12月最初の木曜日の14時35分からの回をバルト9で観て来ました。封切から約二週間です。1日5回の上映の3回目で、この上映回数だけを見るとなかなかの人気作に見えます。しかし、23区内では新宿・渋谷・品川の三ヶ所。都下に拡大しても四ヵ所でしか上映されていません。おまけにパンフレットもない作品と聞くと、そのマイナー感がひしひしと理解されるように思います。
チケットカウンターやロビーもある9階の3つのシアターは比較的小さめですが、その中でも一番大きい148席のシアターに入ると、全体で25人ぐらいの観客がいました。正確に言うと、最初は10人少々しかいませんでしたが、シアター内が暗くなり、他作品のトレーラーが流れるぐらいになるまで、ダラダラと観客は入り続け、概ねそれぐらいの数になったように見えました。
男性は私も含めて多分たった4人で皆比較的高齢でした。女性は圧倒的多数で若い層に年齢の中心値あるように見えました。多分、20代後半から30代ぐらいでしょう。女性の複数連れも何組かいて、3人連れも1組いました。内容的に男女カップルには辛すぎるということかもしれませんが、男女のカップル客はいなかったように記憶します。
私がこの作品を観に行くことにしたのは、タイトルの奇抜さに惹かれた部分が大きいように思います。仕事上、女性のキャリアについて語ることも多く、かなり馬鹿げた考え方だと思っていますが、ワークライフバランス的な事柄についてクライアント企業の社員やスタッフと意見交換することもあります。そんな中で、『ずっと独身でいるつもり?』というタイトルは、商売上の材料がそれなりに手に入りそうに思え観ることにしました。
映画.comのサムネイル画像を見ると、私の好きな横長丸顔のタヌキ顔とは程遠いやや骨ばった顔の女性が呆けたような表情をしている所へ、背後からイケメン風の男が抱き寄せています。この女性が主役なのかと解説を読んで、それが田中みな実だと知りました。知りましたと言っても、私の認識は確か元TVアナウンサーで写真集がバカ売れした人…ぐらいの認識しかありません。その程度の認識の人物がこの映画の主演だったのかという程の「知りました」です。
テレビを殆ど観ない生活をしているので、彼女の主な活動のフィールドとほぼ全く接点がなく、ニュースに出ている所も、バラエティ番組で語っている所も見たことがありません。唯一、偶然テレビをつけた際にやっていたので魅入ってしまったドキュメンタリーがありました。それは、『プロフェッショナル 仕事の流儀 田中みな実 ~求められて、私は輝く~』で、画面の中には、女優に転向したばかりで、与えられた機会に細心の努力と最大の反省を以て臨むストイックな女性の言葉と姿勢がありました。それが後から田中みな実だと分かりました。
ネットで見てもかなりの大反響だったようで、
●「120%で応えたい。ただ目の前のオファーしてくれた人の期待を裏切りたくないっていう。爪痕を残すとか目立つとか、そういうことではなく、使いどころをどれだけ残せるか」
●「4日連続くらいでおうちに帰って泣いてるの、私」
●「求められることって、すごい怖くないですか? 求められなくなったときに、私の何がいけなかったんだろうって。見飽きたら、そこで終了なんですよ。消耗品だから」
などの彼女の言葉があちこちで紹介されています。番組中では自分のインタビュー原稿に細かなアカを入れ、ライターに電話して念を押すシーンなど、仕事の質に強い執着や執念を以て臨んでいるのが分かります。「満足できない性格」と自認し、とうとう女優に行きついても、新たなフィールドでのプロとしての姿勢を全く崩すことがない様子が延々と描かれて行きます。その印象が微かに頭に残っていて、サムネイルを観て少々して田中みな実だと認識したときに、「そのプロ意識で選んだ仕事がこのテーマなのか」と微かにですが関心が湧きました。
映画.comの紹介文から一部を抜粋すると…
