『スージーQ』

 5月6日の封切から2週間近く経った19日木曜日の正午からの回をJR新宿駅に隣接しているミニシアターで観て来ました。この作品をこの映画館は1日2回上映しています。都内ではたった3館でしか上映されていません。他の館の上映状況もこの館とあまり変わらず、非常に限られた上映であるものと思います。

 私はこの作品の封切を数ヶ月前から知っていて、今や遅しと待っているような心境で過ごしてきました。ほぼ同じような心境で念願叶って観ることができた映画があります。このブログの2011年3月30日の記事の『ランナウェイズ』です。冒頭で私は以下のように書いています。

「このブログに登場した映画の中で、これほどに「見逃してはいけない」と、危機感を募らせていた単館系映画はなかったと思います。東日本大震災が起きた次の日に封切られたこともあり、仕事のスケジュールが不安定な中で、なかなか見に行く時間を作れなかったのですが、漸く念願成就です。」

 ランナウェイズは1975年に結成されたガールズロックバンドです。すったもんだの末、たった4年で解散しました。しかし、結成当時15歳の少女達のハードそのもののロック・チューンは大反響を呼び、本国米国ではイマイチだったと聞かされますが、日本では大ヒットを重ね、かの篠山紀信が自分の写真集に彼女たちの写真を入れているぐらいです。

 1975年に12歳だった私がハードロックにのめり込むようになったのは、このランナウェイズの存在ともう一人の女性ハードロッカーであるスージー・クワトロの存在に拠ります。『ランナウェイズ』の記事にも…

「私が当時の女性ロックシンガーで大好きだったスージー・クワトロとランナウェイズは私の中で全くつながっていませんでしたが、小銭を貯めに貯めて買った革ジャンを着た主人公ジョーン・ジェットが「グリセリーン・クイーン」と自分のことを言うなど、スージー・クワトロがランナウェイズの目標であり、アイドルであったこと。」

と書いているように、ランナウェイズよりスージー・クワトロの方が先行して、当時男性ばかりだったハード・ロックの世界を女性の立場で大きく切り開いていましたが、日本での認知度はやはり見た目の派手さやエロさからランナウェイズの方が高く、認知された時期的にもヨーロッパやオーストラリアなど非米国白人文化圏でのヒットを重ねることに時間を費やしていたスージー・クワトロの登場は、私の中ではほとんど同タイミングです。

 私はかなりのスージー・クワトロのファンだと自認しています。当時、地方の田舎都市では、コミック『ビー・バップ・ハイスクール』ばりの恰好をした不良的な学生が概ね中学校から増え始めていましたが、そういう学生達は競ってハードロックに傾倒して行っていました。大抵、クイーンやキッス、スコーピオンズなどが多く、私の世代には、ビートルズは遠い昔になっていて、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、または、ジミヘン、クリーム、ローリング・ストーンズなどもほんの数年差で既に終わっていました。

 私が中学生の頃、日本酒のテレビコマーシャルに、黒皮のジャンプ・スーツ(/ライダー・スーツ)に身を包んだ白人女性が登場します。バックには彼女の曲が流れていました。サディスティック・ロックの女王とかサイケデリック・ロックの女王とか呼ばれた、スージー・クアトロです。アルバムがその後余り出なかったランナウェイズに比べ、スージー・クアトロは、既に何枚もアルバムを出していて、一度に数枚のレコードを親に買ってもらい、ガンガン聞きました。コピー機も普及していない時代だったので、写経のように歌詞を何度も書き写し、どんどん覚える毎日でした。こうして覚えた歌詞の多くは還暦近い今でも尚かなり正確に記憶しています。

 そんな或る日、教室で放課後に帰ろうとしていると、所謂不良学生4、5人に取り囲まれ、「おい。市川。ちょっと女子から聞いたんだけどよ。おまえ、スージー・クワトロって詳しいのか」と言われました。持っているアルバムタイトルを挙げて、その中のどの曲でも良いから指定させ、片っ端から歌詞を口ずさんで聞かせると、全員が腰が抜けるほど驚嘆して、「お、おまえ…。なんて奴だ。すげぇ。おまえ、家で勉強ばっかしているような奴だとずっと思ってた…」などと口々に言われ、その後、何回か彼らに発音指導をしてやったことが懐かしく思い出されます。

