『世界のはしっこ、ちいさな教室』 番外編@狸小路

 7月21日の封切ですが、札幌では7月28日土曜日の封切でした。その翌日の日曜日。午後1時35分からの回を観て来ました。狸小路には二つの映画館があり、最近『共に生きる 書家金澤翔子』を観たり、以前『よだかの片想い』や『この日々が凪いだら』を観た映画館とは異なり、多分初めて行く映画館です。(実際には長い年月の間にリニューアルをしていたりするケースもありますので、少なくとも今の姿になってからは初めて行く映画館です。)

 映画館と言っても、雑居ビルの二階の一室のような位置と内部構成になっていて、実際運営しているのも市民出資のNPOであると、ウィキに書かれています。観客もこのNPO活動の趣旨に賛同して来ている常連客(この映画館には会員制度があり、KINOビンテージ会員、KINOスタンダード会員などと言ったランクもあります。)が多いように見受けられました。

 札幌どころか北海道でもたった1館の上映です。1日に2回の上映がされていますが、それなりの混雑でした。50人ほどの観客が居たように思います。娘と二人で映画館を訪れたのは上映1時間少々前で、座席指定もなく、料金を支払ったら貰える整理券の順番にシアターに入って好きに座るという形式だったので、かなり余裕を持っての到着にしたのです。

 整理券の番号は私と娘で6番と7番でしたが、5人刻みに呼ばれて中に入って、後から入って来る人々を見渡すと、ざっくり50人ぐらいの観客が居たように思います。男女比は半々かやや女性が多いぐらいのバランスで、年齢層は間違いなく高齢側に偏っていました。20代から30代といった層もいるにはいましたが、例外的な存在に見えました。

 私がこの作品を観たいと思った理由は、最近『スーパー30 アーナンド先生の教室』をDVDで観たことです。インド映画によくある長尺作品の例外ではなく、154分では劇場で観るのが辛いので、DVD発売を待っていました。良い作品だったと思います。

 私はインドに行ったことがありませんが、嘗て常務の島耕作がインドを訪れた時、路上には同情を買えるよう親に腕を切り落とされた物乞いの子供が立ち並んでいて、さくら剛の愉快な著書『インドなんて二度と行くか!ボケ!!―…でもまた行きたいかも』は楽しいものの、読んだら初回でもインドに行きたくなくなるような内容でした。どちらも今から10年以上前の話ですが、インドの日常生活がそこに描かれている内容から大きく変化したとはあまり思えないように、テレビのニュースやネットの動画で見るインドの様子から感じています。

 そのようなインドで、『スーパー30 アーナンド先生の教室』は、天才的な数学者でありながら、貧しい出自のためケンブリッジ大留学を断念したアーナンド・クマールが私塾「スーパー30(サーティ)」を2003年に始め、全国の貧しい家庭から選抜した若者30人に食事と寮と教育を与え、本人が命を狙われるような状態でありながらも、初年度から最難関大学インド工科大学に合格者を送り込むまでの物語を描きます。

 繰り返しになりますが、良い内容です。学びの重要さが分かります。しかし、中身はエリート教育そのものです。一般のエリート教育と違うのは学生達の出自だけであって、結果はエリート教育を支援する以外の何物でもなく、単に貧乏でも才能のある子に道を開いたということです。彼の指導は優れたものとして描かれていますが、彼の指導が無くても、元々才能があり学習に対する情熱を持ち合わせている若者達なので、(劇中では何度も「(そういった)制度はない」という発言が繰り返されていますが、)奨学金などの制度が充実していれば、かなりの割合でチャンスをモノにするのではないかと想像されます。(チャンスをモノにできない理由がもう一つあるとしたら、まだまだ色濃く残っているように見える身分制度かもしれませんが、それでさえ、試験に合格すれば公平に大学入学はできる環境のように劇中では描かれています。)

