『はるヲうるひと』

6月4日の公開から二週間余り。靖国通り沿いの映画館の12時35分の回を観て来ました。以前からこの館に来るたびに告知を見ていました。東京都下でもほんの数館でしか上映されていず、当然、新宿でもこの館だけでやっています。(実際には、私が観に行った日から数日後にはこの館での上映は終了していました。)

1日3回上映がされています。土曜日の午後、終映間際の割にかなりの観客がいました。広いシアターで見渡して40人ぐらいの観客がいて、概ね30~40代が多いように見えました。20代ぐらいの若い客もあまり見当たらず、私と同程度の50代とか60代とかの観客も非常に限られているように見えました。

私は2019年に『TAKAYUKI YAMADA DOCUMENTARY 「No Pain, No Gain」』を観て、山田孝之が大嫌いになりました。「大嫌い」というレベルではなく、嫌悪や憎悪を感じることさえ超えて、言動を観るだけで吐き気を催す一歩手前という感じになりました。IQが疑われるようなド勘違い人間であって、このドキュメンタリーの感想の末尾で、以下のようにまとめています。

「裏で秋元氏がバリバリに支配しているAKBの子たちの泣けるドキュメンタリーの類似商品を、本気に勘違いしている30男のバージョンで作ってみたのがこの作品と見ることが一応できます。それはそれで、5年も撮影に費やした壮大な実験映像作品で、シニカルな笑いを提供する力をもっています。しかし、どうも、裏の構造が何やら透かし見えるような気にさせる場面が多く、イマイチ乗れないのです。DVDは不要です。」

そんな山田孝之が主役級で出ているので、この作品を観に行くことにするか否か、かなり迷いました。しかしながら、最終的に、この作品のレア度や佐藤二朗の笑いを取らない役回りや、さらに彼の脚本・監督・出演の三役セットの作品と言う観点で、一応観てみたい気持ちが勝ちました。

この作品は、佐藤二朗が主宰する演劇ユニット「ちからわざ」で2009年に初演となった同名舞台作品だそうで、今回映画化の運びとなったものだという話です。『映画.com』によると物語は以下のように紹介されています。

「その島には至るところに置屋が点在し、本土から日に2度来る連絡船が島への客の往来の足となっている。島に暮らす人びとはこの閉塞された島で一生を過ごし、女たちは客からの話を聞いて「外」への思いをはせ、男は女たちの多くが抱く夢を一笑に付して島に留まらせる。ある置屋の3兄妹。店を仕切る長男の哲雄は凶悪な性格で恐れられ、こびへつらう次男の得太を子分のように従えている。長女のいぶきは、長年患っている持病で床に伏している。この置屋で働く4人の個性的な遊女たちは、女を売る家で唯一女を売らず、誰よりも美しいいぶきに嫉妬していた。」

なぜこの佐藤二朗演じる長男は凶悪で暴力的なのかというと、腹違いの弟と妹、そして売春婦4人の人間を人としては認められない汚れたものと認識しているからです。それにもそれなりに理由があります。この売春宿は彼の父が経営していました。相応に儲けていたようで、彼の母である正妻はそれなりにきちんと着物を着こなしている様子で描かれています。それに対して、妾は実は売春宿の売春婦の一人です。その彼女が息子と娘を設けました。一般に信じられていた話によると、その父と妾が頸動脈を包丁で切り、心中をし、それを最初に発見したのは妾の息子の方でした。その後その光景を見た正妻もその場で錯乱し、自分の頸動脈を切って自殺を遂げた…というものです。これにより、長男は、父を惑わし、彼の家庭を根底から破壊した売春婦を憎むようになり、さらに、その売春婦の子供達である自分の腹違いの弟妹を憎むようになったということでした。一応、筋書きとしてはさもありなんという感じです。

長男は或る種の社会階層的差別感を持っていて、売春婦の系譜の人々を「まっとうではない生き方しかできない」、「鼻糞のような存在価値しかない人間」と評して、人間扱いする気がありません。売春宿のオーナーではあるものの、用がある時にしか売春宿に現れず、客引きや売春婦の面倒見を任せてある弟の不出来を論っては暴力を振るい、売春婦たちの要望にも、「おまえらは頭で考えるな。マンコで考えろ!」と怒鳴り散らす状態です。

長男は一応同じ島に住んでいるようですが、普通の住宅に住んでおり、そこには美しい妻と愛くるしい幼女がいて、過剰なほどの幸せ感を弟を招いて見せつけたりします。4人の売春婦のまとめ役のような立場の坂井真紀演じる売春婦を時々連れ出して、両親が心中した部屋に行き、自分は立ったままフェラチオを延々させたりします。その際に「ここにいていいんだよな。生きていていいんだよな」のようなことをぶつぶつと何度も呟きます。それぐらいに、自分と母を裏切った父と妾の死、そしてそれに続き死なねばいけなかった大切な母の死が彼の人生と価値観を歪めてしまっているということでしょう。

