先月4月下旬の封切から3週間余。そろそろシアターは空いて来たかなと、1日字幕版8回吹替版1回をそれでもまだまだ上映し続けるバルト9の夜10時50分からの回を観に行きました。この回は8回のうちの後ろから三番目で、3時間に及ぶ上映時間のため、この回でさえ終電時間枠に入っているのに、その後にまだ2回も上映があるのです。どれほど混んでいるのだろうと思って、ロビー階の狭いシアターに入ったら、観客は全部で13人しかいませんでした。私も含めてです。
MCUと呼ばれる世界観の一区切りと言われていますが、今回を最後に降板することが決まっているという役者が数人いて、『アベンジャーズ』シリーズは本作で完結するのだと言われています。それなりに大々的なプロモーションはされていましたが、いつぞや「日本よ、これが映画だ」のキャッチを引っ提げて行なわれたようなダメ押し感はありませんでした。ただ、何にせよ、やはり、『アベンジャーズ』疲れは出ているように思えてなりません。前作までの『アベンジャーズ』シリーズのみならず、登場するキャラの単独シリーズも含めて20作に近い作品群を観なくては話の辻褄が合わないのです。それも年に平均二本ぐらいのようなペースの封切で、ストーリー展開を覚えているのは至難の業です。
私はこの作品に物語が直結している『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』を観た際に、キャラ設定とその各々の物語設定、世界観が馬鹿らしく感じられ、このシリーズをもう観なくても良いかと考え至りました。おまけに、3時間の長丁場では、かなりトイレが近い方の私は、中座の可能性がかなり高まります。DVD発売まで待っても全然構わないぐらいかと思えていました。ところが、話は全然違い、肩透かし感はあったものの、直前のMCU作品の『キャプテン・マーベル』を観て、中学生の頃から想い入れのあるキャラの映画化なので、続きも観てみる価値はあるかと揺れ始めました。おまけに、4月後半から5月前半には、それほど観たい映画がなく、月二本の劇場映画鑑賞のノルマを達成するのが危ぶまれてきたので、仕方なく、この作品を観に劇場に足を運ぶことにしたものです。
(5月後半には、『レプリカズ』、『コンフィデンスマンJP』、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』などが目白押しですが、混んでいるうちには観たくないので、モタモタしていると5月中の鑑賞ができず、ノルマ達成に貢献しないのです。『空母いぶき』が観たい映画リストから(本田翼の魅力があるにも関わらず)不評臭くて外れてしまったのも、結構大きなインパクトでした。)
観客は若者層がメインで、日本滞在が長いのか妙に流暢な日本語を話す外国人も数人いました。数人が固まっているのではなく、カップルや三人連れの中に各々混じり込んでいる感じです。性別構成はほぼ半々。20代が圧倒的に多い客層でした。明らかに私が最高齢だったように思えます。
連携も悪く、戦略性が感じられない『アベンジャーズ』に対して、目的意識も使命感も周到な準備も、個人だけでもかなり強力なのにそれなりに強い幹部も、ガッツリ揃った強敵サノスにボロ負けしリベンジをするという話なのですが、サノスのミッションは、なぜそのような設定になっているのか全くイミフですが、全宇宙の知的生命体を半数に減らすことです。
(この半数にされる対象もどこまで広いのかがよく分かりません。たとえば、サノスがネアンデルタール人ばかりいる地球に来たら、ネアンデルタール人を半数にしたのかどうか分からないぐらいの基準の不明確さです。生物全部ならそれはそれでかなり明確ですが、絶滅危惧種でも、100や1000の単位では生存していたりしますから、半数になっても、結局「少ない」状態から大きく変化がある訳ではないように思えます。)
ミッションを成功裏に終えたサノスは、その履行に伴って娘を死に追いやり、強い放射線のようなものが出る装置を使ったため、自分の身も死に近づき、面白ことに農園で野菜作りをしています。エヴァンゲリオンのスイカ作りのような、強烈なミスマッチ感が、「面白い」を超えて臭く感じられます。体型とシチュエーションの組み合わせなら、スイカ作りの加持リョウジよりも、『LUPIN THE IIIRD 血煙の石川五ェ門』で石川五ェ門を叩きのめす、巨大な鉞二丁を武器として戦うカウボーイスタイルの大男ホークの農作業姿が似ているように思えます。いずれにせよ、隠遁生活をしている弱ったサノスを半分に減らされたアベンジャーズは急襲していきなり斬首します。
サノスはミッションを果たした後に、あまりに強大過ぎる「知的生命体ランダム半数間引き装置」を破壊してしまっていたので、それを逆に使って失われた人々を元に戻すということができないままに、話は一旦終息します。勝つには勝ちましたが、半分人が減ったままですし、斬首して叩きのめし返したのは、まともに反撃もできない衰えた老人のような“嘗ての敵”でしかありませんでした。ここに至るまでに尺的には30分も経っていないように思います。残りまるまる普通の映画一本分以上の時間をどうするのかと思っていたら、四苦八苦して失われた人々を取り戻すことに費やすのです。
先述の「知的生命体ランダム半数間引き装置」は6個のインフィニティ・ストーンを、ドラゴンボールのように集めて回り、ごつい手袋に各々装着して、指パッチンをすることで起動します。その6個の石は、過去にMCUの20話近くの中のエピソードを経て存在が確認されています。そこで、タイム・スリップの方法をアベンジャーズが見出し、石を過去から集めて回って、再度、逆モードの指パッチンで失われた皆を取り戻そうとするのです。
