5月15日の封切から漸く1週間が経とうとしている木曜日の午後14時10分の回を池袋西口の老舗ミニシアターで観て来ました。今年の2月に『なりすま師』と『ヒューマンエラー』という同時上映の2作品を観ていますから、新宿以外のエリアの映画館としてはかなり高頻度で訪れています。
この作品は封切から1週間経っていない状態で、つまり封切時から非常に上映館数が限られています。都内では新宿の明治通り沿いの1館とここだけです。全国に拡大しても、神奈川、栃木、大阪(梅田)が加わってたった5館になるだけです。少なくとも都内の2館を見る限り、上映も1日1回しか行なわれていないお寒い状況です。
実際に観客動員の状況も同情してしまうほどでした。劇場に到着したのは14時5分で元々私は14時40分だと思っていましたが、到着したチケットカウンターで14時10分開始だと認識し、慌ててチケットを購入し、トイレに行ってシアターに入りました。14時40分の開始の認識は、間違いなく何処かのサイトで事前チェックした際にそう書かれていたはずで、手帳やメモなどにも複数箇所に書かれているのですが、なぜか現地では14時10分開始になっていました。こうしたことや上映回数の一方的な変更などは時たま発生する事態だと認識しています。
シアターに入ると、私以外に5人の観客がいて、その後、上映開始後に1人増えましたが、私も含め合計7人にしかなりませんでした。6人の内訳は女性1人、男性5人で全員が単独客でした。年齢層はまあまあ高めで、女性は50代ぐらい、男性は30代後半ぐらいが1人で、それ以外は60代以上という感じでした。
私のこの作品に対する鑑賞動機はかなり希薄です。まずは端的に上述の通り、全国でもレアな上映作であることです。あまりDVD化もされなさそうですし、配信も危うい状況に思えます。上映館・上映回数の規模の小ささもさることながら、上映期間でさえ決して長そうには見えません。つまり、観る機会そのものがレアな作品であるということです。
ただ勿論、レアなら何でも観る訳ではありません。レアな中でこの作品を選んだ理由は、これが谷崎潤一郎原作の作品であることです。谷崎潤一郎の作品は過去にも多数の映画作品が存在しますが、今回、数作が特定プロジェクトの下で制作されたようです。映画.comの作品紹介にもその言及があります。
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谷崎潤一郎が大正3年(1914年)に発表した短編小説「饒太郎」を原案に、人間の欲望と倒錯した美意識を現代的に再構築した官能ドラマ。谷崎潤一郎の生誕140年を記念した映画プロジェクト「TANIZAKI Reimagined」の一作として製作され、愛と屈辱、快楽と芸術が交錯する物語を描き出す。
文藝賞を受賞し華々しくデビューしたものの、その後はスランプに陥った小説家・泉饒太郎。創作の刺激を求めて堕落した生活を送り、写真家・貴島蘭子との関係にも満たされない思いを抱えていた。そんな中、編集者から取材対象として、かつてパパ活で3000万円をだまし取ったことで「美しき犯罪者」として世間を騒がせた女性、海原杏奈を紹介される。従順に見える彼女の奥に潜む異様な気配にひかれた饒太郎は、やがて自身の欲望を満たす存在として杏奈に強く執着していくが……。
主演は「PARALLEL パラレル」「ゾンビ 1/2 Right Side of the Living Dead」などで注目を集める芳村宗治郎、ヒロイン・杏奈役に「カフネ」「安楽死特区」の山﨑翠佳。共演に「セフレの品格」の行平あい佳、ドラマ「被写界深度」の平野宏周ら。監督は、田山花袋の小説を現代に置き換えて描いた「つゆのあとさき」を手がけた山嵜晋平。
2026年製作/102分/R15+/日本
配給:スターキャットアルバトロス・フィルム
劇場公開日:2026年5月15日
