『春の画 SHUNGA』

 とても優れたドキュメンタリーを観ることができました。ここ最近で言うと『テレビで会えない芸人』並みの完成度ではないかと思えます。『世界のはしっこ、ちいさな教室』も優れたドキュメンタリーですが、主張の一貫性では本作の方が上であるように感じます。

 11月24日の公開から約1週間の土曜日の11時30分からの回を、明治通り沿いの映画館が数館入っているビルのうちの1館であるミニシアターで観て来ました。封切からこれほどの短期間の作品を観に行くのは久々ですが、それぐらい狙って観に行こうと考えていたことと、実際に上映館数と上映回数が極端に少なく、いつ鑑賞機会が無くなっても不思議ない状態だったからです。

 新宿のこの館では1日1回しか上映されていません。多分封切の際からこの回数だったものと思われます。上映館は都下に2館で関東でも同じ、全国では16館ですから、先日佐々木心音目当てに観たばかりの『クオリア』よりもまだ多少マシと言えばマシですが、かなり切迫感がある状況であることに変わりはありません。

 フロアが二つに分かれているこの映画館では、ロビーと呼べるものがほぼなく、どれぐらいの観客動員ができているのかチケットカウンターのモニタを見るまでよく分からないのですが、比較的早くに行った私が席を選択するために見たモニタ上の状況に比べて、シアターに入るとずっと人が増えていました。

 概ね30人程度は観客が居たように思います。ネットで見るとこのシアターは60席ですから、稼働率50%でそれなりの一杯感がありました。女性が圧倒的に少なく、(暗くなってから入ってきた人物も含めて)5人ぐらいではなかったかと思います。そのうち一人はかなり高齢の男女二人連れで、その日は映画梯子鑑賞の日だったようで、このシアターに入る前の待合スペースの席で映画館間の移動のタイムスケジュール確認を行なっていました。それ以外の女性も中高年と括ると少々若くなってしまうような年齢層です。残った大多数である男性の方は私が中心層の若い辺縁と言った感じで、概ね私よりもはるかに高齢という感じに見えました。30代から40代の男性もほんの2、3人いました。

 寒い季節で皆がコートを着込んだままの着席状態だったこともありますが、着飾ったような服装の人物は皆無で、皆沈んだ色の服を着ている状況で客席が埋められているのは、やや異様な感じで、業界人的な人物が目立つ先日の『クオリア』鑑賞時とは印象が大きく異なります。

 私がこの作品の存在を知ったのは、10月後半に『春画先生』を観たことがきっかけです。この作品も面白くはあったのですが、どうも春画鑑賞にのめり込んだ人々が、自身もどんどん春画の世界観のようなおおらかな性愛観を抱き、どんどん性行為に耽る様子がメインで描かれる作品で、春画そのものの掘り下げがどうも浅く偏っていて、残念に思えました。

 特に『春画先生』のプロモーション段階での打ち出しが、春画に関わる登場人物たちが春画の魅力に憑りつかれることとしか表現されていず、おまけにドラマの映画にして初めて春画の性器描写がモザイクなしになったことなどばかりを強調していて、春画の世界観そのものの掘り下げが相応に為されるものと期待させます。その状態で『春画先生』を観ると、物語の展開が異常で、例えて言うと、NHKの『ダーウィンが来た!』とか『サイエンスZERO』などが始るものと思っていたら、NHKの朝ドラの何かが始ったような衝撃で、作品自体は一応面白く嫌いではないのですが、大きな期待外れを創り上げたプロモーションの過ちがどうしても印象に残ってしまうのです。せめて『ブラタモリ』ぐらいに収めて欲しかったように思えます。

 その不発感を埋め合わせられそうに期待できたのが、その際のパンフにあった本作の情報です。『春画先生』の感想にはこう書いています。

「パンフによると、小室直子は春画を解き明かすドキュメンタリー映画『春の画 SHUNGA』という作品を今年11月下旬に公開予定しているようです。そちらの方が少なくとも春画の世界観に真正面から向き合っていると考えられますから、劇場鑑賞の価値は高いかもしれません。」

『春の画 SHUNGA』の記事を書こうと映画.comを検索すると、『春画』という1983年のドラマと『春画と日本人』という2019年のドキュメンタリーが、本作『春の画 SHUNGA』と『春画先生』以外に登場します。前者は単に春画が物語のキーエレメントになっているドラマのようですが、後者の方はまさに『春画先生』でも本作『春の画 SHUNGA』でも言及されている通り、欧米でも大好評だった春画展が日本では開催さえ大変なことだった中で、いざ開催してみると大好評を博した話がドキュメンタリーになっているものです。

『春画と日本人』の映画.comの紹介文章を一部抜粋すると…

「15年9月、東京の小さな私立博物館・永青文庫で開幕した春画展は、国内外で秘蔵されてきた貴重な春画約120点を一堂に集めて展示し、3カ月の会期中21万人もの来場者が訪れる大成功を収めた。しかし、展覧会開催までの道のりは平坦なものではなかった。当初、ロンドンの大英博物館で開催され、成功を収めた春画展の日本巡回展として企画されたが、東京国立博物館をはじめとする国内の公私立博物館20館への打診がすべて断られ、小規模な私立博物館での開催となった。」