歪んだ人生という意味では、山田孝之演じる弟もやや知恵遅れ的キャラで、「愛」、取り分け「愛のあるセックス」などの言葉に強い拒絶反応を示し、パニック障害を起こします。「誰か教えてくれよう。愛って何なんだよう」などと泣きじゃくり喚き、のたうち回ることもあります。

仲里依紗演じる妹は病弱と言うことになっていますが、身体の病弱より精神面の方がかなりやられていて、離人症とか分裂症とか私も明確に分かりませんが、そういった症状を抱え、酒に溺れています。

理不尽な差別感を根拠とする暴力にも耐えつつ、なぜか4人の売春婦は売春宿から逃げる訳でもありません。特に坂井真紀演じる売春婦と今藤洋子という女優演じる売春婦はやや年長で、売春婦の人生を達観し受け容れています。或る意味、自己肯定感感さえ強く感じます。もう1人は性格が抜けるように明るい癒し系知恵遅れタイプです。そして、もう一人の子は最も年若く、思いつめた腐女子と言ったタイプの「さつみ」と言う子です。メガネをかけ、性病になりかけ、セックスをしている最中も殆どマグロ状態で声一つ出しません。年長者二人の安定した売春婦ぶりは安心して見ていられる、或る意味、無難で自然なものですが、この丸顔メガネの売春婦見習いのような子の異様な存在感は劇中で非常に際立っています。

現実に、この丸顔メガネの子は、ずっと売春婦であることを恥じていて、自分で受け入れることができないでいますが、作品の最後で、自分は「はるヲうるひとです」と明確に声に出して名乗ることができ、そこで、いきなりブラックアウトのエンディングとなります。佐藤二朗にも「さつみは彼女しか考えられない」と言わしめた、観る者の記憶に刺さり込むような存在感のある子ですが、映画初出演とのことでした。駒林怜という女優です。

山田孝之演じる弟以外、皆が信じて来た心中事件の真実が、精神的に追い詰められた弟の口から語られるシーンが、一応この映画のクライマックスです。実は、心中したのは父と売春婦の妾ではありませんでした。レズビアンの愛人関係にあった正妻と妾の逢引の場面に父が乗り込んで来て、二人の頸動脈を切って殺害した後、彼も自分のを切って自殺を図った直後に、例の弟が来たのでした。まだ辛うじて息のあった父は、幼い息子に「このことを絶対に言ってはイカン」と強く言い残して死んだのでした。これで佐藤二朗も「鼻糞」であることが判明し、その事実が彼を打ちのめします。結果的に、人間は皆汚い部分もあれば、愛情に絆されて道を見失うこともあると示されるのでした。

そして、先述のラストの丸顔メガネの子の売春婦であることの自己肯定です。

結局、原作の芝居も含めてこの作品は、欲に絆されることもある人間を肯定するという構図で終始して終わるということなのであろうと思われます。

何かスッキリしません。何がスッキリしないかと言うと、これがここまで大騒ぎすべきことなのかという点です。少なくとも兄弟三人が何かのトラウマを抱えて生きることに一応納得は行く展開です。しかし、売春婦4人にはそんな話は関係ありません。丸顔メガネの子もその背景要因とは全く関係なく、なぜそうなったのかについて全く語られることなく、マグロ状態のままで登場し、離人症的妹との会話からなぜかスカッと割り切るようになります。

さらに、この作品は「愛のないセックスを売れ」だの、「ここには愛は売っていません」だの、「愛」についてやたらに拘り語りたがります。如何にも大仰に哲学的疑問を語って見せる芝居臭い展開です。そして、親たちの心中の真相が分かるまでは、暴力的な長男どころか、IQの低そうな弟妹までもが、愛あるセックスで生まれただの、愛のないセックスで生まれただのと、自分たちの今のあり方を生を受けるきっかけとなったセックスのあり方と因縁づけるような価値観に束縛されています。4人の売春婦も長男に暴力によってその価値観を教え込まれ、「お前らの仕事は愛のないセックスを売ることだ。愛のないセックスに大事なことはテクニックだ。テクニックがないと性病になる」などと信じ込まされています。