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この「TANIZAKI Reimagined」という言葉を映画.comで逆引きすると、関連ニュース記事が幾つか登場し、このプロジェクトの作品群が、「人間の欲望や倒錯、フェティシズムを冷静な筆致で描いた2作品を原案とする長編映画が製作され、「JOTARO」が5月15日、「お艶殺し」が5月29日に公開」であることが分かります。谷崎潤一郎の作品群はどれをとってもかなり「人間の欲望や倒錯、フェティシズムを冷静な筆致で描い」ているので、なぜこの2作品が選ばれたのかよく分かりませんが、少なくとも、この原作『饒太郎』も『お艶殺し』も私は未読です。
読んだ作品数は少ないですが、谷崎潤一郎は私の中で特殊な位置づけの作家です。吉行淳之介の作品が原作の『星と月は天の穴』の感想記事で私は以下のように書いています。
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一つはこの原作が吉行淳之介の原作であることです。私は主に小学校高学年から中学校にかけての時期に一部の日本近代小説を読み漁りました。特にお気に入りは芥川龍之介、太宰治、森鴎外で特に短編ばかりを集中的に読んでいました。さらにそこから、どハマリになったのが安部公房で、余力を駆って読み始めたつもりがどんどん嵌る筒井康隆になり…とぐちゃぐちゃに読み進めて行きました。同時期に書かれた他の作家の代表作も一部読みましたが、そこから新たな嵌る作家を見出すことはありませんでした。
私が小学校高学年から中学校、高校に至るまでどうしても読み終えることができなかった小説があります。それは谷崎潤一郎の『痴人の愛』です。若く妖艶になったナオミに翻弄されても追い縋る主人公の男の姿に全く共感できないどころか、激しい嫌悪感さえ湧く程で、なぜこれが名作なのか全く理解ができませんでした。それを克服しようと、都合、5、6度は年に1度のペースで読んでは投げ出しを繰り返していたように記憶します。
平たく言えば、そんな私にも恋愛の形、というよりも男女の性愛のありようが段々と分かるようになってきて、『痴人の愛』を克服し、その他の作品、例えば『卍』や『鍵』、『春琴抄』なども読めるようになりました。なぜ私がここまで谷崎潤一郎の作品群を克服しようと執着したかと言えば、先に彼の『文章読本』と『陰翳礼讃』を読んで感激していたからです。そこに書き述べられた文章表現の美観とモノクロ世界の美観は、私にとって全く未知の世界の扉を開いたぐらいの衝撃でした。その衝撃の世界を作品で味わおうと思い立ったのですが、最初に手にしたのが『痴人の愛』であったことと、私が全く男女の情愛・情欲の深淵を理解できていなかったことが災いして、前述のような状況に陥ってしまったのでした。
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今回の『JOTARO』以外に私の劇場鑑賞候補作品リストの中には『お艶殺し』も含まれていますが、同プロジェクトで同様のテイストなり予算感なりで制作されているとするなら、『JOTARO』の一作でもう一作の出来栄えも或る程度占えるかと思い立ったのでした。
ただ、こうした日本近代文学の名作を焼き直して現代劇に仕立てた作品は多々存在しますが、私はあまり名作と感じる作品を観たことがありません。太宰治の作品群や谷崎潤一郎の作品群などは取り分け多数、それも『卍』や『鍵』などのように同作品が何度も映画化されているケースも散見されますが、どれも何か人間の業のようなものや性認識のようなものが、イマイチ描き切れていず、監督か脚本か、プロデューサーの自己満足の中に納まってしまっているケースが非常に多く感じられます。多くの近代日本文学作品の映画化作品の中のそうした作品群は、膨大に観ているはずですが、B級ドラマかマイルドなVシネのような印象で、殆ど記憶に残っていません。
数少ない私にとっての及第点以上の作品群で及第点ライン上にあるのが、(現代劇とは言えない時代設定のようでしたが…)夏目漱石の『こころ』を原作とした『蒼箏曲』ぐらいの感じです。この作品はDVDで観ました。部分々々を見返すほど、相応によくできた作品だったと思っています。私が近代日本文学作品の映画化作品で最も好きな作品は多分川端康成原作の『眠れる美女』だと思います。同作を原作とする映画『スリーピング・ビューティー 禁断の悦び』の感想記事の中で、以下のように書いています。