とあります。日本でも結果的に大きな反響を呼んだにも拘らず、日本の博物館などは春画を芸術として認めなかったということになります。今、何となく変わりつつある春画の立ち位置が非常によく分かるエピソードです。

 今回の作品の方は、春画の世界観の紹介とそれに魅入られた人々の様子など、数々の要素が盛り込まれて山盛り状態で、尺が短いドキュメンタリーが多い中、全編で121分もあります。内容は大きく二つの話が軸というかメイン・ストリームとなっていて、その内容に関連するインタビューなどがサブルーチン的な感じで細かく盛り込まれています。このサブルーチン的な内容が多彩且つ盛りだくさんで目まぐるしく春画に関する色々な切り口や関わっている多くの人々を観客に提示して行く形になっています。

 二つの主軸の一つは、江戸時代の有名な浮世絵師の鳥居清長の「袖の巻」(全十二図)復刻プロジェクトです。何か世の中の技術全般に後の時代の方が前の時代の方が進んでいるようについ錯覚してしまいがちですが、木版画の技術は江戸時代に頂点が存在し、明治期になって写真や西洋絵画などが押し寄せてきて、印刷技術も高度化した結果、一旦木版画の最高の芸術である浮世絵は消滅してしまったという話が語られます。特に後述するように一般に普及していた春画は明治期に猥褻物として取締り対象となって、消滅したということでした。ですので、この復刻プロジェクトは技術的に非常に困難な挑戦であるとのことで、手掛けるのは江戸時代から代々、江戸木版画の摺師の家系であった高橋工房の高橋由美子という人物です。このプロジェクトの進捗が映画の進行と共に描かれて行きます。

 もう一つの主軸は春画ナイトの様子です。美術商の浦上蒼穹堂の浦上満の解説で、多様な春画の実物を次々と鑑賞するという会の様子が、映画の進行と共に時系列のように描かれて行きます。参加しているのは、劇中で個別インタビューに応じている場面もある作家朝吹真理子、ライター橋本麻里に加え、ヴィヴィアン佐藤、春画ールらの面々です。

 さらに関連するサブルーチンとして、主に復刻プロジェクトの方では彫師や摺師のコメントが登場します。彫師の方は特に陰毛などの非常に微細で1mm幅に何本もの線が木版で表現されているような肌理細かさで、毛髪と異なり縮れた曲線が絡まっている様子を表現するのを、江戸時代の職人はどのように実現していたのか見られるものなら見てみたいと言います。摺師の方は、何か一般的に摺るだけの仕事のように漠然と思っていましたが、多色刷りの浮世絵ですので、色味を表現することが重要で、先述の高橋由美子が摺師と何度も色味について打ち合わせを重ねている様子が描かれています。

 それ以外にも「袖の巻」ではそのような表現はなかったように記憶しますが、帯広の日本美術コレクターの山川良一が、実物を見せながら…

◆極初摺り:
 金銀、青貝まで含め、何十種類もの色を使い分ける摺り
◆空摺り:
 凹凸の加工で模様を付ける
◆雲母摺り:
 別名「きらずり」、輝く加工をする
◆銀摺り:
 月の光や雨を表現する
◆艶摺り・正面摺り:
 摺上り後に模様の掘られた板でエンボスのような加工をする。

などの説明をしており、その具体的な技術や他事例を他の専門家が劇中で別途解説していたりします。

 このように復刻プロジェクトの方が春画の技術的な面を描いていくのに対して、春画ナイトの方は文化としての春画を作品鑑賞とその鑑賞の内容に含まれる制作時期の時代背景や、作家ごとの作品の特徴、さらに主な春画の有名作品などを、色々なサブルーチンの人々の言葉も合わせて、これでもかというぐらいに説明して行きます。語る人々の地理も国内外に広がり、北欧の肉筆春画コレクターの英語の解説を聞いたかと思ったら、京都北野天満宮の骨董市の露天商の春画評まで聞くことになります。

 春画の研究家が学術的に解説したりもしますし、春画からインスパイアされた現代芸術家としては、横尾忠則が自分の継母が死の床で腹巻の中に隠し持っていた数枚の小さな春画の存在に衝撃を受け、その後、歌麿の「願ひの糸ぐち」に触発されて自身の「宇宙的狂気愛」を制作した際には、エロティックな興奮が制作中収まらず、自身の精液を絵具に混ぜたと語り始めます。北斎の「蛸と海女」にインスパイアされて、巨大フジ隊員がキングギドラに凌辱される絵を描いたという会田誠も春画について持論を展開しています。

 さらに、この映画は、「蛸と海女」や鈴木春信の「風流 艷色真似ゑもん」シリーズなどをアニメーションにして描き、その語りには森山未來と吉田羊を配するという贅沢さで、春画の絵の周囲に配された文章まで語って聞かせることで、春画が提供する本来の愉しみ方を再現してみせてくれます。特にオノマトペの天才と評されている北斎作品の語りは白眉です。その過程で、海外では「devilfish」である蛸が女性を無理矢理凌辱していると思われがちであるのに対して、文章を読むと寧ろ女性の方が積極的に求めていることが分かるなどの説明まで充実しています。(ちなみにこのような春画の台詞を読上げて鑑賞するという観点は『春画先生』では完全にすっぽ抜けていたのではないかと記憶します。)

