『ばるぼら』

 11月20日の公開ですから既に3週間が経過しています。月曜日。新宿の明治通り沿いのビルの中にある映画館の午後8時50分の回を観て来ました。メンズデイという性差別的なキャンペーンのお蔭で、1200円という価格設定でした。このビルの中には以前は3つの映画館が入っていたように記憶しますが、いつの間にか2館に減っていました。

 都内でも4館しかやっていない状態になっています。私はこの映画の存在をどこでどう知ったのか覚えていません。もしかすると、『王様のブランチ』だったかもしれませんし、何かのネットのニュース的なものだったかもしれません。いずれにせよ、マイナーな作品と一応言えるかと思います。

 1日2回、午後に集中して上映されています。観に行った時点で上映終了時期は決まっていず、一応の人気作かと思いましたが、約50分前のチケット購入時には、座席のマップで観客は私一人。入場してみても、女性は二人、男性は私も含めて三人で、合計五人しかいませんでした。男性客はほぼ私と同年代のイケてはいない感じのカジュアル感満載の服装をした人々でした。女性は、30代前半のボーイッシュな格好の女性、中年過ぎの普段着に近いような防寒着と言う感じの服装の女性の二人です。

 この映画を観ることにした理由は、やはり二階堂ふみの出演であろうと思います。いつもこのブログに書いている通り、二階堂ふみは意識的に選んでいるのだろうと思われますが、おかしな役を演じることが非常に多いように思っています。もちろん、そうではない役もあるので、全部が全部と言うほどではありません。しかし、一応、私が「おかしな役」と大雑把に括る役柄の比重が非常に高いのは間違いありません。

 直近で観た二階堂ふみ出演映画作品は『生理ちゃん』でした。その記事にも書いた二階堂ふみのおかしな役柄に『生理ちゃん』を付け足すと、以下のようになります。

 ▲両親に絞首台を用意される女子高生(『ヒミズ』)、
 ▲連続爆破魔(『脳男』)、
 ▲ブチ切れて血塗れの殺人劇に至る極道娘(『地獄でなぜ悪い』)、
 ▲自分の父との肉体関係に溺れる殺人少女(『私の男』)、
 ▲酒を飲んでは吐瀉しまくるアイドル歌手(『日々ロック』)、
 ▲爆弾魔の母に感化されかける女子高生(『ふきげんな過去』)、
 ▲耳を削がれても悪態をつくイカレ女子学生(『渇き。』)、
 ▲見知らぬ家に押しかけるメンヘラ元風俗嬢(『四十九日のレシピ』)、
 ▲金魚(『蜜のあわれ』)、
 ▲埼玉を生理的に受け付けない男子生徒(『翔んで埼玉』)
 ▲死体を密かに何度も見に通う女子高生(『リバーズ・エッジ』)
 ▲月経が具現化した巨大な生物をリヤカーに載せ引き回す編集者(『生理ちゃん』)

といった感じです。先述の通り、まともな役もかなりあります。DVDで観た『味園ユニバース』でも、劇場で観た『SCOOP!』でも、一応普通の人を演じています。

 今回は映画化が困難と言われた手塚治虫作品『ばるぼら』のヒロインです。マンガの主人公は『生理ちゃん』と同様ですが、『生理ちゃん』の方は無名のヒロインで、何人か「生理ちゃん」に付き纏われる女性の一人で、それも原作では何人もの登場人物のエピソードをまとめて映像化するために作られたキャラです。しかし、『ばるぼら』では堂々のタイトル名のヒロインを演じています。今は使われることがほとんどなくなった「フーテン」の若い女です。(原作の方ではそれなりに明確ですが映画の中では)あまり時代がはっきりしない新宿の街の半地下通路の隅に座り込んでいる薄汚いフーテンです。

 分厚く、色々なインタビューから台本までが収められているパンフレットの中で、手塚治虫の息子で監督の手塚眞が、「ばるぼらがそこにいた」と書いているように、二階堂ふみの原作のばるぼら像への寄せ方が異常です。手塚眞が指摘する二階堂ふみが「丸みがある体型で、だから原作のばるぼらと同じように、少女性とエロティシズムが同居しているように見え」るというのは一応本当だと思います。しかし、そのような外観の特徴を大きく超えて、ばるぼらの表情や動きがこれほど忠実に再現できるというのは、凄いなどと言うありきたりの表現の対象ではなく、異常とか尋常ではないと言った感じです。

『翔んで埼玉』の際の彼女の役作りがどのようなレベルであったのか私は原作を読んでいないので分かりませんが、この作品の方は非常によく分かります。なぜかというと、『ばるぼら』の原作を映画鑑賞に向けて慌てて購入して読んだからです。私は遥か以前、例えば、床屋とか病院とかの待合室で『ばるぼら』を読んだことがあるように記憶しています。しかし、断片的な記憶を手繰っても、絵の印象と1、2個のエピソードしか思い出せませんでした。端的に言って、私は手塚治虫作品がそれほど好きではありません。嫌いというほどの積極的な感情ではなく、単に興味が持てないままに今に至って、変わらないという状況です。

 正確に分かりませんが、多分、『ジャングル大帝』はアニメでほぼリアルタイム世代として見ていたように思います。それなりに好きだったのではないかと推察されます。また、実写の『マグマ大使』は何話も観なくては1エピソードが完結しないのに業を煮やしつつ、観るのが止められない番組だったように思います。しかし、これらを当時「手塚治虫」作品群の一部として認識することはなく、何か共通の魅力を見出すこともありませんでした。

