『カラオケ行こ!』

 1月12日の封切から1ヶ月弱の木曜日の午後6時35分の回を観てきました。場所は歌舞伎町のゴジラの生首ビルです。

 私にとってこの作品は完全にノーマーク状態の中で、突如眼前に現れたような感じの作品です。前回鑑賞した『唐獅子仮面 LION-GIRL』の感想でも書いた通り…

「私がこの作品を観に行こうかと思ったのは、まず背景に観たい作品の枯渇状態があります。最近は観たい作品をリスト化してエクセルにまとめておいたりしているのですが、昨年10月ぐらいからの予想通り、観たい作品が非常に減って来ていて、12月ぐらいから観たい作品をいつも以上に先延ばしして観る傾向を強めていました。」

という状態で、1月の鑑賞候補作は11月以前からリストアップをしていたと記憶しています。その際に、この作品は全く眼中に入っていませんでした。少なくとも候補ぐらいには上がっていても良いはずですが、全く記憶にありません。『唐獅子仮面 LION-GIRL』を観た後に、同館でやっている『カラフルな魔女』は、ドキュメンタリーとして名作なのではないかと一応候補に挙げていましたが、その主人公たる高齢女性を私はチラシで『魔女の宅急便』の原作者として知っただけで全く予備知識がありませんでした。その状態の前知識で、おまけに『唐獅子仮面 LION-GIRL』の感想にも書いた通り、この上映館はハイリスク・ハイリターンの館ですので、今一気乗りしないでいました。そんな中でふと映画.comのページを捲っていたら、この作品『カラオケ行こ!』を偶然発見したのです。

 当初チェックした段階で映画.comのレビューの評価が4.4という驚異的な数字で、鑑賞後にチェックしても4.1と4を割ることがない状態が続いています。人気のほどはパンフレットが完売しているということでも証明されているように思えました。私からすると、映画館で事前にチラシを見た記憶もなく、映画館ロビーのモニタ類でトレーラーを見ることもなく、映画関係サイトで関連PR記事のサムネイルボタンを見ることもないという、プロモーション・ミクス的にも全く何も為されていないも同然であるように感じられる作品です。それが映画.comの評価は高く、シアターは大型のものが割り当てられ、封切から1ヶ月近く経って尚1日5回の上映をしている映画作品は、まだ半信半疑の域でした。しかし、パンフ完売を聞いて得心せざるを得ないように思えました。

 ですので、この作品鑑賞の直接的な動機は、観たい候補作品が殆どない中で現れた、好評作品ということが一番大きいように思います。

 23区内では18ヶ所、都内でも26ヶ所、全国では244ヶ所と言うぐらいですから、それほどマイナーな映画という訳ではありません。23区内では池袋や錦糸町の様に1駅で最寄りの2館が上映している所もあります。しかし、新宿では歌舞伎町のゴジラの生首ビルの映画館しかありません。そのせいもあってか、上映回数は封切約1ヶ月にしてやたらに多く、1日に5回もあります。(それでも大分息切れ状態か、週明けの月曜日以降は1日2~3回に減るようです。)

 ネットでは407席と書かれたシアターに入ると、かなりスカスカな感じに見えましたが、実数で見ると50人以上も観客がいてそこそこの客入りに見えます。驚いたことに、全体の8割近くが20代~30代。そして同じく全体の8割近くが女性客と言う、性別でも年齢でも非常に偏った観客層でした。なぜか非常に単独客の割合が低かったように思えます。私も含めた単独客は多分全体の4割程度で、残りは2人連れ、3人連れで、少数派の男性客の中にも男性3人連れがいたように思います。

 この作品の観客動員時点の人気の高さの理由が、私には今一つ分かりませんでした。勿論まず考えられるのは綾野剛の人気ということで、あとは1冊で完結しているという原作コミックのオリジナルの人気もあるのかもしれません。レビューにも原作を知っているという投稿者は多々見当たります。(それでも私は原作コミックもそのタイトルさえ全く聞いたことがありませんでした。)

