『THE ORIGIN OF ULTRAMAN』

 7月3日の封切から2週間弱。水曜日の夜6時50分からの回を、歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館で知己と共に観て来ました。1日2回の上映が為されています。パンフレットも用意されていないようなマイナーな作品なので、多分、スタート段階からこのような上映回数だったのではないかと思われます。新宿の上映館はこの1館だけで、私はいつも書いている通り、この映画館が好きではなく、TOHO系の映画観に行かねばならない時には室町の館に足を極力伸ばすように心掛けていますが、今回は前に用事が詰まっており、致し方なくこの館に行くことになりました。

 都内では10館で、23区内に8館、残りは立川と府中です。これらの10館のうち名称にTOHOを冠する館が7館あります。映画.comの情報に拠れば全国では35館で上映されています。関東は東京を含め7県がエリアに存在しますが、そのうち6県で上映されています。

 私がこの作品に関心を持ったのは、総じて言えば、『ウルトラマン』に始まる『ウルトラマン』シリーズの原点を、まさにタイトルにあるように期待したということかと思います。あちこちで書いている通り、私は『ウルトラマン』という単体の作品があまり好きではありません。初放映のリアルタイムで観て一番印象に残っているのは『帰ってきたウルトラマン』ぐらいの年代ですし、当時のパンか何かについていた抽選券で当たった新番組『ウルトラマンA』の宣伝怪獣ショーを、北海道の田舎港町からわざわざバスで1時間以上かかる旭川に観に行った記憶もあります。そうした、『帰ってきたウルトラマン』や『ウルトラマンA』の印象は強く残っていますが、だからと言って、これらの作品が特段に好きになった訳でもありません。

 その後に、『ウルトラマンレオ』が始まり、私が『ウルトラマン』シリーズの中で抜きんでた好感以上の感情を抱く『ウルトラセブン』の主人公が使い回され、おかしな「噛ませ犬」的役割を演じさせられ、おまけに最初の登場から耳がないという奇形状態で、さらに変身不能になって執拗にドラマの一部になり続け、命を削って念力を使うというおかしな立ち位置になっていることを嫌悪して、あっさり『ウルトラマン』シリーズを離れました。(『ウルトラマンレオ』と同年には私が嵌ったアニメ『ゲッターロボ』が始まり、その前年にはアニメで『キューティーハニー』も始まっていますので、特撮実写の世界観に飽きが来て、関心はアニメの自由な世界観に移行していたのだと思います。)

 それからはアニメの『ザ・ウルトラマン』を観たり、石田えりの当時数少ないテレビ出演の機会を観たさに出目金顔の『ウルトラマン80』を観たりしましたが、他のウルトラマン作品群に関心が湧くことは全くありませんでした。唯一その後の例外となったのは、数十年を経て、偶然読んだネット記事で関心を持ち、それなりに楽しむことができた、ウルトラマン史上数々の“常識破り”をやってのけた『ウルトラマンブレーザー』だけでした。

 前述の『ウルトラセブン』は『ウルトラマン』以上の予算不足に悩んで登場する怪獣の頻度や怪獣のシーンの尺を下げて臨みつつも質を下げずに番組作りをした結果、大人向けのSF超一級の物語が連続する珠玉の名作になったものと私は認識しています。その後の『ウルトラマンなんちゃら』のタイトルパターンができる以前に作られた『ウルトラセブン』は、聞けば殺意が湧くような『ウルトラマンセブン』という低IQの勘違いをしているバカが、非常に頻度高く現れます。非常にツウのファンが多々いる作品のはずですが、その一群の人々は、そうしたバカに不愉快千万な遭遇するのを回避するためか、私を含めて、『ウルトラセブン』ファンであると公言することがあまりないように思えてなりません。

 それぐらい大好きな『ウルトラセブン』に比して、単純に比較すると『ウルトラマン』は、(3つほどあると聞くマスクのパターンで)最初の顔がやたらにボロボロした重度のあばた状態で美しくなく、光学処理もイマイチで光線の出元や当たり場所がどうも不自然であることも多く、見た目的にチャッちい作品に私には思えています。

 さらに物語が子供じみており、科学的な設定もおかしなものが多く、その上、まるで東宝の当初のゴジラ映画シリーズが回を重ねるごとに、怪獣プロレスの世界になり、終いには子供受けを狙ってゴジラに「シェーッ」のポーズまでさせるような悪乗りぶりを露呈したように、『ウルトラマン』も妙にふざけた場面(ハヤタがベータカプセルではなくカレーを食べていたスプーンを掲げて変身しようとするなど)やふざけた設定(地球で殺された怪獣でさえ何故か宇宙空間に怪獣墓場が見つかり、なぜか地上で仏式の葬儀が執り行われるなど)が、バカらしくて到底直視に耐えないように思えています。これらは各話を一級のSF映画に作り直すことも簡単にできそうな、優れた物語設定ばかりの『ウルトラセブン』では決して考えられないことです。