「10年前に執筆したエッセイが異例のヒットを記録し、一躍有名作家となった36歳の本田まみ。女性の人生における幸せの価値を赤裸々につづって読者の支持を得てきたが、続くヒット作を出すことができずにいる。世間から求められるままに配信番組のコメンテーターを務めるなど作家として迷走する一方で、周囲からは事あるごとに独身であることを心配されている。年下の恋人とは結婚に向けて交際を続けているが、価値観の違いから不安と怒りが募っていく。周囲の雑音に傷つき、揺れながらも、自分にとっての幸せの形を見つけ出そうとする彼女だったが……。」
ということになっています。そのまんまです。ただ、田中みな実演じるまみ以外にも主な「迷える女性」が三人登場しています。まみが26歳の時に書き綴った“異例のヒット作”は『都会というサバンナで、ひとりで咲く花になろう』とタイトルで、平たく言うと所謂「おひとり様」の女性のライフスタイルをギンギンに持ち上げる内容のようです。三人の女性のうち、市川実和子演じる由紀乃は、この通称『トカサバ』をバイブルにして、結婚を考えていた彼氏に振られた後の自分を肯定しようと、色気のない生き方を表面上しています。
しかし、まみの方は若く何でも手に入るかに見えた26歳の時点から既に10年が経ち、年下の彼氏との付き合いの中にさえ何か満たされないものを感じ続けており、仕事も10年前のヒット以降、消費されるだけの役回りを続けつつ漂っているように感じています。
残り二人のうち一人は由紀乃の高校か大学かの同級生の彩佳で、早くに結婚をし一児を設け、Instagramで「丁寧な暮らし系」のインスタグラマーとして万単位のフォロワーを抱えていますが、結婚後の夫との家事分担などの不満を言い出せないままに、心が擦り切れて行っています。最後の一人は、26歳の所謂「港区女子」で、六本木で華やかなギャラ飲みを重ねて、ゴミ部屋のようなブランド物で溢れた部屋に住んでいる美穂です。
このうち、唯一20代の美穂だけが物語に上手く絡んでいません。結局彼女は太いパパから、26歳にもなって薹が立ったと値踏みされ「体の関係になるか別れるか」を迫られ、そのプライドから愛人を選べず、「港区女子」の華やかな生活から唐突に転落します。或る意味、『トカサバ』以上の男を手玉に取るおひとり様の道を歩もうとして、いきなり結婚も妊娠も考えることなく、すべてを捨ててタクシードライバーとして再出発するのです。原作のコミックではどのようになっているのか分かりませんが、非常に変な位置づけです。
残りの三人は、まみだけ36歳で、同窓生の由紀乃と彩佳は、それより多分やや若い30代という設定かなと思えます。主婦の彩佳は、どうみても夫を愛しているようにも見えず、今となっては子育てをきちんと話し合うこともできない状態で、結局、「私も働きたい」と言い出して終わります。最もふり幅が大きな人生の軌道を見せてくれたのは、流石の演技派市川実和子演じる由紀乃です。(と言っても、妹の市川実日子に比べて、あまり劇場で彼女を観た記憶がある作品が浮かびませんが…。妹の方は『ユメ十夜』や『キューティーハニー』、『シン・ゴジラ』など結構印象に残る作品があります。)
結局、結婚が幸福のゴールだと思っていたのに、彩佳との同窓会以降の交流で、結婚が全く幸福をもたらしていない現実を突きつけられ、東京のベイサイドのどこかを自転車で「結婚したら寂しさは消えるんじゃねーのかよ~」と泣き叫びながら全速力で走り抜けます。
で、主人公のまみは婚約まで進んだ年下彼氏のアホ度合いというか、クズ度合いというかが、どんどん目についてきて、相互の両親に挨拶をするところまで進んだ時点で、婚約破棄を決めます。実は由紀乃とまみは同じマンションの隣同士に住んでいて、バイブルの著者であるまみの婚約解消の絞り出すような言葉を配信番組で見て、自分を捨てた男と住むはずだったでかいベッドのあるでかい部屋から転居する決心をしました。その引っ越し作業のさなか、由紀乃はまみと廊下で初めて会います。その際に、まみは由紀乃に尋ねられて、「とてもしあわせ」と答えるのでした。
