覧になりますと、1800円ですが、会員カードの活用で、三カ月以内にグループ映画館全部のいずれかでもう一本見られる二本分のチケットにすると、2000円になります」と言う入会について直接の言及を避けたトークは非常に見事で、私もあっさり引っかかりました。

 この作品は、大学の哲学のクラスを受講したクリスチャンの学生が、そのクラスのテーマである無神論を学ぶにあたり、教授が学生全員に「受講する前に、神は死んだと紙に書き、署名をして提出せよ」と言ったことに反発し、教授と神の存在を巡って議論をすることになると言う話です。私は、結論はどうあれ、それなりにフェアで当たり前の議論が一応は展開するのかと期待して観に行ったのですが、あっさり裏切られました。

 この映画はキリスト教徒による傲慢で偏狭で排他的なプロパガンダ映画です。国内でも、宗教団体によるアニメ映画などが信者が観ることで興行ランキングの上位に食い込んだりしますが、その際には、なんとなく映画のレビューなどでその旨が分かるものです。それどころではない、害悪さえあるのではないかと思える内容の映画であるのに、せめて、あらすじに「キリスト教徒の学生が教授の心の闇を暴き、神の存在に関して学生たちの賛同を得る映画」ぐらいには書いておいて欲しいものです。

 私は、神とか言う存在が居ても居なくても構わないと言う立場です。劇中のように、科学で証明できるだの、できないだの、どちらも状況証拠を積み重ねているにすぎない状態で、議論を重ねることの方が無駄であると思っています。まして、この映画の背景には、まさにこのテーマの訴訟が各地の大学で起きていると言うことで、実際に、エンドロールでは参考事例の訴訟名が、延々と流されます。進化論を教えるか否かを巡る、モンキー・トライアルが私が留学した20年以上前にもあちこちで起きていましたが、未だに税金を使って、こんなくだらないことを議論し続ける不毛に気づけない文化的蒙昧には心底呆れ返るしかありません。橘玲のファースト思考とスロー思考の説明を引くまでもなく、物事に単純に白黒決着をつけたがるのは概して頭の良い話ではありません。

 科学で説明できないことがあり、進化論的説明で、アミノ酸から人間が喩え何十億年経とうと生まれるはずはないと言う意見もよく聞かされます。「まあ、それもそうか」とは思い、何かの「意志」と言うよりは「意図」や「企図」のようなものを感じないではありません。その辺は私の経営コラム『SOLID AS FAITH』第19話『荒野のベニヤ板』にも書いている通りです。

 ただ、その意図も別にエホバさんのものとは全く決めかねるものと思います。アラーのものかも知れなければ、私達の膨張する宇宙の外の存在によるのかもしれません。『ガンツ』の最後に登場する知的生命体らしきものは、「意図」さえなく、「まあ、やってみたというだけだ…」のようなノリです。本当の万能だったら、そういうものなのかもしれません。

 この映画の傲慢は、キリスト教が唯一の正しい道であり、それ以外の他の人間は、目覚めていない地獄に落ちる人々であるとの前提を何らの予兆も警告もなく観る者にぶつけてくることです。事例は枚挙に暇がありませんが、最も顕著なのは、問題の教授の描写だと思われます。

 学生達に無神論を哲学の一部として教えるのは、当然のことです。そういう考え方も現実にあるのですから。そして、キリスト教文化に染まった多くの学生のバイアスを取り払ってから授業を行なおうとするのも、おかしなことではありません。しかし、それなら、「神は存在しないと言う前提での思考をクラス内では受け容れる」という誓約文で十分であるはずです。それをわざわざ、この思想信条の自由を害する文章を書かせることで墓穴を掘るのです。

 さらに、問題の学生に対して、三回の授業に分けたスピーチで「神の存在を証明してみろ」と命じるのですが、それを淡々とやらせるのではなく、授業の外で、その学生に対して、「新入生如きが調子に乗っていると単位を落とすことになると言うことが分からないか」などと子供染みた恫喝を執拗に繰り返します。教授などの地位にあっても、無神論者と言うものの言動は本質的にこのようなものだと言うことを言いたいのだと思います。