 インドの高学歴者は優秀でよくグローバル企業のCEOでもアジア系ではインド人が増えているという話を聞きます。元々英国領だった関係もあり、(アーナンド・クマールもケンブリッジ大学への留学を志していたように)英語が堪能なエリートが多いということもその理由の一つかもしれません。私がそこで疑問を抱くのは、そうした高いレベルの教育を得た人々の知は、国民に広く何かの形で還元されるのかということです。勿論、収入からは徴税が発生し、還元される仕組みは最低限あるでしょうが、知的エリート達が国外に移住してしまったらその仕組みさえあまり機能しないことでしょう。先述のようなインドの物乞いのような人々にさえ、教育を施すような何かに還元がされるのかということです。

 コミックでヒットした『ドラゴン桜』の主人公が、「知的に優れた者は放っておいても勝手に学び成長する。教育は彼らのためにあるのではない。教育は学びの価値を分からず学びから遠ざかっている者に施してこそ意味がある」というような主旨の主張をしています。私も全く同感です。

 嘗て経済分野で「トリクルダウン」という言葉がありました。「グローバル企業や富裕層に有利な経済政策が経済活動を活性化させ、結果的に中流層や低所得者層にも富が滴り溢れ出て行き渡る」とする仮説のことです。残念ながら、どうもこうした効果はあまり発生しないと判明しているようです。では富ではなく知や教育結果もトリクルダウンするのかという疑問が湧きます。多分、富同様にそういったことは起きないのではないかと思えます。その大きな理由は、知の重要性を分かっていない人々は元々教育を自ら受けようと思わないからです。『ケーキの切れない非行少年たち』の著者も、そうした教育が必要である人間の多くは、自分がそういう必要性がある人間だと認識せず、支援さえも拒むことが多いと書いています。

 先日、『スーパー30 アーナンド先生の教室』をDVDで観て感じたのはこの点でした。教育に命まで賭したアーナンド・クマールは高く称賛され、感動の物語だと言われています。確かにその点は否めませんが、それならば、それ以上に価値ある教育の偉業は、全く基礎教育ができていない人々の蒙を啓き、学びの喜びに目覚めさせる行為ではないかと思えるのです。そういう映画作品は何かあるかと考えていて、日本であれば、『映画 ビリギャル』などがそれに当たるかと考えられます。しかし、日本も含め先進国では、街に書店もあれば、高学歴者がゴロゴロ生活の中に見当たります。学びの価値そのものに、ふとしたことで簡単に気付ける環境は整っているのです。

 そんなことを考えている時に、いきなり最近の映画のリストの中で見つかったのが、本作『世界のはしっこ、ちいさな教室』です。その話を娘にした所、大学のある米国で、やはり基礎教育のできていない人々の問題を身近に見聞きしたことがある娘も関心を抱き、二人でこの作品を観に行くことにしたのでした。

 映画.comの作品紹介では…

「シベリア、ブルキナファソ、バングラデシュを舞台に、3人の先生の奮闘と学びに目覚めた子どもたちの姿をとらえたドキュメンタリー。
 識字率アップが国家の使命であるブルキナファソの僻地の村で働く新人教師で、2人の子の母親でもあるサンドリーヌ。バングラデシュ北部の農村地帯のボートスクールで、子どもや女性の権利を守るべく戦うフェミニストのタスリマ。雪深いシベリアに暮らす遊牧民で、伝統の消滅を危惧するスベトラーナ。さまざまな困難に直面しながらも、子どもたちに広い世界を知ってほしいという情熱を胸に教壇に立つ3人の先生の姿を映し出す。」

と書かれています。3人共に女性でバングラデシュの教師タスリマは弱冠22歳です。すべての事例で教えられているのは超基本的な読み書きや計算のレベルで、現地でも小学校のレベルの教育と認識されています。

 それでも、バングラデシュのケースでは映画.comの解説にある通り、人々は教育に価値を見出さないだけではなく、特に女性には成人するかしないかの段階で早々に結婚して家庭を支えるだけの役割が期待されていて、タスリマはその価値観と戦う方が教師としての仕事のメインになっているように見えます。パンフの中には、以前バングラデシュに在住した人物の記事もあり、その頃では女性が単独で外出して歩き回ることさえタブー視されていたとあり、劇中タスリマが自由に行動し、生徒たちの家を訪ねては親を説得して回る姿に記事の書き手は驚かされています。