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川端康成の原作『眠れる美女』は読んでいませんが、邦画の映画化作品『眠れる美女』は、遥か以前に観たことがあります。大西結花がその館に通う義父を慕うあまり、自分もそこで眠りにつき、義父に愛して貰うことを選ぶストーリーで私は結構好きでした。義父役の原田芳雄が老いた男の心境を丁寧に表現していると感じたように記憶しています。
調べてみると、川端康成のこの原作は、今回で四度目の映画化と言うことが分かりました。私の見ていない二本のうち、一本は最初の邦画化作品で、老人の視点で描かれた名作のようにネット上のあらすじでは読み取れます。DVD化はされていない様子です。もう一本の方は、ドイツ人監督によるドイツ映画です。これも老人視点で描かれた秀作の様子です。
今回の映画は、オーストラリア映画ですが、前三作に対して、主人公が一人の貧乏女子大生である点が様相を異にします。そして、映画紹介にあるようなサスペンスもありませんし、官能と言う割には、大したエロスもありません。
単に、「金に困って、援交も厭わぬ癖に、全くまじめに働く気のない、行き当たりばったり人生の貧乏美人女子大生が、全裸で睡眠している間に挿入以外の何をされるか分からないと言うバイトを始めたら、寝ている間に何をされているか気になって仕方がなくなって、隠しカメラを初めて仕掛けてみたら、偶然、その日の相手は金持ちの空虚な人生を厭って、彼女と添い寝しながら自殺することにしていた男だったので、隠しカメラには、死体と死体のようになって眠る自分の、事実上の静止画像しか映っていなかった」と言う話です。「援交女子大生ミーツ『パラノーマル・アクティビティ』」とまとめると良いかもしれません。
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映画全盛期の作品群はさておき、近年のこうした作品群は(幾つかの太宰治作品原作の映画『ヴィヨンの妻』・『斜陽』・『人間失格』などを除いて)概ねメジャーな劇場で公開されることが少ないように思えます。それが一般ウケしない、ないしは質で評価されることが少ない作品群であることの証左と考えるべきかもしれません。さらに今回はキワモノ的な作品やB級以下に見えるような作品群が目白押しの池袋西口のミニシアターですので、取り敢えず、質を期待することは無理目と覚悟して赴きました。
劇中では谷崎潤一郎的な美に関する議論が初盤で多少登場します。曰く「美は善ではなく悪によって成立する」/「美とは…エロチシズムの中にある」などといった感じです。
先述の映画.comの案内にもある通り、映画は前半(と言っても前40%程度)と後半に分かれています。前半は写真家の蘭子との関係が破綻するまでの物語です。後半は杏奈との関係が破滅に至るまでの物語です。上に述べたような美がエロチスズムの中にあるを一応体現しているのは前半の蘭子との関係性の方です。エロチシズムがなぜ短絡的にSMに走っていくのか分かりませんが、当初は蘭子も半ば強制的に主人公を自分の家に軟禁状態にし、SM的セックスを貪るようになっていきます。しかし、蘭子は元々そうしたS性を持っているのではなく、主人公に求められたいが故にそうした役割を敢えて演じ、その恋愛関係の証しを写真作品として残そうとするぐらいの感じになっています。つまり、無理して主人公に合わせてSを演じているだけなのです。それも主人公に見透かされて破綻します。
蘭子を演じるのは不人気劇場公開作品とでも評すべき観客動員しか実現しなかった『セフレの品格』シリーズの主演女優行平あい佳です。シリーズ4作で彼女の度重なる濡れ場演技には磨きがかかったように私は思えています。シリーズ第二作での感想では…
