『キャタピラー』

伊勢丹近くの映画館で見てきました。平日の午後7時近くに始まる回には、50人ぐらいは観客がいたように思いますが、不思議なことに、ほぼ全員が中高年男性でした。ポスターにあるキャッチコピーは、「忘れるな。これが戦争だ」だった筈ですが、それであれば、もう少々若い人に見て欲しいということなのではないかとは思われます。しかしながら、この映画は、そんな心配を全く必要としないぐらいに、とんでもない大ハズレ映画でした。

寺島しのぶ(今回のクレジットがローマ字表記だったので、初めて「テラジマ」と発音することを知りました)は、演技にもスタイルにも特に見るべきものを感じず、おまけに顔はどんなときにもふてぶてしく見えるので、好みの問題として、好感が持てないのですが、そんなことを意識する間もないほどに、ピン呆けの映画です。

キャッチコピーから分かるとおり、製作の意図は反戦にある様子ですが、これは全く反戦の映画ではなく、単に醜い若夫婦の物語です。

夫は、結婚以来毎晩の如く自分本位のセックスを妻に求め、「跡継ぎも作れない石女め」と妻に暴力を振るっていました。その夫が出征して、戦地で中国人女性を強姦殺害した後に、炎上倒壊する建物の中で、四肢を失い、頭を焼かれ、聴覚を失い、のどの傷で発話もままならなくなって帰還することになります。多分、全国版と思われる新聞でまで四肢を失ってまで闘う軍神として称えられ、勲章を三つも頂戴した凱旋の筈でした。しかし、中身は今まで通りの自分中心の夫で、身動きできないカラダで、食べさせること、糞尿を処理すること、セックスすることを要求し続けます。言葉も通じないので、より短気になり暴力的にはなりますが、四肢がないので、ただ、「おぅ。おぅ」と叫んでジタバタするだけです。

これに対して、虐げられてきた妻は、夫がおそるるに足らない存在であることを徐々に意識し、まるでSMの女王のように変貌していきます。さらに村人が軍神様と合掌までし、少ない物資の中から、「軍神様に食べさせてください」とくれる食料の献納に優越感を抱くようになり、嫌がる夫にわざわざ勲章輝く軍服を着せて、リヤカーに乗せて村を巡回するようになります。妻は、軍神の貞淑な妻と賞賛され悦に入ります。巡回から戻ると、「はいはい。ご褒美を上げましょうね」と下半身だけ脱ぎ、裸にした夫にまたがるのでした。

最初は自分の性欲処理を求めて止まなかった夫ですが、嫌がることをされた上で跨って来る妻の態度に、シェルショックもあって中国人女性を犯し痛めつける自分の妄想が重なり、泣き叫びながら、妻に犯され続けます。シェルショックはさらに酷くなり、妄想に悶え苦しみ、土間に転がり落ちる夫を見て、「い~もむ~し、ご~ろごろ。軍神様、ご~ろごろ」と妻は歌うのでした。

例えば、会社の工場で明らかな過労の結果、作業機械に巻き込まれ、四肢と聴覚と発話能力を失った夫と、その面倒を見続けることから逃れられなくなった妻が、もともとDV全開の夫婦であったとしたら、殆どこの映画と同じ展開になることでしょう。妻は「人間疎外の行きすぎた資本主義の最大の被害者」としてマスコミの注目を浴びつつ、以前とは逆方向のDVが家庭内では展開されるように思われます。

大体にして、このような明確な加害者・加害組織が存在するのなら、妻は悲劇のヒロインになれますが、単に夫が老衰で寝たきりになった状態で老老介護の立場などであれば、妻は特段に賞賛されることもなくなり、もっと酷い展開が待っていることでしょう。つまり、この映画は、戦争の結果を描いたものではなく、ジコチュウな夫に対して憎しみを顕在化させた自己顕示欲の強い妻の、どのような原因によっても発生する物語と考えるべきものです。

玉音放送が流れた日、妻が農地に行っている間に夫は這いずって外に出て、用水路に落ちて死亡します。映画は、この日、戦争とその結果発生した災禍から、妻が開放されたとして、如何にも戦争の物語として終わりますが、あまりにご都合主義的な展開と思えてなりません。

戦争とストーリーとの関連付けのための戦況の提示と並んで、頻繁にこの映画には寺島しのぶと肉塊のセックスシーンが挿入されています。余程、寺島しのぶの普段の生活の演技は心許ないものであるということなのかもしれませんが、出自故か、似非エロ映画のような展開でも、賞賛され、トレーラーによれば、どこぞの賞まで受賞したということです。四肢のない肉塊とのセックスは、色々な体位が試されていて、四肢がないほうが自由度が高いことに十分気付けるぐらいに退屈な映像です。そこには、エロスの欠片も感じられなければ、悲惨さも感じられず、妻の決意も表現されていず、ただただ、肉でできたトルソ(『トルソ』感想を参照下さい)を相手に習慣的に自慰に耽る女性にしかみえません。

四肢を失った兵士を描いた反戦映画の秀作に『ジョニーは戦場に行った』があります。ビデオの時代から私も何度も見ました。堂々の名作だと思います。ジョニーは第一次大戦で四肢と顔面と、ペニスも失った、全くコミュニケーションの手段を奪われた筈の肉の塊です。時間の感覚もなく、意識の中で出征前の回想やキリストとの対話を繰り返しています。外部からは植物人間だと思われていた彼の人間性を信じる看護婦が彼の胸に「メリー・クリスマス」と聖夜になぞり、彼が唯一動く頭を動かしモールス信号で返答することが可能となってから、ストーリーは急激に展開します。彼の主張と外部の反応がどのようになるのかと観客を引きずりこんでおいて、映画はあまりに現実的な終焉を迎えます。見終わると、どうしても戦争と人間のあり方を考えざるを得なくなります。この名画に比して、『キャタピラー』の描くものは、粗末過ぎます。

私の祖母は、結婚して数年を経ず、夫をガタルカナルの激戦で失いました。夫の出征後、彼女は、一歳の私の母と出産前の私の叔父、そして高齢で寝たきりに相次いでなる祖母の養父とその妾の女性と言う全く手のかかることばかりの4人を一人で養うこととなりました。そのような生活が十年以上に渡って続きました。戦争は勿論好ましいことではありません。祖母の立場に私が立ったら、自殺の一つもしたくなるほどに、その苦労は計り知れません。ただ、祖母の人生を単なる戦争被害者の枠で見るだけではあまりに狭量です。祖母の人生の中に苦労を見出すことはあまりにも容易すぎますが、祖母の人生の中に小さな喜びも散在していたことでしょう。

戦争中の人々を戦争被害者と言う視点で描き、特殊なおかしな人々の生活を戦争の結果として描く。さらに、他国は事実上登場せず、ただただ日本が侵略戦争を一方的に始め、ただただ日本の戦争責任によって、膨大な死傷者が出たように描く。この映画には稚拙な視点が目に余るように思われてなりません。おかしな夫婦の愛憎を描いた映画としての価値は十分に認めますが、そのDVDは私には必要ありません。

追記:
映画前半で、それなりの時間露出している字幕の中で、本来「捕捉」が「補足」と誤表記されていたように記憶しています。見間違いであるかもしれませんが。