 先述の通り、すったもんだの上に解散したランナウェイズは、或る意味正統派のハードロックでした。私はその曲がかなり好きでしたが、持っているアルバムはライブ盤を含めて3枚しかありません。それに比べて、スージー・クワトロは何か妙にクセのある「音」でハードロックとは一線を画していました。曲だけで評価をしたら、ランナウェイズの曲の方が好きです。しかし、次々と出るスージー・クワトロの或る意味でワンパターンと言えるぐらいにお決まりのタイプの曲を聞いて覚えていくうちに、その魅力にハマって行きました。高校入学時ぐらいにも、ずっと四六時中口遊んでいた時期があったように思います。

 そのスージー・クワトロがランナウェイズに遅れること11年。漸く映画になりました。それもドキュメンタリー映画です。これは見逃す訳に行きません。前日の内から購入してあったチケットを手にシアターに入ると、20人ぐらいの観客が居ました。今まで色々な観客群を見て来ましたが、かなり高齢に偏っている方です。男性7割、女性3割と言ったところでしたが、還暦2年前の私が多分若い方のトップ3ぐらいに入っていると思います。その後、上映開始後15分ぐらいになって、女性3~4人連れが暗がりに入ってきました。彼女らはかなり平均年齢を下げる感じの30~40代のように見えましたが、暗がりのチラ見なのでよく分かりません。

 ランナウェイズの日本でのファンは女性の方が圧倒的多数であったことが知られていますが、スージー・クワトロもそうであったのかもしれません。そして、これらの高齢者たちは、私の数年から10年ほど年上の年齢でスージー・クワトロの洗礼を受けた人々なのではないかと想像します。ただ、インターネットどころか、CDもDVDもビデオもない時代、地方都市ではファンの交流などというものも、先述の不良学生に囲まれるぐらいしかなく、どの程度どんな層にウケていたのかが全く分からないのです。

 104分というそれなりの尺のドキュメンタリー映画だけあって、定石通り、まずはその家族を描き、そこで生まれてからの幼少時代を描きます。なんとなくライナーノーツで読んだことがあったような記憶が微かにありましたが、スージー・クワトロの父がジャズマンで、その影響で四人姉妹(息子も他にいます)全員が音楽に傾倒しています。そして、時期によってメンバーの変更が少々あるものの、この四人姉妹がバンド活動をしていて、その段階で既に米国の地方巡業ツアーまでやっているほどの、そこそこの人気バンドだったようです。

 このバンド活動が諸々の理由で行き詰まった際に、プロモーターが目を付けたのがスージー・クワトロただ一人で、残りの三人を捨てる形でスージー・クワトロはイギリスに渡ります。この際の蟠りが、残った娘達にも才能があると信じる父を筆頭に強く家族に刻まれてしまい、スージー・クワトロの両親ともに亡くなった後も、三姉妹とスージー・クワトロが完全に和解した訳ではありません。それが、今に至っても尚、スージー・クワトロの人生に影を落としていることが、映画の終わりまでずっと提示され続けます。

 同じようなケースで女性ロックバンドのSHOW-YAは、1991年に看板ボーカリストの寺田恵子が、体調不良やストレスが原因と言われていますが、脱退しソロに走ります。残されたメンバーは新しいボーカルを二人とっかえひっかえしますが、結果的に1998年に解散しました。脱退が結成10年目。解散が17年目のことです。その後、裏切った形になっている寺田恵子がバラバラになったメンバーの許を訪れ一人一人に頭を下げ、5年かけてメンバーを説得して再結成を果たしました。これと同じ状況がスージー・クワトロの家族の間で起きていたと考えると、確執が今に至って完全に消えないことも理解できるように思えます。

 苦節一年少々のイギリスの貧乏ホテル生活を経て、スージー・クワトロは今に至っても代表曲である『キャン・ザ・キャン』の大ヒットで突如スターダムに伸上がります。私もソラで歌えるこの曲が創り上げられた裏には、彼女の着る黒レザーのジャンプ・スーツやあの限界ギリギリのハイトーンのシャウトなど、綿密な計算が為されていたことが明かされています。特にベーシストのスージー・クワトロの特性を前面に押し出すため、ベースラインが強調された曲ばかりが作られるようになります。それが、先述のスージー・クワトロの「クセのある曲」の最大要因です。