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抄子を演じた行平あい佳という女優はウィキに拠れば早稲田大学を卒業後、フリーの助監督として働いた後に、女優にもなったようです。助監督ではどのような作品を手掛けたのか知りませんが、せめて恍惚に浸ることができるセックスがどのようなものか理解してから、自分でそれを再現して欲しかったように思えてなりません。
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と書いていますが、第三弾の感想では…
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セフレの関係を受容し、周囲の人間をも感化しようとするぐらいの抄子のセックスは、第三弾に至ってかなり唐突に官能的になっています。これは物語の設定的に、安定した婚約関係に踏み出した二人だからそういう心情をセックスの場でも表現した(その割には、幸せ感故に「何か不安で」的なことを抄子は何度も口にしていますが…)ということなのか、抄子役の行平あい佳がセックス演技に何か開眼するような事象が2023年から2025年の間に起きたのか、パンフもない作品なので全く判断の手がかりがありません。(パンフがあっても、主演女優がセックス演技に開眼したなどという記述は見られないのが普通かと思いますが…。)恋愛スキャンダル系の話をいつか乗り越えた後の蒼井優が突如妖艶な演技を披露するようになったのと類似した現象かもしれません。
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と書いており、彼女の艶技の進化が言及されています。その演技力が炸裂したのか、かなり、主人公をベルトで首締めしながら騎上位での行為中に、ベルトを引き締めながらカメラで主人公の苦悶の表情を撮影すると言った、なかなかなシチュエーションを難なくこなしているように見えました。
それはそれでよいのですが、美を含むエロチシズムがSMプレイの中に存在するのかが全く分かりませんし、深淵な性の世界に対する理解が全く足りない馬鹿げて幼稚な発想の結果の演出に思えてなりません。そして、後半はその傾向にもっと拍車が掛けられます。
杏奈は設定上、ただの「元パパ活詐欺女子」です。別にSMに詳しい訳でもなく、下手をすると、ターゲットとした男性を上手く騙してばかりでセックスにも至っていないとしたら、セックスも特に上手い訳でもなければ、変態的セックスの技を身に着けているはずもなさそうです。映画は妙にこうした事実関係に忠実で、杏奈は主人公に求められて、ど素人臭いSMプレイをしぶしぶ続け、相手の官能に合わせる様子もなくダラダラと主人公に付き合い続ける様相を呈しています。少なくとも私にはもう美はどこにも感じられません。大体にして、杏奈はセックスを劇中で一度もしていず、S役をしぶしぶ行なうだけです。真白のオッサンパンツ一丁の主人公をへたくそな縄で縛り、惰性で殴ったり蹴ったり、縄を掛けた滑車で主人公を釣りあげようとしても力が足りず満足に引き上げられないような状況です。
私はSMプレイそのものがエロチシズムに欠けるとは思っていません。例えば団鬼六の縄モノの映像は幾つか見たことがありますし、アダルト業界の縄氏の女性の話を聞いたこともあります。それらに間違いなくエロチシズムは存在していると思っています。嘗て『R-18文学賞vol.1 自縄自縛の私』という作品をわざわざ劇場に観に行ったこともあります。その感想で以下のように書いています。
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SMの縄縛りに嵌った女子大生、後のOLの物語です。彼女は大学生時代に自縄の世界に嵌り、部屋で一人鏡を前にネットで調べた縛り方をビニール製の荷造り紐で実践したりしているのですが、不意に訪れた、「健全なセックスをしない奴は変態だから嫌い」と言い張る(割には、自分は杉本彩演じる女と変態的なセックスをしている)彼氏から別れを突きつけられます。
