『私の男』

 6月14日の封切から二週間少々が過ぎた火曜日の午前中。午前9時開始の朝一番の回を新宿のピカデリーで観て来ました。一日四回の上映になっているので、慌てて観に行くこととしました。終わりかけているのかと思いきや、先月末にモスクワ国際映画祭で最優秀作品賞と最優秀男優賞をダブル受賞したとか言う理由からか、滅茶苦茶に混んでいて、そう簡単に上映終了になる気配ではありませんでした。

 映画を見終わってロビーに戻って来て、パンフレットを売店で買っていると、次の11時過ぎからの回は満席になったとのアナウンスまでありました。モスクワ国際映画祭のステータスのようなものを知りませんが、異常な混雑と言って良い様に思います。混雑そのものの理由よりも、なぜ、平日の午前中を全部潰して映画を観られる人間がこんなにいるのか不思議です。皆、私のような自営業者な訳はないし、皆、引退後の人々でもないし、大学生などが特に多いようにも思えません。9時からの回も老若男女ぐちゃ混ぜの客層で8割は席が埋まっていました。

 チケットカウンターに着いたのは8時40分ぐらいで、何やら大きな透明な厚手のビニールの手提げに入ったカップラーメンのようなもの一個、チケット購入者全員に配っていました。上映している『好きっていいなよ』のタイアップ商品とのことでしたが、予告を見ただけの範囲では、なぜ、スープはるさめなのかはよく分からないままでした。

 この時間帯に初めて行ったように思う新宿ピカデリーで、初めてシアターに向かう入口がベルト・パーティションで区切られているのを見ました。50分になって開場を知らせるアナウンスが入って、漸くエスカレータでシアターに向かうことができました。

 この映画は、トレーラーで観て気になっていたのですが、主人公の少女が流氷の海に飛び込むところばかりが強調された内容で、今一ストーリーがよく想像できていませんでした。それでも観に行くことにした動機はやはり、実は10歳の孤児の少女を引き取って愛人関係になっていく男の話であると、何か別の情報源から知り、私が複雑な思いを持つ『痴人の愛』のようなものかと想像できたこと。そして、チラシを観て、女優が二階堂ふみと知り、関心が湧いたことです。

 谷崎潤一郎の『痴人の愛』は、私にとって因縁のある小説です。中学校高学年の頃から、所謂近代文学系をよく読むようになり、森鴎外や太宰治、芥川龍之介など色々文庫本を買いますが、集め始めた作家はほとんど全作品買ってしまって、次は何にしようかと付け足したのが谷崎潤一郎でした。『痴人の愛』のナオミと主人公の男、河合の物語ですが、当時の私には、ナオミの奔放さとそれを受容れざるを得なく追い詰められていく河合の言動が、苛立たしくて仕方がありませんでした。何度読み始めても、全体の三分の一程度で、苛付きが高じて投げ出してしまい、最後まで読めるようになるのに、10年近くを費やしました。今では、「あるよねぇ」としみじみ頷ける名作だと思っています。

 何かそのような物語の映像を期待して、行こうと決めたところ、主役の女優は二階堂ふみと知りました。私は特に二階堂ふみがよく認識できていませんでした。けれども、どこかで見たような名だと、ネットで調べてみて「げっ。あれもこれも二階堂ふみか」と驚かされました。最近私が見た映画にかなり頻出しています。

 なんと言っても、あの思いつめた目つきが記憶に深く刻まれる『ヒミズ』の茶沢さんです。そして、『脳男』のキレまくっている連続爆破犯。そして、観てはいませんが、トレーラーで観る限り、尋常な役とは思えない『地獄でなぜ悪い』の劇中劇のヒロイン、ヤクザの組長の娘です。これらほど印象に残るものではありませんが、『悪の経典』にもかなり目立つ役で登場していましたし、これから観ようと思っている、ぶち切れ映画(チラシによれば「劇薬エンタテインメント」)である『渇き』にも、トレーラーを見る限り、それなりの存在感で登場しているようです。

 これらのぶち切れキャラが同じ女優と私は気付いていませんでした。まして、映画サイトなどの『私の男』の紹介ページに登場する写真の中の、浅野忠信にもたれかかる丸顔のメガネっ子が、まさか同じ女優だと思っていなかったのです。これを知ってしまったら、観ざるを得ません。