 タスリマは小学校の過程を教えていますが、劇中の会話の中に出て来る算数問題の一つは、幾つかの数字の平均をとるというもので、決してレベルが高いとは言えません。それでもタスリマの生徒の姉妹は通常小学校3年とか4年で学校教育の場から離れてしまうのです。それは教育の価値を見出さない大人たちの価値観に因る所が大きいことが窺われるのです。

 バングラデシュのケースの困難は、年の半分は洪水で土地が消えるという環境要因もあり、タスリマは屋形船より少々大きい船を教室にして水上を移動して子供たちを教室に「ピックアップ」して回る仕組みで、学校教育を始めました。劇中でみる限り、どうも特例的な措置のようで、界隈で当たり前に行なわれていることではなさそうです。数々の困難の中で、劇中タスリマが他の二人に比べて唯一救われているのは、子供達が旺盛な学習意欲を持ち合わせていることです。

 それに対して、他の二つのケースは、親などの教育に対する理解はあるものの、教育環境が劣悪です。ブルキナファソでは教室は大きめの四阿のような状態ですし、教師になって最初の赴任先として、この場所で6年間暮らすことになったサンドリーヌがあてがわれた家は、満足に鍵も掛けられない土壁の掘っ立て小屋のような所で、水道は通っていず、川から水を汲み使わざるを得ず、電気も怪しいような状態でした。

 それでも彼女を歓待した校長は、できる限りの環境を整えたといい、彼女に50人もの子供達の教育を託します。この校長は1年後の修了式の際に現れている場面がありますが、それ以外は登場しないので、あちこちのこうした「学校(と呼べるシロモノにはなかなか見えませんが)」を兼任しているのかもしれません。サンドリーヌはぽつんと原野の中に存在する教室と自宅だけの環境でただ一人50人の子供と向き合うことになっているのです。おまけにブルキナファソの公用語はフランス語ですが、サンドリーヌがフランス語を話しても、50人の子供達の中で、日常会話をフランス語でできるぐらいの理解の子は一人も存在しません。部族によって話す言語が異なり、教室には当初5つの言語が入り乱れています。

 この村から600km離れた首都の実家に2人の幼い子供を残して来て、この物理的環境、そして言語的環境に向き合うことが強いられて、スマホの電波も殆ど通じないため家庭に電話することも儘ならない状況でもサンドリーヌは決して諦めもせず投げ出しもしません。舗装された道を走るリムジン型の高速バスから、砂利道を行く乗り合いバスに乗り換え、さらに悪路を進むオート三輪のような乗り物に乗り換え、赴任先に向かう中でサンドリーヌが、「首都から遠く離れた小さな村でも、ブルキナファソの一部で、そこに教育は必要なのだ」と自分に言い聞かせている場面があります。識字率アップが国家の使命と映画.comの説明が書く通り、彼女の使命感は比類がありません。

 修了式の後には皆で伝統的なお祭り騒ぎになりますが、その輪の中にいるサンドリーヌの姿をバックに彼女の独白が入ります。それはこの学校での仕事が人生最高の体験であるという彼女の想いでした。最初はフランス語で「私は●●です」と自分の名前を言うことさえ覚束なかった子供達が、文字を書くことを覚え、数を数えられるようになると、学ぶことの面白さに浸り、明らかに表情が変わって行くのが分かります。この作品が示す3人のエピソードの中で、所謂、学校教育の重要性、取り分け、基礎教育の重要性を最も端的に示す素晴らしい教育事例です。

 例えば、江戸時代に読み書き算盤を教えた寺子屋の制度などを知る時、それが当時の全世界において画期的な教育制度で、当時の日本が世界ダントツの識字率を誇っていたことを知って尚、つい、小学校低学年レベルの読み書きができるようになって、社会の何が変わるのかと思ってしまいます。しかし、この作品の特にサンドリーヌの生徒達の「学びの興奮」を知った後の爆発的な吸収力の発露は、こうした基礎教育の計り知れない可能性を示すのに十分であるように思えてなりません。(バングラデシュのタスリマの生徒達も学びには非常に意欲的ですが、この映画が彼らを捉えた時点で既にその状態だったので、生徒達の目の輝きが急激に強くなっていくプロセスが分からないのです。)