何か色々と引っかかる作品です。これはどの程度世の中の女性全般に共感されるのだろうかという疑問がまず傘のように広がり、その下に数々の細かな疑問が湧いてきます。
映画のお披露目の際に現在35歳の田中みな実は…
「「取材で『田中さんの人生そのままですね』とか言われるんですが、作品をご覧になってこういう感想を持たれる人はいないんじゃないかなと思います」と話し、「私も20代後半くらいのときに、結婚を一つの逃げ道として考えたこともあったなと懐かしく思い返したりしましたが、今は結婚に対してしたくないという気持ちもないし、しないと決めているわけでもないです」と結婚観を明かす。
続けて、「自分のペースで、良い方がいればしたいと思いますし、自由でたくさんの選択肢があっていいはずなのに、周囲の雑音にとらわれていることが多い。今日は女性の方も多いですが、見終わった後に自分の生き方を肯定できる気持ちになっていたら嬉しいです」と呼びかけた。」
と映画.comのニュース記事で書かれています。ストイックに生きる田中みな実は、まみのようにブレブレになって、「魔がさし」て結婚に踏み切ることはないように見えます。それでは観客や一般の女性の結婚観はどうであるのかと考え至ります。
劇場を出る際の多数いる女性客の方から、「突っ込みどころ満載」との声が数度聞こえてきました。私の疑問もそれほど外れていないのかもしれません。この作品の舞台は現代の東京ですが、この作品の30代の三人ほど、東京在住の30代の多くの女性は結婚することやしあわせになることに振り回されつつ人生を送っているのかという疑問です。
私もこの作品には突っ込み所が満載に思えました。ただ突っ込む根拠はシアターにいた女性客とはやや異なるかもしれません。
▲まみは「しあわせです」と答えているのは本当か。[(1)幸福論的アプローチ]
まず、幸福論は色々ありますが、多くの哲学者が見出したように、幸福は「幸福かどうか考えないこと」の中にあります。「私は幸福です」と意識して言うこと自体が、既に幸福ではないことの証とみることができます。
また、人生に幸福の元となる快をもたらすのは、「快楽」か「充足」しかないことをチクセントミハイなどが解き明かしています。快楽は覚醒剤などに顕著ですが、摂取すればするほど得られる快は薄まり依存が始まります。「充足」は得るのに苦労が必要ですが、一度得られるようになるとずっと続きます。まみは何かに打ち込んでいる様子もなく、書く材料もぎっちり揃っているようにも見えません。得意な、特に自己効力感があるような事柄に没頭するのが手っ取り早く、一人でもでき、効果も大きい「充足」方法ですから、彼女がそのようなものを手にしているようには見えません。
承認欲求によって幸福を得ようとする人々も多くいますが、一人で得られる「充足」に比べ、快は薄く、長続きしにくく、一度得ていた承認を失った際の喪失感は大きいため、望ましい方法ではありません。まみの場合、自分を求める婚約者を自ら捨てたのですから、一般的な人間関係の中に深く強い承認を求めるのはなかなか難しいようにも思えます。
▲まみは「しあわせです」と答えているのは本当か。[(2)生物学的アプローチ]
よく『言ってはいけない』などの著書で橘玲が言っているような考え方ですが、生物の目的は種の保存ですから、人間もその例外ではなく、基本的には、種の保存に向かう活動をしている際に快を得られるようにできているはずです。
オスとメスが交尾する前提の生物は実は少数派で、別れていない場合は、全部がメスと考えるのが自然です。つまり、生物の基本形はメスで、オスは自分の母であるメスの遺伝子を種として環境への適応性を上げるために、他のメスにばらまくために存在しています。いわば種の中の存在としては付録のようなもので、福岡伸一博士によれば「できそこないの生物」です。
