高校三年生の娘が「困っている」と言う訳を聞いたら、この作品を観に行きたいが一緒に行く人がいないか探しているということのようでした。娘は「すみっコぐらし」のファンで、新宿の紀伊国屋本店1階正面のワゴンで長らくコーナーが設けられていた際には、私が図鑑やマグカップをお土産に買って帰っていたりしました。この「すみっコぐらし」のシリーズは、基本的に電波に載ることもなければマンガ雑誌に載ることもなく、単純に、各種グッズ展開を中心にしているだけで絶大な人気を誇り、その知識について検定試験まで行われるほどのメジャーぶりです。
それが初めてメディアに乗り、(と言っても、動画はネット上に公式の短編アニメのようなものが発表されていると聞いていますが)映画になるという話を東京で何かの機会に知った時には、慌てて娘にメールでその一報を伝えた記憶があります。そのメール送信から数ヶ月経って、とうとうその映画が封切になっていたようです。私は映画制作のニュースを娘に伝えたことさえ失念していましたが、娘はその後をきちんとフォローしていたようです。
封切は11月8日。それから1週間余り経った日曜日の午後、娘と二人で自宅から小樽の映画館に行って観て来ました。前日の『王様のブランチ』では、この作品が週間ランキングの堂々三位に輝いており、娘によると、何かのカテゴリー別かジャンル別の集計方法による対象映画作品の中では、第一位になっているとのことでした。弩級の人気と呼べると思います。
全く作品の種類もジャンルも何もかも異なりますが、たとえば、娘とよく観に行った『プリキュア』シリーズも第一作放映開始から20年近くを経て、老若男女の軸で言うとかなり広い層のファンを獲得していますが、発表からまだ5年ほどしか経っていない「すみっコぐらし」はさらに広く厚いファン層を維持しているように感じます。
上映館や上映回数は非常に偏っていて、札幌市内ではたった1館で1日4回しか上映していませんが、人口が約10分の1の小樽市では1館で1日7回もの上映を行なっています。そのうち、1回は『【家族で安心】映画すみっコぐらし 』という上映で、映画館のサイトに拠れば、「赤ちゃんや小さなお子さまとご家族で一緒に安心してご覧いただける上映会です。安心して見られるように、上映中は照明はまっくらになりません。音はほんの少し小さめ。泣き出したり騒いだりしちゃっても大丈夫。おしゃべりも OKです!」とのことで、至れり尽くせりの上映が繰り返されていることが分かります。
この「家族で安心」という上映方式を私は初めて知りましたが、所謂「絶叫応援上映」などのただ無作法に叫び盛り上がるだけの上映会に比べると、大分、イマドキの配慮が利いている感じがします。北海道でも6館。関東でさえたった30館でしか上映されていません。なぜ小樽市の映画館がここまでこの作品に力を入れることにしたのかがよく分かりません。現実にその入魂の上映姿勢が功を奏したのか、封切後たった1週間でパンフは完売していました。
先週の寒波により根雪に辛うじてならない程度に広がった雪景色の先にある、札幌市から小樽市に至る海岸では、気温0度近い中でサーフィンに勤しむ人々が何人もいました。そんな急に訪れた冬本番のその日、午後2時20分の回のシアター内には60~70人ぐらいの観客がいました。子供を連れて来た親ばかりでしたが、夫婦で来ているケースは見当たりませんでした。親の8割は母で、概ね親1人に対して子供が平均1.3人と言った感じに見えました。「家族で安心」上映の方はどのような観客動員状況か分かりませんが、通常の上映も十分小さなお子様だらけで、殆どの子が小学校にさえ行っていないように見えました。以前の『プリキュア』の鑑賞の際もそうですが、間違いなくウチの娘が親と一緒に来た子どもという枠で見るとダントツの最年長でした。
ツイッターなどでも、「あまり期待せず観に行ったら、号泣のストーリーだった」などの評価が多く、それが『王様のブランチ』第三位のランキングの原因のようですが、そのようなツイートをするのも、ストーリーを理解して号泣するのも、幼稚園児ではかなり厳しいように感じますが、だとすると、小樽市での観客の6割以上が幼稚園以下の子供と言う状態で、なぜこれほどにウケているのかもよく分かりません。それが下敷きであれメモパッドであれ、基本的には静止画像で馴染みある「すみっコぐらし」の面々が「動く」というだけの価値で子供達はスクリーンに見入っているようにしか見えませんでした。