それにショックを受けて封印していた自縄を、OLとして主任に昇格した後、部下を持たされたストレスから再開します。それも金銭的に余裕が出たせいか、ストレスが嵩じたせいか分かりませんが、本格的に麻縄をなめし、さらに手錠まで持ちいる周到な用意が必要な深い世界です。映画紹介の文章やトレーラーを観ていると、劇中、二つの大きなイベントがあるように期待させられます。一つは、自縄仲間がネット上で登場し、紹介文では「運命の人」と言うこととなっています。ネット上で、「Tさん」、「Wさん」と呼び合いつつ、どんどん自分達の自縄を人に気付かれるギリギリまで進めて行き、その破滅の波打ち際を歩くような興奮を楽しむようになっていきます。
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この作品の後半の杏奈の行為にこうしたエロチシズムがあるかと言えば、答えは間違いなく「否」です。服役を終えて猫を被って生活しているパパ活女子の本性を暴くと言う展開は面白かったのですが、パパ活女子は別にSの女王様と言う訳ではありません。男から金を毟り取る冷酷さはあっても、Sプレイができることとはかなり異なる気がします。現実に素人プレイを延々と見せるだけのおかしな展開が続く後半になってしまっています。主人公は「SMプレイでの女王様では所詮実現できない本当の悪」を求めて杏奈にこうした役割を依頼したと言っていますが、ならばパパ活女子より虐待毒親とかDV女などの方が余程適任なのではないかと思えてなりません。例えば、(河井青葉の演技がちょっときれいごと過ぎましたが…)『あんのこと』に登場したDV実母のような存在に依頼した方が良いでしょう。
因みに、AVの巨匠である代々木忠監督はそのドキュメンタリー作品の中で、AV女優の卵のような女性と面談し、彼女が(目立とうとする意図半分という感じですが)「SMプレイが好きで、虐められるのが好き」などとにこやかに答えたのを見て、「それは本当のセックスの喜びを知らないからだ」と簡単に断じている場面があります。ヨヨチュウ監督もSMプレイの喜びや悦楽を知らない訳ではありません。そこに間違いなく存在する美も理解しているでしょう。そして、それは性経験も浅い女子がにこやかに語るようなものとは全く異なるものであると私も思います。
そんな疑問が強く湧いたので、劇場鑑賞後に、生成AIcopilotさんに、私が全く読んでいない原作短編小説『饒太郎』のあらすじを尋ねてみました。
[以下引用↓]
結論:
谷崎潤一郎の短編小説 『饒太郎(じょうたろう)』 は、倒錯的な性愛嗜好(マゾヒズム)を抱える青年・泉饒太郎の欲望と破滅を描く物語です。以下に、検索結果に基づく正確なあらすじをまとめます。
『饒太郎』あらすじ(要約)
泉饒太郎は 27歳の作家。しかし作品はほとんど書かず、放蕩の生活を送り、女性斡旋業を営む松村に弱みを握られています。
饒太郎は 「自分を愛してくれる女性を嫌悪し、虐げられることで快楽を得る」 という強いマゾヒズム傾向を持っています。
● 1. 蘭子との関係
饒太郎は未亡人で美しい 蘭子 と関係を持っています。
蘭子は彼に執着し、時に暴力的に振る舞うものの、根は貞淑で優しい女性です。
しかし饒太郎は、「優しさの混じった暴力」では満足できず、蘭子への情熱を失っていきます。
● 2. お玉(お縫)との関係
次に饒太郎が目をつけたのは、盗癖があり悪女的な若い女性 お玉。
彼女は本物の悪女で、饒太郎を徹底的に搾取し、金も心も吸い尽くします。
饒太郎は破滅していくが、それすらも本望であるかのように受け入れるのです。
● 3. 破滅と帰郷
すべてを失い、借金取りに追われる身となった饒太郎は、
最後に 母のもとへ帰る という行動を取ります。
母に再会した瞬間、彼は涙を流し、人間らしい良心が一瞬だけ戻るのです。
作品の主題
マゾヒズム(被虐嗜好)
欲望と破滅
母性への回帰
倒錯した愛の形
谷崎文学の中でも、異様な感覚と不穏な気配を強く湛えた作品として知られています。
[以上引用↑]