 あとは制作側も配給側もメジャー級の映画ではないと認識していたのに、初動の観客の評価が鑑賞後にバカ高く、それが口コミと観客動員のプラスのサイクルに入ったと考えるぐらいしか、この作品の人気の原因が想像できないのです。

 作品を観てみて、私にはこの作品の良さが口コミで言われるほどには感じられませんでした。面白い作品ですし、107分の上映時間はエンドロール後のほんの十数秒単位の後日譚も含めて、飽きずに観ていることができます。ですから勿論駄作とは思いません。寧ろほんのり好感を持てる作品というような感想です。

 この映画の良さはどこにあるのかと言えば、最大の魅力は多分、主人公の中学生男子(合唱強豪校の合唱部部長)の成長過程の所謂通過儀礼的な物語が深く多重的に、しかし、コメディ・タッチで滑らかに進んで行く所でしょう。

 主人公の少年、岡聡実は三年間強豪合唱部の目立つ存在として合唱に打ち込んできました。ところが、三年最後の合唱のお披露目を前にして変声期が進み、歌えなくなっていくという大きな喪失を経験します。それが大きな1点で、それだけでも十分物語が成立するぐらいで、後述するように、そのようなテーマの作品も世の中には、特にボーイ・ソプラノを「愛でる」ような文化のある西洋文化圏の映画にはそれなりに存在します。

 ところが主人公にはまだまだ他の通過儀礼が待っています。綾野剛扮する地元ヤクザの若頭補佐の成田狂児(これが実名と言うのが驚きですが、出生後の命名のエピソードまできちんと劇中で説明されています。)がカラオケの指導をしてくれと付き纏ってくるのです。狂児の組の組長の趣味はカラオケと素人刺青で、組長の誕生日に開かれるカラオケ大会で最下位になった者には、組長の彫りも下手で激痛が伴う上にやたらに時間がかかり、おまけに絵心がないので子供の落書きのような絵を入れられるという恐怖の罰ゲームがあるようで、狂児はそれを回避するためにカラオケの練習をしなくてはならないというのです。なかなか荒唐無稽です。

 普段は接点のない類の、それも接触を持っていることさえ世間に知られたら憚られるような類の人間との継続的な接触、それを人(彼の日常世界観で言えば、合唱部の仲間や指導教員、そして両親です。)に言えず、彼が幽霊部員の一人になっていてたった一人の正部員が親友である「映画を観る部」に入り浸り、その秘密を吐露しつつ、他ではそれを隠し通す生活。狂児の行き当たりばったりの嘘や言い訳に翻弄されて、「大人って嘘つき」とか「大人の社会って理不尽」などと呆れて愚痴を重ねていますが、そういう本人が裏表のある生活を強いられて、それに甘んじ、受け容れていくのです。

 さらにもう一つの通過儀礼的な経験(、というより学習に近いでしょうが)が愛について知ることです。狂児の呼ぶところによる「聡実君」は部長最後のコンクール(全国合唱コンクール大阪府大会のようです)に出て、メインで指導していた女性教諭の産休・育休により十分な指導が受けられず、3位受賞に終わり、全国大会進出を逃します。副顧問であるらしい(パンフがないのできちんと確認できません。)芳根京子演じる「ももちゃん先生」はピアノの演奏はできてもビシッとした指導ができない女性教諭です。そのももちゃん先生が、コンクールの3位に終わった理由を問われて、「○○も良かったし、□□も良かった…。けど、ちょっと愛が足らんかった」と皆に説明するのです。その後も、指導に当たりももちゃん先生は合唱の重要な要素として「愛」に言及し続けます。

 ませた女子学生たちと何か子供臭い男子学生。それぞれが「愛」を意識し始めますが、好き勝手な解釈のまま特に何か哲学的な理解に至る訳ではありません。或る日、聡実君は変声期故に練習に出ることが憚られて「映画を観る部」に籠っていると、例の親友が往年のモノクロハリウッド映画のキスシーンを見て、「愛って、与えるもんらしいで」と宣います。聡実君は「何を?」と尋ねますが、親友は(私が正確に思い出せませんが)「知らん」と答えたように記憶します。