 そんな評価の『ウルトラマン』に関するドキュメンタリー作品を観ることにしたのには幾つかの細かな理由があります。一つは、映画の作りとしてほぼ同構造で、『悪魔のいけにえ』が如何に自分の人生や価値観、キャリアに影響を与えたかを著名人が語りまくる『チェイン・リアクションズ』を4月に鑑賞しましたが、非常に面白い作品だったことがあります。特に感想を述べる人物群に既知の人物が含まれていると、とても面白くなります。『チェイン・リアクションズ』の場合にはスティーブン・キングの存在が大きかったと思えます。また、登場人物達が挙げる比較材料の映画や物語などに自分の既知のものが含まれている場合も多々ありました。これも作品の面白さを格段に高める要素だと思います。

『チェイン・リアクションズ』では『悪魔のいけにえ』について5人がシンプルに話すだけでしたが、本作においては、映画.comで見る限り、登場人物は非常に多いようで、多少期待が膨らんだのです。映画の内容はほぼ映画.comの説明にある通りです。(ドキュメンタリー作品ですので、普通はわざわざネタバレが危惧されるようなどんでん返しが配されていないことと思います。)

[以下引用↓]

特撮ドラマシリーズの金字塔「ウルトラマン」の60周年を記念して製作されたドキュメンタリー。

1966年に放送開始された特撮テレビドラマ「ウルトラマン」は、最高視聴率42.8%を記録し、社会現象を巻き起こした。誕生から60年が過ぎた現在も、円谷プロダクションは新たなウルトラマンシリーズ作品を次々と世に送り出し、世代や国境を越えて愛され続けている。

本作は「怪物」「万引き家族」などの映画監督・是枝裕和が企画を手がけ、映画・特撮・デザインなど各分野を代表するクリエイターが多数出演。映画監督のギレルモ・デル・トロ、是枝裕和、ニコラス・ウィンディング・レフン、ゲームクリエイターの小島秀夫、アニメ監督の庵野秀明、特撮監督・映画監督の樋口真嗣ら国内外の第一線で活躍する人々が独自の視点で語りつくし、「ウルトラマンとは何なのか」という疑問をひも解いていく。主人公がヒーローでありながら怪獣のバックグラウンドも丁寧に描くという世界観や、ウルトラマンと怪獣双方の造形が持つ強い魅力に迫るとともに、円谷英二や当時のスタッフの発想と仕事にも光を当て、ウルトラマンがどのようにして世界へ広がっていったのか、その歩みをたどる。

2026年製作/105分/G/日本
配給:TOHO NEXT、円谷プロダクション
劇場公開日:2026年7月3日

[以上引用↑]

 上映開始時間20分ほど前に到着したロビーでパンフを求めて売場に行き、パンフが元々制作されていないことを知ってがっかりしました。その後、シアターに入ると、15人ぐらいの観客がいましたが、私達よりも後にさらにぽつぽつと観客が加わり総勢25名程度になりました。このシアターは先月『君は映画』を観たシアターです。マルチプレックスの館で(それも基本的にあまり好きではない映画館なのに)、これほど短期間に同じシアターで映画鑑賞するケースはあまりないように思えます。このシアターはこの館で最も座席数が少なく86席しかありません。それに対して3割程度の稼働率というのは、封切1週間余りと考えると少な過ぎるように感じますが、この作品のマイナーさを考えると、やたらに健闘しているようにも感じます。この作品を観に行った当日の映画.comのレビュー点は5点満点中3.5ですから決して悪い方ではありません。それを加味すると、やはりちょっと動員が少なめと考える方が妥当なように思えます。

 私達以外に2人連れの観客はもう1組いて、40代ぐらいに見える男女でした。それ以外は全員が単独客です。私の知己ともう1組の2人連れの1人以外に、女性単独客は2人しかいませんでした。1人は30代後半、もう1人は明らかに20代でした。つまり、全体で25人程度の観客に対して4人しか女性がいない性別に大きな偏りのある観客集団ということになります。残った男性の単独客の年齢層は30代から40代に偏っており、それ以外の年齢層の男性は私も含めて数人しかいなかったように思えます。

 劇中に登場し、ウルトラマンについて熱く語る人々は概ね1960年代前半の生まれで、(国内のみならず海外においても現地の)リアルタイムにテレビでウルトラマンの放送を観て、深くそのイメージを脳裏に刻み込み、その後の生業に対して強い影響を受けた人々でした。それに対して、見回した限り、どうも、観客は劇中の人々の語りに強く共感する世代に見えないことは、少々驚きでした。

 観てみると、非常に面白い作品でした。ドキュメンタリー作品はハズレか当たりかに大ブレすることが多いように思っていますが、今回は間違いなく当たりだったと思います。最初は映画監督の是枝裕和がLAを訪ねる所から始まります。訪ねた先で待っていたのは、これまた映画監督のギレルモ・デル・トロでした。この二人の対談シーンは、その後、さまざまなインタビューイーが登場する合間に何度も登場し、この作品全体の軸となっています。

