『ディア・ドクター』

かなり日が経ちましたが、新宿で平日の夜に見てきました。前評判で聞いていた以上の、素晴らしい完成度の映画だと思いました。『女殺…』、『築城…』に並んで、今年のお気に入り映画の一つになりました。DVDが出るのが楽しみです。

『ぴあ』などの映画欄で見ると、山間の小さな村で医療に当たる笑福亭鶴瓶演じる医師伊野のもとに、研修医が一人訪れるところから話が始まること、伊野が失踪してしまうこと、そして、伊野には誰も知らない謎があったことなどが書かれています。この謎は何であるのか、と言う謎解きモードの予告は、陳腐すぎてこの映画には相応しくありません。

マンガの名作『ブラック・ジャック』でも、山間の村で熱心に人々を治療することに専念するニセ医者の話があります。バセドウ病の治療に外科手術が必要になり、ニセ医者がブラック・ジャックの助けでそれを成功させるという展開でした。このニセ医者は、ブラック・ジャックと数年後再会したときには、医大に入りなおし、資格取得に向けて励んでいるという話になっていました。

僻地医療に取り組む医者の話も、マンガやらテレビドラマなどで幾つかあります。その場合は、主人公は当然有資格者です。それに対して、この映画の主人公伊野は、そのどのパターンにも嵌りません。私はまだ見ていませんが名作と名高い前作『ゆれる』でも、西川監督が描いたように、善悪が渾然とした、人間臭い人物となっていて、反省して大学に入りなおすことも、資格を取ってから僻地に舞い戻ることもしません。

では、なぜ熱心に治療を続けていたのかと言うことが、この映画の最大のテーマです。後の刑事の言葉にある「年収二千万だからなぁ」と言う報酬も理由ではあるでしょう。しかし、本人の言う「この村にずるずると居残ってしまっただけ」や「球が来たから打つ。打ったら、また球が来る。そのうち、どんどん止まらんようになって、打ち続けてたら、今になった」のようなセリフも、的を射た人間臭い理由といえます。

映画は、単純なこれだけの説明で伊野が村に残った理由を終わらせません。徐々にですが、伊野が医療器械のセールスマンであったことや、伊野の父は優秀な医師であって、その父に対するコンプレックスが強く存在していることなどを、刑事の捜査の結果として、暴いていきます。村では、一旦死亡が確認された村人を蘇生させた一件から、伊野が「神様」と崇められるようになり、抜き差しならない状況に追い込まれていく様が積み上げるように描かれます。

そして、極めつけが、八千草薫の名演技が光る鳥飼と言う婦人への肩入れです。この婦人の娘は医師で、東京で交際相手と同居し、年に一度も帰省するかどうかと言う状況です。鳥飼が電話しても留守番電話に繋がるばかりで、娘の東京での生活の邪魔にならないためにと、自分の悪性の胃癌を隠し、娘に告げないことを、伊野に対して要請するのでした。

要請といっても、「先生、一緒に嘘ついてくださいよ」と言う程度の言い方で、詰まるところ、守られるのは彼女のささやかな我侭半分の希望でしかありません。まして、癌がそこまで悪化している以上、隠し遂すのは殆ど無理です。それでも、そんなレベルの「嘘の共犯」に、伊野は真剣に取り組んで、自分の診療所に来るMRの軽い胃潰瘍の写真までカモフラージュのために用意しておいて、夜毎鳥飼の家に通って治療に当たり、帰宅しては医学書も読み漁る、全開の努力をするのです。

映画の後半、伊野が来年の夏休みまでは戻らないという娘の発言から、真実を明かそうと決意します。それは、自分がニセ医者であることを露呈させることと同じなので、突如、村を後にするのです。伊野の鳥飼に対するこの好意で、あっけなく嘘はばれて、鳥飼は、娘に「東京の病院に行くのもいいかなぁ」と入院生活を送ることを決めるのでした。つまり、その程度の嘘でしかなかったのです。逆にみると、この程度の嘘を守るために、伊野は努力を重ね、最後は破綻に追い込まれます。結果として、村人全員、車で二時間以上かかる病院に通うに通えない生活に戻るのでした。

伊野がなぜ村に留まって居たのかを考える上で、重要な役割を演じている2人が居ます。それは看護師の余貴美子演じる大竹と、香川照之演じるMRの斎門です。この2人は伊野が無免許であること以上に、何かの偶然の結果「発生」してしまったニセ医者であることを薄々感づいています。にも関わらず、当り前に伊野と接して、現状維持に一役買っていくのです。大竹は村での伊野の献身的な医療体制が持続するために、全く自然にその選択をしている様子です。

斎門のほうは、MRなので、伊野の本来の職業と医者の関係をよく分かっています。伊野に向かって「先生、医者をやっていて面白いですか」などの問いを発しています。MRの斎門にとっては、薬を買い続ける顧客である伊野は重要ですが、それ以上に、伊野の最大の理解者であることが、映画中盤私がこの映画にほれ込んだ一場面で描写されます。

喫茶店で、刑事から伊野の動機を尋ねられ、金でもなく、一体なんだということになって、刑事が「やはり、それは村の人々に対する愛ですか。愛ねぇ」と冷笑した時、それまで、言葉の少なかった斎門が、いきなり仰け反って、椅子ごと後ろに倒れこむのです。咄嗟にそれを受け止めた刑事に向かって、「刑事さん、僕を愛しているんですか。今僕を助けようとしましたよね」と、伊野の立場や心境を鮮やかに表現するのでした。

映画評では、笑福亭鶴瓶の何者とも分からない主人公を演じる姿が絶賛されています。しかし、私がこの映画で好きなのは、伊野を結果的に破綻に導く田舎の婦人役の八千草薫、伊野の最大の理解者であるMRの香川照之、そして、共犯どころか、気胸の応急措置などを教え、積極的に伊野をその立場にしてしまう看護師の余貴美子の三人です。やたらに渋く、見るものを引きずり込む名演技に思えました。

取り分け看護士の余貴美子の、或る種のふてぶてしさは、最高です。刑事に後日詰問されても、「ええ、そうだったかも知れませんねぇ」程度の受け流しをそれに相応しい表情のアップでやってのけます。伊野とのドタバタの往診の畳み掛けるようなコミカルなシーン、激しい雨の中を子供と二人乗りの自転車で帰宅するちょっとほのぼののシーン、気胸の急患に対して躊躇なく穿刺を行なうよう伊野に迫る形相。斎門のような「理解」ではなく、どうであっても、この現実に満足しているからそれを続けるだけといった、感覚的な中での瞬間瞬間の行動や表情が秀逸です。

私の好きな邦画ベストスリーに確実に入る『海と毒薬』にも、肉体関係を持つ医者との関係の中で、自分の存在感や立場を保証するという感情的な動機だけで、米軍捕虜の生体解剖実験に参加する看護師が登場します。根岸季衣が演じるその看護師のモノクロ画像に浮かぶ表情は恐ろしいほどに魅力的でした。私の中では、今回の余貴美子の魅力は、それに匹敵するほどの印象でした。