 その日、聡実君が家に帰ると、両親は並んで食卓に向かい、母が焼いた鮭の切り身の皮の部分を箸で取り、それが好きなのであろう夫のご飯茶碗の上にポンと無言で置くのを目撃します。多分、聡実君には今までも観てきた風景のはずですが、愛の定義が頭にある中で、この夫婦の「営み」は聡実君に衝撃を与えるのでした。合唱部の副部長は女子でほんのり聡実君に好意を抱いています。部長の聡実君が自分の変声期のことを隠して変な言い訳で部活に出なかったことなどに対して部員から反発されたりすると、聡明そうでませた副部長は必ず部長を支持する発言をします。「なんで肩を持つのか」と咎められると「だって副部長だから。部長を助けるもんやろ」と平然と答えます。

 或る日、再びこのシチュエーションが起きた時、「二人は付き合ってるんか?」とソプラノができなくなった聡実君の代役の男子から詰られます。副部長はすかさず聡実君の腕を取り、腕組みで「そや」と答えます。狂児の件で頭が一杯の聡実君にとって思わぬところからの不意打ちの愛の行為の困惑は、愛の重大さを知ってしまっているが故に大きく、それを遠目に見ていた狂児に冷やかされると、相手がヤクザの若頭補佐であることも構わず、「狂児のボケ!カス!」と激昂するのでした。聡実君にとって、これらの大きく括って三要素が一気に重く圧し掛かって来ていることがよく分かるシーンです。

 三年間打ち込んできた合唱で自分の声がいつものように出なくなるという喪失は、非常に大きいもののはずですが、この作品ではヤクザの狂児との付き合いの方がメインテーマとなっているので、少々霞んでいる気がします。ボーイ・ソプラノを扱った映画は多数ある以上、そういった映画もあるはずと記憶を手繰ってみると、20年以上前の映画ですが、DVDで観た『独立少年合唱団』を思い出しました。その中でも確か変声期の少年の葛藤の場面があったように思います。ネットで調べてみようと思って色々検索していたら…

■『映画の中のボーイ・ソプラノ』
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~yakata/eiga.htm

というサイトを見つけました。非常に緻密に映画に登場したボーイ・ソプラノを論じています。その中にはこの『カラオケ行こ!』も含まれています。ただこのサイトページの著者も言及していることですが、私はこの映画のヤクザの扱いが色々な面でファンタジー過ぎて気になります。

 映画に描かれるヤクザには色々な人々がいます。古くは高倉健主演の各種の任侠モノのシリーズに描かれる古典的なイメージのヤクザの人々がいます。Vシネはヤクザ映画の宝庫ですが、そこに描かれるヤクザはどちらかというと暴力団と呼ばれるようなやや現代風の人々です。そして、比較的最近の映画作品では、北野武が描くような何かと言えばすぐ揉めて何かと言えば撃ち殺す人々が続出するバイオレンス系映画作品もあれば、相応に現実的な物語をシリアスに描いた(この作品も綾野剛主演ですが)『ヤクザと家族 The Family』や『すばらしき世界』などの作品もあります。このグループが一番現実のヤクザに近い描写になっているように思えます。

 他には古典的には『セーラー服と機関銃』や最近なら『土竜の唄』のような(場合によってはコメディ色が加わった)アクション系作品、さらに、『任侠ヘルパー』や『極主夫道』などのヤクザの転身ものコメディも結構存在します。この作品の中に出てくるヤクザの人々は、非常に大人しくて、凄んだり怒鳴ったりぐらいはしますし、劇中では実際に描かれていない指詰めなども切断された指を描くことで提示されていますが、殺人だの覚醒剤がらみの犯罪シーンは全く登場しません。せいぜい綾野剛が乗り込んだセンチュリーに意趣返しで車で突っ込んで来るイカレポンチがいるぐらいのことです。劇中の組員の誰一人カタギになる訳ではありませんが、物語の性格的には、『任侠ヘルパー』や『極主夫道』に近いぐらいに感じます。