 どこからまとめて良いのか分からないほど、好きな所がやたらに見つかる映画です。雪の北海道の田舎港町の社会がよく描かれていることが、先ずは一番でしょうか。

 河井青葉と言う(今まで少なくとも私は映画で観たことがない)妙に存在感のある女優が、浅野忠信の交際相手を演じていて、映画の早い段階でそこそこ長いセックス・シーンも演じています。基本は車に乗ることが前提の生活の中での、なぜかあからさまにはしゃぐことのない逢瀬。職場での言動と周囲の街の男との関係性や会話。そして、浅野忠信との恋が破綻すると、東京に行き、戻ってきたときの変に収まりの悪いソバージュ姿などの服装や髪形の変化。彼女ひとりを観ていても、田舎の変化の乏しい、人によっては息の詰まるような毎日が見て取れます。彼女自身、成長した二階堂ふみ演じる少女、花が初めて登場するシーンで会話をしますが、「こんななんもない街で…」などと言っています。

 この映画のメインの舞台である紋別とは東西が反対側の港町で育った私ですが、アレルギー体質の減感作療法の徐々に濃度を上げていく注射液を貰いに、私も月に一度旭川に通っていました。浅野忠信演じる男、淳悟が河井青葉から「昨日どこに行っていたの?」と尋ねられて、「旭川…。買物…」とぼそりと応じる物理的、時間的な生活感が私もよく分かります。

 港町独特の雪の坂道の遥か下に淳悟の姿が現れ、それを見つめる二階堂ふみに対して、じわじわと距離が詰まってくる時間の間の、雪の乱反射の眩しさによるのか、はにかんで表情に困っているのか、よく分からないような感じで淳悟が歩いてくるシーンなどは、或る意味でこの映画の最高に美しい情景だと思います。

 そして、北の冬の海の鉛色のうねり。そこに浮かぶ流氷の上で、激情に流された二階堂ふみが自分達の秘密を知った街の顔役の老人を押し倒し、そのまま流氷を沖に流して殺意を持って見捨てるシーンも圧巻です。鉛色の空と海の狭間に弱々しく助けを求める老人の載った氷塊が徐々に遠のいていく様には、目が奪われます。

 ストーリーは確かに『痴人の愛』を彷彿とさせる部分があります。父親と言う自覚もなく、津波に飲み込まれた奥尻の遠縁の家族のたった一人の少女を引き取る淳悟は、ただ漠然と一緒に寄り添い暮らす、自分が守り、そして自分を見つめてくれる存在が欲しかったのだと思います。少なくとも、『痴人の愛』の時ほど、美しく妖艶になっていく自分の手の中のあどけない少女…と言ったイメージはスタート時点でなかったように思います。現実に二階堂ふみもまるで脱皮を繰り返しているように変化していきます。場面ごとに時間経過を表現する最も分かりやすい指標であるかのように、垢抜けて美しくなっていきますが、人目を引くぐらいに美しくなるのは、最後の淳悟との別離の部分になってからです。

 ただ、淳悟はなぜ花を引き取ることにしたのかには検証が少々必要です。自分が持つ他人の温かい家族のような理想のイメージを実感したことがなく、自分の実の母親を殺そうとしたことがあると言う設定でした。その事件の後、17歳の彼は奥尻の親戚宅に預けられます。そこで半年少々を過ごしており、彼がそこを去った直後に少女、花が誕生しています。引き取ったばかりの少女をランクルに乗せ、夜の山道を走り抜ける中で淳悟は、「おまえのおかあちゃん。きれいな人だったなぁ。顔覚えていないけど…」と言っています。

 この伏線で分かる通り、そして、淳悟を子供時代から知り、後に花を淳悟が育てることに同意したことを深く後悔することになる街の顔役の死の直前の言葉によって語られる通り、淳悟と花は実の親子だったことが分かります。この話はネットの映画紹介にも「禁断の恋」と書かれていますが、単に養父と養女の恋ではなく、実の父と娘の情欲に溺れる姿を描いたものだったのでした。

 漆黒の闇の中を津波に追いかけられて、奥尻の坂を幼い花を抱えて父親が駆け上がり、「生きろ!」と身を挺して花の命を守るシーンがあります。彼は花が自分の子供ではないと知っていたのかどうか分かりません。彼が命を捨てて守った少女は自分の娘ではなく、そして救われた命を、少女は実の父親との肉欲関係に投げ出す…といった構図でこの映画を観ると、『痴人の愛』とは全く別のストーリーが見えてきます。

