『水深ゼロメートルから』

 5月3日の封切から1ヶ月と10日が過ぎた木曜日の夜7時55分の回を、新宿駅に位置的に隣接しているミニシアターで観て来ました。1日1回の上映しかされていず、おまけにこの館では上映最終日でした。吉祥寺の映画館ではまだ数日だけ上映を続けるということですが、いずれにせよ、東京でも2館しか上映していないことになります。関東で見ても、群馬や茨城で各1館あり、神奈川では7月後半から1館で上映が始まると言った程度の上映館展開で、お世辞にも認知度が高い映画とは言えません。

 私がこの映画を観に行きたいと思ったのは、いつもの如く、商売柄、若者の価値観や社会観を知る材料として観ておいた方が良いかと思ったということがあります。敢えて言うと、それだけでしたが、観に行ってみて、87分の本編はさておき、その後に長々続いたトーク・ショーと異様に文字量が多く最終バージョンの脚本まで全部載録されているパンフを読んでみて、色々と発見がありました。

 この映画館の2つあるシアターのうち、96席の大きい方(と言っても小さい方と座席数の差は18席しかありません)に入ると、明るいうちには、私を除き16人の客が居ました。女性はたった1組の男女カップル客の女性だけで、それ以外は全員男性でした。そのカップルは2人とも30代ぐらいに見えましたが、残った男性は私よりも年齢中心値は低いものの、概ね40から70といった感じに見えました。

 その後暗くなってから、何故か分かりませんがぽつぽつと立て続けに観客が追加されてゆきました。目で追いつつ数えていた所、男性客は7人、女性客は2人の合計9人で全員単独客です。年齢層は元々居た観客の年齢分布を大きくゆがめるほどのインパクトのない広がりだったように見えました。なぜこういった層の観客が徳島のJKのだらだらとした会話の作品に魅入られるのか分かりませんが、トーク・ショーの内容によれば、リピート客が非常に多いらしいです。

 観てみて、あまり面白さが分からない作品でした。面白くない訳ではないのですが、これ見よがしな自己満足的空気を強く感じる作品なのです。元々高校演劇の作品であったものが映画化された作品ですが、演劇から映画化した作品の悪い展開のグループに入るように感じます。

 私は元々演劇作品だった映画は、相応に高い確率で面白くなると思っています。比較的最近観た『クオリア』もそうですし、本谷有希子の演劇脚本の映画化作品である『乱暴と待機』や『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』も非常に面白いと感じています。本谷有希子作品以外でも『サマータイムマシン・ブルース』は大傑作ですし、『愛を語れば変態ですか』は確実に私の邦画ベスト100ぐらいに食い込む作品です。他にも『星屑の町』などの例もあります。

 一方で不発に終わった作品群も多少あります。変に現実のエピソードを脚色して展開が破綻しかかった『愛のゆくえ(仮)』や、「愛あるセックス」だのを巡る人間関係について芝居じみて棒立ちで叫びあう『はるヲうるひと』などがあります。この作品はどちらかというと、後者に近い感じで、先述のように自己満足感全開で、まるで青年の主張の様な青臭く受け売り感満載の主張を、はっきり述べるでもなくうじうじと醸し出し合うJKと、頭の悪そうな女性教師ぐらいが登場する物語です。(その他にプールの中に入ってくることのない直向きなJKが1人存在しますが、演劇バージョンには存在しなかったキャラのようで、本作でも限られた尺しか登場しません。)

 映画.comの紹介文の中のあらすじの部分だけを抜粋すると…

「高校2年生のココロとミクは体育教師の山本から、夏休みに特別補習としてプール掃除を指示される。水の入っていないプールには、隣の野球部グラウンドから飛んできた砂が積もっていた。2人が嫌々ながらも掃除を始めると、同級生で水泳部のチヅルや、水泳部を引退した3年生のユイも加わる。学校生活や恋愛、メイクなど何気ない会話を交わすうちに、彼女たちの悩みが溢れ出し、それぞれの思いが交差していく。」

となっており、数少ない例外を除いてシーンはグラウンドの砂が積もった水のないプールです。そこで4人のJKがだらだらと上述のような会話を交わすという映画です。だらだらと会話をしてるだけでも面白い映画作品は『セトウツミ』などのように間違いなく存在しますから、そういう設定自体には何も問題がないのですが、退屈なものにしてしまっている要因は、その内容が全部煮え切らない受け売り的ジェンダー論に回収されて行く所です。