 唯一、物心ついて、以降でファンであると公言できるレベルで好きで、現実に、現在の個人事業主仕事のありかたの重要な手本の一つとなっているのが『ブラック・ジャック』です。ですから、敢えて言うと、私は現時点で『ブラック・ジャック』以外手塚治虫作品でファンであると公言できるほどに好きな作品がないのです。文庫サイズでぶ厚い1冊に収まった『ばるぼら』を一気読みして、映画鑑賞に臨みましたが、『ばるぼら』自体、マンガ作品として悪くない物語と思いましたし、まして手塚作品の中でも、所謂「黒手塚」の一作品として明らかに重要なポジションを占める作品だと思いますが、それだけであるように感じられました。

 ウィキで手塚治虫を見ると、「関係の深い漫画家」として私が好きな作品が複数ある漫画家では、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、松本零士、永井豪、さいとう・たかを、水木しげる、寺沢武一、あだち充などの名前があります。その多くが手塚治虫に影響を受けて漫画家を志した人々です。手塚治虫が自分の会社の倒産の心労や他作品への嫉妬に狂った話は非常に有名ですが、私が好きなのは寧ろ手塚治虫の嫉妬の対象の作品群を生み出した作家たちであったと言えるように思います。

 クリエイター、特に作家とミューズ的な存在との邂逅と別離、そしてその関係性に表現が大きく左右される創作品群…というのは、非常によくある話です。極端に言うなら、実生活でリアルに妻でもない女性と何度も心中しようとした太宰治は、その作品群でも実生活でも、ただ放蕩の中に人生の価値を見出そうとして、一生を終えたように考えることができるぐらいです。多くの場合、そのようなクリエイターがのめり込むミューズはリアルな人間です。太宰治の映画作品なら、再三映画化されて多数あります。海外のクリエイターのこうしたテーマなら、寧ろ『カミーユ・クローデル』のように画家や彫刻家のケースが多いように感じます。文筆家と幻想的(/非現実的)ミューズに話を戻すと、同じく二階堂ふみが出演した『蜜のあわれ』も室生犀星とミューズでもある金魚の化身の話でした。今回の『ばるぼら』も設定だけをみると同種の分類です。主人公のばるぼらは一応人間の形をしていますが、『蜜のあわれ』同様にかなり幻想的な存在です。

 彼女の母がムネーモシュネ―という巨躯の女性ですが、ギリシャ神話で記憶を司る女神です。ゼウスとの間に9人のミューズを生んだとされていて、彼女達は人々から苦しみを忘れさせる存在となったと言われています。原作ではばるぼらもその末娘ということのようですから、10番目の手塚治虫が創作したミューズです。ばるぼらと結婚しようと決意する作家を稲垣吾郎が演じていますが、彼がばるぼらとムネーモシュネ―を訪ねた家のドアは、再び訪ねると跡形もなく消えていたりしますので、超自然的存在であることが暗示されていると考えるべきでしょう。

 ばるぼらとの結婚も黒魔術のような世界観で表現されていて、血判状を作ったり、全裸の人々の集まる集会で薬物を含んで式を執り行おうとしたりします。さらに、ばるぼら自身の生死もどうも明確ではありません。劇中ではばるぼらは、少なくとも仮死状態、もしくは完全に死んでいる状態になって全裸で放置され、稲垣吾郎によって(死んでいるのだとしたら)屍姦までされますが、劇中ではエンディングで新宿の下の半地下通路に座り込んでいる様子がチラリと出ています。

 大体にして、原作でも映画でも、稲垣吾郎の作家は異常性欲者とされていますが、ブティックのマネキンと幻想の中でセックスをしたり、アフガンハウンドの犬とも髪の長い女性だと幻想の中で思い込んで、誘われるままにアオカンしようとします。これは「異常性欲」といった問題ではなく、寧ろ、ファンタジーとか怪談のレベルです。そのような超常的存在の女性との愛欲に溺れる中で男が人生観や価値観を変えるというのもよくある話で、かなり作品の完成度や高尚さが異なりますが、私が劇場で観た作品では『フィギュアなあなた』も間違いなくこのジャンルです。

 大雑把に括る時、このようなジャンルで、小説なら私は小泉八雲の『衝立の乙女』が最も好きな物語かもしれません。マンガなら『電影少女』かもしれません。 手塚治虫が描いたものでも、私にはこれらの作品群の魅力を『ばるぼら』が超えているようには感じられませんでした。

 その上で、原作にかなり忠実に、しかし、細かな部分はそれなりにカットして、おまけに原作に比べて最後の状況を微妙にカットした状態にして、短くまとまっているのは全体として魅力を欠いているように思えます。

 そのように考えると、面白くはあり、手塚治虫作品であること、二階堂ふみが妙に原作キャラ生き写しになり切っていること、舞台が往年の新宿であること…などが私にとって関心が持てる部分ではあるものの、構造的には有り触れた物語である原作をこじんまりまとめた作品にしかなっていないように思えました。DVDは一応買いです。
 

追記:
 この作品のタイトルにして、主人公の女性の名前である「ばるぼら」は、異様な音の響きがあり、何語なのだろうと思っていましたが、劇中のタイトル表記で“BARBARA”とあり、英語の「バーバラ」であることが分かりました。なぜ「ばるぼら」と発音するのかは分からないままです。

追記2:
 後に幽かにどこかで読んだ記憶が残っていた『奇子』全二巻を読んで、「黒手塚」作品は『ばるぼら』も含めて、以前より好感が持てるようになりました。