 私にとっての是枝監督は、『幻の光』や『空気人形』などの往年の名作の監督でしかなく、彼を有名にした『海街diary』もDVDで公開からだいぶ経ってから流して観た程度で、彼にパルム・ドール賞をもたらした『万引き家族』もどうもいま一つ安藤サクラを観る気が湧かず、観ていないままになっています。寧ろこれらの作品の監督というよりも、私にとっては、珠玉の名作ドキュメンタリーである『エンディングノート』の監督にして劇中で死を迎える主人公の実の娘である砂田麻美が師事した人物ということの方が遥かに大きな事実です。今回初めて彼のウィキのページを見ると、「TV作品ではウルトラマンやウルトラセブンに描かれた怪獣や宇宙人に差別や戦争のメタファーを託した名作たちに影響を受けた。」という文章があり、このドキュメンタリー作品の出演者の立場のみならず、「企画」という立場でもあることの理由が透かし見えてきます。

 そしてこうした子供時代に『ウルトラマン』から受けた印象に、よく言えば強く影響された、悪く言えば呪われた状況は、この作品に登場する人々にほぼ共通していることとして描かれています。彼と対談するデル・トロも、画面のフレーム外の通訳を介しているのか、かなりぎこちない進みの対談の中で、延々と彼のウルトラマン愛を語りますが、それもすべて彼が子供の頃メキシコで放映された『ウルトラマン』を観たことに端を発していると語られています。空き缶を材料にして、ウルトラマンの顔を自分の顔で再現しようとして、空き缶の切り口で首を切ったなどと喜々として語っています。

 劇中で語られる論点の多くは、『ウルトラセブン』崇拝者の私でも、『ウルトラセブン』が『ウルトラマン』の直後の製作で、ほぼ同時代の同制作者による作品である以上、共通事項は多く、かなり知っていることばかりでした。たとえば、ウルトラマンの顔のシンプルさは能面などのように表情の解釈の余地を観る者に残す構造になっていることや、その表情はアルカイック・スマイルであるということなども、非常によく言われる論点です。他にも、時代背景などから制作秘話を紐解くような(例えば、娯楽の王様としての映画の時代が陰り、テレビに移行する中で、特撮技術による撮影はそのどちらの分野でも付属物扱いであったことなどの)内容も、それなりに既知のことが多く、そういう意味では、『ウルトラマン』のレイ・パーソン向け作品内容と感じる部分も相応に存在しました。

 ただ、そうした既知の論点に幾つもの細かな情報が加えられたようにも感じます。例えば、正義と悪の対決構造についてです。パット・キャディガンというかなりふくよかな1953年生まれの白人女性が登場します。パンフレットもないので英語版のウィキの情報を読むと劇中でも紹介される『ウルトラマン』のノベライズ(2023年)以外に、『ウルトラセブン』のノベライズ(2025年)も手掛けたSF作家です。

 彼女の英語の語り口は、異常なほどに口語体で、全く気取ったところもすかしたところも感じられません。そして、その親しみを持てる口調で、子供時代に彼女が当初親しんできたSFモノでは、「悪の化身たる悪役が出てきて、悪だくみをし、悪事を働き、そこに全く何かの必然的な理由はなく、悪役だから悪事を働くという理屈だけ」と力説します。この英文がすこぶる楽しく、私はこの英文を知るためにだけでも、DVDの購入の価値があると鑑賞中に確信できました。何となく以下のような文章で、何度も何度も執拗に力を込めて evil を繰り返し強調していました。

The evil guy comes in, He is evil. He thinks evil things and does evil things. It’s just because he is evil. That’s all.

 そして、そのような単純善悪対峙の物語とは一線を画した『ウルトラマン』の世界に衝撃を受けたと語るのでした。同様の解説はデル・トロがこれまた熱く語っています。デル・トロはメキシコが日本同様に現地の宗教に外からもたらされた宗教が混じり合った場所で、そこでは生物や自然現象にさえアニミズム的な神性が存在していると語ります。そして、『ウルトラマン』の中の怪獣はモンスターでありながら、寧ろ神と言うべき存在で、ウルトラマンと陰と陽を成すコントラストの中で登場しているというのです。なかなか興味深い見解です。(これに対して、米国などの典型的物語ではモンスターはただモンスターで、動物や植物などをベースとしたり外宇宙からの存在であったりしながら、何らの理由も背景も思想もなく人間を襲う存在ということになっているとも力説しています。)

 さすが、ウィキにこんな人物評が書かれているだけあります。

[以下引用↓]