 暴対法が意識されているということではないようですが、妙に一般人に対して紳士的でもあります。聡実君が狂児を当初適当にあしらうために、カラオケの謡には全く役に立たない合唱の基本をまとめた教本を一冊狂児に渡すエピソードがあります。狂児は(あり得ないぐらいの読解力を以て)それを散々読み込んできますが、聡実君から実は役に立たないことを後で知らされます。本来ならヤクザではなくても激怒する所でしょうが、狂児は「なんや。役に立たんの?」のような反応しかしません。先述のようにボケだのカスだの聡実君に面と向かって言われても、胸ぐらを掴むようなこともなく、少々悲しそうな困惑した顔をするだけです。

 この対応は他の組員も同様で、狂児がカラオケ・レッスンを受けていることを知って、組員が寄って集ってカラオケ部屋で聡実君を待ち受けた場面では、相互に罵りあったり凄んだりしますが聡実君に対して事を荒立てようとしたのは、聡実君に一言「カスです」と言われた組員が激昂して迫ってくる程度のことしかありません。

(この激昂する組員は『闇金ウシジマくん』シリーズの柄崎役で一気に知名度が上がったと思われるやべきょうすけが演じています。彼は最近私がDVDで愉しんだ『闇金ウシジマくん外伝 闇金サイハラさん』にも同役で頻出し、これまた最近DVDで観たばかりの『キングダム 運命の炎』にも飛信隊の主要メンバーの役で登場します。)

 さらに狂児が意趣返しの車の激突で瀕死状態であろうと思い込んだ聡実君が自分の三年生最後の出番も放り出して、例の組長の誕生日のカラオケ大会が開かれているスナックに居ても立っても居られず、単身で乗り込んでくる場面があります。組長は狂児が死んだと聡実君に嘘を(単にノリで言っているだけですが)吐き、それを真に受けた聡実君は大勢の組員が座っている中心に仁王立ちで、「仲間が死んでるのにカラオケやっている場合か。ホンマに人間のクズやな」的な罵倒を一頻り語るシーンがあります。組長以下、その罵倒に激怒する者も聡実君を制圧に来る者も全くいないのです。

 随分と善良なヤクザの人々です。この態度を説明するには暴対法ぐらいしか思いつきませんが、それだと矛盾することは結構あります。暴対法は反社会的勢力と呼称されるヤクザの人々に協力する一般人まで罪に問うことができる法律です。カラオケ部屋に組員が10人以上も集まってワイワイ・ガヤガヤ歌の指導を受けるだのしては、カラオケ館そのものが暴対法に引っ掛かるでしょう。

 大体にして狂児は聡実君の学校の校門の真ん前にセンチュリーを乗り付けて立って出待ちをしていたりしています。簡単に学校側にその関係が知られ大問題になることでしょう。そのようなことも起きていません。聡実君は狂児の運転する車に乗り込んで学校から直接カラオケ館に移動したりしています。狭い町と思われる所で簡単にその事実は知れ渡り、学校か近所の人々かの誰かから直ぐに家族の耳にも入るのではないかと思われます。暴対法がそれなりに意識されているのなら、そちらの方が全然問題にならないことが非常に不思議です。

 狂児一人相手に個人レッスンをすることそのものは、一応法律的には問題ないとしても、集団の組員にカラオケ指導することは、間接的にカラオケ大会を支援したことにもなりかねません。おまけに聡実君はカラオケ大会に乗り込み、組長の要請に応えて、狂児が大好きな持ち歌であるXジャパンの紅を出なくなりつつソプラノ声を振り絞って熱唱していたりするのです。ヤクザ系の人々との裏の交流は半ば公然の芸能人でもすっぱ抜かれれば大スキャンダルになるヤクザとの交流を中学生が一人で行なっていたら大問題でしょう。この背徳のスリル感は劇中ではそれほど強調されていませんが、名画『禁じられた遊び』どころではない“禁じられた遊び”による成長譚だと思えます。

