『エッシャー 視覚の魔術師』

 関東圏でたった2館しか上映していない作品です。今年最初の三連休の中日の日曜日に、吉祥寺のパルコの地下にある初めて訪れる映画館の午後3時丁度の回を観てきました。12月半ばの封切から1ヶ月弱が経っています。

 エレベータで地下二階に着くと、今流行のタイプの券売機でセルフでチケットを買うことになっていますが、バルト9やピカデリーの券売機と異なり、なぜか現金しか支払いに使えない、おかしな券売機でした。映画の選択に至るまでの画面構成も分かりにくく、非常にユーザー・インターフェイスが未熟な馬鹿げた機械でした。チケットを買い終わるまでに、3度も周辺にいた女性スタッフに操作方法を尋ねなくてはなりませんでした。

 たった3列29席しかないシアター内に座席は二つしか残っていない状態でした。最前列の両端です。

 チケットにあるシアター5に入ってみると、この映画館のウェブサイトにある座席のイメージとは全く異なる座椅子と新幹線などのリクライニング・シートを足して二で割ったような、おかしな低さと角度の椅子でした。ウェブサイトに拠れば、各シアターで座席のイメージを変えてあるということでしたが、さらにそのイメージを壊してしまっているように見えました。風俗嬢などの紹介によくある「パネマジ」のような効果を敢えて狙っているのかもしれません。しかし、その座席も1列目と2列目の間は非常に狭く、スポーツ・カーの座席か歯医者のシートかと言うぐらいに寝そべるタイプなので、2列目の客の足がどうしても1列目のシートの背に当たります。私の後ろのおっさんが当初執拗に座席の背を蹴るので、振り返り立ち上がりかける姿勢で睨み付けたら足を動かさなくなりましたが、上映後に列間の配置と距離を見たら足が当たっても無理がないように思われました。色々な意味で、不便さが各所に残った自己満足型の映画館です。

 ちなみに、私はこの映画館と同系列の渋谷地区の北西のはずれにある映画館に時々赴きます。そちらの方の上階のシアターは、座席の形がバラバラでただの木製の椅子のようなものも混じり込んだ自由さです。見た目は“手作り感のあるシアター”と言う感じで、その座席配置も、この映画館のように不便なものではありません。渋谷から吉祥寺に「出店」した際に、調子に乗って自分達の本来のアイデンティティを見失ったのかもしれません。

 渋谷の方では、1日1回の上映を少ないシアターの中で維持していますが、吉祥寺ではシアターが渋谷の倍近くあるのに、日によって1回上映したりしなかったりと言う状態です。この辺も、何か思い上がりを感じないではありません。

 私の後にもさらに観客が加わって満席になった状態を見渡すと、観客は概ね男女半々でしたが、年齢層は私が平均よりやや上ぐらいの感じで、シニア層とは言わないものの、かなり上の層に偏っていました。劇中では欧米でのエッシャーの人気は若者に広く湧き起こり、本来エッシャーが狙ってモノクロにしているものを勝手に彩色までしてしまっていることに、エッシャーが困惑や迷惑をしている話が再三紹介されますが、日本ではそのようなことがあまりないのかもしれません。

 ウチの娘は間違いなくエッシャー好きで、比較的最近もエッシャー展を私と観て来て、Tシャツを買ってくるぐらいのファンです。遥か以前に買った画集や卓上カレンダー、そして、留学時代に米国で買ったXLでダボダボのTシャツなど、私もエッシャーが比較的好きですが、娘と最近行ったエッシャー展で、エッシャーが初期には自然風景の版画を多数作っていたことを認識しました。(きちんと調べれば、遥か昔に買った画集にもそういった風景版画はあったのかと思いますが、全く記憶に残っていませんでした。)そして、そのような風景版画から、著名な幾何学的模様やモノと生物が相互に遷移し合ったり、空間が大きく歪んで組み合わさった構図の作品群(後に「オプ・アート」と称されることを知ったエッシャーが「そんなものを私は知らない」と言っているのが笑えます。)へ、創作が移行していく過程や理由も、展示会で私が強く認識することはありませんでした。

 旅行でエッシャーが訪れたアルハンブラ宮殿は幾何学模様を彼に明確にイメージさせます。(学校時代ぐらいの若い頃に既に一度エッシャーは幾何学的模様に挑戦しようとアイディアを膨らませたようですが、まだ色々な要素的準備が不足していて実現しなかったようです。)しかし、アルハンブラ宮殿はイスラム寺院でしょうから、偶像崇拝を割けて、幾何学模様は単に各種の幾何学的なピースの規則的な配置でしかありませんでした。そこにエッシャーは以前から観察を重ねていた小動物や鳥などの自然の要素を採り入れ、幾何学的ピースをそれらで置換してみることになったのでした。