日本の特撮、アニメ、マンガに造詣が深いことで知られる。他の日本の作品としては円谷英二『ウルトラシリーズ』、九重佑三子の『コメットさん』、永井豪『マジンガーZ』、『鉄人28号』、『スカイヤーズ5』、高畑勲、谷口ジロー『遥かな町へ』、『攻殻機動隊』、『マグマ大使』、手塚治虫、伊藤潤二、大友克洋、弐瓶勉、韮沢靖などに影響を受けている。また、影響の一例として『ブレイド2』の衣装は韮沢からの影響が大きかったと語っている。デビュー作『クロノス』は、コメットさん第75話『わんぱく受験生』が発想の根源である。

デル・トロが公開しているコレクションの一部に、小泉八雲、河鍋暁斎、水木しげる、菊地秀行、天野喜孝、士郎正宗、浦沢直樹、鬼頭莫宏、男鹿和雄、椋尾篁、井上直久、今敏、森本晃司、楳図かずお、山咲トオル、竹谷隆之、寺田克也、正子公也、若杉公徳、岩明均、五十嵐大介、岩井俊雄、山口貴由、奥浩哉、諸星大二郎などの書籍があることも確認できる。

[以上引用↑]

 私も留学時代以来ずっとこの二元論的単純バカの世界観には辟易してきた人間で、その根本を辿るとセム一神教の世界観に辿り着くのであろうと確信していましたが、直接的ではないものの、ほぼ同じことをフィルムの中で明確に語る人物が登場したことには胸がすく思いでした。もっとも、そうしたことも、日本のコンテンツがどんどん海外に浸透していきつつある現在、大分変って来ているとは思えます。

 敵と見做せそうな主要登場キャラでさえ、明確なそうあらねばならない正当な理由を持ち、正義も悪もなく諍い、そしてその後の物語では共闘の場面も多々出てくるなどは、日本のコンテンツでは有り触れています。たとえば刀モノや忍者モノがウケるというステレオタイプ的日本好きが多いという理由も大きいかと思いますが、『BLEACH』や『NARUTO』は今でもヒットコンテンツであり続けています。こうした物語の中には正義と悪が分かれていません。それが受け容れられるようになった欧米社会の話を聞くと、私は隔世の感を禁じ得ません。最近、あの米国でさえ、日本に原爆投下したのは正当化できないと考える人々がアンケート状半数に迫る勢いと聞き驚いたことがあります。それもこうした日本的価値観の物語の大量な浸透による部分が大きいのかもしれないと思えてくるのです。

 文化的解釈で言うと、『シン・ウルトラマン』の監督を務めた樋口真嗣が、米国で製作された『ウルトラマンパワード』に関わった際のエピソードも非常に興味深いものでした。ウルトラマンはウルトラマンとハヤタが一心同体なのであって、ハヤタが超人的な能力を獲得してそれを発揮するのでもありませんし、宇宙人であるウルトラマンが地球人に化けて紛れているのでもありません。(ウルトラセブンはウルトラマンと異なり、宇宙人ウルトラセブンが人間の姿に変化(へんげ)している状態です。)このどちらかになった方が話はシンプルですし、個人主義で個々の判断で個々の正義を貫く構造が当たり前の米国人には、わざわざウルトラマンの設定がこのような形になっていることの意義が全く理解できないと言われたのだそうです。曰く「変身とはいうものの、なぜ他者に『悪と戦うこと』を委ねるのか分からない」とのことでした。

 非常に面白い論点です。樋口もその明確な答えを持っていず、その場でも答えに窮したようなことを言っていました。彼のインタビュー時点での解釈は、「日本人は弱い自分や限界のある自分を理解していて、それを神様や何か強いものに助けを求めたり任せたりする発想があるのではないか」というようなものでした。確かに山や海に荒ぶる神々がおわす国ですから、一人の人間のできることなどたかが知れており、ことを為すなら大いなる力を借りるか、民草が集まって総意で当たるかの何れかになるような展開が多いように思えます。『ゲッターロボ』や『コンバトラーV』(、さらに実写版なら『超人バロム・1』から最近漸く終わりを迎えたらしい戦隊モノまで)のように複数人のチームワークが前提のソリューションがかなり早い段階から物語として登場しているのも、同じ背景と考えられなくはありません。

 米国のコミックの世界にも、アヴェンジャーズやジャスティス・リーグのようなグループはありますが、元々個々単体の存在ですし、緻密な連係プレーが常に求められるような想定ではありませんし、まして一つの基地の中で衣食住を共にしているようなチームであることはほぼないでしょう。これも先述のセム一神教的な世界観に拠るものと考えられるでしょう。

 樋口はもう一つ面白い論点を終盤で述べています。それは彼が学校で教えた際に、ウルトラマンを観て育っていない世代が存在するという彼の驚きについてのエピソードです。彼はウルトラマンを(この作品の他の登場人物同様に)SF特撮作品の原点のように捉えており、それが映し出す社会観や世界観の学びも非常に重要なものであると認識しています。『ウルトラマン』に始まるウルトラシリーズはその後も綿々と作り続けられているように私は感じていましたが、実際にはブランクの期間があり、その時期に子供時代を過ごした年代の生徒は、彼から見ると古典的原点を知らずして特撮SFの世界を学ぼうとしているように見えるということのようでした。