過去から石を集めて回っている段階で、過去のサノスが自分の未来の成功と惨めな死を知ります。そして、一旦決着のついた「知的生命体ランダム半数化計画」の完遂に挑んで来る、老衰していないどころか、よりモチベーションの高まったサノスとアベンジャーズは再度戦うことになるのでした。このブログは常にネタバレ・モードですので、結果もあっさり書きまとめると、指パッチンに一度成功し、皆を甦らせることには成功しますが、ハルクが放射能状の被害を受けて手袋をつけた下腕が不具状態になります。さらに、以前にも増してノリノリで攻めてきたサノスに対して、強力なキャプテン・マーベルまで参加しているのに辛うじて手袋を守り切り、サノス軍をギリギリのところで指パッチンで消すことに成功します。その際に、アイアンマンが指パッチンの放射能状の被害で命を落とします。おまけに、石の一つは愛する者の命と引き換えでしか手に入らないので、サノスも娘を以前犠牲にしたのですが、今度はスカヨハ演じるブラック・ウィドウが自ら命を投げ出します。ぽつぽつと甚大な被害が出ますが、アベンジャーズ全体としては、失われた半数は全部戻り、サノスも消滅させられて、目的を完遂できたのでした。
石は過去のタイムラインに戻しに行くことになり、その際に自分が北極の氷漬けになっていて結婚することもできないままになっていた女性と長い時間を過ごしてきたキャプテン・アメリカは、歩くことも儘ならないぐらいの老人になって現代に戻ってきます。色々と被害が出ていてキーマンが失われた状態のアベンジャーズの状態を知っていて、ここでもまた、自らの欲望を優先する人が出るのは、なかなかアベンジャーズです。
それでも、物語の流れ自体はそれなりによくできているとは感じました。サノスを冒頭でガツッと倒しただけでは、ただの嫌がらせに過ぎない訳ですから、そこから長い物語をどう展開するかという点で見ると、練られたストーリーになっていると思います。ただ、不要と思えるような細かなエピソードが妙に盛り込まれていて、どう考えても、30分以上はダラダラと話が淀んでしまっていたように思います。
特にハルクとソーです。自己の呵責で変身が不自由になっていたハルクは元々の科学者ブルースとハルクの中間を維持するおかしな技を身に付け、常時中途半端状態を維持することになっていましたが、その姿で日常生活を送っています。キャプテン・アメリカとスカヨハとアントマンが誘いに行ってカフェで話をしていると、一緒に写真を撮ってくれと一般人にせがまれます。そのやり取りがやたらに長いのです。
そのハルクがソーを迎えに行きますが、地球上のおかしな村を「ニュー・アスガルド」と名づけて、ケーブル・テレビを見ながらオンボロ小屋で酒浸りの日々を過ごしています。その体型の崩れ方が芸術的で、ただのビール太りのオッサンに成り下がっています。おまけに頭も少しイカれたのか、その後も、元カノのナタリー・ポートマンとの話をダラダラと話したり、アスガルドに石を取りに行って右往左往したりと、ロクなシーンがありません。他のキャラもそれなりにくだらないシーンがありますが、この二人は特にコメディアン扱いになっているように見えるのです。
これも登場人物達のキャラを最後に存分に表現するファン・サービスの一環なのかもしれませんが、ウンザリ来ました。少なくとも、こんなことで30分以上も話を水増しして、3時間もの(少なくとも私はそうですが)観客に水断ちを迫るような尺の作品にしないで欲しかったと思います。
過去のシリーズ作品の世界に石を集めに戻るので、自動的にシリーズ集大成の物語になっている点は評価できますし、その結果、ナタリー・ポートマンも登場しますし、グウィネス・パルトロウもアイアンマン同様のスーツを着込んで、ガンガン戦線に登場しています。『アイアンマン3』で、敵による人体改造を経て、数千度の高熱を操る超人と化しているのがそのままであるのなら、スーツは要らなそうなものですが、いずれにせよ戦闘に積極的に参加しています。懐かしの名場面集になっていて、私の入れ込みがそれなりにある女性陣が活躍してくれているのが救いでしたが、DVDを買うほどの魅力ある作品ではありませんでした。
追記:
定期購読を止めてから数年ぶりに買った『サイゾー』(2019年5月号)に『キャプテン・マーベル』についての長い記事があり堪能できました。曰く…
「キャロル役は、ブリー・ラーソンという絶世のキラキラ美人でも著しく容姿が残念でもない女優。そのキャロルの私服は無主張で地味。スカートは穿かない(キリッ)。同じアメコミ女性ヒーローであるワンダーウーマンほど、強さと美貌と女性性と母性を兼ね備えておらず、ブラック・ウィドウほどエロスと憂いと艶やかさを兼ね備えていない。“強い”からと言って女性柔道家的な男前感を前面に出しているわけでも、反ルッキズムを標榜するほどに容姿に無頓着でもない。スクールカースト的に分かりやすいポジション--ゴス、ナード、チアリーダー等--を担ってもいない。空回りするほどの正義感も、際立った反骨精神もない。尖った知性も別にない。基本的に口を真一文字に閉じ、愛想も可愛げもない。さりとて、「愛想や可愛いげをあえて放棄している」といった強い意志を“エキセントリックな私”の自意識に託しているわけでもない。なんというか、特徴レス、無、つるっつるなのだ。
ここまで徹底したヒロイン感の剥奪はなんのためか?それは、男どもによる「手軽な分類」と、それによる男→女マウンティングを阻止するためだ」
私も『キャプテン・マーベル』の感想で、この面白みやエロスの欠落を書いていましたが、今回の作品で、まさにこの「つるっつるのキャプテン・マーベル」を再確認できてよかったと思います。