まず一読して、3が映画と大きく異なっていることが分かります。ネタバレ上等の本ブログですので、あっさり書いてしまいますが、劇中の主人公は杏奈の素人S嬢に過度に締付けや吊上げを要求した結果、放置されて死に至ります。安易でアルアルな結末です。自業自得とは言え、そこに(SMプレイは用量を守りましょうという以外)何の学びもありません。
それでは原作でお玉(これはどうも芸名のようなもので、実家などで呼ばれている本名の方はお縫というようです。)は主人公に対して何をしたのかも気になって、再びcopilotさんに尋ねてみました。
[以下引用↓]
◆ お玉が饒太郎に行う主な仕打ち(具体例)
1. 金銭を執拗に要求し、搾り取る
お玉は饒太郎が自分に惚れていることを見抜き、
しばしば金を要求する
断ると不機嫌になり、饒太郎を責める
もらった金を別の男に使う
といった行動を繰り返します。
饒太郎は破滅すると分かっていながら、彼女に金を渡し続けます。
2. 他の男と関係を持ちながら、饒太郎を弄ぶ
お玉は饒太郎の前で、
他の男の存在をほのめかす
自分が誰と会っていたか曖昧にする
嫉妬させるような言動をわざと取る
これにより饒太郎は精神的に追い詰められ、
「裏切られる快楽」に溺れていきます。
3. 饒太郎の弱みを利用して支配する
お玉は饒太郎の性癖(被虐的欲望)を理解し、
冷たく突き放す
無視する
侮辱する
など、彼が最も傷つく態度を意図的に取ります。
饒太郎はそれを“愛情の証”のように受け取り、ますます依存します。
4. 盗癖を隠さず、饒太郎の物を勝手に持ち出す
お玉には盗癖があり、
饒太郎の持ち物を勝手に持ち出す
金品を当然のように使う
といった行動を取ります。
饒太郎は怒るどころか、
「自分が奪われること」に倒錯した喜びを感じてしまうのです。
5. 最終的に饒太郎を完全に破滅させる
お玉は饒太郎の生活を徹底的に食い潰し、
彼は借金まみれになり、
仕事もできず
友人からも見放され
生活の基盤を失う
という状態に追い込まれます。
それでも饒太郎はお玉を憎むことができず、
破滅そのものを甘美な運命として受け入れるのです。
◆ まとめ:お玉というキャラクターの本質
お玉は、谷崎文学にしばしば登場する
「男を破滅させる悪女(ファム・ファタル)」
の典型であり、饒太郎の倒錯した欲望を鏡のように反射しながら、
彼を徹底的に搾取し、破滅へ導く存在です。
[以上引用↑]
というようなことになっています。つまり、お玉は全然素人S嬢などをやっていません。お玉のやっていることは、私が何度も挑戦して漸く読了できた憎き魔性の少女『痴人の愛』のナオミのしていることのハード版でしかありません。変な縄プレイなどを要求されてもいなければ、自らやることもなかったでしょう。だからこそ、お玉の行為は主人公の心に深く根差したマゾヒズム(被虐嗜好)を余す処なく暴いたのでしょうし、結果として、主人公は欲望を散々掻き立てられた上に破滅に至ったのでしょう。
こうした嫉妬や愛憎、または裏切られても尚消えない憧憬などは肌理細かく描かれた普段の言動や所作に表現されるべきものだと思います。役者の演技力が少々乏しい作品ではあるものの、私が好きな邦画作品で『沙耶のいる透視図』『女殺油地獄』『美代子阿佐ヶ谷気分』『観察』などは、恐ろしく優れた作品群です。
読解力の低い観客層に合わせたのか、「破滅」と言えば、携帯小説の登場人物よろしく、すぐに死に至らなければならない世の中のようです。しかし、谷崎潤一郎は全くそのように考えていず、主人公の母性回帰を破滅の後に配置しています。世界観がバカ単純すぎて、全く共感できかねる原作改変だと思えてなりません。
それでも、主人公を軟禁した蘭子の家はまるで古民家かと思うような和式の一戸建てで、そこにはあちこちに暗がりがあり、まるで谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を意識したかのような表現が続いたりする点には一応の見どころがあったりはします。しかし、被虐の絵面がMプレイをする人でしかないという単純素人連想がこの作品を愚鈍で貧相なものにしていると私には思えてなりません。DVDは不要です。