 バック・ギタリストのレン・タッキーと日本で着物を着て神前結婚式をしたことが知られていますが、それもプロモーションの一環だったと作中で明かされています。このギタリスト以外にメンバーがどの程度変更になることがあったのか分かりませんが、特に彼女が女優に転じたりする場面が出てくるまでの、まさにハードロッカーのスージー・クワトロの曲のイメージは、彼女の弾くベースに合わせたドラムが、まるで期限切れで大分腐敗が進んだ鶏肉を10年ぐらい使いまわした厚手のジップロックに入れて棍棒で叩くような切れの悪い音であり続けているように思いますし、まるでピータイルの上をキャリーバッグを引きずり回しているようなドロドロした感じの古いギターサウンドも定番のように感じています。

 なぜかポルトガルでしか売れなかったと作中で紹介されるファースト・シングル『Rolling Stone』に続き、彼女をスターダムに押上げる『キャン・ザ・キャン』は、その様子が細かく描写されていて、作品中の最初のクライマックスになっています。この曲のヨーロッパにおける衝撃はとても凄いものだったようで、何人もの音楽関係者がその様子をインタビューされて語っています。

 取り分け、どこかのラジオ局のパーソナリティのような存在だったかと思いますが、インタビューされた人間の中ではかなり若い方の30代ぐらいに見える、肥満系白人男性は、当時を思い出して、「あのベースラインを前面に出したイントロが、ドゥッドゥ・ドゥッドゥ・ドゥッドゥ・ドゥッドゥと…」などと座った状態で腕立て伏せでもしているかのように、腕を力強く前に押し出しながら語っているのがやたら印象に残っています。当時の私は、「缶詰に缶する?言葉がダブっていて間の抜けたタイトルなのに、強烈な曲だよなぁ。表現は dream a sweet dream みたいに同じ単語を重ねているということなのかな…」ぐらいに思っていましたが、この男性の記憶に為された刷り込みの凄さには可笑しさと共に驚きを覚えました。

 私が愛聴したスージー・クワトロの二枚組ライブ盤のジャケットは、彼女が右手の拳を振り上げている写真が大きく載っています。ランナウェイズでも座ってじっくり聞くのが当たり前だったのですが、なぜかスージー・クワトロは歌詞や曲そのものより、ジャイブ感というか、そう言ったノリが前面に出てくる楽曲目白押しだと思います。そして、この作品の中で『キャン・ザ・キャン』が何度も掛けられると、どうしても、両手を拳にして、リズムを力んで刻みつつ、マスク着用の下では小声で全部歌詞を歌ってなぞってしまうのでした。

 元々私がスージー・クワトロを知ったきっかけは、ソフト・テープ(既に楽曲が録音されたカセットテープ)でスージー・クワトロのベスト盤を買ってもらったことでした。その後、LPをいちいち掛けるのが面倒で、買ったLPは全部テープにダビングし、ラジカセやウォークマンで何度も何度も聞き続けていました。ですから、私は歌い叫び観客を煽るスージー・クワトロの動く姿を見たことがありませんでした。今回その事実に気づかされました。動く彼女を見ていると、幾つかの曲に決まったフリがあることまで発見できました。

 他にも色々な発見があります。スージー・クワトロは結局母国アメリカでのヒットには恵まれなかったことは、最大の発見かもしれません。作中では彼女を崇拝するジョーン・ジェット(だと思います)が、「彼女は早く現れ過ぎた」と言っていますが、多分そうではないでしょう。ヨーロッパでヒットを経験した多くのバンドが、米国で売れないままにいます。

 私が高校時代半ばに入ってから生涯一番好きと言えるバンドになったのがホワイトスネイクですが、ボーカリストがのどのポリープ手術をきっかけに高音域の歌唱に移行し、曲も分かりやすいメロディアスで当たり前の感じになって、米国でそれなりのヒットを重ねるようになりました。その手術の前後でオールド・ホワイトスネイクとニュー・ホワイトスネイクと呼び分けるファンもいますが、呼称はともあれ、私はオールドをこよなく愛し、ニューはたまに聞いてやってもいい駄作連発…といった認識をしています。

 米国に留学した期間に見聞きしたかの地のロック・ファンの平均像は極めて幼稚で単純です。歌詞カードを観ることもなければ、歌詞も覚えることがありません。(だからカラオケが流行らない文化です。)バンドの歴史を追いかけることもなければ、アルバムを時系列で聞き比べることもありません。さらに、その時代からいや増しに格差が広がり、一般大衆の教育レベルは落ちる一方です。だとすると、その当時でさえ、早く現れ過ぎたスージー・クワトロは、今なら余計に受け容れられないのではないかと思えてなりません。「早く現れ過ぎた」のではなく、「受け容れられる土壌がいつの時代もなかった」のではないかと思えるのです。

