変なタイトルの映画です。あまりに(今風に言うところの)イミフなタイトルなので、最初の漢熟語が覚えられず、間違ってよく『哀愁のアイオワ』、『早春のアイオワ』などと検索して見つからなくて不便しました。『ザ・イースト』を新宿駅に物理的に隣接しているミニシアターで観た時に、予告が気になっていて、既に毎日一回のレイトショー上映の状態になって、上映最終週の水曜日に滑り込みで観に行きました。翌週からは武蔵野館で毎日二回の上映になると分かったのは後のことです。
封切から既に三週間。翌週からの武蔵野館の入りが懸念されるほど、観客は少なく、10人ほどでした。男女半々程度。比較的年齢が上の観客ばかりでした。この映画はパンフレットが作成されていないと言うことで、細かいところがよく分りません。しかし、本当にパンフレットが必要ないほどに、細部の盛り込みが少ない映画です。
舞台はアイオワ州の田舎街で、見るからに寂れて、特に何か目新しい産業も特徴もないような街です。人口構成はまあまあ黒人比率が高いように感じます。そんな街の街外れらしき所に、「ザ・ポーカー・ハウス」と呼ばれる、ロクでもない人が集まっては賭けポーカーをしたり、麻薬を売買したり吸ったり、売春したりと言う民家があります。毎夜と言う訳ではなさそうですが、かなり高頻度でこれらの人々が集まってきてラリったパーティー状態になります。因みに、この映画の英題は「ザ・ポーカー・ハウス」です。邦題より余程分かり易いと思います。なぜか、英語ではこの手の表現が多数あるように感じます。おまけに歌のタイトルになることが多く、私の知っている中では、サンタ・エスメラルダの“The house of rising sun”もそうですし、ディープ・パープルのアルバムで私が一番好きなもののタイトルも、この手の意味で、“The House of Blue Light”です。
この家にだらだらと住んでいる売春婦がいます。下着姿で部屋をうろうろしている外見はちょっと老けたランナウェイズのチェリー・カリーと言う感じです。(私が一番に好きな外人女優であるジェニファー・ジェイソン・リーはこう言っただらしない女を演じさせるとピカ一で『ジョージア』などは最高です。そのジェニファー・ジェイソン・リーに迫る怪演です。)彼女は遠い別の州に住んでいて牧師の妻でした。その牧師が実は家ではとんでもないDV男で、警察沙汰になり、夫と別れてこの街で暮らすことになったようです。彼女には娘が三人もいて、日本での学齢で言うと、中学生・小学生高学年・小学生低学年と言った感じです。映画はこの三姉妹の話で、ストーリー上の重要度も登場頻度も登場累積時間も、三姉妹の上から順と言う感じです。
長女はジェニファー・ローレンスと言う女優が演じています。「話題の…」とよく書かれているのですが、全然私は記憶がありませんでした。しかし、DVDはレンタルしてみた『ハンガー・ゲーム』の主人公でした。多分認識できなかったのは、髪の色が『早熟の…』ではブロンドになっているからだと思います。おまけにもう一本、よく観ていた筈の比較的好きな映画でも出ていました。なんと『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で殆ど主役級の活躍だったミスティーク思春期版です。こちらは2011年の作品だったので、多分、彼女が大分成長して外見が変わったのだと思われます。いずれにせよ、映画を観終ってネットでチェックするまで、全く気づきませんでした。そして次女はソフィア・ベアリーと言う女優ですが、ほぼ無名です。ただ私は役柄の上でのキャラクターでは三姉妹の中で彼女が一番好きです。そして、三女が話題のクロエ・グレース・モレッツです。
『キック・アス』、『キャリー』、そして登場場面は少ないものの『ムービー43』などを見て、まあまあ好感が持て、さらに近日中に『キック・アス』の続編も観る予定なので、クロエ・グレース・モレッツを観てみようかと思ったのが、この映画を観ることにした大きな動機です。行きつけの飲み屋のアルバイトの女子大生がクロエ・グレース・モレッツのファンで、同時期に二本公開されているクロエ・グレース・モレッツの作品のことを話したと言うのも追加の理由で、さらに、映画の設定自体をトレーラーで知って関心が湧いたと言うのも理由でした。