 おまけに、ここまでおかしな発想に至ったこの教授には子供時代のトラウマがあると言う、まるで『北斗の拳』か何かのような展開が出てきて、敬虔なクリスチャンであった彼の母が病苦に喘いだ挙句に死んだことで、神を信じなくなったと言うのです。つまり、彼は神の存在自体は認めていて、それを嫌悪していると言うことだけなのです。これは無神論を教える立場ではありません。三回のスピーチの途上で、学生が楽勝でそのポイントを突いたら、激昂し、この身の上話をして破綻するのです。とても学者とは思えません。

 そして、ご丁寧にも、この教授の、元教え子の若い妻の存在まで描かれます。その妻は敬虔なクリスチャンなのですが、教授が「クラスで反論してくるバカな学生がいる」と散々吹聴するので、嫌になり、離婚を言い出してきます。わざとらしい演出で、彼はその事実に苦しみ、周囲からも見下げられ、妻の方は溌剌と生きて行くと言う展開です。

 そして、この教授の末路が甚だしくご都合主義の展開です。まず、クラスでは、よく分ったような分からないような論点のずれた言い争いのような展開の中で、彼は前述のような馬脚を現し、学生全体から、無神論的立場を否定されます。その上、妻を追い求めて夜道に出ると、どしゃ降りに合い、その中で、車に轢かれ、肋骨が肺に刺さり苦しみの内に死ぬのです。

 この死に方が、全くの非常識です。倒れた教授の元に現れたのは、この映画の全編に登場する牧師で、瀕死で動かすこともできない彼をどしゃ降りの路上に寝かせたまま、「信仰はあるか」と尋ねるのです。教授が無神論者だと答えると、「本来、こんな事故なら、即死の方が当然だ。それをすぐ死なせなかったのは、神が与えてくれた、信仰の道に入る最後のチャンスだ。嬉しく思え。イエスを神の子と認めるか」などと迫るのです。

 そして、教授がうんうんと頷きつつ、「死ぬのが怖い」と泣き始めると、「大丈夫だ。ここにいる(周囲を取り囲む人々の)誰よりも早く神に会える。安心しろ」などと言い出すのです。クリスチャンには、留飲を下げる素晴らしい場面なのでしょう。しかし、この牧師が都知事選立候補の頃の絶頂にあった浅原彰晃で、当時のオウム真理教の教えに目覚めろと死に行く人に語っていたら、どう見えるでしょうか。アステカ文明の酋長が現れて、「大丈夫だ。今すぐお前の心臓を抉って、神にささげてやろう。神は喜んで、お前の魂を救うだろう」とか言ったのだったらどうでしょうか。

 私が教授の立場なら、「ああ、いいから放っておいてくれ。死ぬ事実は変わらないのだろ。じゃあ、しょうがないじゃないか。まあ、やれそうなやるべきことはまあまあできたか。あ?あ。人生って、こんな風に終わるのか。徒然草から1000年経っても変わらないな。走馬灯ってどこよ」とか考えることと思います。

 私は、交通事故やら転落事故やらに何度も会い、法定伝染病にも二つもかかり、「一生入院して暮らすことになるかもしれない」と医師に言われたことも一回ではありません。米国留学中には、ロスの街角で銃撃戦に巻き込まれたこともあり、乗ったセスナがシャスタ山麓に不時着したこともあります。ペレストロイカ真っ最中のソビエトに観光旅行に行って、銃で脅されKGBに軟禁されたこともありますし、日本の四国以上の面積の業火の野火の上を飛行機で横断もしましたし、滑走路上を横切って自分の乗る飛行機に行くように言われて、危うく1分ぐらいの差で、離陸する飛行機に轢かれなくて済んだこともあります。つい最近も食中毒のショック症状で、医師の発見と対処が遅かったらアナフィラキシーで確実に死んでいた所まで行きました。千歳・羽田間を月に飛行機で三往復していますが、(パイロットや乗務員の常識的には大丈夫なのでしょうが)大揺れの機内で、私は「ああ、これで終わりになるかもしれないな。出かける前に机とかどんな感じにして来たっけかな」などと考えることが、二ヶ月に一度はあります。

 私にとって、死は、常にドア一枚向うに佇んでいます。流石に、のた打ち回って死んだり、足掻きまわって死にたくはないなと思いますが、死ぬこと自体については、それほど、恐怖も違和感もありません。だからと言って、今生きているものを、無理に死ぬ理由もないですし、恩には報い、借りは返す中で、拾って貰ったような命を大切に生きるだけのことだと思っています。そこにどこぞの神やどこぞの儀式が入り込んでくる余地はありません。勿論、死生観は人それぞれだと思います。私のものに、皆も同調すべきだとは思ってはいません。ただ、私が誰かにそれを強要することがないが故に、この牧師の態度は、嫌悪を越えて憎悪が湧きます。