 それが初めてのものであったのかどうか分かりませんが、花と淳悟のセックスがねっとりと描かれるシーンがあります。当初、淳悟から花を肉体関係の対象として見た気配は余り感じられません。むしろ、街にしっくり馴染まない者同士が求め合った結果として、彼らは養父・養女の関係を乗り越えたように思えます。花のほうが淳悟を見透かし、キスを求め、互いに指を舐め合わせるように仕向けるなど、明らかに誘惑的に見えます。そのような関係を経て、劇中で初めて描かれる花と淳悟のセックスは、やたらに印象的です。セックスの流れに心と体を委ね始めると、室内なのにぽたぽたと血がどこからか滴ってくるのです。滴りは激しくなりますが、土砂降りのようになることはありません。ローソクプレイのものより激しく、全身を塗り染めていく感じです。

 新旧両方の『キャリー』を思い出すようでもありますが、実の父娘のセックスで血の雨が降りしきる悪夢的シーンと言えば、間違いなく『エンゼル・ハート』です。生物学的な見地からすると、女性は男性以上にセックスの要素として匂いを感じており、同属のそれは生理的に嫌悪感を感じるようにできていると言います。それは、当然、遺伝子レベルで仕込まれている近親相姦回避のメカニズムだとされています。そこまで生物のメカニズムとして組み込まれている仕組みを乗り越える“罪”は全身を滴る血に染めることに象徴されるものだと言うことなのでしょう。

 この映画は、そのセックスの匂いを、やたらにリアルに、指にこびり付くものとして描いています。顔役の殺害後、逃げるように上京して、蒸し暑く茹だるような空気が立ち込める線路脇の安アパートで花とのセックスを重ねる淳悟が、勤務先の勤め先のタクシー会社で、「娘が服を買ってくれと言うから」と前借をしようとして、書類への捺印を年増事務員から拇印を求められるシーンがあります。拇印の後、事務員が指の匂いに気づき、たしなめるシーンまで、この映画には匂いを念入りに表現するために用意されているのです。細かく見ると拇印は人差し指ですが、セックスで男性が最も使う指は中指であるように思うので、そこまでしてセックスの匂いを強調したいかと思わされました。

 花とのセックスに溺れ、指の匂いを嗅ぐ癖が生じ、さらに指を嘗め回すようになる淳悟は、すべてを知って紋別から追ってきた警官をアパートで自らの手で喉笛を切って殺害したことから、揺らぎ始めます。法に追い詰められて行くことは劇中ではありませんでしたが、深い後悔をしていると、花の派遣社員収入で、ダラダラと紐のように暮らすようになって変質していきます。そして、すべてがまるで無かったかの如く、蛹から蝶のように美しくなった花は、育ちの良い若い男の妻になることになるのでした。

 結婚が決まった二人と銀座の高級レストランで淳悟が邂逅するシーンがあります。「おめでとうと言ってよ、淳悟」と、じっと見つめながら呟く花は、老いて「おめぇには無理だよ」と交際相手に吐き捨てるように言うしかできない淳悟と共に総ての秘密を捨てることとしたのでしょう。淳悟の知る花であれば、両家のお坊ちゃんには、確かに“無理”だったことでしょう。しかし、そんなことが起きることも無い未来を花は、別人となって生き、淳悟は、花と関係に溺れた記憶と秘密を抱いて、独り老いて行くのだと想像されます。
 
 愛した女性が、愛憎を乗り越えて、別人となって、秘密をそのままに別の男のところに嫁ぐ、と言う形の男女の別れを何かで見たような気がします。よく考えると『秘密』でした。あの作品もだいぶ構造が異なりますが、基本的には実の娘がセックスの対象となり得るかと言うことを悩み、結果的に娘は若い男の所へ嫁いで行くのでした。

 どこで歯車が狂ったのか。と観終わって考え込んでしまう映画でした。せめて、街の顔役を流氷に流してしまった後、花が自ら警察に行き、諍いの末、暴力を振るわれたので正当防衛の結果、ああなったと言ったら、何とか、近隣の北海道の田舎町で二人だけの世界を生きていくことができたのではないかなどと、無粋なことを想像してしまいます。それほどに力のある物語でした。DVDは勿論買いです。

追記:
 ドラマ性の演出として分からないのではないのですが、血の雨はインパクトがかなりあって、多少全体から浮いている気がしなくもありません。同じく、最後の銀座のレストランでは、テーブルの下で花が淳悟に足を絡めてきます。そのときに、花と淳悟だけの世界のような画像に切り替わるのです。心象風景を描いたと言うことなのでしょう。ほんの僅かなやりすぎ感が少々気になるところではあります。