この映画の販促で面白いのは、ジェニファー・ローレンスとクロエ・グレース・モレッツの話題の女優ふたりの共演作と言うことで売り込まれており、1300円で観るためにチケット屋で買ったチケットの写真もこの二人のアップになっていることです。その感覚で観始めると、見覚えがないつもりのジェニファー・ローレンスがバンバン登場し、次女がその相方的に登場して、各種宣材のイメージと異なり、初めて三人姉妹であることに気づかされます。一体いつになったら、クロエ・グレース・モレッツが出てくるのかと思ったら、映画スタートからかなり時間がたって、やたら幼く幼稚園児のように見える彼女が登場するのです。おまけに全体を通じて彼女の出番は少なく、色々な意味で肩透かしでした。
タイトルも変ですが、ストーリー設定も変な映画です。『八月の鯨』などのように、(過去のDV牧師の父親の回想場面を除いて)たった一日の出来事を描いた内容で、おまけに劇中だけで観ると、つまり、映画のエンドロール直前の黒地の字幕文章で語られる変化以外に、何か生活に劇的な変化が起きる訳ではありません。文字で語られる変化は、主人公である長女がアイオワの田舎町を出て、ニューヨーク(だったと思います)の大学に行き、その後、役者になって、監督もプロデューサーも務め、この映画を作ったと書かれています。残りの二姉妹に何が起きたかは全く語られていません。映画本編ではたった一日、それも長女が家を捨てるきっかけになった出来事が起きた一日を描写したものです。
娼館に引き取られた少女(多くの場合、親がそこに少女を売ったと言うのが本当でしょう。)の物語は、多数あります。洋の東西を問わないように思えます。大抵は、娼婦・遊女としての道を諦念から歩み始め、どこかで真実の愛に目覚め、結末はその愛を選んで概ね悲劇的な結果を満足して選ぶか、真実の愛を自らの境遇故に捨てるかのいずれかに落ち着くように思います。その一般論からすると、この映画の設定は結構型破りです。まず、この家には家族ごと全部住んでいるので、売られた少女だけの問題ではありません。映画には全く描かれていませんが、もともと牧師の妻だった女性が、なぜチェリー・カリーのようになったのかと言う劇的な物語が潜んでいます。
さらに、そこに黒人の顔役の男がいて、客を彼女にあてがいつつ、長女には非常に優しくし、ねっとりしたキスを楽しむ相手となっていきます。彼は長女にとって、この場末のさらに末と言った日常の生活の中の唯一の救いとなっていきます。長女の方も顔役が可愛がる少女の立場を確保していることに、多少は自覚的である様子に感じます。母からは自分も14歳になったのだから、もう客を取るべきだと言われて、強く拒絶していますが、自分が惹かれている相手が、自分を近い将来の商品と考えているなど、全く想像だにせず、寧ろ母からの逃避場所として認識しているのです。この幻想があっさりと破壊される、特別な一日が、映画に描かれている一日です。
長女は、実はとんでもなく優秀な中学生です。まず文才に優れ、地方新聞に記事を書くアルバイトさえしています。彼女が自分の詩を読み上げている場面がありますが、韻を多用したそのままラップの歌詞としても十分通じるようなレベルです。私の中高生時代を考えると、散文はかなり好きでしたが、詩文系は全然ダメでした。両方に才能があるのはまずすごいことだと思います。さらに、運動系も優れていて、バスケットボールの優秀なプレーヤーです。そして、この日は州で一番のチームになるための大事な試合の日です。結果的に遅れて試合に参加した彼女は、後半だけで27点(だったと思います)を一人で挙げ、7年間破られない近隣三州の中の記録を打ち立てるのでした。
彼女がアルバイトする新聞社には、彼女のこうした才能を、きちんと評価してくれる人物が多数存在します。私も留学当初に経験したことですが、例えば、学業成績が良いと、奨学金なども学校の方でどんどん推薦してくれますし、「何か困ったことはないか」、「何か欲しいものはないか」と周囲からどんどん接触されるようになります。私も同様に尋ねられて、「自動車保険に入りたいが、運転実績が米国内ではないので、馬鹿高いレートを言われて困っている」と応えたら、学生部長が電話一本で金額を6割カットしてくれました。その際にモノを言ったのが前期の成績でした。劇中でも、長女が前期の成績表を出すと、「よし、来月からも契約だ」と言われているシーンがあります。