 作品だけを見ると、ただそれだけの映画です。なぜこのような不発の作品ができたのだろうと考えていると、どうも作り手側の非常に狭くて幼い知見が主要因に思えます。パンフやトーク・ショーの内容からまとめると、この作品は元々徳島市立高等学校の高校演劇作品として2019年の四国地区高等学校演劇研究大会で文部科学大臣賞(最優秀賞)を受賞したものです。顧問の教師が「水のないプール」をお題にして、2年生以下の部員にシナリオを書くように指示した所、パッとしたものができ上がらず、既に卒業に向けて活動を停止していた3年生の中田夢花が呼び出され、顧問教師とやり取りしつつ台本を創り上げたと説明されています。

 ところが、この大会はコロナ禍で上演ができなくなり、無観客で上演しているのを動画で提出するような話になったようです。「それでは舞台芸術を表現しきらない」と部員で映画版を撮影することになり、それをYouTubeにアップするという展開になったようです。この動画は今もアップされたままで(いくらか忘れましたし、観る気にもなりませんが)かなりの回数再生されている話題作であると、トーク・ショーでは言われていました。

 そこへ『アルプススタンドのはしの方』という高校演劇発の映画作品のヒットを受け、高校演劇作品の次の映画化作品としてこの通称『水深』に白羽の矢が立ったということのようです。その際に、YouTube以降も上演を繰り返していたのかどうかもよく分かりませんが、高校演劇で実際にこの上演に参加していた女子3人をプールの中でうだうだ話す4人のうちの3人に充てています。つまり、この作品を演劇の延長線上に位置付けることを意識した配役になっているということです。

 トーク・ショーは2人によって行なわれましたが、そのうちの1人はこの作品のプロデューサーで、監督を誰にしようかと考えた時に、過去に名作青春映画と評価されることが多い『リンダ リンダ リンダ』を撮った山下敦弘にしたと言います。2018年の『ハード・コア』以来ブランクが続いていると思って声を掛けたら、『1秒先の彼』(2023年7月)を作り終えて本作に先立って3本もの映画を並行して手掛けている状態で、そこにこの作品を押し込んだ状態になったという話でした。確かに『カラオケ行こ!』(2024年1月)、『告白 コンフェッション』(2024年5月)、『化け猫あんずちゃん』(2024年7月)とズラリと作品群がウィキに並んでいます。そのうち『カラオケ行こ!』は私も劇場で観た佳作でした。

 この監督の監督作をウィキで眺めると、私がまあまあ好きになった作品がかなり存在します。『松ヶ根乱射事件』、『苦役列車』、『もらとりあむタマ子』、『1秒先の彼』などです。プロデューサーはこの監督の演出姿勢が作品の被写体としての人々との距離の取り方であるというようなことを言っています。それは人々の深層を深く描き込むのでもなければ、遠く遠景で眺めるようでもない、微妙な中間の位置の取り方で映画を創り上げるのが特徴であると言うのです。

 私はブルーハーツを単に聞いたことがないので(敢えて聞きたいとも思わないですが、)好きでも嫌いでもなく、おまけに個人的韓国製品不買運動を心掛けているので余り鑑賞に気が進まない『リンダ リンダ リンダ』です。話題になることが多いので、DVDで早送りで観ましたが、それなりにJKの熱を感じます。少なくとも、本作の4人より『リンダ リンダ リンダ』のJK群の方が、下手は下手なりに演奏の練習に励みますし、突如ボーカルを振られた韓国人学生もカラオケに通って練習しています。おまけに仲違いしたはずのJKも主人公達の遅刻の間の舞台の場繋ぎを自発的にやってくれていたりします。

 トーク・ショーでもパンフでも、この作品と『リンダ リンダ リンダ』は何度も比較されていて、寧ろ『リンダ リンダ リンダ』に似ていて素晴らしいという文脈で語られています。たとえば、両作品の主人公達は普段からの仲良しではなく、映画の中の物語が終わったら、後は学校で擦れ違ったら軽く挨拶する程度の間柄として描かれていると言われています。

 少なくとも本作で見ると、その辺は違和感が湧く設定です。現代のJKを考えると数年前に高校を卒業した娘やその友人達を思い出しますし、娘の学校祭で大量に観た学生達を思い出します。その人間関係を見る時、かなり仲が良いという関係の数人にさえ、それほどガッチリ相談したり、悩み事を述べ論じるようなこともないように見受けられます。大学生や社会人になった後も、具体的な仕事内容や収入とか親兄弟との関係性など、相互の知識が限られており驚かされます。