 シベリアの事例は、一応先進国であるはずのロシアにおいて、今尚、このような形でしか教育が為されない人々がいることにまず驚かされます。シベリア東部の遊牧民族のキャンプをトナカイの橇に教室の「部品」と教材を積んでスベトラーナは訪ねて回ります。彼女も只一人で、橇に乗って厳寒の雪道を移動しています。100km単位の距離を移動してキャンプに着くと、テントで教室を作り、10日間ほどそのキャンプで小学校課程の教育を行なっています。

 小学校は町にはありますが、遊牧民の生活から児童を寄宿舎に入れて教育を受けさせることが困難で、そうした児童の教育をスベトラーナは自らキャンプに訪問することで実現しているのでした。劇中の彼女の発言から、これもバングラデシュのタスリマのように彼女が特例的にしていることで、他に同様な職に就く同僚がいるようなことではないようです。自分が辞めたら代わりはいないと言っています。スベトラーナは自身が遊牧民で、エヴァンキ語を話す少数民族としての誇りを子供達に教え伝えるために、エヴァンキ語とロシア語の両方の教育を行なっているようです。つい最近、言語学者の山口仲美による新書『日本語が消滅する』で、言語の消滅のメカニズム、特に少数民族の用いる言語の(使用者人口が少ないことや、公用語の普及や、場合によっては文字がないことに拠る)脆弱性について読んだばかりだったので、その消滅危機に抗する危うい教育の現状を見ることになりました。

 訪ねたキャンプの親たちの理解はあるのが救いですが、如何せん10日間の滞在で教えられることは限られており、トナカイの扱いや分厚い氷に穴をあけて行なう(日本のワカサギ釣りのような)釣りの技術を親の手伝いから生活の技術として学ぶことに子供達は関心を抱いており、子供達の学習意欲は総じて高くなく、この作品に登場する子供達の中で最も変化が少なく、あまり学びの興奮に至らないままで終わっているように見えます。

 全編を通して、教育の重要性が痛切に感じられる作品ですが、小学校教育レベルの教育に交えて「児童婚」の犯罪性を入念に教えて女性の地位向上や人々の価値観の変革を強く意識したタスリマのケースや、親にも子供達にも歓迎されているものの、限られた時間とリソースの中で、自分の少数民族の文化の維持・継承に挑むスベトラーナの取り組みは、目的が付加されている分、純粋に初等教育の活動に括ることができないように思え、その意味で、サンドリーヌの四阿の教室の風景が日本の寺子屋に通じるような基礎教育のありようを一番に示しているように思えました。

 YouTuberが学校教育を否定して、息子を登校拒否させて全国旅行に出させてみたり、学校で虐めを苦にして自殺者が出るなどし、最近も『怪物』という映画作品までできるような日本の学校実態、さらに、麻薬汚染や銃乱射なども平気で起き、多くの子供達が学びの意義さえ忘れてしまっているような米国の学校教育の現場を、この三人の教師や、この三人に蒙を啓かれた子供達が見聞きしたら、どう思うのかを想像することができません。失って分かる大切さというのはよく聞く話ですが、この映画の教育現場を観る時、特にサンドリーヌの教室を見る時、人生を変える学びの変えがたい価値が心に刻み込まれます。

 食べ物を残したり、粗末に扱う子供達に対して、「アフリカとかでは、食べたくても食べられない子供達がたくさんいる。食べ物を食べられることに感謝しなさい」とは、本当によく聞く教えでした。ならば、教育についても、同様の教えがこの作品のような題材を通して行なわれても良いでしょう。食べ物を食べられる喜びは一過性のものになりやすいと思いますが、学びの喜びや興奮は、人生を揺るがすもので、一旦知ってしまうと以前の状態に戻ることができない不可逆なものです。感動作と持て囃される『スーパー30 アーナンド先生の教室』が褪色して見えます。

