『名無し』

 5月22日の封切日当日の14時5分の回を明治通り沿いの1ビルに2館入っているミニシアターのうちの一つで観て来ました。つい最近『黄金泥棒』を観てきた映画館です。1日に4回の上映がされていますが、そのうちの2回目で、封切日で新宿ではたった1館の上映館ですから、新宿で2度目の上映を観てきたことになります。23区内で10館しか上映館がなく、山手線沿線では、新宿・池袋・渋谷・有楽町の4館しかありません。全国でも107館しかありませんから、全国に辛うじて満遍なく上映館が広がっているという感じです。

 シアターに入ると、私にとっては数年ぶりと思われる封切日の劇場鑑賞で、狭いロビーはそれなりの混雑でした。ネットで見ると300席弱ありますが、そこに70人ぐらいの観客がいました。更なる混雑を一応想定して、普段ほとんど行なうことのないネットのチケット購入を開場の2時間ほど前に行なっておきましたので、シアターの最後列の端席は確保されていました。

 個別に把握できるような人数ではありませんでしたが、ロビーでごった返す人々を眺めると、年齢層は薄く広く広がっていて、20代から70代ぐらいまでがいる中で、やや若者層が多いぐらいの感じの偏りしかありませんでした。女性が全体の6割いるかいないかぐらいの性別構成で、やや多かったように思います。単独客が殆どで、男性の2人連れと女性の2人連れが各々2組ほど居たように見えました。これらの2人連れ客はすべて20代か30代ぐらいでした。

 映画.comの作品紹介には以下のように書かれています。

[以下引用↓]

俳優だけでなく、脚本家、映画監督としても活躍する佐藤二朗が、初めて漫画原作を手がけたサイコバイオレンス「名無し」を、佐藤の主演・脚本、「悪い夏」の城定秀夫のメガホンで映画化。

昼下がりのファミレスで、残忍な殺人事件が発生する。防犯カメラには、犯人と思われる坊主頭の中年男が映っていたが、男の手には凶器のようなものはない。男が近づき、軽く接触するだけで人が血を吹き出して倒れていくという異様な光景が記録されていた。捜査を進める警察は、坊主頭の男が11年前に万引きの疑いで調書を取られた「山田太郎」と同一人物であることを突き止める。山田の自宅住所に急行した捜査員が目にしたものは、腐敗した女性の遺体だった。

主人公である連続殺人犯・山田役を佐藤が演じ、身寄りも名前もなかった少年期の「山田」の名付け親となる巡査・照夫役を丸山隆平、山田と同じ児童養護施設で育ち共に暮らしていた山田花子役をMEGUMI、そして山田を止めるべく奔走する刑事・国枝役を佐々木蔵之介がそれぞれ演じる。

2026年製作/81分/PG12/日本
配給:キノフィルムズ
劇場公開日:2026年5月22日

[以上引用↑]

 私がこの作品を観ようと考えた理由は、トレーラーで観た不可解な場面が気になったことです。主人公の佐藤二朗が連続して大量に殺人を犯している場面です。長包丁でどんどん刺したり切ったりしている場面もありますし、バットでどんどん人々を撲殺し続ける場面もあります。その際に、凶器が透明になっているのです。あまり観ない映像で、非常に面白く感じられました。

 ただ問題は佐藤二朗です。パンフでもMEGUMIがパンフの購入者に向かって「佐藤二朗さんのB面をお楽しみに」的なことを言っていますが、ここで意図されているB面はふざけたことを言ったりやったりしない佐藤二朗でしょう。そして、A面はコメディアンとしての佐藤二朗ということであろうと思われます。

 私は佐藤二朗という人物が段々と好きではなくなってきています。色々な作品に登場しますし、特定監督がやたらに多作なのに、その監督が彼を多用するので、必然的にA面の佐藤二朗の出演作が増えていると感じます。そして、執拗に多くの作品群で繰り返される佐藤二朗のA面の芸に単純に飽きてきたのです。その限界点が昨年1月に観た福田雄一監督による『聖☆おにいさん THE MOVIE ホーリーメンVS悪魔軍団』でした。その感想記事に以下のように書いています。

[以下引用↓]