こんな幼稚な恋愛観やセックス観を、映像表現である映画の中でわざわざ言葉にして連呼する形で主張するのが、私には不自然を超えて不思議に感じられてなりませんでした。

生物学的に見て、人間は小規模集団で暮らし、その中で乱交を重ね繁栄する生き物と言うこととなっています。特定の個体同士の性的な関係性や恋愛の関係性は、人類の長い歴史の中でつい最近になって重視されるようになりかけている価値観でしかありません。

男性性器にカリが大きく性行為でピストン運動を繰り返した上で射精をするようになっている生物は他にいませんが、それは、先に射精したオスの精子をメスの膣内から掻きだすためです。オスに比べてメスが性行為中に声を出すようになっているのも、性的に発情し、セックスしている最中に、他のオスを現在進行中のセックスの延長に呼び寄せ、多くのオスを受け容れるチャンスを作るためとされています。さらに、良いと思われる遺伝子を受け容れられそうなオスとのセックスの際には、オーガズムに達し、子宮口が収縮し精子を取り込もうとします。さらにオーガズムの後は脱力し立ち上がることができなくなるのは、直立することで精液が膣から出てしまうの防ぐためだと考えられています。

メスはオスを免疫型や外観から無意識レベルで選ぶことができ、その選択条件との合致度が高いオスとのセックスの際にオーガズムを感じやすくなるようできています。このように生物学的には、良いセックスとダメなセックスの形は決まっています。

その良いセックスをすれば、意識があとからそれを「愛のあるセックス」とか「運命の人とのセックス」と解釈するだけのことです。おまけにメスのオスに対する無意識の選別の基準は相応に柔軟で、かなりの振り幅の中で、その都度決められています。それは、そのような精神状態に持って行けば、メスは多くのオスに対して、実態として「愛あるセックス」ができるということに他なりません。

営業トークでも建前発言でもなく、どのセックスの時もその時の男優のことをこのまま駆け落ちしてもいいぐらいに愛しているという気持ちになるというベテラン人気AV女優は存在しますし、同様に感じているソープ嬢なども存在しています。それはつまり「愛あるセックス」がメスの覚悟次第で、ほぼ誰に対してでもできるという証左です。

(ちなみに、この論説の中でオスの存在は、メスの遺伝子を他のメスに運び届けるだけの単なる運び屋で、生物の本来の姿はメスでしかありません。)

ですので、「愛のあるセックス」と「愛のないセックス」はし始めてみた段階でその違いが結果的に発生するというだけのことです。売春宿では「愛のないセックス」が売られるべきという話には、全く意味がありませんし、まして、「愛のないセックス」から生まれた人間とそうではない人間の間に何の違いもありません。

さらに劇中では売春婦のテクニックと絡めて、「愛のないセックスを売る売春婦は、キスの時に目を開けているべき」という教えが為されています。

これは全く事実と逆です。相手を見つめることを続けるセックスを行なえば、至近距離の凝視が続くことで、トランス状態が発生しやすくなり、そこに相手を大切に想い、受け容れる気持ちが加われば、簡単に「愛のあるセックス」が成立します。つまり、目を閉じないことは、「愛あるセックス」成立の比較的主要な要素です。「性の伝道者」ともいうべき代々木忠監督の主要作品を数本見るだけで、そのような基本的なことは分かるはずですし、私の知る限り、結構巷間に流布している事実だと思えます。そのようなことを踏まえない物語があっても勿論全然かまいませんが、何かどうしても薄っぺらに感じられました。

芝居の方でこの作品を観れば、多分、登場人物達の慟哭がそれなりに響いてくる名作に感じられるのだろうと思います。しかし、クライマックスの山田孝之の告白のシーンなど、徒に他の登場人物が棒立ちになってそこに突っ立っている状況が発生していますが、細かく見ると、出演者が手持無沙汰に見えるそのようなシーンが結構あります。

舞台中心の活躍が続いた今藤洋子は、非常にこなれていてこういう点が気になりません。多種多様な役や(ナレーション仕事なども含めた)役割をこなしてきている坂井真紀もフリーズ感があまり目立ちません。例の丸顔メガネの子の異様な存在感も凍り付いた演技を生み出さずに済んでいます。そして勿論、佐藤二朗は自分の作品だけあって、いつものような冗談だらけの役割とは異なる暴虐キャラに自然になり切っています。ただ、それ以外の登場人物のわざとらしさとか溶け込まなさは際立っており、芝居から映像作品への転換に全く成功していないように感じられます。

佐藤二朗が三役を務める作品としての観る価値と、『勇者ヨシヒコ…』シリーズのホトケや『女子ーズ』の司令官、などによく見られる笑いを誘う役柄とは全く異なる佐藤二朗を観る価値は十分にあると思えます。その意味でギリギリDVDは買いかと思いますが、色々と疑問やら違和感が湧くような作品でした。