『さよなら渓谷』

 月曜日の夜9時からのレイトショーで観てきました。23区内ではたった三館しか上映館がありません。その一つ、新宿武蔵野館では6月下旬の公開からまる一か月以上を経ても尚、一日に四回もの上映が為されています。男女共にネット上の期待度も高いように感じます。観客は少なく15人ほどでしたが、女性の一人客が二人、女性の二人連れが一組と合計四人の女性客は皆どう見ても20代でした。

 主演の真木よう子は女性にも人気という話ですし、原作人気というのもあるでしょうし、準主役級の位置に(蒼井優関係で何やら騒がしい)大森南朋がいて、やはり人気なのだとも思います。真木よう子狙いの男性客は概ね、前半にかなりねちっこく展開する濡れ場目当てだと思われます。

 私は真木よう子の容姿も劇中などに見る言動のイメージなども、全く好きになれません。嫌悪感が湧くほどではありませんが、『ベロニカは死ぬことにした』をDVDで観ても、特段印象に残りませんでした。一時期何かとメディアに書きたてられていた『週刊 真木よう子』も全く見たいと思いませんでした。彼女の他にも、そこそこ有名俳優が配置されている映画ですが、誰一人として、私にとってこの映画を観る動機になりえる人はいません。

 私がこの映画を観に行きたいと思ったのは原作者です。名前をきちんと覚えているほどでさえないのですが、この原作者は『パレード』や『悪人』の原作者です。この二本は両方とも映画館で見逃し、DVDで観ているのですが、かなり好きです。何かに流されてしまって、どうにもならなくなった人間の描写が秀逸です。割り切れないことが多く、正直言って、後味の悪い二作品です。しかし、その後味悪さこそが、観る者に人間の業や性(さが)へと思い至らせるのだと思います。

 その原作者が、自分をレイプし、その結果、自分の人生を滅茶苦茶にした男と同棲する女性の物語を書いたのがこの作品だと言います。トレーラーでは「私が死んで、あなたが幸せになるなら、私は絶対に死なない」と叫ぶ真木よう子の憎悪が少々魅力的に見えました。しかし、映画では真木よう子の揺るがない心の檻に対して、ただただ贖罪に人生を費やそうとする男の方が非常に浮き上がって見えます。

 真木よう子がレイプ主犯の男と奇妙な旅を続ける回想のシーンがあります。最初は拒絶し、傲慢に要求するばかりだった彼女が、徐々に男と会話するようになり、笑みまで浮かべるように変わり、最後は再会後初めてのセックスに至るまでが描かれています。今の自分の成り立ちのすべては、男のしたことに起因する以上、男を許せる訳でもなく、ただ贖罪しようと常に付きまとってくる男の存在を認め受け容れたと言う状態です。

 憎悪を介在させたままの男女が同居する構図で思い出される映画があります。「永遠の愛は疑ってしまうけど、永遠の憎しみなら信じられる」がキャッチフレーズだった『乱暴と待機』です。しかし、この男女は本来憎しみ合っていず、単にお互いが求め合っている感情をまともに言葉で表現できないだけのことでした。セックスも全くしない彼らのありようは本谷有希子によって、捻りの利いたコメディとなっていました。それに対して、乾いたセックスを扇風機が風を送るだけの暑苦しい部屋で重ねるこの映画の主人公達には、喜びの欠片もありません。

 寧ろ、恨み憎む感情を乗り越え、他愛のない会話を重ねられる関係を構築した事例としてみると、『その夜の侍』で山田キヌヲが願い、堺雅人が血を吐くように説いた理想の関係を真木よう子がこの映画で実現して見せたことかとも思えます。

 隣家で幼い子供をシングルマザーが殺害すると言う事件が起こると、すかさず真木よう子は、自分の夫がそのシングルマザーと不倫していて、子供の殺害を教唆したのだと警察に連絡します。その結果、男は警察に拘留され、マスコミによって、15年も前の大学野球部時代に彼が起こした集団レイプ事件が暴かれてしまいます。それでも男は警察で「奥さんの証言だよ」と言われると、そのまま「かなこ(妻)の言うとおりです」と受け容れるのです。以前の稼げる職はおろか、当時付き合って同居を始めようとしていた女性、東京の生活、預貯金、すべてを彼女への贖罪のために擲って、さらに、過去の罪を暴かれても、濡れ衣を着せられようとも、すべてを受け容れる男の姿には目を奪うものがあります。結果的に、その男の生き方を目の当たりにした真木よう子は、「一緒に不幸になるためにいる」関係が崩れ、何があっても自分を受け止める男を認めつつある自分に気づき、ラストに男を捨て、置手紙だけを残して去るのでした。

 この男に大森南朋演じる記者が、「15年前のあの日に戻れるなら、あなたは今の人生を選ぶか」と尋ねて、今にも男が答えを言いかける場面で映画は唐突に終わります。強烈な後味の悪さです。最後の瞬間にこの映画の全編を総ざらいで観客に振り返らせる試みで、冒険的です。ただ、「人生をやり直せるとしたら…」は、途方もない質問である割に世の中で使われ過ぎているように感じるので、ややクリシェと言う気がします。ただ、男はその会話の中盤で、消えたかなこを探し出すと言っていますから、もう一度選び取るかどうかは別としても、少なくともこの段階で、或る種の使命感のようなもので贖罪に生きることをぶれなく追求しています。

 過去の許せない記憶や人生を変質させるような出来事について、「過去に捕らわれるな」とか「未来に生きろ」などと言う話をする爽やかストーリーがよくあります。しかし、人間はどうやっても経験の檻から抜けられないものであり、自分が何者であるかも、そうそう変わらない周囲との関係性の中で成立していくものだと私は考えています。世の中では結構流行っているようですが、軽々しく「自分の理念やヴィジョンに従って、人生を切り拓いていく」などと言われると、「構造主義の一つも勉強してはどうか」と思える私です。人間は自分が生きている場の過去からの呪縛に捕らわれ続けることが前提だと私は思っています。

 ですので、ことの起こりは別としても、人生をかけてやることが明確に過去の事実から規定され、その成就することない償いの行為に人生を捧げることとが許された男は、確かに幸せだと私は思います。そして、真木よう子の“かなこ”の過去を知って、それを受け容れることのできなかった幾人もの男たちの狭量が、毎年数万人単位で風俗嬢やAV女優が生まれる世の中で、あまりにもナイーブすぎて、鼻につきます。

“かなこ”の人生の軌跡がもっと丁寧に描かれているのだったらよかったと思います。彼女の人生がどのようなものであったかを描くのに、特に隣家の殺人事件がなくても十分話は成立したどころか、もっと深堀りさえできたのではないかと思えてなりません。そして、そのような“かなこ”の泥濘に嵌ったような人生を描くには、真木よう子と言う女優は、私には薄っぺらすぎたように思います。親交のある椎名林檎の手によるテーマ曲を自分で歌いもするなどの大活躍ですが、愛憎の変質と遷移がきちんと描けているとは思えません。題材がよいので、ぎりぎりDVDは買うかもと言う感じですが、観ることがほとんどないままに終わるような気もします。

追記:
 物語の進行役になっている記者は二人いて大森南朋と鈴木杏が演じています。この二人のコンビをどこかで観たことがあると思って、帰路、考え込んでいたら、『ヘルタースケルター』だと分かりました。