部分で見るならば、福田組に(ウィキに拠れば「福田雄一作品の常連俳優や制作チームの総称。文脈によっては、初参加の俳優を含む場合もある。特に、重鎮であるムロツヨシと佐藤二朗の二人は「福田組の風神・雷神」と称される。これに賀来賢人を加え「風神・雷神・竜神」とする場合もある。(注釈略)」とのことですが)共通する佐藤二朗のアドリブ芸にはかなり辟易するようにはなりました。本作を鑑賞して、一番私が退屈に感じたのは佐藤二朗の登場場面で、そのアドリブ芸で主役の二人もそれを見て笑いをこらえている様子は、『勇者ヨシヒコ』や『女子―ズ』、『銀魂』で何度となく見てきたものなので、「はい。始まりましたね」とただやり過ごす感じになりました。(厳密に言うと、本作のオープニング映像も『勇者ヨシヒコ』シリーズと同様のテイストで、第一作から第三作までを知っていると多少の辟易感が湧きます。)

[以上引用↑]

 このようなA面に対してB面の作品群は数が少なく、最近私が観た中では、彼自身が原作も脚本も監督(、そして出演)も兼任している『はるヲうるひと』や出演のみの作品では、『あんのこと』ぐらいであろうと思います。両作とも劇場で鑑賞していますが、前者は少なくとも私には駄作に見える作品で、芝居を映画に転用することに失敗しているように思えました。後者は作品自体が「意識高い系」の産物のようで、余りに色々な面で現実離れしたファンタジーなのに、妙に世間では持て囃されるおかしな作品でした。他にも、私がトレーラーしか観ていない比較的最近の作品である『さがす』や、さらに漸くDVD発売が始まった『爆弾』などもありますが、まだ観ていないものの、あまり期待できそうな感覚を持てないままにいます。

 変態チックな悪役というような位置付けのB面のサブドメインみたいな一群の役もあります。例えば、比較的最近では『バイオレンスアクション』『リボルバー・リリー』などの彼です。好感を持つ持たない以前に、脇役としての位置付けなので、あまり気になることがありません。

 他に、彼にはA面とB面の間ぐらいの位置付けに見える作品群が一部存在するように思えます。コメディ・タッチのキャラですが、悪ふざけ感がない範囲の抑制された演出の中で、「おかしな普通の人」を演じているようなケースです。脇役で言うなら『ザ・ファブル』シリーズの彼には、好感が持てますし、古くは名作と呼ばれているらしい『幼獣マメシバ』シリーズなどでの主演もこの範疇かと思われます。私にはこれが現状唯一残された好感を持てる佐藤二朗の非常に狭い領域です。

 そんな中で、先述のトレーラーを観た際に、彼が主役の作品でおまけに漫画原作を基に脚本まで書いているというこの作品がB面として楽しめる最初の作品になるかどうか、トレーラーの面白さ故に試してみたく思えたのです。

 観てみると、一番関心が湧いた「現象」は、イマイチよく分からないモノでした。トレーラーの映像で見ると、彼が右手で触ったものは触っている間だけ見えなくなるということのように理解できました。ところが、映画のチラシには「ものが消える…、命を落とす、」などの表現があります。見えなくなっても消えはしないから、透明な長包丁もバットも有効に殺人凶器になり得るはずです。消えるとはどういうことかと思いましたし、別に長包丁で刺したり、バットで殴ったりしなければ、モノが透明になっても命を周囲の人が落とすということはないだろうと思えました。端的に言って、チラシの言っていることがトレーラーで観た映像に合致していないように思えたのです。

 映画を観てみて、チラシが言いたいことがようやく理解できました。「ものが消える」というのは、トレーラーで観て私が認識した通り、「透明になる」というだけのことで、「消失する」という意味ではありませんでした。何か誤解を生じさせる、ないしは過大な表現だと思います。JAROにクレームを言いたい気がほんの僅かに生じます。問題は「命を落とす」の方です。

 何と右手で触れることで物体は透明になるのですが、この触れられたものが生物だった場合、透明化が解除されたた際に生命活動が停止するという設定があったのです。命が失われる過程もなかなか考察を要する状況です。摘まれた状態のタンポポは能力解除と同時に非透明化し既に萎れていました。柴犬のような犬のケースも劇中に登場しますが、非透明化した際には、白目を剥いて座っていましたが、その数秒後にばたりと倒れ込み泡を吹いて絶命しました。人間の場合は非透明化した後に、これまた白目を剥いて数秒立ちすくんだ後に、苦悶しながら倒れ込み、悶え苦しんでから数分持たずに絶命する感じです。

 さらに不思議な設定があります。右手が触るものの名前が分かっている際にのみ、この能力は発動するのです。先程の犬も少年期の主人公が自分が連れて来られた孤児院の庭でそこに飼われている犬の頭を撫でているのです。その時点で、彼は犬の名を知りません。犬は透明化することなく喜んで頭を撫でられています。ところが、その脇を通った職員が「あら、頭を撫でてもらってよかったわねぇ、万作」と犬の名を言ってしまいます。犬の名が認知された段階で能力が発動し、犬は透明化し、恐る恐る彼が手を離すと、実体化した犬は先述のように白目を剥いて座っているのでした。