 全く見ず知らずのJK同士なら尚のこと、金魚鉢的空間に投げ込んでも、会話も盛り上がらないどころかほぼほぼ当たり障りのない時候の挨拶レベルで終了でしょう。そこで、プロデューサーや監督に拠れば、元々顔と名前が一致する以上のつながりはあるものの、特に一緒に時間を過ごすことも殆どないような微妙な友人と知人の間のような関係性のJKを金魚鉢空間に突っ込んで化学反応を見る…といった構図の作品だと説明されています。

 しかし、この設定は、説明されているほどには『リンダ リンダ リンダ』に似てはいません。『リンダ リンダ リンダ』の方が韓国人学生以外は共通のバンド活動をしてきたJKたちです。本作品のJKよりも大分関係性が濃いのは明らかです。そんな本作の方の関係性の中で、ヤマアラシのジレンマに振り回され放題の今時のJKが、幾ら1時間やそこら同じ金魚鉢状の空間で砂取りの(敢えて言うなら、本来野球部の人間が来てやる方が妥当と考えられるような理不尽さが醸し出される)砂を噛むような単調で無意味に見える作業を強いられた(正確に言うと強いられているのは4人のうち2人だけですが…)としても、互いにディスリあったり、価値観をぶつけ合ったりするほどにコミュニケーションが進むとは全く思えないのです。

 そう言うと、元々JKが書いた脚本なのだから、JKのナマの感覚に近いだろうという意見があると思います。現実にトーク・ショーでもパンフでもそうした前提が全開で話が進んでいます。その前提があるが故にどんな話も、これら高校演劇作品の素晴らしさであり、「特徴」ではなく「特長」であり、甘酸っぱさであり、未完の美であり…といった話ばかりになるのです。しかし、トーク・ショーの方で全国の高校演劇の現場を取材している相田という人物は、「コロナ禍で大会に参加できない、上演ができないという話を取材すると、顧問の先生方は熱意のあまり悲憤で泣き出すような人も多い。学生の方は寧ろクールで、『まあそう言うことになったので仕方ない。できることをやろう』といった態度に見える。一般にこういう演劇部に所属する高校生は頭がよく成績もまあまあ優秀で、落ち着いていてクラスでも浮いているような存在だあることがほとんど…」と(記憶が定かではありませんが)いったようなことを述べています。

 仮にオリジナルの舞台版脚本から本作の映画版脚本まで手掛けた中田夢花がそういう人物の一人であった場合、この作品に登場するようなJK像が自分の身の回りにいたはずがないように思えます。大体にして先述の通り、人間関係とコミュニケーション量の対照をすると、あまりに非現実的に感じる4人の言動ですから、中田夢花が世間から感じ取る「期待されるJK像」の虚像を描いたという方が良いのではないかとさえ思えてきます。

 極論のモデル化とは分かっていますが、多分、中田夢花本人もパンフの文章を見る限りそうであろうと思われますが、一定レベル以上に頭の良い子は、読解力も相応に高く、何が自分に求められているか分かっているはずです。ですからそれが一般的に人生における最大のコスパを齎す受験勉強か何かの部活か、何かの習いごとかなどなど、何か打ち込むものや没頭するものを持っていて、本作の4人のようにくだらない悩みを抱いたり、抱いたとしてもそれに振り回されたりする時間を持つことそのものが殆どないのではないかと思われます。

 それに対して、もっと分かっていない子、ダメな子、低読解力の子は、自分の考えをまとめることができませんし、自分の見聞きする世界観の中で流されて生きていますから、極端で具体的な不満があまり生じませんし、生じたとしてもきちんと言語表現できないケースが多く、それがこの作品のように「JKなめんなよ~!」などと叫び出したりするようなこととかは、ほぼないのではないかと思えます。読解力が低ければ、周囲に分からないものが存在しなくなります。(分からないものを分からないと認識できるのは読解力が高い証です。)分からないものや知らないものが自分の人生の中に登場しなければ、まあまあ高い満足度で人生を送ることができるはずです。このように考えると、本作の主人公達が全然生々しくないのです。