 これも現場的な面白い事実です。しかし、私は必ずしもこの意見には賛同しません。それは、以前、『シン・ウルトラマン』を観た際に、『シン・ゴジラ』から連なる『シン・ウルトラマン』の制作コンセプトを語る彼の文章に、少なくとも私には傲慢に感じられる思想を嗅ぎ取ったことがあるからです。それについて『シン・ウルトラマン』の記事には以下のように書いています。

[以下引用↓]

 私にとってそのようなウルトラ・シリーズのワン・オブ・ゼムである『ウルトラマン』全39話の全体の流れに一貫性を持たせるような設定をメフィラス星人転じて「メフィラス」の存在や光の星の宇宙管理的な役割などを盛り込んだものにして、約2時間の尺に収めたのがこの作品です。テレビ版のエヴァの『シト新生』と『Air/まごころを、君に』の内容を、往年の『ウルトラマン』のあるべき背景物語として(現代を舞台にして)まとめたような存在でした。現実にパンフレットにおいて監督は…

「これは『シン・ゴジラ』もそうだったんですが、過去に作られた、僕らが観て育った素晴らしいものを、どうすれば今の人たちに同じような感覚で伝えられるのかを考えましたね。例えばオリジナルの『ウルトラマン』が良かったと僕らが言っても、あの作品は物語自体が未来の話だけれど、今観ると過去のものに見えてしまう。その題材を、オリジナルを知らない新しいお客さんに見せる時に、今の物語、映像としてアップデートして提供することで、僕らが少年時代に熱狂した感じを共有してもらうことができるのではないかと。そういう形で『シン・ゴジラ』は作ったんです。1954年に作られた『ゴジラ』の第1作で起きたことを現代に置き換えて、今の世界に異物としてのゴジラが現れたら、こんなことになるだろうと。それを今度はウルトラマンでやってみようということで、作る姿勢は『シン・ゴジラ』と繋がっていますね。」

 と言っています。

 なるほど。意図するところはとてもよく分かりますが、エヴァ風味のテンプレートに流し込むと「現代の人々が“熱狂した感じを共有”できる」と考える所に微かな傲慢さを感じてしまいます。元々クリエイティブな作業は傲慢で良いと私は思うので、それはそれですが、エヴァ風味に何でもリメイクしたい。そうすれば儲かるという本音が透けて見えるように思えてなりません。

 同様な試みでウルトラマンやウルトラマン・シリーズをモチーフにしたものは、既に色々存在しますが、その中にはかなり優れた作品が存在します。映画作品なら2004年に制作された『ULTRAMAN』です。『ウルトラマン』を第一話をベースにしつつ、全くオリジナルの物語を、その時代に即した新たな物語として作り込んでいます。そのウルトラマンはウルトラマン・ザ・ネクストと呼ばれていますが、非常によくできた物語で、続編も公開されると告知されましたが、残念なことに日の目を見ませんでした。

 コミックでは現在進行形で、ウルトラ・シリーズ全体を完全に翻案した、パラレル・ワールド的な物語でさえない、非常に練られた物語が続いています。私もコミックをすべて買っている『ULTRAMAN』です。地球人や宇宙人が特殊なスーツを着込むことで“ウルトラマン”状になるのですが、ゾフィーからレオ、アストラまで個々のキャラクターが、それなりに原作の設定を微妙に引き継ぎながら、「なるほど」と唸らせられる世界観と新キャラ設定の中で活躍しています。非常によくできた物語です。

 それらの取り組みに比べて、今回の作品は、先述の監督の意図にもある通り、あまりにも発想が薄っぺらい気がします。その薄っぺらさは、これも先述の通り、映画とコミックの『ULTRAMAN』二作が大胆な翻案によるオリジナルな世界観をきちんと作り上げて、矛盾なく完結させている(/させつつある)のに対して、今回の作品は、ほぼオリジナル作品を踏襲しながら、見ようによっては中途半端なキャラの再設定とエヴァ・テンプレへの流し込みで成立しているように見えることではないかと思えます。

[以上引用↑]

 古典的な作品は、時代を超えても尚、後続する膨大な作品群の中に埋もれることのない輝ける価値を燦然と放ち続けるから古典足り得るものと思われます。『ウルトラマン』が仮にそのようなものであるのなら、わざわざ、それを樋口が心配しなくても学生達は観て学びを得ることになるのではないかと思えます。知らない学生が現れて、もし樋口本人が『ウルトラマン』にそうした古典的な価値があると信ずるなら、それを自身の教授内容として学生達に伝えればよいだけであるように思えます。「知らない人間がいることに驚愕した」という傍観者的な意見がまた胡散臭さを漂わせているように思えます。