米国留学時代に気づいたことですが、日本の多くの縫いぐるみには表情がありません。プチプチと穴をあけたような小さな瞳と口があるのが基本パターンで、能の面がそうであるように、見る側がその期待する感情を投影しつつ見ることで、多くの感情の解釈の余地を創り上げているのが、日本の縫いぐるみ達です。それに対して、古典的なディズニーの動物キャラ達を始めとして、多くの米国を始めとする海外の縫いぐるみには、常にへらへらと笑っているようなものが多く、固定的な表情であるため、見る側との仮想のコミュニケーションが成立しません。「すみっコぐらし」のキャラ達は、そのような解釈可能な表情と愛くるしい丸々した体型を究極まで突き詰めたことにより、どんな仕草をしていても可愛らしさが醸し出されるようにデザインされている点が秀逸であるように感じます。
全国各地で次々と生まれては(多くの場合)消費されて消え行くご当地ユルキャラも、基本はこの路線を狙っていることでしょうが、変に地域のモチーフを外見に組み合わせてしまっている点に大抵の敗因があります。「すみっコぐらし」のキャラは、そのような外観の情報を大胆に削ぎ落として、キャラの設定やエピソードは全部ウラ情報として、本やウェブでカバーするという割り切りが成功要因の一つであるように思っています。そんな「すみっコぐらし」なので、本やウェブを読んでいない私は、どのキャラがどのような過去を持ち、現在皆が集まる隅っこがどのような世界観を持った設定であるのかを全く知りませんでした。そこで、小樽までの電車内の30分ほどを、以前娘に買い与えた検定受験用の図鑑を読んで予習し、全キャラの見分けも付き、名前も憶え、背景エピソードもほとんどを理解して、映画に臨むことができました。
このブログのいつもの通りで、ネタバレ上等の姿勢で話を進めると、すみっコ達が絵本の世界に迷い込んでしまい、そこで自分達も迷子状態なのに、迷子の小さなヒヨコが自分の家を探すのを手伝うという話です。作品の最初のほんの数秒単位で、このヒヨコがぽつんと野原のような空間にいて、涙をぽとりと流している様子が描かれます。その際、ヒヨコのカラダの輪郭はザッピングを起こしていて不自然な感じも合わせて描かれています。
絵本の世界。迷子。ザッピング。と来たら、概ね成立するストーリーは一つです。ザッピングするキャラで思い出すのは、『シュガー・ラッシュ』のヴァネロペです。彼女もそうですが、ゲーム空間やデジタル空間、そして多分、絵本の中の空間の中でザッピングを起こすのは、その空間に適切に存在していないことの示唆です。絵本の世界に元々いるのに、絵本の中に収録されているたくさんのお伽噺(『アラビアンナイト』から『桃太郎』、『マッチ売りの少女』まで多種多様です。)のどれにも居場所がなく、家が見つからないヒヨコがザッピングを重ねていることが示唆することは、元々絵本の中にいるはずのない存在であって、それは、すみっコ達のように外から紛れ込んだのか、本来の収録作品とは別に、絵本に誰かが書き込んだキャラなのかのいずれかです。
その可能性のうちの前者は、紛れ込んだすみっコ達が各々の収録物語のキャラにいきなり扮装させられて半ば無理矢理演技をさせられていることから、成立しないことが分かります。もしヒヨコが外から紛れ込んだのなら、すみっコ達同様に何かの役回りを演じることで居場所を見つけているはずだからです。冒頭の数秒とその後のすみっコ達の異世界での扱われ方から、ヒヨコのキャラが何であるのかを、私はほぼ正確に想定することができましたが、観客の大半の幼稚園児は勿論、その面倒を見るのに忙しく映画そのものにあまり関心のない保護者達も、早い段階でこの設定に気づくことはなかったようです。
想定通り、ヒヨコは絵本の表3の白紙部分に誰かが書き込んだキャラであることが判明し、そこに一人でいることが寂しくてたまらなくなった時に、すみっコ達が絵本の世界に乱入し偶然多くの物語の境界に穴をあけてしまったので、ヒヨコはすみっコ達と同様に絵本の他の物語の世界を仲間や友達を見つけに彷徨することになったということのようでした。すみっコ達は自分たちの世界に戻る方法を模索し探し当てることに成功します。そして、ヒヨコに一緒にすみっコの世界に行こうと誘い、ヒヨコも喜んでそうしようとします。しかし、絵本の世界のモノは絵本の世界の外に出られないという現実が立ちはだかり、ヒヨコは自らすみっコ達との楽しかった思い出を胸に、すみっコ達を見送り、絵本の世界に残ることを決めるのでした。