 いずれにせよ、私の垣間見たり漏れ聞いたりする現実のヤクザの人々に比して、妙にファンタジー感が高いままの演出になっていて、この映画に星を4つとか5つ付けた人々はその辺をどのように認識しているのか非常に気になります。私はヤクザの人々をその歴史的な背景から考えて、「反社会的勢力」なのではなく「外社会的勢力」なのであろうと考えています。そして、ヤクザの人々を徒に社会から排除するだけの世の中の風潮には強く違和感を覚えます。ヤクザの人々には銀行口座も開かせないので、ヤクザの子供は学校で給食代が引き落としで払うことができず、給食を食べられないままにされている…など、完全に人権侵害の域に入っていると確信します。ヤクザであれば人権さえ認めないというのは、全く異常な話であろうと思います。

 私のヤクザの人々に関する考えは以前観た『ヤクザと憲法』の感想記事にまとめました。

■『ヤクザと憲法』
 http://tales.msi-group.org/?p=802

 その主要部分を2か所抜粋すると、以下のようになっています。

「 社会に身の置き場がなくなってきた人々の主要な行き場の一つとして、現在「暴力団」と呼称される組織に、歴史的に見ても必然性があるのは明らかです。それを代替するものがないうちから、ただいたずらに、彼らの行なうことどころか、彼らと誰かが行なうことまで、ほぼ一方的に悪と決めつけ、どんどん通常の社会生活にさえ困窮させて行くことに何の正当性があるのか私は全く理解できません。彼らは「反社会的」なのではなく、「外社会的」程度のことであったのを、わざわざ「反社会的」なものとして再定義して、「反社会的」なものに仕立て上げているのが、今の社会である面も、一部にあるものと思っています。」

「追記:
 劇中に登場する小さな居酒屋の女将が「ヤクザが怖かったら、新世界で生きてられへんで。この人は守ってくれる。警察なんて誰も守ってくれへん」と組長を前に語ってくれる場面があります。優れた場面です。なぜこう言った場面がもっと収録されなかったのかと、残念に思います。
 私も遵法は最低限必要と感じていますし、暴力団と付き合いをしたい訳では決してありません。特にそのニーズもありません。ただ、世の中一般で上滑りする、悪の構図は単純過ぎ、現実から乖離していることを突き付けることこそ、この映画の本来あるべき姿だったのではないかと思えるのです。 」

 こうしたヤクザ観を持っている私には、この物語はあまりにフィクション過ぎてファンタジー的面白ささえ十分楽しむことができないように感じられました。先述のような紳士的であり過ぎる点もファンタジー的であり過ぎですが、ヤクザが自分たちの存在を社会に示す行為に対する無警戒さもファンタジー感満載です。冒頭の雨の中を傘も差さず歩く綾野剛の後ろ姿のショットで濡れたシャツの下の背中全面の刺青が透かし見えるシーンなど、普通はあり得ないものと思います。私が垣間見たり聞き及んだりすることがたまにあるヤクザの人々は夏でも長袖の服を着て刺青を一般の人々に見せないような配慮をしています。目つきや言動であからさまになっているケースはあるものの、少なくとも一般人相手に理由もなく凄んだり絡んだりすることはありません。(関わりを持つ一般人を(必要性に拠って)限定するなどして、不必要な一般人に関係性が発生しないようにするなど)そうした配慮は相応に徹底しているように思います。