 この点に関して、劇中の登場する小島秀夫が透徹した考えを述べています。私は彼をよく知りませんでしたが、ゲームをほぼ知らない私でも名前だけは認知しているメタルギアソリッドを制作したゲームクリエイターなのだと、劇中のほんの僅かな人物紹介情報で知り、鑑賞後にウィキで確認しました。彼もまた、この作品の登場人物の典型的枠内の人物です。ウィキで見る彼の生い立ちから学生時代の話が、それを示しています。

[以下引用↓]

製薬会社の薬剤師だった父は大の映画好きで、幼い頃から家のテレビでは映画が毎日流れていた。父の影響により小説や映画を嗜むようになり、小学生の頃に『刑事コロンボ』のノベライズに熱中し、以後ミステリー小説、SF、冒険小説などを愛読するようになる。小学5年生で一人映画館に通うようになり、将来の夢に作家を意識するようになる。自ら漫画や小説を書くことも始めた。

映画監督か小説家を志し中学から高校まで友人と自主映画の制作を行っていた。そのため芸術大学への進学を希望していたが、既に父親が死去(小島が中学2年生の頃)していた家庭の事情により、断念。普通大学(大学名は非公表)に進学する。

[以上引用↑]

 私もテレビシリーズの『刑事コロンボ』にハマり、やはり『刑事コロンボ』の小説を全巻揃えて読み耽った人間で、比較的最近になってから、DVDボックスを購入した人間ですので、彼の観ていたものがそれなりには想像できます。彼は彼の作るものの中にウルトラマンが宿っていると語っています。そして、意識的なものにせよ、無意識的なものにせよ、そうした影響とかオマージュなどは、どうやってもそこに存在していて、仮にウルトラマンを知らない人間が彼の作品群に親しんでも、結果的にそこに潜んでいるウルトラマンの要素を知り傾倒する結果になる…といった趣旨の発言をしているのです。卓見だと思います。

 彼は『ウルトラマン』を作り上げた人々の世代についても客観的な彼の認識を披露しています。彼の父は戦争を学生時代に体験し、ぎりぎり出征を免れた世代だと言います。その父の世代は戦艦も戦車も戦闘機も好きでした。しかし戦争の無意味さを体で分かっているので思想的には反戦という矛盾した思考を持っていると彼は指摘します。その世代の人々が作り手となって、情熱を傾けたのが『ウルトラマン』で、この矛盾が製作態度に現れているのだと語るのです。そしてそうした世代が子供に伝えたいと思ったことは全然子供向きの話ではなく、社会矛盾、政治矛盾を衝き付けるものになったといいます。とても面白い考え方です。特段私の体験の中に同意の根拠がありませんが、劇中に描かれる円谷英二をはじめとする制作陣の留まるところを知らない情熱と献身を見ると、確かにそんなことがあって不思議ないだろうと思えてなりません。その姿勢がさらに先鋭化したのが『ウルトラセブン』であるように私は感じますし、だからこそ『ウルトラセブン』はウルトラシリーズの中で、孤高の存在足り得たと思います。

 この作品の中の多数の登場人物の中で、4、5番目ぐらいの長さの尺が費やされているのが先述の樋口真嗣の盟友であろう庵野秀明です。若き才能が集結して、映画界にもテレビ界にも通じる表現技術としての特撮を追求すべく設立された円谷プロが最初にテレビシリーズとして制作したのは、劇中では『ウルトラQ』だと紹介されています。そして、SF特撮のテレビシリーズのパターンを確立させた後…

■主人公が記者が一応民間人の立場なのに、毎回怪獣に行き当たるのは不自然なので、怪獣出現に対応する人間の組織を作った

■さらに怪獣と対峙する怪獣と同サイズの宇宙人を配置することとした

という、その後のウルトラマンのシリーズ作品で延々と踏襲される定番の物語の形を創造することになったと説明されています。その「発明」の影響力の大きさが分かります。しかし、庵野は、音響の処理も光学処理も素晴らしく、後続作品の原点となるものが『ウルトラマン』で出尽くしているというような趣旨を述べています。知ってしまった以上、このフレームワークから逃れることができないという主旨をやや悔しげに語ります。『ウルトラマン』の反対なものを作ることもできれば、『ウルトラマン』の発展形を作ることもできるが、『ウルトラマン』とは全く独立したものを作ることができない状態を指して、「呪い(呪縛だったかもしれません。DVDで確認したいと思います。)」とさえ言っているのです。

 芸術作品のほぼすべては何かの先行作品の特徴を取り込んだものであるというのは、或る意味常識です。芸術のみならず、科学研究の分野においては寧ろそのような連綿と続く研究・発見の連鎖は当然のことと認識されているでしょう。(だからこそ、論文の評価が参照回数で決まるなどという話になったりします。)それを呪いと考える必要を私は全く感じず、寧ろ構造主義的な観点からの一つの構造と捉えるのが自然であり、人間社会における常識なのではないかと私は思います。