 さらに、本作で主人公が話す事柄は切り口は違えども基本的にジェンダー論の話ばかりで、特に化粧に励む「女子の一軍」であるココロという子は、体育の授業に当たり月経中の手続きを怠り、月経中にも拘らず水泳の授業を受けさせられたことを根に持っているJKですが、「女子は可愛くなければだめだ」、「だから私は努力して可愛く綺麗に見えるようにしていて」、「きちんと化粧していない自分は自分ではない」、「結局、女子は可愛さでしか男から評価されない」、「そんなことも分からないでブスのままいられるあんたがたは気楽で羨ましい」などと宣います。

 この月経中の女子学生の水泳授業の問題は新聞などでもかなり叩かれる問題となっており、男性教師が水泳授業を休もうとするなど問題が広がり深刻化しています。深刻化しているのですが、それを学生側の方が、いちいち社会問題的にデモやボイコットや何かの主張を明確にするかと言われたら、かなり想像が困難であるように思えます。つまり、それを問題と騒ぐ人間が騒ぎ、それで学校側や教師側、教育委員会側が何やら問題だ、しかし、色々な人間の顔色を見て問題が解決する方向に進まない…といった状況になっているだけです。そこに良くも悪くもルールがあって、それを守るということになっていれば、先述のように頭の良い学生グループもそうではない学生グループも、大騒ぎするようなことにならないのではないのかと思えてなりません。

 もちろん個別に見てそう言う学生がいる可能性はあるものの、私から見るとココロのような明確な不貞腐れた態度をとっていながら、それでも授業の場にいたり、補習に出ろと言われたら出たり、そうしたルールに従順な学生とわざわざ一緒に居て因縁つけたりディスったりするような態度の学生は殆どいないのではないかと思えるのです。そうなる前に今なら学級崩壊とか不登校とかそうした方向に問題の形が移行すると思われます。若しくは、まともなままに皆大人しくやるべきことを粛々とやるという感じでしょう。そのように考えると、本作の主人公達の人格的設定さえ無理筋であるところへ、わざわざ世の中の如何にも問題然としているようなキャッチ―なネタを盛っただけのように見えて来ます。青年の主張感がバリバリに溢れ出てくるのです。極論すると、グレタ・トゥーンベリの無知と青臭さと傲慢と偽善性にテイストだけなら結構似ているように思えます。

 そして、それを素晴らしい素晴らしいと誉めそやすばかりのパンフの記事やトーク・ショーのスピーカーの偏狭にはゲンナリ来てしまうのです。トーク・ショーの中で、「ここまで生理の問題を取り上げた映画はないのではないか」と2人で訳知り顔で頷きあっているので、トーク・ショー後のロビーにいた2人に、パンフの各々の担当記事のページにサインを貰うことを口実に、「さっきの生理の話がありましたが、問題として取り上げたという意味なら、タイトルからしてモロの『生理ちゃん』がありますよね。あれは非常に優れています」と指摘してみました。すると、2人は一瞬表情を強張らせて「ああ。あれは確か、二階堂ふみのですよね」などと反応していました。私は「あ。二階堂ふみが一応主演ですがまだあまり売れていなかった頃の伊藤沙莉が凄いですよ」と告げてその場を去りました。私にはこの2人のトーク・ショーの中身が一事が万事、こういった自己満足・自己礼賛の産物にしか思えませんでした。

 どうも気持ちの悪い作品です。厳密に言うと、作品本体は映像的にも独特で、私の中では海外の実話を日本を舞台に翻案した問題作『リュウグウノツカイ』とか、若き市川実日子と小西真奈美の名演が光る『blue』とか、色々な意味で問題作の『先生を流産させる会』とかそう言った作品群のより一段低いぐらいの評価です。いかにもなネタを有り得ないJKモデル像達に無理矢理言わせる弱みはあるものの、とんでもない駄作とは思っていません。その程度の評価の作品を全身全霊を込めて褒め千切るのみで、客観的に映画作品として評価せず、その上、一切批判を受け付けないような感じの人々の姿に吐き気を催すのです。

 私も中学校から高校にかけて演劇部にいたので、関係者やら取り巻きやらの人々の言う事柄や事象は理解できるつもりです。しかし、本作は大の大人が寄って集って凄い凄いと誉めそやすレベルのものではなさそうに見えます。ココロが「メイクも生理も誰に迷惑を掛けている訳でもないのに、何でルールを守れとか言われなきゃならないの」と所謂ブラック校則議論のような話を持ち出して騒ぎ出すシーンがあります。それに対峙する女性教師は、何故かまともに指導ができず、「自分も先生らしさを求められて辛いんだから、そういうもんだ」的なことをヒステリックに返すだけです。この生徒在ってこの教師かという気がしますが、この教師像も随分極端なステレオタイプに当て嵌められています。