 嘗て観た衝撃作『ダーウィンの悪夢』が思い出されます。多種多様な生物が棲むことから「ダーウィンの箱庭」と呼ばれたアフリカのヴィクトリア湖に食肉用に巨大肉食魚ナイルパーチが放流されたことから生態系は崩れ、湖の汚染が進み、周辺ではナイルパーチの加工輸出で経済圏が急造され、現地には貧困が蔓延し、飢餓、武器輸入、戦争、売春、エイズ、ドラッグと、負の連鎖が広がって行くのを描いたドキュメンタリー映画です。登場する人々の殆どは拙い英語で話します。現地の言葉はこの文明による惨状を表現しきるほどに発達していないからだと思われます。誰も議論もできず、誰も将来を語れません。

 止むことのない内線に大量の武器を持ち込み、帰路にはナイルパーチの肉を運び去るロシア人パイロットを相手にする売春婦の言葉が心に沁みます。今何が欲しいと尋ねられ、「教育が欲しい。学校でコンピューターを学びたい」と言葉少なに語るのです。多分、コンピュータを殆ど見たこともないのではないかと思われます。拙い英単語一つ一つが、明確に聞き取れるが故に胸に刺さります。その彼女も終盤、客との諍いで命を落としました。結局、客に暴力を振るわれ犯されるようにセックスを売り、全く教育を得られるようなこともなく、死んでしまいました。

 私は『ダーウィンの悪夢』のこの売春婦の夢が儚く消える展開が忘れることができません。そして、彼女が欲した教育はどのように実現されるべきなのかと反芻することが、この映画を思い出すたびにありました。多分、この『世界のはしっこ、ちいさな教室』に描かれた教育が、『ダーウィンの悪夢』の売春婦達をも救うような価値のあるものなのであろうと思えました。

 以前お会いしてお話を伺うことのできた図書館業界の偉大な先達である塩見昇先生は、その専門の一つの生涯教育を語る時、戦後、図書館で行なった在日朝鮮人の女性達が文字を読めるようになる講座のお話をしていました。制度としてのものではなく、学びを必要としている一般の人々の「学びの欲求」に応じる形で行なわれた学習の場と言うことであろうと思われます。しかし、それでさえ、広く一般の人々の蒙を啓くことに当たって、「学ぶ意欲を持たず、学ぶことの価値を全く知らない人々」への教育の手段としては不十分です。

 富は誰もが欲しいので、本来トリクルダウンは簡単に起きても良さそうなものです。それでも富のトリクルダウンは殆ど起きなかったようです。知は富以上に本来必要なものであっても、それをより必要とする人ほど、本人にその自覚はなく、寧ろ反知性主義のような態度をとります。これでは富どころではないぐらいに、トリクルダウンは起きないことでしょう。その罠に嵌った世界の現状への小さな、しかし、近道の無い王道を歩む、覚悟と熱意ある人々の姿を見ることができる名作です。

 3つの物語が個々に描かれるのではなく、並行して少しずつ描かれ、子供達の時系列の変化を追うことが困難であったのが、難点であったようには思います。もっと子供達や周囲の大人達、彼らを取り巻く社会、そういったものの変化を総合的に描いて、物語の厚みをつけることはできたように思えるのが残念です。しかし、DVDは買いです。

追記:
 映画を観る前に解説をネットで読んでいて、(首都名は何か聞き覚えがあるものの)全く聞いたことのないブルキナファソとは一体何処にある国なのかと疑問を持ち、調べてみました。50年も昔の私の小中学校の基礎教育ではオートボルタと覚えた国でした。

追記2:
 タスリマのケースを見ると、女性の人権が認められていない世界の実態が分かります。どうやって統計を取っているのか全く分かりませんが、「日本の女性の地位は全世界でみても低い」などという言説を時々耳にします。韓国のような歪んだ儒教観により男尊女卑が横行している所と同様の儒教文化と思われ、前近代的な封建的習慣が日本にもあったと言われ、さらに、専業主婦を希望する若い女性も多数存在する…などとの情報を断片的に聞いて、世界の人々が想像するのはタスリマが見ているような世界なのかなと、ちょっと思い至りました。
「雇用のカリスマ」の海老原嗣生によれば、最近、女性の就業力率のM字カーブの凹みも、過去に比べて非常に浅くなったとのことですが、そういったことが世界の人々に知られるにはもっと時間を要するのかもしれません。

☆映画『世界のはしっこ、ちいさな教室