 ただ、先行事例が余りに偉大で崇高な場合、確かにその束縛力は暴力的で、その反復模倣が精一杯ということも確かにあるだろうとも思えます。例えば、私は既に26年以上、毎月二回メルマガの形で経営コラムと題した経営に関する短い文章を発信し続けています。毎年一回発行する周年記念特別号の中でも述べていますが、その文章の展開は、偉大な書き手である深代惇郎の『天声人語』から学んだものです。26年書き続けていますが、それを凌駕するような何かの構造やパターンが見いだせることもありませんでしたし、私が知る幾つかの、心に突き刺さり抜けないナイフのような鋭利さを持つ深代惇郎の作品を越えたと思える文章は一つも生まれていません。しかし、私は深代惇郎の文章を至宝と認識することはあっても、呪いと認識したことは全くありません。有難く学ばせていただいた素晴らしい財産としか思っていないのです。

 そんな私のコラムでも長年の読者は存在し、「面白い」、「学びや気づきがある」、「自分の身に当てはめると嫌な気持ちになる。しかし、だからこそ止められない」などと仰います。そのようなことができるようになった状態を私は呪いとは感じません。そして、私の文章だけを読み、興味深いと感じた人々は、仮に深代惇郎を知らなくても、深代惇郎が編み出した珠玉の文章群の眩い輝きのほんの僅かな片鱗を、私の文章の中に見ているのだと思います。それは小島秀夫の指摘する通りだと思えます。

 もし仮に庵野が呪い/呪縛と呼ぶこうした状況を打破するのなら、『ウルトラマン』以外の別のインプットを大量に浴びることで、『ウルトラマン』の呪い/呪縛を薄めることぐらいが辛うじてできる対策であるようには思われます。しかし、嘗てのデル・トロのように地球の裏側に住む少年でさえ強烈な信奉者に変換する『ウルトラマン』の力ですから、そうした別次元のインプットの存在が今となってはかなり稀少であるのかもしれません。

 庵野は指摘していませんが、撮影技術、作品制作技術という面では、円谷英二の発明には着ぐるみの採用があると劇中では円谷英二と共に制作にあたった撮影技術者が述懐しています。それまでの海外SFなどを中心に巨大生物などは(円谷が自分用のフィルムコピーを作って何度も見ていたキングコングも)ストップ・モーションで長い時間をかけて撮影するという技法が取られていましたが、そうした巨大生物を着ぐるみにすることによって、圧倒的な制作時間の短縮に成功した述べられています。しかし、よく考えてみると、その後もテレビシリーズで数々の怪獣が着ぐるみで登場するような作品が海外作品で見当たらないことから、素人の私でさえ、単にストップ・モーションから着ぐるみに変えただけで安易に事が進んだのではなく、さらに数々の工夫を重ねたことで着ぐるみの撮影技術が短納期を可能にしたということなのであろうと理解できます。

 また、この着ぐるみの怪獣のデザインの洗練された状況についても、この作品は多くの尺を割いています。私達は怪獣番組で見慣れてしまって、全くその素晴らしさを認識していないように思えますが(少なくとも私はそうです)、毎週登場する怪獣や宇宙人の外観の洗練さもウルトラマンのデザインと相俟って『ウルトラマン』の「発明」というべき、後続作品に強い影響を与えた事柄だと説明されています。

 映画はウルトラマンと怪獣・宇宙人のデザインに当たった成田亨にフォーカスしています。中盤までは単に本人の制作当時の画像が紹介される程度でしたが、後半になって、息子で俳優の成田カイリ(漢字表記は成田浬ですが、劇中ではなぜかカタカナで表示されています。)が登場し、当時の父親との会話の記憶なども織り交ぜながら、こうしたデザインがどのように為されたのかを語るのでした。

『ウルトラセブン』の頃には、途中から円谷プロを離れた成田亨は、その後、どんどん円谷プロとの関係が悪くなり、著作権をめぐっての訴訟沙汰にまで発展するほどになったことを私は知っていました。そして、『ウルトラセブン』崇拝者の私にとっては、成田亨はその“生みの親”達の中では影の薄い存在でした。ですので、今回の劇中で紹介されたことには、それなりに新しい情報が混じっていました。

 ウルトラマンに関しては「いまだかつてない格好のいい美しい宇宙人が欲しい」と企画立案から脚本まで担当した金城哲夫から依頼されて成田亨が製作に当たったことが語られています。顔の中の鼻と耳が美しくなく、そのディテールを削ぎ落とすことにこだわったことや、(本当に強い者は危機にあたって微かに笑うと成田が考えたことから)表情にアルカイック・スマイルを採用したことなど、息子の立場から記憶を手繰って説明されます。そして、完成デザインは二次元では描き切れないと判断した彫刻家でもある成田が、完成デザインを示すために彫ったウルトラマンの彫像も登場します。