 創造性を無から何かを生み出すことのように語る人が多いですが、多くの創造性の発露とされる産物は、このように既存の何か、それも複数の何かが土台となって生まれていることが非常によく分かる事例だと思います。

 映画はエッシャーの後期の作品群がアートと数学の中間に位置していると論じています。現実にエッシャーも、「数学者と名乗ることもできず、しかし、美を追求する芸術家とは価値観が合わない。私は美ではなく驚きを追求しているからだ」と言うようなことを晩年語っているようです。

 しかし、現代芸術の分野の作品群には必ずしも美的な要素を追求していないような作品群もたくさん目につきます。私が見る機会を得たインスタレーションの幾つかの作品などは、空間そのもののようなものも多く、少なくとも直接的で絶対的な“美しさ”はどこにも見当たらないような作品群ばかりです。その意味では、エッシャーの(特に後期の幾何学的要素を採り入れた「オプ・アート」的)作品群は、時代を先取りし過ぎたのかもしれませんし、現実に、劇中に数度登場するエッシャーの礼賛者のような男は、「時代が複雑になり高度になるにつれて、よりエッシャーの評価は高まるだろう」と言うようなことを話しています。劇中には欧米でエッシャー展が開かれるごとに入場者の長蛇の列ができている所が紹介されていますが、そのような様子を見ると、少なくともエッシャーの生きていた時代より現在の方が、圧倒的にエッシャーを評価する時代となっているように思います。寧ろこれ以上評価が高まる必要さえないように思えますし、その高まった様子が想像できません。

 この映画を見て驚かされるのは、エッシャーが自分の考えを人生の各々の場面で非常に多く残していることです。MovieWalkerの映画評の中にも「アーティストであると当時に鋭い観察者でもあったエッシャーは、膨大な量の日記、書簡、講義や目録に、自分が見たもの、感じたこと、インスパイアされたもの、驚いたこと、苛立ちなどを子細に書き綴った。それらには彼のさまざまな感情、恐怖、疑念、幸福感、政治的考察、驚き、芸術家としての達成、自作への自らの意見などが含まれている」とありますが、全くその通りです。そして、その言葉はあまり哲学的でもなく透徹とした様子もありません。寧ろ沢山語り過ぎて、そこにある原理や方針や価値観が薄められ凡庸な感じさえ醸し出しています。エッシャー展でもあまり目にすることがないように思うエッシャー語録がパンフレットに用意されていますが、どれも深淵さが私には感じられません。

 それらの言葉のひとつに「私は成長しない。私の中には子どもの頃の小さな私が存在しているのだ」というものがあります。パンフには数理工学者がエッシャーの創作には「正則分割」の知識やより高度な「双曲幾何学という非ユークリッド空間」の知識が必要だと説明しています。もちろん、エッシャーがそれらを滔々と論理的に自分のノートや日記で論じているとは思っていませんでしたが、そのような事柄についての言及が本人によっては、全く為されていません。本人が言うように、子どものような認識とその表現の発露によって、あのような精密な作品群が作られていたことが、この映画のもたらす最大の衝撃であるように思えてなりません。

 それは、レイチェル・カーソンが言う「センス・オブ・ワンダー」であるかもしれません。カーソンは1996年の著作『センス・オブ・ワンダー』でこう書いています。

「子供たちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘や不思議さに目をみはる感性』を授けてほしいとたのむでしょう。この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、私たちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです」。

この「澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力」が純粋に自然にあるものとその遷移(メタモルフォーゼと本人も呼んでいます)を捉え、偶然学校時代に恩師によって道を拓かれたモノクロ版画によって表現されているだけ。それがエッシャーの創作の構造であって、だからこそ、エッシャーが残した言葉に芸術が持つ深淵さが含まれていないのだと思えます。

 非常に興味深い作品です。多くの芸術家の人生に有り触れているような懊悩は(妻の病気や第二次大戦中の生活苦などの要素はいくつか見当たるものの)殆どなく淡々とエッシャーの言葉を中心に彼の人生が描かれていきます。本人の認識とは異なり、エッシャーが芸術家であるのは間違いないものと思いますが、たとえば、ゴッホを題材にした多くの映画作品や2018年に観た『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』に見られるような人生そのものの価値観の歪みや揺れのようなものは全く見出せません。多くの芸術家と異なるまるで職人のように恬淡としたエッシャーの人生の軌跡が分かる作品です。DVDは勿論買いです。ただ今回の吉祥寺の映画館には今後極力足を運ばないようにしようと思います。