本来の生物である女性の最も深く強い快は性愛の悦楽によって得られることになっていて、所謂「セックスできれいになる」などの雑誌記事タイトルも科学的に一応本当です。その結果として、自分を絶対的に必要としてくれる存在である子供を作ることもその延長にあります。仕事も没頭できれば「充足」をもたらしますが、性愛に較べれば弱い快の要因でしかありません。上野千鶴子も三砂ちづるも女性が性愛のパートナーを持つことに肯定的です。そこまで考えてみると、現時点でのまみは本当にしあわせなのかと言えば、やや疑問が湧きます。
▲結婚はそんなに必要か。
三人の女性は形は何にせよ、結婚することの「枠組み」に囚われています。それも、最近、アニメ(たとえば『ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり』の主人公の元嫁など)でさえ、「勢いでまずは結婚するが、ダメならすぐ別れる」という発想もそれなりに普及しているように感じられますから、違和感が湧くほどに囚われています。
LGBTなどの考え方の浸透と共に、同性の恋愛も広く認知されるようになりました。同性婚や夫婦同姓などの問題が議論されるようにもなりましたが、家族という社会単位がここまで希薄化していて、結婚しない人やら、一人世帯の住人も増えている中で、結婚という概念自体をもっと“しなくてもよいもの”に近づけても良いように社会は進んで行くように思えます。「それでは、人口がどんどん減ってしまう」という人がいますが、非嫡子を大っぴらに認めれば全く問題ありません。寧ろ、非嫡子を不便な立場にしているから結婚を維持しなくてはならず、その結婚が色々と困難なものになっているから子供が減っているという見方さえできるように思えるのです。
事実婚や、そこへ通い婚を掛け合わせたような生活スタイルが普及して行っても特に問題は起きないように思えてなりません。子育てはどうするのかという問題も、地方に行けば託児所や保育園が不足して「保育園落ちた日本死ね」という状況はあまりありません。離婚したら養育費をバックレる男が多いと言いますが、それを追求して取り立てられる法制度を整備するなどして、カネでアウトソース・サービスを買うか、昔ながらの大家族のように、親族に育ててもらうかなどすれば、非嫡子の養育も嫡子に比べて大きなハンデがある訳ではないはずです。
坂爪真吾は『未来のセックス年表 2019-2050年』でブロックチェーン婚の出現を述べた後、将来の結婚は含まれている契約内容を細かく分解し、その要素ごとに細かく契約できるようになると説明しています。私はそれもあり得るとは思うものの、そんな男女の契約をわざわざ(その未来の時点では)過去の習慣に従って「結婚」と呼ぶのかさえ疑問ではあります。
江戸時代に至るまで、日本社会ではおおらかな性愛が浸透していました。もちろん結婚もありましたが、おおらかで柔軟な性的な関係が今以上に認められていた時代で、それほどの後ろめたさもなく、お妾さんや二号さんもそこここに存在していました。結婚が無くなってしまえば、不倫もなくなります。自由な恋愛関係の中で生まれた非嫡子を育てる社会にじわじわと移行する途上に社会はあるように思えます。
だから結婚を直ぐ無くせと言う意見ではありません。したい人は部分契約の内容を検討しながらすればよいでしょうし、それを意識せずに、ただ事実婚や通い婚をしていても良いという選択肢の問題であろうと考えます。
▲描かれる男性はなぜダメ男のオンパレードなのか。
まみが出演する配信番組のMCを藤井隆が演じていますが、この番組のタイトルが映画のタイトルそのものの『ずっと独身でいるつもり?』だったはずです(記憶が定かではありません)。このMCの価値観は番組中ではかなり偏っていますが、実はインタビューを受けているシーンで彼はそれが求められている役割だから演じているだけで、「結婚するもしないも、個人の自由で傍から兎や角言うものではない」という主旨を語っています。かなりまともです。