 こうしたありとあらゆる春画の説明が配されて、この作品の観客は、春画の中でもこれから性行為に至ろうとしている前段階のモチーフの春画を「あぶな絵」と呼ぶことや、春画の世界では処女(若い場合は恥丘がふっくらと盛り上がり陰毛が描かれなかったりしています。)を描いた作品を「新鉢(あらばち)」と呼ぶことなど、業界用語の数々を学習します。

 さらに春画が平安から続いている文化で、先程の横尾忠則の継母の事例や北野天満宮の露天商の証言などから、嫁入り道具の一つとして広く認識されていたものであることを観客は学びます。武士が鎧櫃(よろいびつ)に春画を入れて死を遠ざける祈願とした話も登場します。(先述の横尾忠則の継母が死の床で腹巻に春画を入れていたのも隠していたのではなくこうした祈願だったのかもしれません。)江戸時代には一般の家々を回る貸本屋が、常に春画本の最新作を在庫に持ち、訪問先で紹介していて、その訪問を日中に受けるのは、家にいる妻であり娘であったと説明され、男性のみならず、女性も性についての関心を普通に持ち、それをオープンにしていたということも語られています。

 江戸時代の後期になると、政情不安・社会不安から残酷絵が流行り出したりしたが、多くの春画において性は特に女性を恍惚の喜びに導くものであり、喜ばしいものやめでたいものとして描かれていることが多くの人々の口から語られるのです。特に性を人間の罪として認識するキリスト教文化圏のコレクターや博物館員が語る春画の中の性文化のありかたは非常に興味深いものです。そしてその福を齎すことへの崇拝が古い神社に残る性器信仰と共に、春画におけるデフォルメされた性器として表現されているとも説明されます。

 非常に盛りだくさんで、この一本を観ただけで春画の世界観の導入的知識としては十分ではないかと思えるぐらいです。パンフでは浮世絵研究家の車浮代がオンラインで試写を観た後「素晴らしい!」と感嘆し、2、3度繰り返し再生したと語っています。DVDが出たら、間違いなく買う価値がある作品で、確かに繰り返し観て、少なくとも日本文化や庶民文化の歴史に関心が少しでもあるような人々には薦めたくなる作品です。

 この作品を観てどうしても気付かざるを得ないのが、『春画先生』の不発感です。あの作品を観た際にも、中野京子が西洋画について語るような面白さに登場人物達がどんどん嵌って行くのかと思いきや、主人公達が奔放でおおらかな性の行為そのものに嵌って行くので、肩透かしを食らいました。そういった影響を春画から受ける人が居ても構いませんし、私は寧ろそうした人々がもっと増えることが、日本社会全般に対してプラスに働くと確信していますので、それはそれで結構です。しかし、そういう物語であることをきちんと伝えてもらわないと、今回のドキュメンタリーに抱くような期待をそれなりには抱いてしまうだろうという思えてなりません。そこへさらにこの作品を観てしまうと、その不発感が尚更強まるのです。

『春画先生』にも春画鑑賞会の場面が数回登場し、個人宅や学究機関の資料室で春画を単品で観る場面も登場します。『春画先生』を観ている際には全く気になりませんでしたが、今回このドキュメンタリーで同様の場面を観ると、『春画先生』で描かれるその場が、あまりにもちゃっちくて薄っぺらく、本職の方々に対して失礼なのではないかと思えるほどなのです。それでも『春画先生』には(たとえば『嘘八百』シリーズのような)文化的ドタバタコメディ的な面白さがあるので、その評価は一応変わりませんが、それでも『春画先生』からこの作品を知って春画をより知るという知的関心のルートがあまりに断絶したものであることに驚かされます。

 たとえば最近観た『線は、僕を描く』における水墨画の世界をその道のプロ、特にこの作品で言う所の、絵師・彫師・摺師の三者のような人々が見たら、どのように見えるのだろうと、この作品の世界観を知って、それを知る端緒となった『春画先生』を振り返る時、思えてならないのです。

追記:
 森山未來は私にとっての大傑作作品の『ボクたちはみんな大人になれなかった』で認識できるようになって以来、『シン・仮面ライダー』でも劇場鑑賞時に一応認識し、ドラマの『パリピ孔明』では三国志好きのクラブ・オーナーが板についていて楽しめました。ウィキで見ると、ナレーターの仕事も多々手掛けているようですが、今回、彼と分かりつつ聞くナレーションもまたこの作品の魅力となったように思います。
 仮面ライダーつながりでもないのですが、比較的最近漸くDVDで観ることができた『仮面ライダーBLACK SUN』では吉田羊が怪人幹部ビシュムとしてずっと出ずっぱりでした。吉田羊の濡れ場というのは記憶がありませんが、今回は声だけながら北斎作品で(読上げているのですが)喘ぐので私にとっては少々のイメチェンでした。