米国には、まさにこの映画に描かれているような、社会の底辺に蠢くどこにも行き場のない人々の世界と、そことは隔絶された才能や努力を日本の数十倍ぐらいの勢いで賞賛しあうできた人々の世界が存在することを私は知っています。前者は、劇中で次女や三女が親しんでいる善意の低所得者層であることもありますし、彼女らの家に夜な夜な集まるやさぐれた人々であることもあるでしょう。後者は、そのような人々が目に入っていないような生活をし、留学時代の私が、タバコを吸ったり、ホワイトスネイクを口ずさんだりするだけで、「ストレートA(全教科Aの成績)の人間が、そんなことをするはずがない」と攻撃的に意見を言ってくる人々です。
長女の、この日に至るまでの最大の誤りは、自分の生きる場所に前者を選んでうまく行くものと幻想していたことだと思います。それがあっさり崩れるのは、黒人の顔役が「売り出し前の味見」として、床で抱き合ってキスしている延長で、長女の口を押え声を出させないようにしつつ、それ以外に暴力を振るうでもなく、ただ抑え付けて無理矢理性交に及んだ結果です。彼女はレイプと言っていますし、一応その認識も成立はしますが、口を押えられていて、一度も拒絶の言葉を発せないでいますし、空いている手で殴るなり押し返そうとするなりのそぶりも見せません。仮に裁判になったら、ここまでの経緯からレイプとして成立しにくい状況であるのは間違いありません。自分が頼り切っていて、キスの味を教えてくれた庇護者の突然の変貌で、呆然と混乱の内に行為を完了されてしまいます。
このセックスでは、この顔役の黒人がこの手のことに慣れているからなのかもしれませんが、上から伸し掛かった状態で片手で長女の口を押えて、残った片手で長女の下半身を脱がせる、スゴ技を見せます。大きく足を広げさせているようなそぶりも、自分の半身を上げることもなく、ずっとぴったり体を重ねたままセックスが完結します。事前のキスが続いていて、どれだけ性器が潤んでいたか分かりませんが、こうも簡単に挿入でき完了できるものなのかと、正直、不思議でした。
さらに、長女が顔役の銃を奪って、母に自分をレイプした顔役との決別を迫ると、母は顔役との関係持続を選び、身を挺して庇うだけではなく、包丁を持って娘に出て行けと叫ぶのでした。長女が辛うじて持っていた母への愛情もあっさりと否定された瞬間です。
先述の通り、この映画のエンドロール前に、長女はその後、この映画の原作・脚本・監督を担当したと出ます。ロリ・ペティと言う『ハートブルー』シリーズや『プリティ・リーグ』、『タンクガール』、『フリー・ウィリー』などでメジャーな役をこなしている女優ですが、私は全く認識がありません。サックスを練習し、吹奏楽に励む次女は、新聞配達と空き瓶回収のバイトを共にするホームレスの黒人オヤジ達に、学校で紹介された福祉事務所で、「里親探し」を申請したから、もう少ししたら多分お別れよと告げています。才能が既に認められ、努力も惜しまないことを知られている長女が、次女のように社会の構造にもっと早く気付いていたら、避けられた馬鹿げた話を描いた映画と見ることもできます。『四季 奈津子』のような姉妹モノの中で、色恋沙汰で道を踏み外しかけ、残酷な現実に気づいた健気な姉の物語と見ることもできます。
クロエ・グレース・モレッツの役どころは、大きな期待はずれです。しかし、格差が広がる社会となってきたと言われる日本でも『ギャングース』のようなマンガ作品がヒットするようになり、それ以上に、このような状況が有り触れている米国の下流社会で子供たちが直面する現実を描いた少女ドラマとしては、かなり稀有でよくできた作品だとは思います。DVDは一応買いです。
追記:
少女達の残酷な現実を描くのに画像は淡い質感の日差しが溢れているイメージで似た映画あったと思って、映画を観終わってから翌々日に思い出しました。『地球でたったふたり』です。