封切から一週間半。新宿ピカデリーの水曜日午後4時50分の回で観てきました。一日6回ほどの上映回数です。台風が東京に迫っているぐずついた天気でしたが、若手カップルを中心に全席の三割以上は席が埋まっていたように思います。シアターに実際に座ってみる感じからすると、七割八割埋まったら、実質満席感が出てきます。その意味では、まあまあの入りという感じかと思います。
AI開発に取り組む夫婦の科学者がいて、夫がテロで暗殺されたら、妻がAIに夫の人格をアップロードして、そのAIがネットに流出して、人類にとっての脅威(になったものと考えられるよう)になってしまう物語です。
やはり、予想通りというか、今となってはもう宿命的と言っていいと思いますが、映画全体に既視感があります。単にコンピュータが人格を持っていると言うことなら、『2001年 宇宙の旅』あたりからずっとそうで、他にも事例は枚挙に暇がありません。で、それが人類の敵になってしまうと言うのも、これまた凄くよくある設定で、手っ取り早い所で言うと、『ターミネーター』が思い出されます。ただ、この作品では、本人(?)は人類に良かれと思ってやっていますし、現実に実質的な被害は全く出ていません。
さらに、その人格がネット上に解放されたという観点から見ると、まさに『攻殻機動隊』の草薙素子できまりです。構造的には、『攻殻機動隊』では当たり前になっている世界の社会構造に、現在の段階で、たった一人入り込んでしまったことから、問題と思えるものが一応起きたというストーリー立てです。
これらの宿命的な既視感は致し方ないものとは思いますが、上手く描けばもっと面白くなった設定なのに、何かダサくて陳腐にしてしまっているのは、やはり、ハリウッド世界観だと思われてなりません。AIの先端が人間社会にどういうカラミ方をするのか、観てみたいと言うのが、観に行った動機でしたが、このハリウッド世界観は、本作品のそこここに見出され、非常にうんざりさせられます。
まず、ジョニデ扮する学者が最先端のAIを講演会の場で説明すると、お決まりの感じで、「それでは、あなたは神を作っているのか」とか言い出して、憤慨したり、騒ぎ出したりする人間が聴衆から出てきます。別に地球を作ったり、大気を生み出すような全能なものを作っているのではないし、何でもかんでも、人間を越えそうになると、「神」だとか言うのは、日本のオタクの人々だけで十分という感じがします。一神教の人々のトラウマ的な宗教的狭量には、本当にうんざり来ます。日本でAIだのロボットだのの話をしたら、アトムだのガンダムだのへの言及が出たりなどして、やたらに興味深く、多くの場合、夢にあふれている話になるのではないかと思います。
で、ジョニデの人格が入ったAIは、やたらにスピードアップした研究プロセスを経て、ナノマシンを使った生体組織を再生する技術を、あっさり実現してしまいます。この結果、死にかけている人間も、障害が残ってしまっている人間も、皆、完璧に治せるようになり、アメリカのどこぞの片田舎にある施設にはマイクロバスで続々と奇跡の治療を頼む人々が訪れるようになります。
「まあ、仮にそれがプラシボであっても、本人達が治ると騒いでいるのだからいいじゃん。そして、もし、仮にそれが本当なら、それはそれはすごいことだから、良いじゃん」というのが、普通の反応だと思います。医療に優れた実績を残して社会現象化している以上、取りこみを図るのがオカミや既存勢力の常套手段ではないかと思われます。
YouTubeにまでアップしてしまっているのに、ただ軍事作戦で潰すという展開に至ります。別に朝鮮半島のどこかの国のように先進国がバンバンやっていた核開発を我も我もと進めているとか言った話でもありません。なぜ、「危険だ」となるのか、全く意味不明です。せめて、「こんなことをしたら、医師会が政治家を動かし圧力をかけて来るぞ」とか、「製薬業界がお抱えのヤクザを突っ込んでくるぞ」とか言う展開なら分かりますが、ただ危険だと言って軍を動員すると言うのが、いやに短絡的でアホくさいです。