 違法性のないビジネスをシノギとして経営していることもありますが、多くの場合、世の中の中小零細企業の平均値より余程高いぐらいに商売に真面目に向き合い精を出しているケースが多いように見えます。(違法性のある行為をしている際も、ふざけたりダラダラやったりするようには思えませんが、そうした判断をするに足る知見を私は持ち合わせていません。)そのように考えると、カラオケ大会の罰ゲームで幹部の手の甲にキティちゃんを意図しても似ても似つかぬ変な生き物の線画を彫り込むようなヤクザの組長がいるとはあまり思えません。(ちなみにエンドロールでは一気に映画ラストから数年が経ち、数年ぶりに聡実君に電話する狂児の後ろ姿が描かれています。狂児の袖を捲り上げた腕には「聡実」と彫られていました。狂児が一般人で唯一狂児に真正面から向き合ってくれた聡実君に対する感謝と敬愛を具体化した結果なのだろうと思われます。しかし、これも組長の名前や心底惚れた女性の名前を彫るケースは現実に聞いたことがありますが、狂児と聡実君の関係性では少々違和感が湧きます。)

 ネットの高レビューの中には、やはり中学生男子の通過儀礼的成長譚として高く評価している分も多かったように思えます。確かにそのような面は私も評価できますし、先述の通り、面白くない作品ではありません。しかし、成長譚という意味でなら、女子高生の話ではありますが実写なら『子供はわかってあげない』という大傑作がありますし、海外の、それも珍しいモンゴル映画なら『セールスガールの考現学』という傑作もあります。コミックやアニメにはこの手の話は溢れており、現実に本作も1冊で完結したコミックが原作との話です。同じコミック原作の成長譚なら私は『君は放課後インソムニア』の方が好感を持てます。

 ただよくよく考えると、こうした成長譚の多くは高校生が主人公であり、中学生が主人公のものはあまりありません。(もっと低学年なら逆に作品が増えそうな気がします。)以前、私のクライアントだった札幌市内の有名独立系書店が『本屋のオヤジのおせっかい「中学生はこれを読め!」』と題した書籍リストを作った結果、その活動が全国に広がったということがありました。その書店主はその活動を始めた理由を、「小学生までは児童書でよく、高校生からは一般の人が読む書籍でよい。中学生には丁度良い選書群がないと感じたから…」と言っていました。大人への成長の変化が大きく現れるのは高校生であって、それが色々な物語の題材となっても、変曲点そのものは中学生時代にあるのかもしれません。

 この作品に描かれる男子学生と女子学生の成長度合いの対比や、大人の価値観との大きなギャップによって生まれるコミュニケーションの断絶の大きさ(だからこそ聡実君の諸々の悩みを両親を始め多くの大人が分からないままに物語が進行し、観客はそれを聡実君の微妙な表情や仕草、『映画を観る部』での発話内容から推測することになります。)が際立って描写されるのは、主人公が中学生であるからという考え方も成り立つように思えました。佳作だと思います。DVDはまあまあ買いです。