 米国では(所謂ソープ・オペラ的な)テレビ番組にスージー・クワトロ的な人物の役で登場し知名度を上げ、その後、スージー・クワトロはミュージカルのプロデュースにまで打って出て、芸域を広げます。傍らでロック・ミュージシャンとしての活動も細々としていたようですが、ロックの世界から離れたことにより、最愛のギタリストの夫が二児を残して彼女の元から離れて行きました。

 この映画は全編を通して、何かを得たら何かを失うスージー・クワトロが描かれていると言って良い構造になっています。現実にインタビューでも、彼女自身がその人生観を繰り返し繰り返し述べています。14歳で家族のバンド活動にのめり込み、学校生活が儘ならなくなって、学校も中退します。彼女は海外ツアーから戻って周囲の同年代の子供達を見渡した時、自分が全く違う世界にいて、周囲のティーンエイジャーが得ていた幸せを代償にバンド生活ができていることに打ちのめされたと言っています。

 ソロデビューのために家族を捨てて、その結果、今に至って完全な和解に至っていません。米国での活動の幅を広げることを決断したことは、本人は積極的な動きと捉えていますが、その結果、今度は夫を失いました。それを後悔していないというのは嘘だと本人が言っています。それでも、自分は今の道を選ぶしかなかったという諦めが、「スージー・クワトロ」という存在をファンに提供し続ける彼女の使命であるという覚悟と共に、作中終盤語られるのです。

 そして、映画は、そのファンの彼女に対する敬愛の深さを執拗に描き、まるで彼女の忸怩たる思いを必死に払拭するかのような展開になって行きます。私は全く知らない、女性ロック界の大御所らしいドニータ・スパークスはスージー・クワトロをベタ褒めし、この映画のために、スージー・クワトロの歌まで作詞作曲して、エンディングでそれを披露しています。(披露しているステージの傍らでベースを弾いているぷくぷくに太ったおばさんがいますが、それが70歳超えの現在のスージー・クワトロです。)

 往年の珠玉の名曲を動画でどんどん見せられる展開には、消えかかっていた記憶を無理やり呼び戻されるようで、目頭が熱くなる場面がありました。テレビ女優に転向した場面や夫との離別で物語は暗転しますが、構成の妙で彼女の崇拝者が多数現れて語ります。それと並行して自宅で自分の人生を振り返り、インタビュアーに応じつつ頬を伝う涙を何度も何度も拭うスージー・クワトロが描かれます。

 子供時代の自分に何か伝えることができるとしたら何と言うかという問いに、声を詰まらせ、「『急がなくていい。今の年にできることはもっとたくさんある。急ぐな。走るな』と言いたい」と何とか語るのでした。何か泣けてきます。悲しいのではなくて、多分、彼女が珠玉の名曲を世に届け、時代を切り開き時代を駆け抜けた来た結果であり、私にとっても人生の無視できない大きさのピースが、これほど一人の女性の抱えきれず昇華できない滓のようなものを代償として生み出されていた事実に拠るのだと思います。それでも、「スージー・クワトロ」という商品は、後進の女性ロッカーも含めたファンのものであると断言して邁進しようとする彼女の姿であるかもしれません。

 まるで、最近観た作品の中で、流れる時の中で輝いていた時期が無為に過ぎてただの平凡な大人になって行くことをただ只管に主人公が見据えるだけの『ボクたちはみんな大人になれなかった』の強烈な圧力を思い出させるようです。あの作品を経験しているので余計に、自らの往年の輝きとそこからの退潮を自覚した老人の姿には心が揺さぶられるのかもしれません。

 DVDは絶対に買いです。特に彼女を称賛する曲を舞台脇で一緒に演奏しているぷくぷくのおばさんになったスージー・クワトロは、私が見慣れていないヨーロッパで大ウケしていた大ヒット曲の数々のライブシーンと共に何度か見返すことになると思います。

追記:
 映画鑑賞後の数日の間、どうもあの「ドゥッドゥ・ドゥッドゥ・ドゥッドゥ・ドゥッドゥ…」の肥満白人男性のイメージと共に頭の中で『キャン・ザ・キャン』が流れます。DVDを買って特に見返すシーンの中には、短い尺ながらあの男性のシーンが含まれてしまうことと思います。