おまけに、軍事行動の主力は(後にウィルス・ソフトを混ぜ込むという究極の作戦に出るまでは…)単に銃砲です。平たく言うとマシンガンとカーチェイスの世界です。どうも、映画で見る限り、アメリカ人の普遍的課題解決方法はマシンガンであるような気がしてなりません。エイリアンとのいざこざも、スパイ活動のもめ事も、時空間のゆがみも、家族を殺されただのとかの私怨も、大抵、解決方法の主たるものが、まずはマシンガンという典型的な貧困発想。
トレーラーで『エクスペンダブルズ』シリーズの新作や、軍隊上がりだか諜報機関上がりの孤独なヒーローのリベンジモノをやっていました。これらのトレーラーを観た後に、この作品を見ると、似ている映画に観えてくるのが不思議です。さすがホームセンターで銃砲を売っている国です。まさに、一家に一台どころか、一人一丁マシンガンで全ての諍いをカンタン解決…!と言った感じです。
で、なんで、ジョニデの学者先生は、ちょっと馬面気味の嫁さんに対して自分が最初に抵抗感を示していた、科学技術の商業利用にどんどん邁進したかという謎が出てきます。嫁さん以外の周囲の学者は「それは、奴らしくない。つまり、あれは人格をアップロードしたように見えて、人間とは別物だ。人間だったらもっと不合理なこともまぜこぜになっている…」というようなことを言っています。つまり、「機械はなんだかんだ言ったって、人間を再現することなどできないのだ」という、またもや神学的偏見たっぷりの発言をします。
ところが、後で分かったことは、どうも、このAIは忠実にジョニデ旦那の考えを再現していて、商業利用に対する嫌悪以上に、妻がそれを望んでいると言うことを優先したということらしく、極めて合理的に妻の喜ぶことを実現したかったと言うことと判明します。
だったら、「妻、おまえ、喜べよ!」という感じなのですが、ジョニデをAIで蘇らせようと執念を燃やした妻が望んでいたのは、常に周囲のどこかから自分を見守ると言いつつ、実質的な監視体制に感じられるようなことをしている、「千の風になっ」たAI旦那ではなく、触ったりセックスしたりできる旦那として戻ってきてほしかったと言う話…と判明するのです。
「なんだよ、それ」という感じなのですが、散々システムの崩壊が進んできた中で、ジョニデ旦那は、とうとうナノマシン技術の粋を尽くして、肉体まできちんと再現して蘇ってきます。それであれば、最初からこの蘇りの一点を目指して二人で一緒に科学的な努力を重ねればよかったはずで、わざわざ死から蘇ったジョニデ旦那が、決してきれいには観えない嫁さんを愛するあまり、好きでもない医療へのナノマシン応用研究にどんどん没頭する様は、後で分かれば分かるほど、イラっときます。
「そんな私の夢だった研究は、あなたがここにいなきゃ意味がないんだから、それ中断して、サッサと二人であなたの肉体を再生して完全な蘇りができるように研究を進めましょ」と一言言えば、全く何も問題が無かった筈なのです。頭が凄く良いとかおだてられていますが、その実、皆を振り回し、きゃあきゃあ言って、悲劇のヒロインを気取っている、本当にノータリンな女です。
映画を観終わって分かるのは、自分が何をしたいのかよく分からず、好き勝手なことを言う超絶はた迷惑な愚妻に翻弄されて、結果的に彼女への愛ゆえに、よみがえった命さえも捨て、多くの人々を救える可能性さえも捨て、ただムダ死にする男の話になってしまった全体の構図です。
『攻殻機動隊』の方向に行けば、何か途方もない深さのある社会ドラマにできたと思いますし、テクノロジー系で押せば、ハイテクによって医療が究極に優れ、死さえ克服できてしまう社会を考えることができたと思います。さらに、死をも克服する技術を実現した科学者夫婦の愛を描くのなら、『アンドリュー』みたいな恋愛ものにもできた筈です。ネタは良いだけに、どこの方向性にも進めないままの中途半端な感じが、ここ最近に観た映画の中で群を抜いて“残念”です。