追記:
 シアターから出てくると、扉の外の広い廊下兼小ロビースペースのような所に、普通のスタッフとは明らかに雰囲気がきりりと異なっている4、5人の男女が如何にも何かのイベントスタッフのようなブルゾンの出で立ちで立っていました。
 テキパキと分担しシアターから流れ出てくる人々に協力を呼び掛けて、同意した人物にはクリップボードを渡し記入をさせ、その後、一列に並ばせていました。何かと私も近づいてみると、映画の感想を言ってくれたら、ここでしかもらえない記念品を渡すと言っていました。ただの文字アンケートならクリップボードに記入で事足りるはずで、特に一列に並ぶ必要はないものと思い、列の先頭の方を見ていると、テキパキスタッフが2人いて、ボードを見せつつ段取り説明をする係と撮影係に分かれていました。
 よくテレビやネットで流れるシアター脇で鑑賞後の感想を述べる動画が流れていることがありますが、これはその撮影だったのです。
 私も(高い確率でボツになるだろうとは思いましたが、あまりできない経験なので)協力することにして、現場マネージャー的に見える女性に「あの。こんなオッサンでもいいんですか。他の方々は若い女性ばかりでハナがあるように思えますが…」とおずおずと伝えてみました。
「ああ、勿論構いませんよ。是非お願いします」と女性はにこやかにしかし確実に答えました。渡されたクリップボードは肖像利用の承諾書でした。そこに氏名・住所・電話番号を書き込んで返しました。列に並んでいたのは私以外全員20代の女性に見えました。
 撮影の説明をしつつスタッフが協力者に見せているボードにはセリフのパターンが書かれていました。最初に自分の短い感想を言って、その後に劇中で何度も流れ、エンドロールではLittle Glee Monsterのカバー版まで流れる『紅』について、『紅だ~っ』と叫んでくれとのことでした。
 感想は何を言おうかと私が悩んでいる間に列はどんどん進み、若い女性達はキャッキャしながら卒なく感想を述べて行きました。私は慌てて先程の管理職然とした女性に「あの。特に綾野剛のファンでもなく、Xジャパンもリトル・グリー・ナントカも全然知らないんで、その…『ヤクザの人達が優しくて良かった』とか言いたいんですが…」とおずおずと尋ねると、「勿論、それで結構です」とまたにこやかに応じられました。さらに私が追い縋るように「けど。反社の人々を肯定するような良くない発言になりませんか。コンプラとか何か…」とぼそぼそ尋ねると、女性は一瞬考え隣の男性に何か目配せのような素早いコミュニケーションを取った後、「フィクションですから、大丈夫です」と笑顔で答えました。
 私の番が来て、マラカスかタンバリンのいずれかを選ぶように言われ私はマラカスを選び、「ヤクザの人達が優しくて良かった。紅だ~っ」とマラカスを振りながら叫んで終わりました。多分、何か私のタイミング取りが悪かったのか、私が言い終わってもGoProのような機械の構えは維持されていました。まあ当初の私の想定通り、ボツではないかと思いつつ、記念品のトートバッグを貰ってその場を去りました。
 今の段階でこうした撮影をしていることが、もしかすると初動後に盛り上がりを見せた隠れたヒット作となっている理由(若しくは結果)なのかもしれません。

追記2:
 非常にテキパキの信頼感ある対応で近年店舗であまり体験することのないレベルでしたので、一度去った後に再びテスティモニアル動画撮影の場に戻り、「あの…。一つお尋ねしてもいいですか」と例の女性に話し掛けました。再びにこやかに応じてくれたので、「あ。あの、ちょっとお尋ねしていいことかどうか分からないんですが、この館でこの作品のパンフを買おうと思ったら、もう売り切れと言うことで手に入らなかったのですが、どうやったら手に入れられるでしょうか」と尋ねてみました。
 私は例えば「来週ぐらいからそろそろ補充はされて行くようです」ぐらいのアバウトな希望を持たせる答えが返って来るものと思っていたら、女性は「あ。少々お待ちください。」と何事かをスマホで調べ始めつつ「あちこちの映画館で品切れ状態になっているんです」と会話を進め始めました。そして撮影作業を円滑に進める現場スタッフとは明らかに立場が違いそうな男性に向かって何事かを告げると、その男性もスマホで何かを調べ始めました。そして「映画館にも補充はされて行くと思いますが、品切れがあちこちで起きているので、ネットでの販売を開始する予定になっています。公式ウェブでも行けますが、こちらのサイト…、そう、これです。moviewalkerstore で明日の12時から発売の予定です。こちらで買っていただく方が間違いありませんね」とスマホの画面を私に観やすいようにするっと提示しつつ、これまた淀みなく告げました。
 素晴らしい対応に納得しつつ、帰宅しました。翌日12時過ぎに moviewalkerstore でページを探し見てみると sold out の文字があり、その翌日になっても変化はありませんでした。パンフをネット経由で入手してからこの記事を書こうかと思っていましたが、入手は諦め、こうして記事をアップすることにしました。
 非常に洗練されたテスティモニアル動画撮影のオペレーションでしたが、残念ながらパンフの供給体制にまでは洗練度合いが一歩及んでいなかったようです。