ところが、チョイ役のまみの叔父をもう一人の例外として、それ以外の脇役級の男は、まみの年下婚約者もその飲み仲間も、由紀乃を振った元カレも大学時代の交際相手も、彩佳の夫も、基本的にバカばかりです。
この作品最大の疑問は、なぜこれらの三人の女性はこのようなダメ男と付き合うことにしたのかということかもしれません。付き合うだけなら、付き合ってみてからダメ男と気づくということも勿論あるでしょう。しかし、三人の女性は、ダメ男と付き合った後に、結婚を考えるなりするなりして、彼女たちの人生をコミットしてしまっているのです。実質ダメンズと考えた方が良いぐらいです。ダメンズならダメンズとして、疑問や逡巡を持たず、ダメ男に尽くして尽くしまくるぐらいの覚悟で臨んでみるべきでしょう。
もしくは、自分の人生をダメ男と共にあるものとしてコミットせず、それこそ事実婚や通い婚状態をズルズルと維持しながら、選択肢の多い人生を歩むこともできたのではないかと思います。
特に一児を設けた彩佳は働く道を選んでいますが、どうも夫に相応の幻滅を抱いていますから、ならば離婚や別居の道を進んでも良かったのではないかと思えます。さらに言うなら、彼女たちにはダメ男に抗議し、ダメ男に自分の主張の一部でも飲ませるという選択肢もあったはずなのですが、そのようなチャレンジも見当たりませんでした。その意味では、ダメ男も少々非現実的なレベルで寄って集っていますが、それに付き合い続け、振り回され続け、その関係性を改善しようともしない三人の方もかなりダメと考えられるように思えます。
▲港区女子は卒業必須なのか。
美穂は港区女子をセックス抜きで続けることができず、(SDGs的によろしくありませんが、人間関係が全部詰まったスマホを川に捨てるシーンがあるので)すべてを捨ててタクシードライバーに転職しています。
先述の性愛による快などを考えると、自分にたくさん貢いでくれた男を少なくとも一緒にいる間だけは本気に愛することを学べばよかっただけではないかと思えてなりません。セックスを迫ってきた男はそれなりの社会的立場の人物です。その後失脚した週刊誌記事が出ていますが、特にこの男一人だけにぶら下がる必要はありません。パパ活女子の記事などを読んでも、一人だけにずっと依存しているケースは少数派です。
AV女優でも息長く現役でい続けることができる一握りの売れっ子は、本番中本気で男優を好きになることができると言います。伝説のAV監督の代々木忠監督も、名著『つながる』で、セックスの際に自分が身も心も明け渡して、相手を心底受け容れることの重要性を説いています。それは別に行きずりの関係であっても、そのように思いこむことで最高の性愛体験ができるということです。
ならば、美穂はプライドだけを捨てて、じわじわとカラダ抜きのパパ活女子から、単純にセレブやら有力者やらの間の恋多き女に脱皮成長すれば良いだけのように思えます。それでも、社会を知りたいのなら、並行してタクシードライバーをすればよいでしょう。今はフリーランスのキャリアもきちんとやればかなり食っていけます。昼と夜の顔を使い分けることだって、今どきそれほど難しいことではありません。
銀座の売れっ子ホステスのように社会経済や企業経営の基礎ぐらいはキッチリ勉強して、上級国民のファム・ファタールに転身することさえできたのではないかと思えます。
このように考えると、この作品に登場する人々は、先述の二人に加えて、筒井真理子演じるまみの母ぐらいの数人の例外を除いて、ほぼほぼダメな人のオンパレードです。これが世の中で「わあ、共感頻り!」となるような内容なのかは疑問であるままです。
それでも、シアター内にいた多くの若い女性を惹きつけ、彼女らに訴えるものが相応にはあるということのようですから、仕事柄、DVDは買いです。