繰り返しになりますが、妻のためとか思って、やりたくもなかった実用化をどんどんとめどなく進める旦那。その結果実現するあり得なかった世界を前にぎゃあぎゃあ騒ぐ馬鹿妻。そして、何でも自分が理解できないものとか、自分より優れているものとかは否定しマシンガンで破壊しなくては気が済まない人々。馬鹿ばかりが登場する映画です。
あいだみつお風に「そんな馬鹿が人間なんだよ」という、諦観とも言える深い人間観を示し、少なくとも勧善懲悪の作風はだいぶ前に卒業しました…と言うハリウッド映画の最先端の作品…なのかなという感じに好意的に受け止めるには、私には寛容がかなり不足しています。
それにしても分からないのはナノマシンです。あれは動力はどうなっているんだろうかとか、生物と無生物の間に位置しているウィルス同様に、自律的に動くし繁殖するしということなんだろうかとか、色々考えさせられました。(それぐらい、頭が暇になる映画だったと言うことですが。)
ウィルスのようなものだとすると、地中から現れて、AIのご主人さまの都合に合わせて、きちんと動くと言うのはどういう仕掛けなのかもよく分かりません。ウィルスはそんなことしないと思いますし。大体にして自律的に今後も永遠に生き続けるなら、世界にばらまかれて雨にまで混じっているナノマシンは、今後どうしていくのかがかなり大きな問題になると思います。雨水に混じって、どんどん人体などにも入ってくる訳ですから。
もともとナノマシンの知識が今一つなので、あの設定がよく分からず、何か他の作品に類似事例を求めたくなってしまいます。そう言えば、『仮面ライダー THE NEXT』のV3も、ナノマシンが体中を満たした結果の改造人間でした。だとしたら、世界中の大気と水に拡散してしまったナノマシンはジョニデ旦那の遺志を継いで、人間を凄い方向に変えてくれるのかもしれません。
『エヴァンゲリオン』の使徒、イロウルもナノマシンの集合体ということで、MAGIシステムのハッキングに成功していますので、あんな感じで、今後、頑張ってくれるのかもしれません。しかし、その場合、総体としての意志はどこから湧くのだろうか、とか、どんどん疑問が湧きます。それはもしかして、『攻殻機動隊』のスタンド・アローン・コンプレックスのようなもので、コミュニケーションを取ること無く皆が一様なシステマティックな行動を取ると言うこと…なのかもしれません。
ハイテクが無闇に登場する割には、知性が高い人間ばかりの筈なのに、やたら幼稚な言動をする輩ばかり出てきて、ぎゃあぎゃあ、わあわあ言い合う、動物園のような映画としか思えませんでした。やっぱり西欧の人にとっては、ハイテクも高水準な知識も全て神が統べる教会のものであって、神のご意志に沿って無いものは、すべて灰燼と化さねばならない、邪な異端の産物ということなのでしょう。馬鹿らしい映画です。DVDは全く不要です。
追記:
ジョニデAI旦那が自分の巨大な施設の場所には、典型的にうらぶれた米国の小さな片田舎の街が選ばれています。そこに続々と先述のような障害のある人々が奇跡の救いを求めてきては、完全な健康体になって、施設で働くようになります。
これらの人々には、脳内にシステムとつながる仕組みが(多分、本人の希望など聞くことも無く)埋め込まれています。(このシステムとの連動が遮断されると、健康にも影響が出るようですので、やはり、ナノマシンは遠隔で動力も供給されているということなのかもしれません。)全員システムにつながった結果、彼らはマザー・コンピュータの端末のような存在になっています。
これは、『攻殻機動隊』の社会の“地域流通版”とも言えますし、『エヴァンゲリオン』の人類補完が終了した状態の“ローカル版”とも言えます。
面白いのは、当初この田舎町で、カツアゲをするしか能がない感じの、チンピラにもなり切れない人間のくずのような設定の二人です。この二人は後にシステムに接続された人々に加わるのですが、妙にてきぱきと働くようになっています。
「元々の脳のままではなく、人為的に改造しなくては、人間の屑はまともにならない」という主張にも受け取れます。それはまるで、ロボトミー手術のような発想とも言えますし、古典的な事例で言うと『時計じかけのオレンジ』のようでもあります。