 植物の場合も同様で、タンポポは少年が知っていたのでいきなり透明化の後に萎れてしまいますが、続けて触った鉢植えのパンジーは差し出されても名前を知らないのでそのまま触っていられました。しかし、後に成長してMEGUMIが演じる彼の唯一の理解者の少女が「これはパンジー」と名前を教えると、いきなりパンジーは透明化し、これまた萎れます。変わった能力です。

 さらにこの能力は手のどこの部分から具体的に発動するのかよく分かりません。終盤で彼が(彼の能力を知っている)刑事に襲いかかった際に掌の4分の1ぐらいを拳銃で撃ち抜かれて吹き飛ばされます。それで刑事は難を逃れているように見えます。

 しかし、拘束されて担架で運ばれて行く前の彼の眼前に彼の息子が現れます。息子はMEGUMIが彼の前から姿を消して生んだ子なので、彼は初対面です。彼は息子に「名前を言うな」と告げて、包帯にくるまれた右手を差し出します。息子も右手を差し出し、息子も能力を持っていたので、佐藤二朗演じる主人公は(白目を剥くのではなく、なぜか目から血が溢れ出て)息を引き取るのでした。

 大きく損傷した掌では能力が発動しないことが分かります。なぜかと言うと包帯が消えないからです。しかし、それでは、主人公がなぜ「名前を言うな」と息子に言ったのか分からなくなります。不能状態になっているのなら、そんな警告は不要でしょう。とすると、指先に触れなければ能力が発動しないという設定が想定されます。(先述の刑事が、主人公の「右手の指紋」を犯行現場で見出そうとしているのはそう言った理由であるかと思われますが、それが劇中で具体的に説明されることはありません。)包帯は撃ち抜かれた掌を覆ってはいますが指先は出たままです。これなら名前を知った者に対して能力が発動することが想定されます。

 実際に、その状態で息子が手を握ると息子の方の能力が発動して、主人公は絶命しました。しかし、この話もまた不思議なのです。それはこの「名前」の定義の問題です。パンジーは普通名詞ですが、固有名詞ではありません。犬の万作は固有名詞です。犬を犬と分かっていて触っても犬は死ななかったわけですから、固有名詞でなくては発動しないことになります。(犬ではなく「柴犬」と知らなければ大丈夫というのは、少々細かすぎる設定に思えます。)

 ここで、固有名詞が一般につかない生物については種類名の普通名詞で能力は発動するが、固有名詞がつくことが一般的な生物については固有名詞が能力発動に必要という風に定義したとします。ところが、仮にこの仮説を是とすると、彼が名も知らぬ刑事と揉み合いになり、刑事の顔面をまるでエイリアンのフェイス・ハガーのように右手で覆おうとしたことの謎が解けません。名前を知らないはずですから、能力が発動する訳がないのです。

 さらにこの現象の応用編も劇中で登場します。名前の有効性についての問題です。少女時代から後に成長してMEGUMIが演じる女性は主人公と行動を共にして、子供まで生(な)します。彼女は「私に触れてみて。私達は死なないよ。だって、いてもいなくてもいい存在なんだから」と何度か言っています。そして、彼らは元々名無しの孤児でした。二人で肩を寄せ合って廃工場の跡地のような所に居るのを警官に見つけられて、施設に連れてこられたのです。その際に、警官が「戸籍を作らなきゃ」と言い、彼ら二人が自分の名前を決めることができないので、「こういうのは簡単な方が良い」と「山田太郎」と「山田花子」と二人に名づけたのでした。つまり、本人が明瞭に承諾した状態の名前ではありませんし、本人がそれらを名前として認識しているかが怪しい状態なのです。

 そんな名前を持つ彼らのうち、主人公の少年が途中で自殺しようとして、自分の胸に右手を押し当てる場面があります。透明化もしなければ死にもしません。それを少女が見つけて、先述のように、「私達は死ねないよ」と宣うのでした。現実に成長して妊娠後期の状態になって、彼女は主人公の前から姿を消します。それから10年近く後に、彼は偶然彼女に再会します。まだ観ぬ子どもの誕生日を毎年一人で祝っていた彼に、「子どもは堕ろした」と彼女は告げます。「それにどうせ名前なんか付けられないんだよ。だって触ったら死んでしまうんだから」と残酷に彼に告げるのでした。