 大体にしてなぜ校則に縛られるのかとか言う議論もクリシェで青臭く気持ち悪い話です。今時それを自主・自発的に議論したがる学生がどれぐらいいるのか私は非常に疑問に思います。さらにそこまでクリシェの話なのに、全くそういった指導ができない女性教師設定も寧ろ女性差別ではないかと思えるほどに杜撰です。ついでに言うなら、「靴下の色が…」とか「トイレは●年生は必ず◆階のものを使うこと」とか意義を見出しにくい校則も確かに存在しますが、月経時の事前手続きについては十分合理性があるものと考えられますから、ブラック校則的な扱いの範疇で扱うべきことではないように思えます。

 偶然、この映画を観た翌日にレンタルしたDVDで『花腐し』を観ました。売れない素人演劇女優が物語の軸となっていて、彼女と最初につきあった男と彼女が自殺する直前まで同棲していた男が邂逅する物語です。この物語の中には5年も制作ができていない映画制作会社や、食うや食わずの映画人、舞台やポルノやらAVやら、何でもござれの脚本家とかがわんさか登場します。この人々の会話内容をみていると、観客が何を求めているかという発想が殆ど登場しません。所謂マーケティング的に言うと典型的なプロダクト・アウト発想の罠に嵌っています。それでもこの『花腐し』の中に登場する人々には売れる売れないという厳然たる評価が圧し掛かって来ています。

 高校演劇は売れなくても食っていけなくなる訳でもなければ、創作に行き詰まって入水自殺しなくてはならない切実さもありません。だからダメだということではありません。だから駄作ばかりになるとも思っていません。しかし、こうした緊張感のない環境で生まれる作品群を「高校生が創った」を主要な根拠にしつつ礼賛ばかりする姿勢が気持ち悪いのです。『花腐し』や以前観た『太秦ライムライト』などを観てから、本作のパンフを読むと残念感がいや増します。(高校野球の試合に見所がない訳ではありませんが、プロ野球の方が試合の質として段違いに高いのは間違いないでしょう。高校野球をやたらに神聖化し、高校野球を素晴らしい野球の見本だというような論調があったとしたら、それに対して違和感を感じるのが当たり前だと私は思います。)

 ちなみに『花腐し』のヒロイン役は延々とセックスばかりしていますし、全裸状態の尺がかなり長く続きます。この女優はなんと本作でパンフでは「ジレンマを抱える」と表現されているノータリン気味の女性教諭です。どこかで観たことがある女優だと思ったら、TVerで観ていたドラマ『院内警察』の気怠い女医でした。関心が湧いてウィキを見てみると、女優としては本作での「さとうほなみ」の名前以外に、「佐藤穂奈美」と名乗る場合もあり、さらに、ミュージシャンとしてゲスの極み乙女(とマイクロコズムという私の知らないバンドの)ドラムス担当の「ほな・いこか」でもあると書かれていました。本作ではそれほどではないでしょうが、『花腐し』や『院内警察』の撮影はかなりの時間量を占めることでしょうから、よくスケジュール的に埋められるものだななどと思ってしまいます。

 34歳のマルチ・プレーヤーである彼女がセックス・アイコン化を狙った訳でもないものとは思いますが、AV顔負けのモザイク付き全裸セックス・シーン連発のこの作品の彼女とドラムを叩き続ける彼女のファンはどの程度被っているのかやや関心が湧きます。ただ私は必ずしも同意しませんが「美人過ぎるドラマー」などと一般的なドラマーに失礼千万な評価もあるようですので、そういう(最近映画で学んだ言葉で言うと)「Male Gaze」に彼女も曝され続けているのかもしれません。

 他にこの作品のパンフを読んで二点発見がありました。一つはこの作品への根矢涼香の関与です。根矢涼香は伊藤沙莉見たさに観たDVD『獣道』で気付き、その後にDVD『神と人との間』で作家とねんごろになる眼鏡の女性編集者を演じていたのが印象的でかなり認識できるようになり、さらに、その後『酔うと化け物になる父がつらい』で始まった松本穂香短期的マイブームで『アストラル・アブノーマル鈴木さん』の特典満載のブルーレイを買ったら特典の一つが根矢涼香主演の『ウルフなシッシー』のDVDだったことに驚かされました。よくよく観てみると『アストラル・アブノーマル鈴木さん』にも根矢涼香が出演しているとクレジットされているので、どこだろうと探してみたら、壁掛けの額入りの学生のバストアップ写真が彼女だったりします。