 私の哲学の知識もかなり怪しいものですが、私が習った実存主義の知識の範囲で言うなら、ニーチェが宣言した「神は死んだ」は、「いままでどこかで生きていた神が、既にどこかで死んでいる」と言う意味ではないものだと思っています。それは、「神と言う存在が現実にあろうとなかろうと、人間が神を必要として来たのが過去であり、今はもう人間が神と言う存在を必要としていない」と言うことを言っているのだと思います。ですから、この映画のテーマ自体が、私にはよく理解できません。私なんぞが知っているこの考え方が事実解釈として正しいのなら、そういう事もきちんと勉強してから、大学のテーマとして扱って欲しいものと思います。

 私は人が何を信じようが勝手だと思います。若い頃付き合った女アケミの言葉が色々と思い出され、人生の糧になっていると言う土建屋のオヤジの話を飲み屋で聞いたことがあります。彼は「アケミは言っていたんだ…」と、人生訓をよく言っていました。素晴らしいと思っています。彼にとって、エホバよりもアラーよりもアケミです。鰯の頭も信心からですし、私にさえも、聖書のよく分らない譬えよりも、そのアケミの人生訓の方が、深遠且つ魅力的に思えました。

 誰が何を信じても勝手です。だからこそ、自分の信仰を他人に押し付けて当たり前という独善には吐き気がします。私は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの信者数が億単位になっている一神教は、概して信者に文化的狭窄と独善・排他を産み出しやすいと確信しています。20年以上前の米国の強烈に保守と言うほどでもなかったはずのオレゴンでも、くしゃみをすると、通りがかりの人間でさえ、「Bless you!」と言います。どうも、くしゃみをすると、悪魔か何かが悪いものを吹きこむと言う迷信によるものらしく、くしゃみをした者に対して、皆が「神のご加護を」と声を掛けるのが習わしのようです。私は花粉症気味なので、よくくしゃみをして、「神のご加護を」と言われていました。そして、そのたびに、「Oh, if there is a god. But thanks anyway」と笑顔で応えていました。多くの人々は、露骨に嫌悪感を顕しました。

 この地域には、ネイティブ・アメリカンも多ければ、ベトナムからの移民もそれなりに居ました。必ずしも、クリスチャンは絶対多数とは言えません。そんな中でも、こういった感じです。「イースターの喜びがないなんて、何て可哀想な人たちだろう」と言われたこともあります。こちらも、「神道の神社に初詣に行ったことがないなんて、きっと死ぬまで呪われているんだな」と相手に聞かせてやりました。

 彼らの中にある文化的狭窄や独善・排他は、差別や略奪、虐殺まであと一歩の感情だと私は思います。「神を信じる人間は神に代わって世界を統べることができる」と言う教えがあります。その結果、多くのアメリカ大陸先住民は何万、何十万と殺戮の対象となり、アフリカ大陸の黒人たちも人間と看做されることなく、数世紀にわたって歴史に記述されることとなりました。そして、一神教信者同士の戦争もクリスチャン同士の宗教戦争も枚挙に暇がありません。私は、一神教が人に及ぼすことの多い負の側面から目をそらしたクリスチャンのきれいごとが大嫌いです。

 漸くユニテリアン・ユニヴァーサリズムなどの話も耳にし、大分状況は変わってきたのかと思っていましたが、この作品を観て、病膏肓に入るとはこのことと感じました。キリスト教の考え方は嫌いではありませんし、内村鑑三を読み漁り深く感銘したこともあります。どう見ても、内村鑑三が監修したらこんな映画はできないと思います。

 帰りがけに、明日が販売終了日の年末ジャンボ宝くじを買うことにしました。億単位のカネが当たったら、南太平洋かどこかの、名作『パパラギ』に描かれているような人々のおおらかな原始宗教バージョンのこの映画をプロデュースしてみたいと思います。(残り予算で、ついでに、私の初企画脚本映像作品『君と僕の完璧な世界 有村千佳』の続編を作りたいと思います。脚本は既にあるので。)

 その時の参考にするために、この作品の吐き気のする独善のありようは、保存しておかねばなりません。その目的のためにDVDは買いです。