 怪獣のデザインについても、少なくとも私には発見がありました。デル・トロが言っていた通り、米国の作品のモンスターはただのデカい生物で、場合によっては、それが奇形になったり、何かのグロテスクな変形を経ているものであることを改めて認識しました。そしてそうではない『ウルトラマン』の怪獣・宇宙人の外観には、成田亨がデザインが安易な発想に流れないように設定した三原則があったことを初めて私は知ったのです。劇中に紹介された三原則の文章表現とはやや異なりますが、成田亨のウィキに載っているそれは以下のようなものです。

[以下引用↓]

成田はコスモス(秩序)の象徴としてのウルトラマンに対し、怪獣はカオス(混沌)の象徴という理念でデザインした。あらゆる生物や無生物からヒントを得ながらも意外性を求め、自由な変形や組み合わせにより独創的な形の創造を目指した。演出家や監督は、ウルトラマンに対峙する怪獣は恐ろしい外見をした悪役らしいインパクトのある物にしようと考えていたが、成田は内臓が露出していたり、顔が崩れていたりする嫌悪感を示すような怪獣は子供番組に適さないと考えた。そこでウルトラ怪獣のデザインに当たり、

●怪獣は妖怪ではない。手足や首が増えたような妖怪的な怪獣は作らない。

●地球上の動物をそのまま大きくしただけの怪獣は作らない。

●身体が破壊されたような気味の悪い怪獣は作らない。内臓が剥き出しであったり、脳がはみ出たり、血をダラダラ流さない。

という三つの規範を定めた。また、侵略宇宙人のデザインについて、「地球人にとっては悪でも、彼の星では勇者であり正義なのだから、『不思議な格好よさ』がなければいけない」とも述べている。

[以上引用↑(やくものは私が付け加えました)]

 子供向けだからと言って手を抜くことがないばかりか、子供向けだからこその配慮をデザイン上の大きな枷として設定して、作業に向き合っていたことが分かります。私は経営支援の仕事の中で、アダルトグッズの新製品開発のプロジェクトにも関わったことがあります。その際に、「そんな業界でまともな仕事はできないでしょう。もっといい仕事をしたほうがよい」などと訳知り顔で私に宣う人々がたくさんいました。私が関わったアダルトグッズ業界でもAV制作業界でも、購入者の立場や視点を意識して真摯にものづくりに当たっている人々は存在しますし、日用品や工業製品の製造業であっても、IQを疑うような馬鹿げた経営判断をしたり、社員の女性を妊娠させた挙句に堕胎を迫る経営者など、愚昧な組織構成者はいくらでも見つかります。

 対象が何であっても手を抜かず仕事に向き合う結果として、抜きんでたものが生まれることがあるというだけの話だと思われますが、映画業界とテレビ業界の狭間にいた新進気鋭の若者群の事業には、そうした真摯さと熱病のような没頭が必要だったのだろうと思えてなりません。このドキュメンタリーはこうした努力の積み重ねで、『ウルトラQ』から『ウルトラマン』に至ったブレイクスルーは描いても、その後の『ウルトラセブン』辺りから成田亨も金城哲夫も離れて始まる凋落の兆しや、その結果の『マイティジャック』や『怪奇大作戦』の壊滅的な状況などには一切触れていません。そしてもちろん、成田亨の離反から敵対に至る流れもその経緯を間近で見てきたはずの息子の口から一切語られないままで終わるのでした。

(私は『怪奇大作戦』ぐらいがものごころもついてリアルタイム世代として見ましたが、あまり記憶に残る印象がありません。寧ろ、1995年にテレビ放送されてカルトな大人気を博したのに、一向にDVD化されない『BLACK OUT』の方が(『怪奇大作戦』の直系同ジャンルの作品でリメイク作品群の中にウィキではグルーピングされていますが)非常に好きです。)

 尺の都合もあり、テーマを絞ると、偉大な発明品としての『ウルトラマン』が後世に与えた呪縛とも言えるぐらいの影響の大きさを説明したということになるのかもしれませんが、『ウルトラマン』という作品制作の光の部分のみについて、崇拝者の口から主に語らせる構成にはちょっと興醒めな感じが否めません。それでも、出演した役者陣まで含め、2ケタに登る登場人物それぞれの人生にまで大きな影響を与えたSF特撮の変曲点である『ウルトラマン』の「重さ」を改めて意識させられる作品でした。

 先述の通り、私は『ウルトラセブン』が大好きで、(『ウルトラマンブレーザー』は相応に気に入りましたが…)ウルトラシリーズの他のどんな作品よりも『ウルトラセブン』には屹立した面白さがあると考えていましたが、その面白さが屹立するためのインフラは間違いなく『ウルトラマン』によって完成していることが理解できました。興醒めな部分はややあるものの、とても面白い作品でした。色々と見返して確認したい内容があるため、DVDは当然買いです。