 やや釣り目傾向ですが、私の好きなタヌキ顔系にギリギリ入り、クセのある役と相俟って、結構気に入ったのですが、探すのが大変です。(『ビジョメガネ』という写真も買うほどに、メガネっコはメガネで極端に魅力がカサ増しされて感じられる私は、メガネ付の根矢涼香の編集者は結構ハマりました。)その根矢涼香が本作では写真家としてスチール担当をしています。(パンフにもそのようにクレジットされています。)撮影現場でスチール写真を宣材用などに取っていたようですが、パンフにも手記が掲載されていて、そうであったことに気付きました。

 また、主題歌はAdieuというアーティストということになっていますが、これも調べてみるとミュージシャンとしての上白石萌歌であることを(前にも軽く気づいたことがあったような気もしないではないですが)認識しました。しかし、それに気づいた時には既に観終ってからそれなりに時間が経っていたので、全くそれがどんな曲か分かりませんでした。『子供はわかってあげない』というアオハル系映画の金字塔の主演を務めた彼女からみたら、この妄想的JK物語はどのように認識されたのか気になる所ではあります。

 先述の通り、独特な舞台と、土砂降りの中に(阿波踊りの男踊りを踊ることに抱くようになった羞恥を振り切った)4人のうちの1人のJKを「お控えなすって」的ポーズでガチッと配置したスタイリッシュなエンディング、『花腐し』と前後して観たせいで印象が強まったさとうほなみのあまり多くない出演作の一つであること、その辺を加味してかなりギリギリでDVDは買いかなと思いました。

追記:
「水のないプール」という徳島市立高等学校演劇部の学生達に出された脚本のお題の言葉がパンフレットやトーク・ショーで何度も繰り返されていました。
 私は「水のないプール」と耳にするたびに、1982年制作の素晴らしい作品で、今は亡き内田裕也が連続強姦魔を演じた『水のないプール』を思い出しました。この作品の制作年に私は19歳でしたが、20歳で上京してから(まだビデオも満足に普及していない時代に)どこかの場末の映画館で観て衝撃を受けました。今でも私の邦画ベスト50にガッチリ食い込んでいる作品です。内田裕也が劇中で何度も注文するジンジャーエールが今でも耳に残っていて、誰かがぶっきら棒にジンジャーエールを頼むのを耳にすると、この映画が意識野に浮かんできます。
 この映画を仮に私が高1の演劇部時代に知っていたとして、仮に顧問の先生から「水のないプール」という脚本のお題を課されたら、多分私は『水のないプール』を超える脚本を作ろうと足掻きもがくことになっていたのではないかと思えます。若しくは、お題を出された瞬間に顧問の先生に「連続強姦魔のあの映画を超えるものとかっていう出題意図はありますか」ぐらいに探ったかもしれません。
 今では既に存在し伝説の映画となっている『水のないプール』に「水のないプール」と再三書いたり言ったりしている人々が一度たりとも言及していません。また、パンフやネットのどこを探しても、徳島市立高等学校演劇部部員の学生が、「水のないプール」のお題にこの大問題作を連想した…などのエピソードは見つかりません。「水のないプール」から広げられる物語展開の余地の大きさが『水のないプール』を見ると痛感させられます。それに比べた時、この通称『水深』は単に「水のないプール」の中に非現実的なJK4人を投げ込んで、女性の社会的立場の息苦しさといったクリシェのテーマを表現しようとした発想の単調・短絡さが際立つのです。

追記2:
『リュウグウノツカイ』、『blue』、『先生を流産させる会』、『子供はわかってあげない』といったJK作品群を含む上の感想をアップして1週間を経ても、パンフやトーク・ショーの人々が誉めそやす本作と『リンダ リンダ リンダ』の他に、何かもっと類似した設定で優れた作品にハマった経験があったような気がして、ずっと気になっていました。それも演劇作品だったように思えていました。ようやくそれも何のきっかけもなくふと思い出すことができました。(ずっと無意識下で検索作業が続いていたのだと思います。)
 脚本を書籍で買ってまで繰り返し読んだ如月小春作の『DOLL』でした。