 逆上した彼は彼女を殺そうと顔に手を翳し掛けますが、止めます。それはどうも、能力では彼女が死なないことから来る行動のようでした。そして彼は台所から包丁を持ち出し、唯一の理解者であり、最愛の人であった女性を透明な包丁で惨殺するのでした。とすると、どうも本人も意識的に自分の名前だと理解している固有名詞しか能力発動をさせないという仮説が成り立ちます。であれば余計のこと、先述の刑事に対する攻撃が意味を為さなくなってしまうのです。

 このように、かなり掘り下げがきちんとしていない能力設定ではありますが、面白くはあります。或る種、スタンド遣いのようですが、如何せん能力が陳腐です。『ジョジョの奇妙な冒険』の第四部に登場したスタンド「ザ・ハンド」のように触れたものを削り取って異次元にぶっ飛ばしてなくしてしまうようなものではなく、ただ透明にするだけなのです。少なくとも能力の原理がバレてしまえば、戦闘などの場面でも簡単に回避されてしまうでしょう。主人公が連続殺人に成功したのは単に相手がこの能力の存在を理解していないからです。

 切断や爆破のスタンド能力や(スペック・ホルダーの)スペックがあれば、単に対峙した主人公の右手首から先を切り落としたり爆破したりしてしまえばおしまいです。それ以前に固有名詞を教えないという対策もあるでしょう。『陰陽師』の第一巻で鬼に偽名を教えることで、鬼の妖術に嵌らないようにした安倍清明のようなケースをそのまま適用すれば良いだけです。能力を如何なく発揮した大量殺人の場面は3回発生し、最初は長包丁で大型の喫茶店(/レストラン)内の、次がバットで商店街の、そして拳銃で自分がいた施設の催事の現場の人々を大量に殺戮していきます。見せ場としては非常に面白い能力発動の場面で、私が結構好きな『ビリーバーズ』『よだかの片想い』『夜、鳥たちが啼く』『セフレの品格』シリーズ『YOUNG & FINE』『嗤う蟲』などの同監督作品にはあまりないタイプのシーンです。(『ビリーバーズ』には集団が銃撃戦でパニックに陥るシーンが終盤に存在します。)

 惜しむらくは『デスノート』の夜神月のように、諸々の条件が付き纏う面倒な能力を、ありとあらゆる知恵を絞って最大限活用するような展開があったらとは思えます。しかし、それはこの物語の主旨から大きく外れている話でしょう。この物語は、孤独を運命づけられ、誰とも触れ合うことができない人間の苦しみを描く作品だからです。(実際には、左手なら誰とでも触れ合える訳ですから、ちょっと誇張されたコンセプトという気はしますが)犬を可愛がって撫でたら死んでしまう場面も、投身自殺しようとした自分を助けてくれた人を殺してしまう場面は、確かに切な過ぎて、心に重く圧し掛かるものがあります。

 この映画の予期せぬ良かった点は、MEGUMIの熱演です。少女時代から「使わないで。使わないで」と少年に能力発動を控えるよう小声で懇願し続けるような存在から、「死なない自分達」を共有する、主人公本人以上に能力を理解し、社会における自分達の立ち位置や、その結果迫る自分達の運命まで達観している少女になり、さらに、その先に彼と身を隠すように貧しい生活を続け、妊娠までしてから、「同じような人間を増やす訳にはいかない」と彼の許を去る。しかし、結果的に母となることを(劇中では描かれていませんが)選択したにもかかわらず、再会してしまった彼にはその事実を隠し、(臨月に近い状態なので有り得ないですが)「堕ろした」と嘘を告げ、命を彼に預ける変遷を遂げる非常に難しい役どころと思えました。

 パンフに拠れば、劇中の唯一の性描写がこの二人のものですが、嫌がる主人公に圧し掛かり「右手で触ってよ」と歪んだ愛情を迸らせる薄汚れた服に身を包んだMEGUMIの姿は、鬼気迫るものがあります。襲いかかる立場は逆ですし、当然心情も全く違いますが、愛情と合意の両方が歪んでしまっているセックスの始まりという意味では『零落』のMEGUMIと並ぶ名場面で、監督がこだわって作っただけあるように見えます。

 上述のように設定に甘さがあるように思えますし、プロットの捻りが足りない感じもしますが、たった81分の短い尺にまとめられた面白い映画ではあると思えました。そして、まともな文章になっている台詞が非常に少ない、実質的に「喋らない佐藤二朗(B面)」は相応に評価できました。DVDは買いです。