何か『シュガー・ラッシュ』のヴァネロペの続編エンディングでの決断を思い出します。そして、有名ドラマ『ワンス・アポン・ア・タイム』の中の物語の世界に閉じ込められた人々はどこまでも忠実に役割を果たすことが求められていて、特に悪役はどれだけ努力をしようと悪役のままという現実の中の諦念のあり方などを彷彿とさせます。
80分の作品ですが、ラストのすみっコ達とヒヨコの別離のシーンは長く、(定かな記憶ではありませんが)尺の5分の1は割かれているのではないかと思えます。それほど、断ちきり難い縁を最も小さく幼く見えるキャラであるヒヨコが自ら断ち切るという展開が、「号泣させられる」ものであったようで、ここに至ってヒヨコにハッピーエンドをもたらさない物語に観客の多くが涙していました。いつもこういう場面で感化されつい涙を誘われる私でしたが、この作品では早くからこの展開を予測できていたせいもあって、珍しく最後まで冷静に見ているに終わりました。
多くの西洋文化の物語は、登場人物達が自らの運命を自らの力で変更することに成功する話です。構造主義の見地から見る、所謂「社会の構造」の中の自分を受け容れ、その構造の中に留まる選択するキャラの物語は、私は日本作品の方に多いように思っています。(先述の『ワンス・アポン・ア・タイム』の悪役達でさえ、彼らが諦めかけると、周囲の善玉キャラが「諦めるな」と鼓舞し続けます。)そう言う観点から見ると、ヒヨコの決断は残酷である反面、非常に「当たり前」です。それを幼く小さなキャラが決然と行なう所が涙を誘うのでしょう。
ただ、ヒヨコはすみっコ達と共にいられないことが判明した瞬間に、ヒヨコが誰かに書き足されたキャラならば、すみっコ達が外に出てから仲間をどんどん書き足せば、ヒヨコが孤独でいる心配はないということに(思い出せませんが、間違いなくそういう展開の物語を過去に知っていたからですが)私はすぐに気づきましたので、長い別離のシーンの間中、「早く外に出て、描き足せばいいじゃん」と気を揉んでいました。そして、物語はここでもまさに私の予想通りに展開しエンディングを迎えました。
(実際には、すみっコ達が空けた絵本の境界の穴から、『桃太郎』の犬や『赤ずきん』のオオカミが来てヒヨコの脇にいたりしますから、すみっコ達が描き足さなくても、仲間はいるということとも考えられます。)
展開がかなり読めたことで、私は号泣することもなくこの作品を観終りました。もちろん、上質のキャラに拠る上質の物語の上質のアニメだと思っています。ただ、展開が先読みできたこと以外にも号泣を妨げる要因が一つあったように思います。それはナレーションです。男性の声で、いちいちすみっコ達の誰かが行なうことを発見や感嘆する観察者の立場から頻繁にコメントするのです。たとえば、「ああ。●●は■■だったんだねぇ」とか「ええっ?そこに入るのはちょっと無理なんじゃないのかなぁ」とか言った感じです。これが物語への没入に対するかなりの障害になっています。
すみっコ達は映画以外の媒体でも、吹き出しを用いて会話するという設定がなく、いきなり空間に文字が浮き出てきて、彼らの考えやシチュエーションを表現することが主です。ですので、映画化にあたってはこの点がどのようになるのだろうとずっと気になっていました。映画でもやはり登場人物の誰もが話すことはなく、基本的にこの男性の声のナレーションが物語のガイド役を務めているのです。代案がある訳ではありませんが、私には何か鬱陶しく感じられ、すみっコ達の愛くるしいキャラの物語を表現するのに相応しくないように思えてなりませんでした。
いずれにしても、すみっコ達の初の劇場映画化は一応の成功裡に終わりつつあることが分かります。端的な記念碑的作品だと思われます。赴いた小樽の映画館での観客動員状態や、小樽の映画館でもパンフが完売していて、パンフを求めて明後日に行った新宿のピカデリーでもやはり完売と言う状況を見ても、人気のほどが如実に分かります。鬱陶しいナレーションはあるものの、DVDを入手する価値はありそうです。
追記:
新宿ピカデリーの近くの紀伊国屋では商魂逞しく、「すみっコぐらし」のコーナーが再び登場していました。パンフレットが買えなかったので、仕方なく、そこで売っていたこの作品の「ストーリーブック」を購入しました。